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東京が梅雨入りしてしばらく経ち、どんよりとした天気がここ数日続いている。だいたいの人は雨が嫌いだろうけれど、私は意外とこのじめっとした空気が好きだった。
しとしと降り続く雨音を聞きながら、自分で作ったお菓子を食べて、お母さんが淹れてくれた紅茶を飲んで、そして本を読む。小さい頃からそんな風に過ごすことが多かった梅雨の時期。
雨には雨の楽しみ方があると常々思っている私。
だけど反対に、…鳴ちゃんは雨が大嫌いだった。理由なんてひとつしかない。

「だぁー!いつまで降り続くんだよ!この雨は!!!」

教室で梅宮くんが吠えるように声をあげれば、周囲のクラスメイトは「まあまあ」と彼を慰める。私はそんな賑やかな集団を横目に、手元の文庫本に視線を落とした。

クラスメイトの梅宮くんは、その明るさと嫌味のなさ、誰に対してもサバサバとした性格によってあっという間にクラスの人気者になっていた。取り巻きというわけでもないだろうけれど、いっつも野球部らしき男の子たちに囲まれている。私はそんな梅宮軍団が苦手だった。別に何か直接悪さをされたわけではない。というか喋ったことすらない。ただ私が一方的に苦手にしているのだ。

教室の賑やかな一角を気にしないように、私はただ文庫本に羅列されている文字を追う。今まで読んだことのない作家さんの作品だけれど、なかなか面白い。テンポ良く進む文章。リズム感がいい。窓の外、グラウンドに降り続く雨の音も相まって独特な雰囲気を感じることが出来る。私はやっぱり雨が好きだ。
章の区切りまで読了。そろそろ予鈴が鳴るので、文庫本を閉じた。今日最後の授業は、公民だ。教科書とノート、それからペンケースを机の中から取り出して、それとは反対に文庫本を机の横に掛かっているスクール鞄の中に仕舞い込んだ。
ふいに視界に入るのは、持ち手の部分。ボールチェーンでぶら下がっている某球団のマスコットのキーホルダー。…鳴ちゃんとお揃いで買ってもらったそれ。私は目を伏せた。

(…きっと鳴ちゃんも今頃、雨のせいで練習できないって文句言ってる…)

小さい頃はその癇癪を宥めるのが私とお姉ちゃんの役目だった。鳴ちゃんは普段から我儘だけど、野球のことになると手がつけられないというか…とても頑固だ。それを許してしまうのがうちの両親の悪いところだと思う。

(……はぁ…)

鳴ちゃんと離れたくて違う高校に進学したのに、不意をついて考えるのはいつも彼のこと。お母さんが言うように、私と鳴ちゃんが半分こだからだろうか。だから私はこのキーホルダーを外すことも捨てることも出来ないんだろうか。

思わず口から溜息が漏れたので、慌てて頭を振る。ここに鳴ちゃんはいない。私は自由だ。友達もそれなりに出来たし、高校生活を満喫してる。そう思う。
ふっと思い浮かぶ姿は、つい一ヶ月前に知り合った一組の松原くん。図書館で顔をあわせれば話すだけの仲だけど、でも多分鵜久森で知り合った子たちの仲で彼が一番親しい存在。本当はもっと仲良くなりたいけど…話をすることが苦手な私にそれは結構な難題だった。

そんなことを考えているうちに、予鈴が鳴る。梅宮軍団のうち数人は、慌てて自分のクラスへと戻っていった。それと入れ替わるように教室前方の扉からゆっくり入室してきたのは公民担当の吉本先生。背が小さくてヨボヨボのおじいちゃん先生だ。鵜久森は私立だから定年を遥かに越えての再雇用の先生が何人かいる。吉本先生もそのひとり。声が小さいとか板書の文字が見にくいとか、思うところはたくさんあるけど、それでも先生が配る直筆プリントは実にわかりやすかった。

「じゃあ始めますねぇ」

先生は嗄れた声で、授業の開始を告げる。
それを合図に、私はさっきまでの邪念を振り払うように、教科書に視線を落とすのだった。



授業の終わりがけに、ワークを提出するようにと吉本先生が私たち生徒に声を掛けた。今日の日直が放課後までに社会科準備室へ持ってきてください、という言葉に私は思わずペンを握って動かしていた手を止める。

(…日直、わたしだ…)

なんの部活も入っていないので別にいいんだけど…ちょっと面倒くさいなって思ってしまった。
吉本先生が退室してから担任の太井先生がやってきて、帰りのSHR。特にこれといった問題もなく、今日も一日が終わった。クラスメイト達はみんなそれぞれ部活へ行くための準備。教室内は少し騒がしくなる。私はそれを横目に帰り支度をして鞄を肩に掛け、教台に集められていたワークを胸に抱え込むようにして持ち上げた。薄いワークもクラス全員分となるとそれなりの高さになる。提出してない人の分は知らんぷり。私が、人前で「提出してください」なんて言葉を言えるわけがない。さっさと用事を済ませてしまって、図書室に行こう。そんな予定を頭の中で立てながら、私は教室を出た。…なんとなく、梅宮くんが私のことを見てる気がしたけどこれも知らんぷりした。多分ワーク出してないんだろうな。でも私の知ったことではない。



