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 買ったものを置きに船に戻ったらもう一度島に降りる気は失せてしまって、私もエースもそのまま船に残ることにした。
 クロエさんは島で宿を取ったのか、船には帰ってきていなかった。船乗りはみな少しでも長く陸の心地を味わいたくなるのが性だと、前にイゾウさんが言っていたのを思い出す。
 現在モビーディック号には船番役の5番隊・12番隊と一部のクルーのみ。親父さんも今日は陸で羽を伸ばしているらしい。誰かしらの気配と笑い声がするいつもの賑やかなモビーも停泊期間中はその鳴りを潜めていた。
 お風呂あがりの火照った身体を冷まそうと出た夜の甲板はいつもより波の音がクリアで、1日島を歩き回って身体は疲れているはずだったが、胸の内に沸いた童心が私の目を冴えさせた。

 停泊中は完全セルフサービスになる食堂のテーブルには、山盛りにされたパンと「バターとジャムはいつものとこ!使ったらちゃんと元の場所に戻すように!!」というサッチさんのメモ書きが置かれている。
 なにか飲みたくなったらここの使いな、と手伝いの合間にサッチさんが教えてくれた戸棚から紅茶缶を取り出した。ヤカンを火に掛け、お湯が沸くのをぼんやりと待つ。
 こういう夜は本が読みたくなるなあ。マルコさんかミハールさんに言ったらなにか貸してくれるかな。今度聞いてみるとしよう。
 突然食堂の扉が開き、びっくりしてそちらを見る。

「ナマエ?」
「エース……どうしたの?」
「腹減っちまって……ナマエこそ何してんだ?」

 エースはパンを見つけるなり、ひとつ取って無造作にかじりつく。船に戻る直前まで島の料理を食べていたはずなのに、本当に食べ物がよく入るお腹だ。

「飲み物淹れようかと。エースも飲む?」
「ああ、頼む」

 早くも次のパンに手をつけたエースに苦笑して、ステンレス製のマグカップをもうひとつ用意する。
 ヤカンからもうじきお湯が沸く気配がする。本当に静かな夜。

「ナマエがこんな時間に部屋から出てるなんて珍しいな」
「いつもは朝食の準備があるから早めに寝るんだけどね。明日はそれもないし、のんびりしようかなーって」
「へェ」
「コーヒーと紅茶、どっちがいい?」
「ナマエと同じやつ」
「はいはい」

 程なくして、カウンターには紅茶が入った2人分のマグカップが並んだ。この常夏の気候に合わせて申し訳程度に氷を放り込んでかき混ぜる。少し目を離した隙にパンの山はやや小さくなっていた。

「エースはもう寝るの?」
「いや、まだ眠くねェ」
「……じゃあ、ちょっと付き合ってよ」
「なんだ?」
「私もまだ寝ないし、どうせなら話し相手がほしい」

 甲板で波の音を聞きながらぼーっとするつもりだったが、隣にエースが居てくれたらもっといいなと思った。
 突然やんだ咀嚼音、エースがぽかんとパンに噛りついた状態で数秒固まっている。我に返ったエースが慌ててパンを嚥下して返事をしようとしたところで、ばたばたと賑やかな足音が近付き、扉が荒々しく開いた。

「腹減った〜早く島で買った肉焼こうぜ〜」
「お?エースゥ!船に残ってるなんて珍しいじゃねェか……って、あれ?ナマエちゃん?」
「ははァん、さてはお前ら逢い引きってやつだな?」
「デートなら船尾側がオススメだぜ!!人気がねェからな!!」
「うっ、うるせェ!!ばかなこと言ってんじゃねーぞ!!」

 ……意外とこの船の人は恋バナが好きなんだよなぁ。
 "その手"のことでからかうのは得意でもからかわれるのは不慣れなのか、エースは食堂にやって来た5番隊のクルーに噛みついている。
 因みに私は自分以上に動揺している人を見ると冷静になれるタイプだ。

「あっ、ナマエちゃん!よかったらおれらにもコーヒー……いや、酒でもいいな!サッチの秘蔵の酒とかは……」
「セルフサービスだ!!いくぞ、ナマエ!!」
「え、あー、ごめんなさい、コーヒーとお酒の在処はまた今度で」
「ちぇー」

 カウンターのマグカップをふたつ乱暴に掴んで、エースはさっさと食堂を出てしまった。話し相手の明確な返事はもらえていなかったものの、マグカップを持っていったのでひとまずイエスと捉えてその背中を追う。食堂を出る前に5番隊の皆さんに頭を下げると、なんかあったらでけェ声出せよー、と謎の忠告を受けたが深く聞かずにそのまま扉を閉めた。

