11

 
 ナマエがこの巨大な扉の前に立つのは3度目だ。

 ゆっくり息を吐いて呼吸を整える。ついていこうかというエースの申し出は断った。自分のことはちゃんと自分の口から話さなければいけない。そこの筋を通せないなら、私はこの船に居る資格がない。ナマエ自身がそう腹に決めてのことだった。
 ノックをして船長室に入ると、一昨日対峙したばかりの白ひげが彼女を見下ろした。椅子に腰掛けてなお彼は見上げるほどに巨大で、視線が合うだけでたじろぎそうになる。

「ようやく帰ったか」
「……っ、」

 白ひげはニィと笑った。船を降りると言って出て行ったナマエを迎えるようなこの物言いに、彼女は言葉を詰まらせる。
 泣くな。私はここに自分の言葉で話しにきたのだ。拳を握り、己を奮い立たせて、口を開いた。

「船長さん……! すごく、情けないお話なんですが……、もう一度私をこの船に乗せてもらえませんか……!?」

 お願いします!! と勢いよく頭を下げ、ナマエはその体勢のまま思いの丈を吐き出した。

「一昨日あんな挨拶をしておきながら、都合のいいことを言っているのは承知の上です!! でも私……っ、皆さんとまだ、旅をしたいと、一緒にいたいと……思ってしまったんです……!! これまで暖かな寝床とご飯をいただいたお礼もっ、この船の役に立てることなら何でもやりますから、だから……っ、」
「――女に頭下げさせる趣味はねェ……顔あげろ、ナマエ」

 恐る恐る顔を上げる。白ひげと再び目が合う。
 琥珀色の瞳が彼女を捉えていた。

「おれァもう乗船許可は出したはずだ。どこにケツ据えるかなんざ、てめェで決めることだろうが」
「船長さん……」
「てめェの人生の舵はてめェで取れ、アホンダラ」

 その言葉はナマエのお腹の底に心地よく響いた。

「この広い海でナマエがこの船を帰る場所に選ぶなら、おれたちゃ喜んでナマエを迎えよう。役に立つに越したこたァねェが、んなこたァどうでもいいのさ。――自分の家に帰るのにぐだぐだ理由を並べる奴がどこにいるんだ?」

 みるみるうちにナマエの視界が滲んでゆく。
 ナマエが異世界から来たと聞いたときも白ひげは「どうでもいい」と言った。最初から彼女に付随する情報や能力を度外視して、ナマエという人間を率直に見て、家族として迎えてくれた。
 その器の大きさをまざまざと思い知り、ついに堪えきれずに溢れた涙はナマエの足元にいくつも染みを作って床板に吸い込まれていった。

「せ。船長さ……お、オヤジさん……グス、う。ずび。ありがとうございます…!」
「グララララ、ようやく泣いたか」
「ひっぐ、……んん、今日からまた、よろしくお願いします!!」
「おう。早く顔洗ってこい」

 白ひげ、もといオヤジは一笑した。ナマエの顔面は涙と鼻水で顔面をべしょべしょだった。
 エースは船長室を出てすぐの廊下にいた。ナマエに気付くと凭れていた壁から背を離し「ひでェ顔」と笑った。彼女は慌てて涙と鼻水をできる限り隠し、小走りでエースのもとに向かう。

「――色々ありがとう、エース」
「大したことしてねェさ」
「まだあの手紙持ってる?」
「ん? あァ、これか……」

 エースがポケットから手紙を取り出す。昨日、ナマエが食堂に残した置き手紙。説得できないほど彼女の意志が固ければ、そのままみなに伝えようと思ってエースが預かっていたものだ。
 誰の目にも触れていない。エースだって中は読んでいない。
 きれいに糊付けされたままの手紙を見て、彼女は言った。

「燃やして」
「りょーかい」

 にっと笑ったエースの手の中で手紙は跡形もなく燃え去る。
 ところでよ、とエースがわくわくした様子で口を開いた。

「おれたちのオヤジはどうよ」
「……もう最っ高、惚れるかと思った」
「だよな!」

 二人はくしゃっと顔を綻ばせた。



かくして彼女には再び“家族”と呼べる存在ができた。
自ら選んだこの道に、いつか後悔する日がくるかもしれない。積み重ねた分だけ別れの時は辛いのかもしれない。
だがそれも愛して拾っていく。

自由に生きるとは、きっとそういうことだ。



 甲板は陽射しにあふれ、カモメたちがくーくーと上空を旋回する光景は長閑そのものだった。
 甲板では出航に向けて物資を船に積み込むクルーたちが忙しなく働いていた。その中にクルーとともに大量の木箱を船に運んでいるサッチの姿を見つけ、ナマエは彼の名を呼び手を振った。サッチは彼女の声に顔をあげ、大きく腕を振り返した。

「何か手伝いますよ!」
「お。ありがとうな〜。だが、重てェ荷物ばっかだから手伝わせてェのはそっちのおにーさんの方だな」
「げ」
「げ、じゃねェよ働けエース」

 ちぇっ、と唇を尖らせ、肩をぐるりと回したエースが渋々作業に加わる。隣に立つサッチがナマエを見下ろした。

「だいぶすっきりした顔になったな」
「……はい!」

 泣き腫らしたと一目で分かる目元だが、昨日より良い顔をしている。胸のつかえが取れ、吸い込む潮風は新鮮だ。
 サッチは口角だけをあげ、それ以上は何も言わなかった。16の小娘の考えることなどお見通しだったが、それを承知の上でこうして待っていたのだ。
 二人の視線の先で、作業に加わったエースはクルーたちにあれもこれもと運搬を頼まれて忙しく動き回っている。「それくらい自分で運べ!」とどやす声もたまに聞こえる。