「失礼します」

どこかどんよりとした空気を孕んだ校内の廊下を進み、向かうは目的地。そんな言葉とともに扉を開けて、社会科準備室に足を踏み入れた。窓際に座っていた吉本先生は私の姿に気づいて、そのしわくちゃな顔を更にクシャッとさせて微笑む。ワークを机の上に置いて、さっさと退室しようとしたのだけれど予想外にも先生に引き留められた。

「お茶でも飲んでいきなさい」

そんな風に誘われるのは、とても意外だった。でもなんだか断るのも申し訳なくて、小さく頷く。私の返答を目にした先生は椅子からゆっくりと立ち上がると、部屋の隅に置かれていたポットからお湯を急須に注いだ。茶葉を蒸らす間、しばしの沈黙。時計の秒針の音だけが部屋に響く。お互いに口を開くことはなかった。先生は授業でも必要最低限のことしか口にしない。私も自分から話を切り出すのは苦手だ。似たもの同士かもしれない。だからこの沈黙も不思議と嫌じゃなかった。
お茶を注がれた湯呑みを受け取り、ひとくち口をつける。暖かさに心がホッとした。

ふたりでどれぐらいそうしていただろう。
穏やかな時間。
だけどその平穏は、突然破られた。

「監督ーッ!今日の練習だけどヨォ!」

ガラリ、と勢い良く開く扉。大きい声。ドスドスという足音。私は思わずピシリと固まってしまった。…この声。聞き覚えがありすぎる…。部屋の入り口がある背後をゆっくりと振り返れば…、そこには予想通りの人物が立っていた。

「う…」

梅宮くん、という言葉は喉の奥に張り付いて出てこない。だってクラスメイトだけど話したことがないんだもの。向こうが私の名前を知っているか…いやそもそも存在を認知しているかどうかすら怪しい。そんなことを一瞬にして考えていた私は梅宮くんの前に居た存在に気づき、そして唖然としてしまった。

「……ま、つばらくん…?」
「あれ、成宮さん?」

彼もまた私の存在に首を傾げた。…なんで、松原くんが、梅宮くんと一緒にいるんだろう。私の中でふたりの存在が繋がらなくて、混乱する。梅宮くんは野球部のユニフォーム姿で、松原くんは制服姿だ。そして梅宮くんは松原くんの車椅子を押すような形で入室してきた。…多分…というか明らかにふたりは知り合い…なんだろうけれど、なんとなく私はそれを否定したくて仕方ない。
そんな私を他所に、松原くんは口を開いた。だけど私に対してというわけじゃなかった。

「監督。今日も雨でグラウンドが使えないので校内で練習してますね」

松原くんの言葉に、吉本先生はゆっくりと肯く。
監督。グラウンド。練習。それらが全て梅宮くんのユニフォームへと集約するから。…私は気づけば立ち上がっていた。

「…先生、お茶…ありがとうございました」

さっきまで穏やかだった気持ちが、急に空気の抜けた風船のように萎む感覚。早くこの部屋から出たかった。入り口に立つふたりの横を足早にすり抜けようとした時。

「なぁ、前から気になってたんだけどよぉ」

梅宮くんの言葉が私を引き止めた。

「……な、なんですか…」
「ソレ。野球ファン?」

彼の意外にもしなやかな指先が、私の鞄をさした。その先には…あの球団マスコットのキーホルダー。

「あ、本当だ。成宮さんって野球好きだったんだね」

松原くんまで梅宮くんに同調するようにそんなことを言うものだから。私は思わず大きく頭を振って、咄嗟に否定の言葉を吐き出していた。

「野球なんて嫌い!」

その声は…多分、ここ一年で一番大きな声だったように思う。私の言葉に目をパチクリとさせる松原くんと梅宮くんの姿。それはそのうちじんわりと滲んでぼやけて、よく見えない。両目に張った薄い膜が原因。
…我ながらこんなことで泣いてしまいそうになるなんて、情けない。
でも理性と感情がうまく噛み合わず、頬を流れた涙。それを手の甲で拭いとる。

「失礼しました…!」

ふたりの横を足早に駆け抜けて、退室。私はジメジメとした廊下を昇降口に向かって駆け足だ。図書館に行く気なんてなくなってしまった。とにかくこの学校から早くいなくなってしまいたかった。

野球なんて嫌い

頭の中で、さっきの自分の言葉が反響する。それは間違いなく、私の本心で。
この言葉を口にするのは、人生で二度目だった。