13


 元の世界にはどうやったら戻れるのか。
 その問いはまるで砂漠の中で真珠を探すようだった。

 温暖で過ごしやすかった春島海域を抜けてモビーディック号は少し肌寒い秋島海域に入っていた。
 今日は朝から3番隊の甲板掃除係の手伝いで、冒頭の疑問を脳内で燻らせながら私はデッキブラシで床板をごしごしとこする。

もう一度勢いよく落ちてみる?

 船縁の向こうに広がる青海にちらりと視線を寄越してみるがさすがにこれはエースの言っていた通り危なすぎる。私だってこの命を無駄に散らせる賭けをしたいわけではない。ばかな考えだと小さくかぶりを振ってデッキブラシを握る手に力を込める。

 帰る手立てがないばかりか、この船のみんなを好きになってしまった私は、ある程度ここで前向きに生きていく覚悟を決めていた。
 この世界の常識も受け入れるし、みんなの役に立てるよう努力は惜しまない。湧いた愛着は素直に大事にしたいと思っている。

 でも、もしも帰るときが来たら、私はちゃんと帰らなければいけない。
 だって私は――……

「なんかこえー顔になってんぞ」
「ひぁっ!?」

 突然目の前に現れた三白眼とそばかすに反射的に身体を仰け反らせる。エースは屈めた腰を伸ばして、大丈夫かよ、と訝しげに片眉をあげた。

「え、エース、なに、びっくりした……」
「声掛けても全然気付かねェからよ。どうした?疲れが溜まってきたか?」

 いまだ心臓のばくばくが収まらない私の頭をエースは呑気にぽんぽんと叩く。

「やっぱりお前働きすぎなんじゃ……」
「そんなことないって。ほら、私ほかにやることないし」

 先日シーツ干しを手伝ってもらってからというもの、エースは時間ができると雑用係の仕事をしている私の元へ遠慮なく顔を出すようになった。そして私の過労を訴えるところまでがセット。
 元の世界では何も考えたくなくて働きまくってたが、ここでは何かしたいと考えながら働いている。身体だけが疲れきっていた前者とは違い、今は心地よい充足感とともに毎晩眠りについているのだ。エースの心配はありがたいが、私としては今の方がよっぽど健康的だと思う。
 顎に手を当てて首をひねるエースにだめ押しで平気だよ、と言いかけたところで、

「……くっしゅん!」

 くしゃみが出た。
 びゅおっと吹いた冷たい潮風が私のさらけ出された二の腕に鳥肌を立てていく。庇うように腕を擦れば、言わんこっちゃねェ、と呆れた声が聞こえてばさりと何かが肩に掛けられた。

「もうあったけェ海域じゃねェんだから、表出るときは何か着ろよな」
「……そういうエースは着てないじゃん」
「おれは暑がりだからいいんだよ」

 火だし、と納得するしかない言い分を述べる半裸の男。
 私の肩に掛けられたのは彼のものだという長袖のシャツだった。エースはこれをわざわざ持ってきてくれたらしい。ひとまずエースにお礼を言って、シャツに袖を通した。
 こういう気遣いを下心なく自然にできるエースはきっとモテるんだろうなあ。あとお兄ちゃん感がすごい、兄弟でもいるんだろうか。余った袖を捲りながらエースの顔をちらりと盗み見て私はそんなことを思った。

 この世界に来たときは、辺り一面の海や燃える人間のインパクトが強すぎて流してしまったが、エースはそれなりにかっこいい。
 顔立ちもさることながら、鍛え抜かれた筋肉質な身体に女子は骨抜きだろうし、性格も陽気でなかなか面倒見が良い。刺青の入った腕や背中もワイルドって部類になるのだろう。ひとつ言えるのは、あんな出会い方をしない限り、私の人生にはおそらく現れないタイプの人間だということ。
 慣れない世界だけど、家族と呼べる温かい人たち囲まれ、自分を気遣ってくれる人がいて、私はやりがいを持って日々仕事をこなしている。
 私の人生はこれまでと正反対の方向へ動いていた。あのとき島に残らなかったおかげで、こんな道が待っているとは思いもしなかった。

「次の島に着いたら服も揃えた方がいいぞ」
「そうだね……今はお姉様方の服を借りてる状態だからさすがに申し訳ない」
「この海の気候はめちゃくちゃだからすぐ寒くなったり暑くなったりすんだよ」

