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特に何かを成し得たということもないまま、私の夏休みは終わってしまった。宿題と図書館とあとほんの少しのーーー野球。
今年は、毎年恒例の家族旅行はなし。鳴ちゃんの応援がそれの代わりだったけど、私も優紀ちゃんも行かなかったから、結局両親ふたりきりの旅行になってお母さんは寂しがってた。

鳴ちゃんが一日だけ帰ってきたあの日もそう。お母さんが朝から張り切って沢山のご馳走を用意してたのに、私はやっぱり鳴ちゃんと話をしないし、鳴ちゃんも鳴ちゃんで甲子園でのあの暴投が頭から離れないのかずっと険しい顔をしていた。…大の負けず嫌いで、野球のこととなると兎に角小さい頃から頑固な鳴ちゃんがそんな風に落ち込む姿を見るのは初めてで、私も流石に何か言葉を掛けたくなったのは事実だ。だけどやっぱり勇気がなくて。今更なんて言えばいいんだろう。そんなことを考えている間に時間はあっという間に過ぎて、そして鳴ちゃんはまた稲実に戻っていった。…次に会えるのは、お正月。果てしなく先にも感じるし、きっとあっという間でもあるんだろう。

「痛ぇ!」

…そんなアンニュイな気分で昼休みを過ごしていた私の耳に届いた声。その声の持ち主は隣の席に座っている。私は思わずチラリと声がした方に視線を送った。野球のユニフォームとゼッケンと、机の上に置かれた針山。そして小さな針に糸を通そうと悪戦苦闘する梅宮くんの姿が、視界に映る。私は彼に気付かれないようにソッと息を吐いた。
……なんの因果か、新学期早々の席替えで私と梅宮くんは隣の席になってしまったのだ。

(…神様って本当に意地悪)

もう何度その言葉を心の中で吐き出しただろう。私は憂鬱な気分で手元の文庫本に視線を落とした。
今読んでるのは近々映画化が決まった犬が主人公のハートフルストーリー。何回死んじゃっても大好きな飼い主にもう一度再会するために生まれ変わってくる犬の話。ありきたりな話だけど優しい言葉の羅列を追えば、ちょっとは心が穏やかになる。

「梅ちゃん間に合う?」
「間に合わせる!」

隣の席では相変わらず梅宮君が苦戦している。視界にこそ入ってこないけれど、耳はその声を拾うのだから仕方ない。梅宮君と、梅宮君の前の席の近藤君。近藤君も野球部らしい。ギョロっとした眼が印象に残る男の子。あんまり話したことないけど、その言葉尻は優しい子。そんなふたりの会話。

「南朋に頼むわけにもいかねぇしなぁ」
「笑顔で断られるに一票」

そんなやりとりは……気のせいかもしれないけど、こちらに向かって交わされているように感じる。とんだ自意識過剰かもしれない。だけど他人の『悪意』に敏感になってしまっている私は、もういても経ってもいられなくなってついに顔を上げた。文章の内容が頭に入ってこないから仕方ない。そんな風に言い訳する。本をパタリと閉じて、梅宮君と近藤君を見た。ふたりはやっぱり私の方を見ていた。ばっちり視線が交わる。梅宮君の意思の強そうな瞳。なにひとつ似てないのに、それはなぜか鳴ちゃんを連想する。私は短く小さく息を吐いて、心拍数を整えた。そしてゆっくり震える唇で声を紡ぐ。

「…なに…?」
「いや〜」

私の精一杯の「不機嫌です」という声に対して、梅宮君はニヤニヤともまた少し違うーー気さくな態度。彼は、隣の席になってから時折、私に対してこうして『ちょっかい』を掛けるようになった。もしかしたら本人は『ちょっかい』じゃないっていうかもしれないけれど、私にしてみれば『ちょっかい』以外のなにものでもないのだ。教科書を見せて欲しいとか消しゴムを貸してほしいなんていうお願いごとから始まって、最近は聞いてもないのに部活の時の松原くんがいかに厳しいかとか…とにかく色々話を聞かせてくるのだ。最初は無視していたけれど、それでもめげないから私も最近は態度がちょっとずつおざなりになってきていた。…求められていることはわかる。そこまで馬鹿じゃない。私はもう一度息を吸って吐いた。

「……私が、縫えばいいの?」
「そうしてくれると助かる!」

梅宮君の白々しい言葉に、私はもう一度大きくため息。それからゆっくりと彼に向って手を差し出せば、掌に化繊の感触。それに触れるのは随分久しぶりだった。得も言えない気持ちが胸を占める。それを梅宮君と近藤君に悟られたくなくて、無言で針山も受け取った。
針に糸を通して、ゼッケンをユニフォームの背中に縫い付ける。後ろから見たときに歪まないように。仮止めまではなんとか自分たちでしたらしい。といっても安全ピンだけど。私はずらさないように気を配りながら、ひとまず一周ぐるりとざっくり並縫い。