 食堂を出てすぐの廊下にエースは仏頂面で壁にもたれて待っていた。近寄るとぶっきらぼうに片方のマグカップを渡してきた。それから、首筋を掻いて気まずそうに口を開く。

「おれといると、いつもあんなからかわれ方されちまうな」
「あー、そうだねぇ……歳の近い二人をくっつけたがるのは一種の儀式みたいなものでしょ」

 学校でもそうだ。
 妙齢の独身教員が男女でいれば、学生は付き合わないの?と囃し立てる。それが普段からよく話している二人なら尚の事。
 クルーたちもそんなノリなんだろうと解釈している。実際は付き合おうと付き合わなかろうとどうでもいい、ただの好奇の種なのだから。

「嫌じゃねェのか」
「うーん……エースだしなぁ……」
「……は、どういう意味…………」
「エースだし、別にいいよ」

 マグカップの縁に口をつけて、一口だけ啜る。
 家で飲んでいた粉末のインスタントと違って、やはり茶葉から淹れると味が濃くて美味しい。

「だってちゃんと誤解解いてくれるでしょ?」
「……は?」

 そう言って顔をあげた先には、予想外に顔を赤らめたエースが。そして、おそらくたった今私が発した言葉によって、みるみるうちに眉間の皺が深くなる。

「あーーークソッ!!紛らわしい言い方すんなよ!」
「えっ?あ、ごめんね……?」
「んで!?この後はどこ行く気だったんだ!?」
「か、甲板…です……」

 もうフラれたのかエース?という野次が食堂から聞こえ、ぐしゃぐしゃと頭を掻いたエースが廊下の壁を蹴った。なにやら機嫌を損ねてしまったようだが、その足はちゃんと甲板に向かっている。
 この船に来たその日に弁明の行脚を共にした身としては、エース以上に律儀かつ真面目に身の潔白を晴らしてくれる心強い味方はいないというのに……。

「おとう……いや、妹相手におれは一瞬でもなにを考えて……」
「なにブツブツ喋ってるの?」
「なっ……なんでもねェ!!」
「声大きいよ」

 静かなモビーディック号にエースの声が不相応に響いている。唇に人差し指を当てて注意すると、エースは不服そうながらも声量を抑えてくれた。

 甲板に出るとより鮮明になった波の音が私の鼓膜を心地よく刺激した。
 あ!!、とエースが突然声をあげる。

「なぁナマエ、鯨の頭に乗ったことねェだろ」
「鯨?」
「連れてってやるよ!」

 先ほどまでの不機嫌はどこへやら。良いことを思い付いた子どものように彼の声色はうって変わって明るい。ぐるりと振り返ったエースが指差す先には白鯨を模した船首があった。鯨の頭とはあれのことか。そう思考が至った途端、私の胸は期待に膨らみ、大きく頷いてエースへ駆け寄るのはごく自然な流れだった。
 しかし、私のマグカップをおもむろに引き取り両腕を広げるエースを見て私は固まる。

「階段とか梯子は……?」
「ねェよ」
「……どうやって登るの?」
「だから、」

 ん。
 エースはもう一度、今度は促すように両腕をこちらに向けた。ここに収まれと言わんばかりのスペースだ。

「ちょっと待ってそのポーズまさかなにそれ、え?……ほんと?」
「ほんと」

 私の予想が正しいなら相当恥ずかしい。だったらこのまま甲板の上でいいくらいだ。
 でもエースはどうやら白鯨の頭上に私を招待する気満々のようで、二の足を踏む私の方へ迷いなく歩いてくるし、生憎その顔にはからかっているような笑みはない。また米俵のように担ぎ上げられるのかと狼狽しているうちにエースの厚い胸板が鼻先に迫っていた。
 エースは左手にマグカップふたつをまとめて持ち直し、空いた右腕を私の腰に回す。

「ひぁっ、ちょっ……!!」
「落ちねェように首に腕回しとけ」
「待って!別に無理に登らなくてもっ」
「いくぞー」

 抱え方こそマシになったが、有無を言わせない強引さと所作の粗雑さは米俵担ぎの時のそれと大して変わらなかった。
 仕方なくしがみつくようにエースの首に腕を回す。耳元でエースの赤い首飾りがジャラリと鳴った。エースは己の脚力と炎の推進力で私を抱えたまま軽々と空へ舞い上がった。身体を強張らせて耐えるがこの浮遊感は本当に慣れない。

「目閉じんな、前見ろ」
「っ……、わぁ!」

 エースの声におそるおそる固く閉じた目を開けると、そこには水平線から立ち上るように広がる満天の星。夜の水面は月明かりを受けて昼間よりも柔らかく光っている。甲板では船縁やマスト、帆に遮られてしまう空が鯨の頭の上ではすっきりと見渡せた。
 白塗りの床に降り立ちエースの腕がほどかれると、幻想的な光景に誘われるように私の足は自然に1歩2歩と前に出た。

