16

 
 買ったものを置きに船に戻ったらもう一度島に降りる気は失せてしまい、ナマエもエースもそのまま船に残ることにした。
 クロエは島で宿を取ったのか、船には戻っていなかった。船乗りはみな少しでも長く陸の心地を味わいたくなるのが性である。前にイゾウはナマエにもそう教えてやった。
 現在、モビー・ディック号には船番役の5番隊・12番隊と一部のクルーのみ。オヤジも今日は陸で羽を伸ばしているらしい。誰かしらの気配と笑い声がするいつもの賑やかなモビーも、停泊期間中はその鳴りを潜めていた。
 風呂あがりの火照った体を冷まそうとナマエは夜の甲板に出た。いつもより波の音がクリアで、1日島を歩き回って体は疲れているはずだったが、胸の内に沸いた童心が彼女の目を冴えさせた。

 停泊中、モビーの食堂は完全セルフサービスになる。食堂のテーブルには山盛りにされたパンがあり、その脇には「バターとジャムはいつものとこ! 使ったらちゃんと元の場所に戻すように!!」と大きく赤い文字で書かれたメモ書きが置かれている。4番隊はまさしく大家族の肝っ玉母ちゃんみたいなものなので、いい歳した大人なんだから休みの日くらい自分たちでどうにかしな、と容赦なく放り出すのである。
 ナマエはキッチンの戸棚から紅茶缶を取り出した。なにか飲みたくなったらここにあっから、と手伝いの合間にサッチが教えてくれた場所だ。やかんを火に掛け、お湯が沸くのをぼんやりと待つ。
 こういう夜は本のひとつも読みたくなる。マルコさんに言ったらなにか貸してくれるかしら。今度聞いてみようかな。
 ナマエがそんなことを考えていると、突然食堂の扉が開いた。びっくりしてそちらを見る。

「お、ナマエ?」
「エース……どうしたの?」
「腹減っちまって……ナマエこそ何してんだ?」

 エースはパンを見つけるなり、ひとつ取って無造作にかじりつく。船に戻る直前まで島の料理を食べていたはずなのに、この腹にはまだ食べ物が納まる余地があるらしい。

「飲み物淹れようかと。エースも飲む?」
「ああ、頼む」

 早くも次のパンに手をつけたエースに苦笑して、ナマエはステンレス製のマグカップをもうひとつ用意する。
 やかんからもうじきお湯が沸く気配がする。本当に静かな夜だ。

「ナマエがこんな時間に部屋から出てるなんて珍しいな」
「いつもは朝食の準備があるから早めに寝るんだけどね。明日はそれもないし、のんびりしようかなーって」
「へェ」
「コーヒーと紅茶、どっちがいい?」
「ナマエと同じやつ」
「はいはい」

 程なくして、カウンターには紅茶が入った2人分のマグカップが並んだ。この常夏の気候に合わせて申し訳程度に氷を放り込んでかき混ぜる。少し目を離した隙にパンの山はやや小さくなっていた。

「エースはもう寝るの?」
「いや、まだ眠くねェ」
「……じゃあ、ちょっと付き合ってよ」
「なんだ?」
「私もまだ寝ないし、どうせなら話し相手がほしい」

 ナマエはもともと飲み物を片手に甲板で波の音を聞きながらぼーっとするつもりだった。でも、そこにエースが居てくれたらもっといいなとふと思い、誘ってみた。
 突然やんだ咀嚼音、エースはぽかん…とパンに噛りついた状態で数秒固まっている。我に返って慌ててパンを嚥下して返事をしようとしたところで、バタバタと賑やかな足音が近付いて扉が荒々しく開いた。

「腹減った〜早く島で買った肉焼こうぜ〜」
「お? エースゥ! 船に残ってるなんて珍しいじゃねェか……って、あれ? ナマエちゃん?」
「ははーん、さてはお前ら逢い引きってやつだな?」
「デートなら船尾側がオススメだぜ!! 人気がねェからな!!」
「うっ、うるせェ!! ばかなこと言ってんじゃねーぞ!!」