「あの木箱の中身は何なんですか?」
「食糧だよ」
「えっ、全部ですか?」
「あァそうさ! ウチは大所帯だからな、毎回これくらいになっちまう」
「へぇ……こんなに用意してもエースが食糧調達に出なきゃいけなくなることもあるんですね……」
「この間のはまたイレギュラーでな」
「イレギュラー?」
「おれたちにはナワバリにしてる島があんだけどよ」
「ナワバリ……オヤジさんの名で守られた島々、でしたっけ。エースが言ってました」
「そうそう。最近寄ったナワバリの島が近海の海賊にこっぴどく荒らされたらしくって、当分の食糧と医療品を分けてやったんだ。そいつらにはおれらでしッ…かりと、御礼させてもらったけどな」
「お、おお……」

 サッチはウィンクとともにピースを頬に添えて、お茶目に笑ってみせた。海賊の言う“御礼”など、恐ろしいことに決まっている。ナマエは静かにおののき、これにはあまり触れないでおいた。
 温厚で気さくに見えるサッチでさえ、その左目には目立つ傷がある。そういう怪我をするような喧嘩とは…そういう喧嘩であり、雑談の一端にすら顔を合わせてから一度も傷の話題が出ないということは、そういう怪我ができる喧嘩が当たり前の世界なのだ。
 任侠映画を地でいく連中である。

「そんなわけで、うちのおつかい係にそれぞれ食糧と医療品の買出しを臨時で頼んだってわけよ」
「おつかい係って……」
「うん、エースとマルコ。自由に船を離れてパーッと行ってパーッと帰って来られるのは、ストライカーを乗り回せるエースと鳥になって飛んで行けるマルコだけだからな」
「二人とも隊長? だから、えらい人なのでは……?」
「敵襲来なけりゃ暇だもん。使えるもんは使わねーと」
「おいサッチ! お前ちゃっかりサボってんじゃねーぞ!!」
「うわバレた」

 いまにも木箱を燃やさんとするエースに悪ィ悪ィ、と気だるい足取りでサッチも作業に戻った。
 力仕事ではナマエの出る幕はない。他所を当たろうかと彼女が思案した時、「ナマエちゃーん」とサッチに呼ばれた。

「好きな飯なにー!?」
「え……っと、オムライス!!」
「わかったー!!」

 サッチは両腕で大きく丸を作る。エースは彼のふくらはぎに軽い蹴りを入れ、ナマエに目を配ると、顎でしゃくって横を見るように促した。
 素直に顔を横に向ければ、ちょうどクロエがこちらへ歩いてくる姿が見えた。

「ねえナマエ。いま手空いてるかしら?」
「空いてます、何かやることありますか?」
「医療品リストのチェックをしてほしいの。お願いしてもいい?」
「もちろん!」

 ありがとう、と綺麗に微笑んだクロエに後ろにくっついてナマエは船内へ引き返した。渡されたリストに目を通しながら歩く。

「ここに残ることに決めたのね」
「え?」
「憑き物が落ちたような顔してるもの」

 当然のようにクロエにもバレていた。そんなに酷い顔をしていたのかと今さら自覚してナマエは苦笑を漏らし、「またよろしくお願いします」と頭を下げた。

「自分としては静かに去ろうと思ってたんですが……駄目でした」
「エース隊長が毎日アタックしてたもんね」
「……はい」

 飽きもせず、めげもせず、懲りもせず。エースは毎日彼女のもとへ通っていた。思い出されるその温かなしつこさにナマエの目は自然と細くなる。

「実はね、私たちもナマエにこの船に残ってって言おうとしたことがあったのよ」
「私たち……って、医療班の皆さんですか?」
「んーん。みんなよ」
「……みんな?」
「マルコ隊長やサッチ隊長もだけど、とにかくみーんな」
「え……でも誰も……」
「そんなこと言ってこなかった、でしょ? あれね、エース隊長が止めてたのよ。おれがナマエに話すからって聞かなくて。独占欲が強くて参るわね」

 クロエは肩を竦めて笑った。初めて聞く話に、ナマエはいまいち要領を得ず、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。

「ナマエを一番気に入ってるのはエース隊長よ」
「それは、エースが私のことを恩人とか大袈裟に思ってるからで……」
「ふふ、それだけかしら〜?」
「ほ、他になにかあります……?」

 含みのある笑みを浮かべて振り返り、クロエは「ほーんと可愛いわね」と楽しそうだ。
 そんなことを話している内に医務室の扉が見えてきた。

「あのね、エース隊長はナマエが可愛いから構いたくて仕方ないのよ」
「……へ?」

 クロエは茶目っ気たっぷりでウィンクをとばし、さっさと医務室の扉を開けて中へ入っていく。
 揶揄われているのかしら…とナマエがリストを握って廊下で固まってると、中から「早くー」とクロエの声がした。我に返って医務室に入ふ。そこには買い込んだ医療品の山が鎮座していた。

「さ! 出航までにリストと照らし合わせてどんどん仕舞っていくわよ!」
「は、はい!!」

 クロエの凛々しい号令ですでに作業を始めていたナースに混じれば、先ほどのクロエの発言を考える暇などなくなった。