 面白ェけどな、とエースは笑い、船縁にひょいと腰かけた。私もデッキブラシを握り直して掃除を再開する。
 確かに服は自分のサイズで揃えたい。お借りしている身で図々しいが、正直お姉様方のお洋服はスカートの丈がやたら短かったりボディラインを強調するデザインだったりとナイスバディ向けすぎるし、ついでに言えばブラのサイズも私には大きすぎる。
 着ていて、やや……いやだいぶ、心が、抉れる……そーよアタイはちんちくりん。

「で、さっきはなに考えたんだ?」
「え?」
「こえー顔してたろ」

 一度気になったことは追及したくなるタチなのか、エースは最初に発した言葉へ話を戻した。エースがこちらをじぃっと見ているということはわざわざ顔を向けなくても分かる。視線にも熱が孕むような炎人間だ。

「こんな船に置いてもらえて私は恵まれてるなぁって」
「……それから?」

 やっぱり誤魔化されてくれないか、と私は苦笑する。エースの視線がちりちりと私のうなじを焼くようだ。

「あと、いつか帰らなきゃいけない日がくるんだろうなぁって」
「ナマエ……」
「そのときは、駄々こねずにちゃんと帰ろう、って、そういう覚悟をしておりました。あはは」
「……お前が望めば別に帰らなくたっていいんじゃねェか?」
「駄目、でしょ……だって私は、本来この世界で生きてちゃいけない存在だもん」

 エースの提案は甘美だ。
 だが、率直に言ってこの世界において私は異物。
 しかも元の世界には、お父さんたちやおばあちゃんとの思い出がある。なんの挨拶もなしに突然消えて、そのままはいサヨナラはあんまりだろう。

 問いかけたくせにいつまでも返ってこない返事に、エースの方を見やれば、彼は手元に視線を落としていた。
 その瞳はいつもより暗く、口元は真一文字に結ばれている。

「エース……?」
「生きてちゃいけねェなんて、言うなよ。ナマエみてェな、良い奴がさ」

 な?、といつものような笑顔でエースは顔をあげた。

"いつものよう"であって、"いつもの"じゃない、それ。

 私の身体は無意識のうちに動いていた。


「……どうしたんだよ」
「え……?あ……ええと……」


 エースの瞳は微かに驚きと戸惑いの色を見せて揺れていた。私は視線を泳がせ言葉を探す。

 なぜだか私はエースの手を掴んでいた。

「エースが、海に落ちちゃうと思った、から」
「おれが?」

 さまよった視線は結局重なった手に落ち着いた。
 船縁に座って私よりも高い位置にいるエースは俯く私の顔を覗くように少し身を傾け、心底不思議そうな声色で尋ねた。
 下手な言い訳だと思われたのだろう。だけど、本当に、エースが暗い海の底に沈んでいってしまうイメージが脳裏をよぎって、寒気がしたのだ。
 今だってこうしてエースの手を離せずにいる。

「そんなヘマしねェよ」

 そう言いながらも大人しく船縁から降りたエースは私の手を解こうとはしなかった。
 じんわりとエースの掌の熱が伝わってくる。炎よりももっと穏やかで、温かな生き物の熱。
 知らず知らずのうちに強張っていた身体が徐々に緩み、私も握ったままの手が恥ずかしくなってきた。そろそろとエースの手を解放して、そうだよね、としどろもどろになりながらちらりと見上げれば、翳りが消えたいつものエースがいた。

「寒ィならこれも貸してやっから早く甲板掃除終わらせろよな」
「ぅわ……っ!?」

 頭を撫でるような、押さえつけるような優しい重みと共に視界がオレンジ色に占領された。私の胸当たりでゴツい飾りが揺れてるのを見て、頭のそれがエースのテンガロンハットだと思い至る。慌てて帽子のつばを持ち上げて周りを見たときには既にエースは背中を向けて歩いていた。
 エースのシャツにテンガロンハット。なんだか色々借りてしまった。全部でかい。
 そんなエースの名残を装備して私は改めて掃除に励んだ。


***


「なんだその格好は。エースのコスプレかい?」
「そんな趣味はありません」

 掃除も終わりかけの頃、名前を呼ばれて振り返った先にいたマルコさんが言う。それならマルコさんはパイナップルのコスプレじゃん。今日も素敵な金色のお髪を見てそう思ったが、そんなこと口が割けても言わない。言えない。初日のあの眼光、忘れてません。

「この後の仕事は?」
「お昼の手伝いくらいですかね」
「じゃあ各隊からの報告書の整理を頼むよい」
「はぁい」



 マルコさんからの雑用は大体書類整理だ。これだけの大所帯になれば海賊という自由業といえど組織をまとめる管理職が必要になる。それがマルコさんを始めとする隊長衆らしい。
 掃除用具を片付け、3番隊の皆さんに失礼しますと挨拶をし、マルコさんの後ろを着いていく。