 “その手”のことでからかうのは得意でも、からかわれるのは不慣れなのか、エースは食堂にやって来た5番隊のクルーたちに噛みついている。
 ナマエは自分以上に動揺している人を見ると冷静になれるタイプだ。よって、意外とこの船の人間は恋バナが好きなんだよなぁ……と横目で眺めつつ、マグをかき混ぜていたスプーンを簡単に洗って片付ける。

「あっ、ナマエちゃん! よかったらおれらにもコーヒー……いや、酒でもいいな! サッチの秘蔵の酒とかは……」
「セルフサービスだ!! いくぞ、ナマエ!!」
「え、あー、ごめんなさい、コーヒーとお酒の在処はまた今度で」
「ちぇー」

 カウンターのマグカップをふたつ乱暴に掴んで、エースはさっさと食堂を出てしまった。話し相手の明確な返事はもらえていなかったものの、マグカップを持っていったのでひとまずイエスと捉えてナマエはその背中を追う。

「なんかあったらでけェ声出せよー」
「……?? はーい」

 5番隊の面々は、食堂を出る前に律儀に頭を下げてくれた彼女へ忠告をしてやった。しかし、ナマエはハテナをぱちぱち浮かべ、とりあえず頷いて去っていった。そのまったくピンときていない顔はマヌケな子猫のようでかわいかった。
 食堂を出てすぐの廊下にエースは仏頂面で壁にもたれて待っていた。ナマエがそばに来ると、ぶっきらぼうに片方のマグカップを渡し、首筋を掻いて気まずそうに口を開く。

「おれといると、いつもあんなからかわれ方されちまうな」
「あー、そうだねぇ……歳の近い二人をくっつけたがるのは一種の儀式みたいなものでしょ」

 学校でもそうだ。
 妙齢の独身教員が男女でいれば、付き合わないの? と学生たちはこぞって囃し立てる。それが普段からよく話している二人ならなおのこと。
 クルーたちもそんなノリなのだろうとナマエは解釈している。実際は付き合おうと付き合わなかろうとどうでもいい、ただの好奇の種なのだ。

「嫌じゃねェのか」
「うーん……エースだしなぁ……」
「……ど、どういう意味だよ…………」
「エースだし、別にいいよ」

 ナマエはマグカップの縁に口をつけて、一口だけ啜る。
 家で飲んでいた粉末のインスタントやティーパックと違って、やはり茶葉から淹れると味が濃くて美味しい。と、まったく別のことを考えながら。

「だってちゃんと誤解解いてくれるでしょ?」
「……は?」

 そう言ってナマエが顔をあげた先には、予想外に顔を赤らめたエースが。そして、たったいま彼女が発した言葉によって、みるみるうちに眉間の皺が深くなる。

「あーーークソッ!! 紛らわしい言い方すんなよ!」
「えっ? あ、ごめんね……?」
「んで!? この後はどこ行く気だったんだ!?」
「か、甲板…です……」

 もうフラれたのかエース? という野次が食堂から聞こえ、ぐしゃぐしゃと頭を掻いたエースが廊下の壁を蹴った。不機嫌ではあるものの、その足はちゃんと甲板に向かっている。
 この船に来たその日に弁明の行脚を共にしたナマエとしては、エース以上に律儀かつ真面目に身の潔白を晴らしてくれる心強い味方はいないというのに……。

「おとう……いや、妹相手におれは一瞬でもなにを考えて……」
「なにブツブツ喋ってるの?」
「なっ……なんでもねェ!!」
「声大きいよ」

 静かなモビー・ディック号にエースの声が不相応に響いている。ナマエが唇に人差し指を当てて注意すると、彼は不服そうながらも声量を抑えた。
 甲板に出るとより鮮明になった波の音がナマエの鼓膜を心地よく刺激した。
 「あ!!」とエースが突然声をあげる。

