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明日から八月という七月の最終日。
その日、私は両親に「学校で補習授業があるから」と嘘をついた。ビデオカメラを用意していたお父さんと、私と一緒にお弁当を用意してたお母さんはその言葉を信じたらしい。「残念ね」と言われて胸がチクリと痛む。

「鳴も満に来てほしいって思ってるわよ」
「……そんなわけない」

お母さんの言葉に首を振ったら、悲しそうな顔をされた。ここ最近はずっとこの繰り返し。お母さんは事あるごとに、なんとかしてふたつに分かれてしまった私たちをひとつにくっつけようとするのだ。

「鳴の晴れ舞台なんだぞ」

勿体無いなぁ、というのはお父さんの言葉。お父さんは悪い人じゃないけど、はっきり言って私よりも鳴の方がずっとずっと大切。そう思う。私はやっぱり行く気になれなくて、「補講なんだから仕方ないよ」と嘘を重ねた。


そんなやりとりを経て。
真夏の炎天下の中、家を出た私の足が向かう先は鵜久森高校。制服を着ているし、両親が家を出た後に家に戻って着替えてまた出かけるのも面倒くさい。自分自身がついた嘘との整合性を図るためにはこれが一番いいんだ、と電車に揺られながら合皮製のスクールバックの持ち手部分をギュッと握った。

そこにはもう…あの小さなキーホルダーは存在しない。一ヶ月半前のあの雨の日。学校から逃げるように帰宅した私は、あれを自分の部屋の机の引き出しの奥に、仕舞い込んだ。
そういう事情もあってきっとお母さんは、私のことを気にするのかもしれない。そう考えるけど…心の中に住んでいるもうひとりの自分が「大事な鳴ちゃんのことだもんね」と囁くのだ。
私は鳴ちゃんのオマケ。
長年に渡ってこびりついた考えが、拭えない。
電車の窓の外に広がるビル群。その上に広がる快晴。だけど私の心はいつまでもあの梅雨の日のように曇天だ。雨が、止まない。それはまるで泣いているようだなって思う。心臓がギュッと痛んで、思わず手で胸を押さえた。


学校に到着した私は、上履きに履き替えて図書室へ。一学期中も、夏休みに入ってからもほぼ毎日ここに通っている私は、すっかり司書の先生に顔を覚えられたらしい。成宮さんと呼ばれるようになって暫く経つ。なんだかとっても擽ったい。
返却手続きを経て、私は相変わらずルーティーンのように小説の棚から実用書の棚へと渡り歩いた。こうして本を探す時間が、一番好きだ。半袖から伸びる二の腕を擽る少し寒いぐらいのクーラーの風。本の匂い。時折響く咳払いの音。この場所は、私だけの場所だ。生まれた時から、物事の全てを与えられる前に半分こにされていた私にとって、宝物のような存在。それを確かめるように。無くしてしまわないように。手にとった本を胸に抱えてギュッと抱きしめるのだ。

図書室は当然のこと飲食禁止なので、持参したお弁当はちょうど校舎の影が落ちている中庭のベンチに座って食べることにした。近くの体育館からバスケ部やバレー部が練習している声が聞こえてくる。校舎の方からは、吹奏楽部の合奏のメロディー。みんな何かに一生懸命だ。そんな人たちに囲まれて、私はひとりでお弁当に手をつける。もぐもぐと咀嚼。でもやっぱり暑さのせいか、単に気分の問題か…なかなか箸が進まない。大きな溜息が漏れた。

「成宮さん」

突然、後ろから掛けられた声に驚いて、肩を揺らした。その聞き慣れた声に、心臓が嫌な音を立てて軋む。でも無視するわけにもいかない。ゆっくりと後ろを振り返ったら、そこにはやっぱり車椅子に座っている松原くんがいた。…野球部もきっと練習日だろうと思っていたから、彼らが使用しているグラウンドの方を避けてここに来たのに。まさか向こうからやってくるなんて。故意か偶然か。それは私にはわからない。
それにしても、移動するときに音がするはずなのに全く気がつかなかった。私の驚いた様子からそんな考えさえお見通しなのか「音もなく忍び寄るのが得意なんだよ」と彼は微笑む。
こうして顔を合わせるのはあの雨の日以来のことだ。私は気まずさに視線を下げた。松原くんは車椅子を自操させて、私が座るベンチに横付ける。

