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小学校五年生の時。
私は「夏休みに岩手県に行きたい」と両親に初めての我儘を言った。『銀河鉄道の夜』を読んで、作品のモデルの地であり作者・宮沢賢治さんの故郷を一目見たかったからだ。だけど…。

「夏休みは甲子園に行きたい」

鳴ちゃんが唇を尖らせてそう言ったから。
ーーー結局。
その年の家族旅行の行き先は、兵庫県になった。


「満、これ可愛いよ」

甲子園球場近くのお土産売り場。
鳴ちゃんは私の目の前でキーホルダーをぶらぶら振りながら、そう言った。甲子園が本拠地の球団の、虎がモチーフのそれ。女の子なんだろうか。スカートを履いてる。鳴ちゃんが反対側に持っているのは、多分男の子。縞柄のユニフォームを着てる。

「…うん、可愛いね」
「お揃いで買ってもらおうよ」
「うん」

鳴ちゃんは旅行中ずっと機嫌が良かった。そりゃあそうだろう。我儘を通して、両親に『選んでもらった』んだから。私は別にマスコットのキーホルダーなんて欲しくない。好きじゃない。本当は、岩手県に行きたかった。そんな気持ちを押し殺して唇を噛んで、押し付けられたキーホルダーをギュッと握る。どうやら鳴ちゃんはそれで私が『気に入った』と思ったらしい。

「父さんに渡してくる」

そう言って、私からキーホルダーを取り上げて、早足でお父さんのもとへ駆けていく。私はその背中をただジッと見つめていた。

(…私も、コウベに行けば良かったな…)

思わず、溜息が漏れる。お母さんと優紀ちゃんは、私たちとは別行動。コウベのイジンカンに行くって言ってた。本当は私もそっちに行くつもりだったのだけど、鳴ちゃんが私と一緒じゃなきゃ嫌だってまた我儘を言ったのだ。だから、仕方なく此処に来た。野球なんて好きじゃない。だって私から鳴ちゃんを、奪ったんだもの。好きになんてなれない。


鳴ちゃんは小学校入学を機に野球を始めた。ポジションは、投手。お父さん曰く、鳴ちゃんは『天才』らしい。親バカもいいところだ。
最初こそ、一緒に野球中継を見たり、両親と一緒に鳴ちゃんが出場する試合を見に行ったり、お母さんと一緒にカロリー計算をしてお弁当を作ったり…色々頑張ってみたけど。でも年を重ねるごとにそういうことが苦痛になった。野球をする鳴ちゃんはますますお父さんのお気に入りで、私はどれだけサポートを頑張っても『野球をしない子』。それ以上でも、以下でもない。
それに、鳴ちゃんも私と一緒にいることが少なくなって、学校がある日も休みの日もずっと野球漬けの毎日。
…野球の、なにがそんなに面白いんだろう。

お店を出て、目の前に聳え立つ蔦に覆われた球場を見上げる。鳴ちゃんもお父さんも、ここは『聖地』だって言ってた。……そんなに、いいところだろうか。大きな溜息が漏れる。

「満」

名前を呼ばれて振り返ったら、鳴ちゃんが後ろに立っていた。さっき持っていたキーホルダーの代わりに千円札を握り締めている。

「父さんまだ店の中見てるって。これでアイスでも食べよう」
「うん」

自慢するように突き出された千円札。鳴ちゃんはおねだ上手だ。ちょうど私も冷たいものが食べたかった。アイスの言葉に途端に気持ちが軽くなる。それが理解るんだろう。鳴ちゃんは歯を見せて笑って、それから私の右手をギュッと握った。
久しぶりに感じる鳴ちゃんの掌は、随分硬い。…私のそれと随分違う。だけどやっぱり触れ合えることが嬉しい。そんな、一喜一憂の繰り返し。

近くの売店で、ソフトクリームを買った。ベンチに横並びで座って食べる。美味しい。鳴ちゃんも「うまい」って言いながら、笑ってる。こんな風にふたりだけの時間を過ごすのは、いつぶりだろう。きっとこれからも鳴ちゃんは忙しくて、こんな時間はどんどん減っていく一方なんだ。もしかしたらこれが最後かもしれない。
そんな風に、楽しいはずの時間を台無しにするような考えを抱いてしまう私。
…そんな私に、鳴ちゃんは言った。

「俺、絶対高校生になったら甲子園出場するから」
「え…?」
「だから、そん時はさぁ。満もマネージャーとして俺と一緒に行こうよ」
「マネージャー…?」
「だって満、料理好きじゃん。母さんと一緒にカロリー計算したりとかしてるでしょ。スコアだってつけられるし」
「……うん」

ーーーそれは鳴ちゃんと一緒に居たくて、置いていかれたくなくて、私もお父さんに認められたくて……それで、仕方なく始めたことだったんだけど……それを自分の口から伝えることは出来なかった。かわりにワッフルコーンを握る手に力を込める。