「なぁナマエ、鯨の頭に乗ったことねェだろ」
「くじら?」
「連れてってやるよ!」

 先ほどまでの不機嫌はどこへやら。良いことを思いついた子どものようにエースの声色はうって変わって明るい。ぐるりと振り返った彼が指差す先には、白鯨を模した船首があった。鯨の頭とはあれのことか。そう思考が至った途端、ナマエの胸は期待に膨らみ、大きく頷いてエースへ駆け寄るのはごく自然な流れだった。
 しかし、彼女のマグカップをおもむろに引き取り両腕を広げるエースを見て彼女は固まる。

「階段とか梯子は……?」
「ねェよ」
「……どうやって登るの?」
「だから、」

 ん。
 エースはもう一度、今度は促すように両腕をナマエに向けた。ここに収まれと言わんばかりに。

「ちょっと待ってそのポーズまさかなにそれ、え? ……ほんと?」
「ほんと」

 自分の予想が正しいなら相当恥ずかしいことだ。だったらこのまま甲板の上でいいくらい。ナマエはそう思って尻込む。
 しかしエースはどうやら白鯨の頭上にナマエを招待する気満々のようで、二の足を踏む彼女の方へ迷いなく歩いてくる。生憎その顔にはからかっているような笑みはない。また米俵のように担ぎ上げられるのかと狼狽しているうちに、彼の厚い胸板がナマエの鼻先に迫っていた。
 エースは左手にマグカップふたつをまとめて持ち直し、空いた右腕を彼女の腰に回す。

「ひぁっ、ちょっ……!!」
「落ちねェように首に腕回しとけ」
「待って! 別に無理に登らなくてもっ」
「いくぞー」

 抱え方こそマシになったが、有無を言わせない強引さと所作の粗雑さは米俵担ぎの時のそれと大して変わらなかった。
 ナマエは仕方なくしがみつくようにエースの首に腕を回す。彼女の耳元でエースの赤い首飾りがジャラ! と鳴った。エースは己の脚力と炎の推進力で彼女を抱えたまま軽々と空へ舞い上がった。ナマエは体を強張らせて耐えるがこの浮遊感はいまだに慣れない。

「目閉じんな、前見ろ」
「っ……、わぁ!」

 エースの声にナマエはおそるおそる固く閉じた目を開ける。
 そこには水平線から立ち上るように広がる満天の星。夜の水面は月明かりを受けて昼間よりも柔らかく光っている。甲板では船縁やマスト、帆に遮られてしまう空が鯨の頭の上ではすっきりと見渡せた。
 白塗りの外装に降り立ちエースの腕がほどかれると、幻想的な光景に誘われるようにナマエの足は自然に1歩2歩と前に出た。

「すごい、きれい……」
「おれもここ気に入ってんだ」

 登って良かっただろ?、そう言って差し出されたマグカップを再び受け取り、ナマエは頷いた。エースは自分のマグカップを啜りながら舳先に向かってさらに進む。手摺がない分、少し怖いが彼女もそれについていく。遮蔽物のない鯨の頭は潮風がやや強く吹いているものの、夏特有の暖かさで寒くはなかった。
 適当なところで腰を下ろし、改めて空を見上げる。ナマエはこれまでの人生では見たことのないほどの星のきらめきにしばし放心していた。
 思いつきで誘ってみたが、こんなに感動されるとは。見晴らしがよく気持ちのいい場所だとは思うが、そんなにか。エースは彼女の横顔を眺めて意外に思っていた。

「そんなに珍しいか?」
「こんな星空を見るのは初めて……きれい、プラネタリウムみたい」
「ぷらね……? なんだそれ」
「んーと、夜空を見立てたドーム型のスクリーンに星を投影して眺める建物、っていえばいいのかな」
「へェ……わざわざ星をねェ……」