 私を連れて仕事をするときは医務室がお決まり。各隊長の個室には執務机があるけど、どうやらマルコさんはセクハラに配慮ができる大人なので未成年の女の子とは狭い部屋で二人きりにならない。まぁ、医務室の方が机も大きくて資料も広げやすいので私としても好都合だ。
 今日はそんな医務室に先客がいた。

「いい加減片付いたかよい…………って寝てんじゃねェ!!!」
「んがっ………!!…おー、マルコ……だっめだ、これ眠くなる……」
「おめェの仕事だろい。ちゃんと働けよエース隊長殿」

 ぴらぴらと羊皮紙を無下に扱うエースが、燃やしてェ……と呟いてマルコさんにその頭をぼこっと殴られていた。マルコさんの背中の影から私が見えると「お、やっと掃除終わったのか」とケロリとして見せるもんだから、イラついたマルコさんからさらに一発もらっていた。

「ったく、こんなに溜め込んでやがったとは……」
「つーか、おれが隊長になる前のも入ってるじゃねーか!おれが隊長になったのついこないだだろ!?」
「うるせェ!隊長がいなけりゃ隊員が書く!それをサボってきたツケが今ここにきたんだよい!隊長になったんだからてめェの隊の尻拭いまできっちりしやがれ!終わるまでここから出さねェからな!」
「うぇ……まじかよ……」
「まじだよい」

 エースは面倒臭いというオーラを微塵も隠さず仏頂面でがしがしと頭を掻く。デスクワークは大の苦手と見た。
 マルコさんはナマエはあっちの山を頼むよい、とエースの隣の机をちょいちょいと指さした。自分のドクターデスクの椅子を引いてマルコさんも作業を開始する。
 エースの傍らに積まれた未処理の報告書の上にテンガロンハットを置いて、私も仕事に取りかかるとする。作業内容としては単純作業に近いので羊皮紙の手触りとインクの香りを楽しみながら黙々とこなしていく。

「……なァ」
「……?」

 潜めた声が隣から転がり込んだ。なにかと思って顔を向ければ、むくれた顔の隊長さんがこれから報告書になるであろう真っ白な羊皮紙を差し出していた。

「な、なに」
「手伝ってほしい」
「…………」
「頼む……!無視すんな……!!」

 拝むな拝むな。

「無茶言わないでよ……海賊船の報告書の書き方なんて分かんない……!」
「おれより分かるはずだ……!マルコが仕事手伝わせるくらいなんだからナマエは優秀なんだ、自信持て、な?な……!?」
「っ、必死すぎる」

 思わず噴き出す。あー負け負け、私の負け。
 引き下がる様子のないエースの手から羊皮紙を受け取ってはみたものの、何を書けばいいかなんて本当にさっぱりだ。整理中の他の報告書を読んでみても、その内容は偵察に行った島の様子だったり返り討ちにした敵船から得た財宝のことだったり、平々凡々に生きてきた女子高生には書けない内容ばかりである。

「うーん……じゃあ私がまとめてみるからエースは話して」
「おお!まずなー」

 潜めていた声は次第に普通のボリュームになり、エースが私の手を借り始めたのは当然マルコさんにもバレていただろうけど、マルコさんは何も言わなかった。怒る暇も惜しいほどマルコさんの仕事が忙しいのか、一向に減らないエース用の羊皮紙に痺れを切らしたか……まぁ多分後者。
 エースは話をするのは得意らしい。そのまままとめたら報告書というより冒険譚になりそうだったので、報告書に必要な質問を適度に挟んで進めていく。

「こんなもんでどうでしょう」
「おおおスゲー!ありがとう!」
「怒られても責任取れないからね」
「おう!!」

 書き上げた報告書1号をエースと私の目の高さに掲げてみた。5W1Hを整えて体裁を保ってみたが、マルコさんのお眼鏡には適うだろうか。
 エースはぴかぴかの笑顔を浮かべ何度もありがとうなー!と私の肩をばしばし叩いている。正直痛い。

「マルコ〜!報告書書けたぞ!」
「全部ナマエに書いてもらっといてなに言ってんだこのバカ」
「いでっ!!!おれとナマエの合作だ!」

 意気揚々と報告書を提出しに行ったエースは、調子のいいこと言うなよい、とマルコさんに再び拳骨をもらっていた。私は席に着いたまま、早速報告書に目を通すマルコさんをどきどきと見つめる。
 紙の上をすらすらと滑っていった目線は最後に私に向けられた。