「器用なもんだなァ」
「あのまま梅ちゃんが縫ってたらきっとガタガタだったね」
「ヒデェな、ガッチャン!」

すいすい進む私の手元を眺める梅宮くんと近藤くんが感嘆の声を漏らした。別にこれぐらい普通だと思うけど、褒められて悪い気はしない。ちょっと頬が緩む。しつけが終わったら、次は本縫いのたてまつり。動いた時に突っ張らないように。大事な試合中にゼッケンが取れないように。心に染み付いた決まりごと。それが自然と胸のうちから滲み出てくる。

「弟、野球部なんだって?」
「………松原くんに聞いたの?」
「おぅ」

手を動かしながら言葉を交わす。顔を見なくていい分、気が楽だった。自分がいないところで自分の話をされるのはやっぱり嫌だけど、松原くんが私の悪口を言うとは思えない。ただやっぱりそう思ってもーーなんだか心がザワザワと騒めく。

「稲実行ってんだろ」
「……うん」
「すげぇな、エリートじゃねぇか」
「…そうだね」

梅宮くんの話にぼんやり相槌を打ちながら、私はただ懸命に手を動かした。…考えるのは、どうして松原くんは梅宮くんに私の話をしたんだろうってこと。そして、どうして梅宮くんはこうして私に『ちょっかい』をかけてくるんだろう。慣れてないことばかりで、身の振り方がわからない。

「どうして私に構うの?」

その声はやっぱりちょっと震えていた。梅宮くんと近藤くんが黙り込む。それからゆっくりと梅宮くんの声が私の耳に届いた。

「そりゃあ、南朋のダチには野球好きでいて欲しいからな」

ーー野球なんて嫌い!
あの雨の日に思わず吐いた暴言が、また自分に返ってくる。怒っているのかと思ったけど、そうじゃないらしい。だって梅宮くんの声は優しい。
なんだか無性に擽ったかった。
初めて出会った、南朋のダチ、という自分を形容する言葉も、鳴ちゃん以外の誰かのゼッケンを縫ってる今の状況も、全部全部擽ったい。梅宮くんの言葉には何故だかとても不思議な力があった。とても力強いそれ。

「私が、野球嫌いでも、梅宮くんには関係ない、でしょ…?」
「…まー、そう言われちゃなんも言えねぇけど。南朋が言ってたんだよ。成宮に野球好きになって欲しいって」

梅宮くんの言葉に、一瞬手を止めた。

(…松原、くんが…?)

本当にそう言ってたの…?
思わずツンと鼻の頭が熱くなる。なんでか理由は自分にもわからなかった。陰鬱な気分で過ごした夏休みを思い出したから…?…それとも、松原くんが私のこと気にかけてくれてたことが嬉しかったから…?
…自分のことなのに、よくわからない。わからないけれど、それでも何故だか胸が暖かくなったことはわかるからーー私はそんな気持ちから目を逸らすように、梅宮くんのゼッケンに印刷された黒い数字を指で撫でた。私の弟同じ一番。

(…梅宮くん、ピッチャーだったんだ…)

いつか同じグラウンドに立つ日も来るんだろうか。そんなことを考える。
…梅宮くんは、不思議なひとだ。

「…でもゼッケン縫っても野球好きには、ならないよ…?むしろ面倒くさいから…余計に嫌いになるかも…」
「なにー?!」
「確かに」

私がおずおずと突っ込めば、梅宮くんの焦った声に、近藤くんが私に同意する声。なんだか途端に和やかな雰囲気が私たちを包んだ。だからかな。私の口は勝手に動いてた。

「……秋大、頑張ってね」
「…おぅ!」

そう言って、ようやく顔を上げる。そしてゼッケンを縫いつけたユニフォームと針山を梅宮くんに手渡した。
私の言葉がよほど意外だったのか、梅宮くんはちょっと目を見開いてーーそれから満面の笑みを浮かべたの。それがすごく意外だった。そんな顔も出来るんだなって。そしてそんな表情を梅宮くんが私に贈ってくれることが、とてもとても……嬉しかった。何故そう思ったのかはやっぱりわからない。

そんな気持ちも、梅宮くんの笑顔が素敵だなって思ったことも、当然のことながら口には出さなかったけど…

「すげぇなぁ!ビシッとしてて格好いいじゃねぇか!」

梅宮くんが私の縫ったゼッケンを改めて見つめて、感動の言葉を漏らして、近藤くんも「綺麗だね」と微笑んでくれたから。

ーーこの時私は初めて、自分が縫ったゼッケンをとても誇らしいって思ったの。