「この間はごめんね」

彼がそんな謝罪を口にするものだから驚いた。眼鏡越しに少し目を見開く。謝るのは私の方なのに。勝手に梅宮くんの言葉に気がついて、逃げ出したのは私自身だ。

「…松原くんが、謝ることなんて、ないんだよ…。私が悪かったから…」
「人それぞれ触れて欲しくないことがあるのは当然のことだよ。梅宮は…ちょっと配慮が足りなかったと思う」

同じクラスだけど喋ったことなかったんだろ?という松原くんの問い掛け。あれから梅宮くんと私の話をしたんだろうか。照れくさいとは少し違う。自分の知らないところで自分の話をされるのは嫌い。思わず眉間に皺が寄る。

「ごめん、また余計なこと言った?」
「…大丈夫。これは、私の問題だから…」

眉を下げた松原くんにつられるように、私の表情もまた晴れない。なんだかふたりして難しい顔をして暫く気まずい雰囲気を過ごした。

「……お弁当美味しそうだね」
「…ありがとう。お母さんと一緒に作ったの」
「料理得意って言ってたもんね」
「…得意…では、ないと思うけど…好きなの…」
「…そっか。でもその気持ちが大事だよね」

松原くんは、その言葉のひとつひとつが優しい。硬くなった気持ちが少しずつ解けていく感覚。私はようやく身体の強張りがなくなっていくように感じて、目を細めた。

「……野球部は、今日も練習…?」
「うん。いまは昼休憩中」
「…大変だね。夏が終われば、すぐ秋大だから…」

松原くんは、私の口から野球という単語が出てきたこと、そして秋大という言葉に少し驚いたらしい。私は苦笑いだ。確かに野球は嫌いだし、あの日はとてつもなく取り乱してしまったけど。でも口にするほど嫌かと聞かれればそれは少し違う。そして十五年間の私の人生にはやっぱり野球が切っても切り離せない。それを認めるのが、嫌なだけだ。我ながら複雑で面倒くさい性格をしていると思う。

「……成宮さんはどうして野球が嫌いなの?」

秋大という存在を知っているということは、少なくとも私は嫌っているはずの野球に造詣が深いのだ、と理解した松原くんは首を傾げた。私は意を決して口を開く。彼に対しては、話していいかな、という信頼がどこかにあったのだ。ふたりで話した回数はきっと両手で数えるぐらいだけど、でも松原くんには不思議な安心感があった。それはここ数ヶ月で実感してきたことだ。

「お父さんが野球ファンで……それと…野球をやってる弟がいるの」

それは一見、問いに対する返答ではないように聞こえるだろう。でもこれが私の持つ全ての答えだ。松原くんは特に深く追求してくることはなかった。

「……そうなんだ」
「うん」
「軟式?それともシニア?」
「……シニアだよ。でも双子だから…いまは稲実の、野球部でピッチャーやってる」

カラカラに乾いた口でその言葉を紡いだ。松原くんは目を見開く。

「稲実って今日決勝だろ?」

唖然とした彼の表情。それは暗に「応援に行かなくていいのか」と示している。わかるよ、その気持ち。私は小さく頷いた。

「あんまり仲良くなくて」
「……そうなんだ…」

私の言葉に全てを察したらしい。松原くんはそれきり口を閉じた。また私たちの間に訪れる沈黙。蝉の鳴き声が、耳にこびりついて離れない。入道雲が浮かぶ突き抜けるような青い空は、きっと鳴ちゃんが立つマウンドの上にも平等に広がっているんだろう。そう思うと、なんだかやっぱりやりきれない。

「神様って不平等だよね」

いつも吃ってばかりの私だけど、何故かこの時ばかりはするりとその想いを紡いでいた。

「……そうだね」

俯いていた私は、松原くんがどんな顔をして頷いてくれたかを知らない。


知ってたらなにか変わってたのかなって。それは、今でも思う。…そう思うけど、きっと未来は変わらなかっただろう。


来年の十月九日。
私は、鵜久森の野球部マネージャーとして大田スタジアムで鳴ちゃんと対峙する。
それは紛れもない事実だ。