「すごい、きれい……」
「おれもここ気に入ってんだ」

 登って良かっただろ?、そう言って差し出されたマグカップを再び受け取り、私は頷いた。エースは自分のマグカップを啜りながら舳先に向かって更に進む。手摺がない分、少し怖いが私もそれについていく。遮蔽物のない鯨の頭は潮風がやや強く吹いているものの、夏特有の暖かさで寒くはない。
 適当なところで腰を下ろし、改めて空を見上げる。私はこれまでの人生で見たことのない星の煌めきにしばし放心していた。

「そんなに珍しいか?」
「こんな星空を見るのは初めて……きれい、プラネタリウムみたい」
「ぷらね……?なんだそれ」
「んーと、夜空を見立てたドーム型のスクリーンに星を投影して眺める建物、っていえばいいのかな」
「へェ……わざわざ星をねェ……」

 不思議そうに呟きながらエースも同じ空を見上げた。
 エースには見慣れた光景も私には新鮮に映る。この世界で目に焼き付けた様々な景色をきっと私は忘れないんだろう。

「ナマエは星が見たかったのか?」
「あー、違う、波の音を聞きたかったの」

 いよいよ訳が分からないと、素っ頓狂な声でエースが波ィ?と聞き返してくる。

「それこそここ何日も海の上にいんだから、さすがにナマエも聞き慣れてるだろ」
「そうだけど……海の真ん中で聞く波を掻き分けて進む音と、浜辺近くで聞く寄せては返す音じゃやっぱり違うし。私には浜辺の波の音の方が懐かしい」
「懐かしいって……ナマエは港町に住んでたのか?」
「うん。お父さんは船乗りだったし、お母さんも海辺のレストランで働いてたから」

 へェ、と柔らかい相槌が返ってくる。

「お父さんは航海士で、海洋調査の船に乗ってたんだけど、一回海に出ると2、3ヶ月帰ってこないのがざらでさ」

 ざざん。

「お父さんがいない間は、毎日お母さんの職場についてって……お母さんの古い友達のオーナーのおばさんは、姪っ子みたいに私を可愛がってくれたなぁ」

 ざぷん。

「そのお店には海が見渡せるテラス席があってね、そこで拾った貝殻並べたり、お絵描きしたり、うたた寝したり……ずっと波の音を聞いてた」

 目を閉じてぽつりぽつりと話す。
 波の音が私の心を幼い日に戻していく。瞼の裏にはテラス席から飽きるほど眺めた穏やかな海が広がり、音も匂いも頬をなぞる潮風も、あの日のものと錯覚しかける。


――この海のどこかにお父さんがいるって思えば少しは寂しくなくなるでしょ?


 仕事の合間、お母さんは一緒に海を眺めながら私の髪を撫でてくれた。私はお母さんが作った賄いのオムライスを頬張って、いつもお父さんの帰りを待つのだった。

「内地寄りに住んでたおばあちゃんに引き取られてからは、あんまり海には行ってなかったけど、やっぱりこの音好きだな」
「そうか……おれも波の音は好きだ」
「落ち着く?」
「いいや、わくわくする。新しいもんが待ってる気がすっからな」

 少年のように目を輝かせるエースに、思わず笑みがこぼれる。
 私にとっては誰かの帰りを穏やかに願う波の音も、エースにとっては己を誘う旅立ちの音色らしい。

「エースらしいね」
「どうにもじっとしてるなんて性に合わねェもんで」

 そう笑う彼を隣に感じながら、紅茶を一口含む。
 おばあちゃんはどんな人だったのかとエースが問うので、いかに優しく温かく大好きな存在か大いに語った。
 祖母はたくさん手を握って安心をくれる人だった。だから私も祖母には安心をあげたくて、一生懸命だった。
 祖母を喪って、立ち尽くしてしまうくらいには。

「エースのご両親はどんな人?」
「あー……どっちももう死んだ。おれの親父は白ひげで、家族は盃を交わした兄弟二人とこの船の皆だ。それでいい」
「二人……?ルフィ君のほかにもいるの?」
「あァ……長男二人と弟一人、それがおれの兄弟。ルフィと同じで血は繋がっちゃァいねェが、おれもそいつもルフィの兄貴でな。10の時に死んじまったけどさ」

 よく笑ういいやつだったよ、とエースは白い歯を見せる。話しづらいことに触れてしまったかと一瞬ひやりとしたが、エースの表情は懐かしむように、慈しむように柔らかかった。
 亡くなった人のことを話すのは相手を困惑させることの方が多い。だから今まで両親のことも祖母のこともあまり人に話してこなかった。でも、こうしてエースに話してみて、やはり大好きな人の話をすると胸が温かくなるのだと思った。ぽっと火が灯るように。

 波の音と緩やかなテンポの会話がゆっくりと私の瞼を重くさせ、お互いのマグカップが空になる頃、私はエースの肩にもたれてすっかり寝入ってしまっていた。