 不思議そうに呟いてエースも同じ空を見上げた。
 彼には見慣れた光景も、ナマエには新鮮に映る。この世界で目に焼き付けた様々な景色を、きっと彼女は忘れないのだろう。

「ナマエは星が見たかったのか?」
「あー、違う、波の音を聞きたかったの」

 いよいよ訳が分からないと、素っ頓狂な声でエースが「波ィ?」と聞き返してくる。

「それこそここ何日も海の上にいんだから、さすがにナマエも聞き慣れてるだろ」
「そうだけど……海の真ん中で聞く波を掻き分けて進む音と、浜辺近くで聞く寄せては返す音じゃやっぱり違うし。私には浜辺の波の音の方が懐かしい」
「懐かしいって……ナマエは港町に住んでたのか?」
「うん。小さい頃だけ。お父さんは船乗りだったし、お母さんも海辺のレストランで働いてたから」

 へェ、と柔らかい相槌が返ってくる。続きを待つように向けられたままの視線に促され、ナマエはぽつりぽつりと話し始める。

「お父さんは航海士で、海洋調査の船に乗ってたんだけど、一回海に出ると2、3ヶ月帰ってこないのがざらでさ」

 ざざん。

「お父さんがいない間は、毎日お母さんの職場についていって……お母さんの古い友達のオーナーのおばさんは、姪っ子みたいに私を可愛がってくれたなぁ」

 ざぷん。

「そのお店には海が見渡せるテラス席があってね、そこで拾ってきた貝殻を並べたり、お絵描きしたり、うたた寝したり……ずっと波の音を聞いてた」

 波の音が彼女の心を幼い日に戻していく。瞼の裏にはテラス席から飽きるほど眺めた穏やかな海が広がり、音も匂いも頬をなぞる潮風も、あの日のものと錯覚しかける。


——この海のどこかにお父さんがいるって思えば少しは寂しくなくなるでしょ?


 仕事の合間、母は一緒に海を眺めながらナマエの頭を撫でてくれた。彼女は母が作ったまかないのオムライスを頬張って、いつも父の帰りを待つのだった。

「内地寄りに住んでたおばあちゃんに引き取られてからは…、あんまり海には行ってなかったけど……やっぱりこの音好きだな」
「そうか……おれも波の音は好きだ」
「落ち着く?」
「いいや、わくわくする。新しいもんが待ってる気がすっからな」

 少年のように目を輝かせるエースに、思わず笑みがこぼれる。
 ナマエにとっては誰かの帰りを穏やかに願う波の音も、彼にとっては己を誘う旅立ちの音色らしい。

「エースらしいね」
「どうにもじっとしてるなんて性に合わねェもんで」

 そう笑う彼を隣に感じながら、ナマエは紅茶を一口含む。
 祖母はどんな人だったのかとエースが問うので、ナマエはいかに優しく温かく大好きな存在か大いに語った。
 祖母はたくさん手を握って安心をくれる人だった。だからナマエも祖母には安心をあげたくて、一生懸命だった。
 祖母を喪って、立ち尽くしてしまうくらいには。

「エースのご両親はどんな人?」
「あー……どっちももう死んだ。おれの父親は白ひげで、家族は盃を交わした兄弟二人とこの船の皆だ。それでいい」
「二人……? ルフィ君のほかにもいるの?」
「あァ……長男二人と弟一人、それがおれの兄弟。ルフィと同じで血は繋がっちゃァいねェが、おれもそいつもルフィの兄貴でな。10の時に死んじまったけどさ」

 よく笑ういいやつだったよ、とエースは白い歯を見せる。話しづらいことに触れてしまったかと一瞬ひやりとしたが、彼の表情は懐かしむように、慈しむように柔らかかった。
 亡くなった人のことを話すのは相手を困惑させることの方が多い。だからナマエは今まで両親のことも祖母のこともあまり人に話してこなかった。しかし、こうしてエースに話してみて、話して良かったなと思う。
 大好きな人の話をすると胸が温かくなるのだ。ぽっと火が灯るように。

 波の音と緩やかなテンポの会話がゆっくりと彼女の瞼を重くさせ、お互いのマグカップが空になる頃、ナマエはエースの肩にもたれてすっかり寝入ってしまっていた。