「よく書けてる」

 ふわっと微笑まれた。子どもを褒める親のような、兄のような、そういう類いの優しい笑顔。
 え、え、なにこれ、すごく嬉しい。
 マルコさんにちょっと怖いイメージがあっただけにそのギャップが私の口許を容易く緩くする。

「やっぱりナマエは1番隊にほしいよい。どうだナマエ?」
「駄目だ、やらねェ」

 私が答えるよりも早く、マルコさんの視界からその背で私を隠すようにずずいと割って入ったエースが不満たらたらな声を出した。

「別に2番隊のもんでもねェだろ」
「でも駄目だ」

 きっぱり。ていうか私の意見は?
 立ちはだかるエースの顔を背中側から覗くように見上げてみたが、その黒い髪が邪魔で表情は窺えない。
 すると、クロエの言う通りだよい、とマルコさんがくつくつと喉を鳴らした。

「なに笑ってんだよ」
「くくっ……何でもないよい。ほら、さっさとほかの報告書も片付けな。昼飯抜きにすんぞ」
「マルコの鬼畜!!」
「何とでも言え」

 報告書をひらりと掲げ、マルコさんは再びデスクに戻った。膨れっ面で渋々席に帰ってきたエースのために私も次の羊皮紙を取って羽ペンを握る。

「ま、早く終わらせようよ」
「………………」
「……なに?」
「……別に」
「ナマエちゃんいるかー?」

 無遠慮に開けられた扉の先にはサッチさんがいた。私を見つけるといたいた!と手を振り、すぐにマルコさんをキッと睨んだ。

「マルコよォ、うちのナマエちゃん勝手に連れてくなよなァ」
「4番隊の所属じゃねェだろい」
「未来の4番隊だ!」
「そういう意味ならうちのとも言えるよい」
「ほざけ!」

 ぎゃいぎゃいと言い合う二人を見て、マルコさんが4番隊の方に断りを入れてなかったことを知る。怒るサッチさんの顔にさぁっと血の気が引いた。思わずガタッと椅子を蹴って立ち上がる。

「あああすいません!私知らなくて……!!お昼の手伝い、すっぽかすつもりはなかったんですよ!?」
「マルコがナマエちゃんを連れてっちまったってジョズに聞いた!ナマエちゃんが謝ることじゃねェさ」
「昼飯の準備なんざ、サッチんとこの奴らで手ェ足りてるだろい。こっちはいつまで経っても報告書仕上げねェどこぞの隊長を抱えて苦労してんだ」
「ナマエちゃんはうちの重ゥゥゥッ要な華なんだよ!!」

 サッチさんの言ってることはてんで意味が分からないが、先に取り付けた約束を破るわけにもいかず、マルコさんには午後から再開するということで了承を得る。
 サッチさんが現れてから終始無言を貫いていたエースを振り返ると、先ほどからの膨れっ面に輪をかけて大層不機嫌な顔をしていた。
 こっちはこっちでてんで意味が分からない。しれっとマルコさんに貶されたのがムカついたのか、それとも報告書を手伝ってもらえないのがそんなに不服なのか。

「エース、シャツありがとう。ここ置いとく……」
「あ? なんで脱いでくんだよ。着てりゃいいだろ」
「部屋の中だしシャツはもうなくても……」
「いーーや着てけ」
「厨房に行ったらむしろ暑いし」
「じゃあもっと捲っとけ!」

 ぐりぐりと雑に肘上くらいまで袖を捲られる。これならいいだろ、と言わんばかりに鼻を鳴らしたエースはなんとも子どもっぽく見えて私の笑いを誘った。笑うともっと怒りそうだったから堪えたけども。
 おやおや〜? とサッチさんが好奇の声をあげる。

「あれは一体なんだよマルコ?」
「さァね、マーキングってやつじゃねェのかい?」
「ほほォ?」
「〜っ、るっっっせェな!! わけわかんねーこと言ってねェで行くならさっさと行け!!」

 末っ子いじりを楽しむ二人にエースが吠え、きゃーっと可愛くない声を出してサッチさんが廊下へ出た。とうとう私も笑いが堪えられなくなって、椅子に座っていつもより低い位置にあるエースの頭をつい宥めるようにぽんぽんと撫でたら、彼はぴたりと固まった。

「じゃあシャツはもう少し借りるね。エースはちゃんと報告書進めなよ?」

 サッチさんの後を追いかけて私も部屋を出た。