私はね、鳴ちゃん。
本当は、本を読むことが好きなんだよ。
カロリーなんて計算しないで、バターやお砂糖をたくさん使うお菓子作りが好きなんだよ。
夏休みだって本当は、岩手県に行きたかったんだよ。

あなたの『はんぶんこ』だけど、
ーーー野球が好きじゃないんだよ。

喉の奥に張り付いて、言い出せない本当の気持ち。私はそれを誤魔化すように、ただソフトクリームを無言で食べた。

もうその頃には、鳴ちゃんにすら自分の気持ちを伝えることが出来なくなっていた私。

そんな私の心に溜まりに溜まった澱のような感情が、爆発したのは…それから、三年後の話だ。




「満は俺と一緒に稲実行くでしょ」

中学三年生の夏休みに入る前。鳴ちゃんは夕食の席で私に向かって、そう言った。学校でも進路の話ばかりが話題にあがる頃合いだったし、ちょうど三者面談があったからだろう。…私が今までこの身に受けてきた『悪意』も、私がなにが好きでなにが嫌いかってことも、全部全部見ない振りして、傍にいて欲しい時にいてくれなかったのに。
私がさもそうすることが当然って言うみたいに、私が自ら進んで鳴ちゃんの『しっぽ』になることを望んでるみたいに言うから、だから。

「稲実なんて、行かないよ」

全身の血が沸騰するような、そんな怒りが全身を支配する感覚。いま思えば、頭に血が上っていたのかもしれない。震える唇を開いて声に出した言葉。そこにはハッキリとした私の意思があって、ーーーお父さんもお母さんも優紀ちゃんも、鳴ちゃんも、テーブルを囲む全員が驚いた顔で私を見た。

「……なんで…?約束したじゃん…」

鳴ちゃんが信じられないものでも見たって顔で、私のことをジッと見つめる。普段だったらきっと「ごめんね、嘘だよ」って。そんな風にすぐ否定してただろう。でも、その時の私はかつてないほど、怒ってた。

「約束なんてしてない。そんなの鳴ちゃんが勝手に言ったことじゃない!私は、私は…ずっと野球なんて好きじゃないし、カロリー計算だってしたくないし、スコアだってつけたくない!鳴ちゃんのゼッケンつけるのも嫌だ!本当はあの夏、私は岩手に行きたかった!甲子園なんて行きたくなかった!稲実でマネージャーなんて絶対やりたくない!!野球なんて嫌い!野球やってる鳴ちゃんも嫌い!!鳴ちゃんばっかり大事にするお父さんもお母さんも嫌い!!!」

ずっとずっと自分の心に蓋をして押さえ込んでいた本当の気持ち。一度開けてみたら、もう駄目だった。言いたいことだけ言って、私は食べかけの晩ご飯を放置して椅子から立ち上がる。そのままドスドスと、いつかの優紀ちゃんみたいに階段を駆け上がり、自分の部屋に逃げ込んだ。
バタン、と閉まる部屋の扉。

ーーー鳴ちゃんは、追いかけてこなかった。
大丈夫だよって言って、傍に来てくれなかった。
野球が嫌いな『私』でもいいよって言ってくれなかった。


だから私は、それっきり鳴ちゃんと口を聞いてない。




バタン、という大きな音で、私はハッと目を覚ました。音の出所は、隣の部屋だ。四ヶ月前に主人がいなくなった部屋。私の肝は途端に冷える。壁にかかった時計を見れば、16時前。昼食を食べた後にちょっと昼寝をするつもりが、寝過ぎてしまったらしい。目を擦れば、ぼやけた視界が徐々にクリアになっていく。

…鳴ちゃんが、帰ってきた。
甲子園の後の、貴重なオフ。一日だけの帰省。四月からずっと静かだった隣の部屋から、物音が聞こえる。私はさっきまで見ていた夢を思い出して、泣きそうだ。

私たち、いったいどこで間違ったんだろう。
鳴ちゃんの『はんぶんこ』でいたい自分と、私は『私』のままでいたい自分。矛盾だらけの感情の、行き着く先が見当たらない。

ーーー鳴も満にきて欲しいって思ってるわよ

お母さんの言葉が、浮かんでは消える。
…本当は、私だって。このままじゃいけないってわかってる。あの日が鳴ちゃんの晴れ舞台だってわかってた。甲子園にだって、お父さんお母さんと一緒に応援に行きたかった。でも、もう引き返せない。
野球を愛してる鳴ちゃんに、野球が嫌いだって言ったのは私自身だ。今更どんな顔して、鳴ちゃんの前に立てばいいって言うんだろう。

私たちを隔てる壁は、気づけばとてつもなく大きくて高くて。

私は夕日が差し込む部屋で、向こう側にいる鳴ちゃんのことを考えながらーーーただジッと壁を見つめることしかできなかった。