17


 おれの肩にもたれて眠ってしまったナマエは医務室にいた夜勤のナースに頼んで女部屋に連れていってもらった。もたれて眠ってしまったと言っても、夜が深まっていくにつれ、船を漕いで何度も床に倒れ込みそうになるナマエの姿に見かねて、その頭がおれの肩に傾くように引き寄せたのだけど。
 医務室までの廊下を歩きながら、おれの背中ですやすや寝息を立てるこの女はやはり貞操観念が希薄で困るなと思った。

おれの身にもなってほしい。


 日が昇り、また新しい1日が始まる。
 寝起きでも食べ物を求めて足は自然と食堂へ赴く。昨夜酒を飲んでいないおかげで幾分かすっきりと冴えた頭で今日の船番は2番隊とどこだっただろうか、と考えた。
 正直、船番は退屈で苦手だ。特に台所を仕切る4番隊が出払っている日の船番は。船に残された食材は自由に使ってもいいという取り決めになっているが、おれを含む大半のクルーが自炊をするような柄ではない。昨日のパンがまだ残っていることを切に願う。
 食堂に入ると、卵が焼けるいい匂いがした。おはようエース隊長!と一番近くにいたクルーがご機嫌な顔で挨拶をしてくる。手には香ばしく焼けたパンと1杯のコーヒー。続けてとんでくる挨拶に応じつつ座席を見渡せば、大半のやつが立派な"朝食"を食べていた。
 ……あぁ、またこいつは…………。

「おはようナマエ」
「あ、おはようエース。もうすぐパン焼き上がるよ」
「4番隊がいない日にまで働くなよ……」
「自分の朝ごはんを作るついでだよ」

 今日のコックが誰かなど、厨房を覗くまでもない。
 案の定けろりと笑ってスクランブルエッグを皿によそっているナマエに苦言を呈す――……が、おそらく効き目はないんだろう。偽善でも義務感でもなく、本当に何とも思ってないのだから。
 お人好しも考えもんだな、とため息をつきつつ厨房側に回ってトースターからパンを取り出す。おら追加のパン焼けたぞ!と食堂の野郎共に声をかければ、何人かが嬉々として顔をあげた。
 やめろと言っても聞かないのなら、仕事を奪うしかない。きょとんと俺を見上げたナマエが相好を崩して、ありがとうと言った。


***


 船番の交代の時間が近付くと、ぞろぞろと見慣れた顔がモビーに帰ってきた。手には各々酒やら食糧やらを抱えている。おれも昨日買ってくれば良かった、と船縁に頬杖をついて桟橋を見下ろしながらそう思った。
 帰ってきた面々の中にイゾウを見つけ、今日の船番の隊を察する。

「今日は戻りが早いんだな、エース」
「戻るもなにも、昨日は船に残ったからな」
「へェ…………大方理由はあそこの嬢ちゃんか?」
「……まァ、そんなとこだ」

 煙がくゆる煙管の延長線上にはナマエがいた。船縁から顔を出して帰船するクルーたちを迎えている。その無邪気な姿にイゾウが笑みを漏らした。

「本当に可愛いねェ」
「妹みてェなもんだからな」
「……妹?そりゃァ、おれらにとってか?お前さんにとってか?」
「……どっちもだろ」

 妹、そう、妹のようなやつ。
 そもそもルフィと雰囲気が似てるどうこう以前に、家族となったおれらはみんな兄弟みたいなもんだ。それはナマエだって例外じゃないはず。なのに、イゾウは意味深に聞き返してくるし、その上おれの返事を聞くなり、こりゃまた面白ェことになってやがるなァ、と煙管を咥えて笑っている。

「なに笑ってんだよイゾウ」
「おれが口を挟むのも野暮ってもんさ。――ほら、妹君が何かお困りのようだぜ旦那」
「あ?」

 再びナマエを見やると、なにやら桟橋と反対の方向を覗こうと身を乗り出している。
 さすがに落ちはしないだろうが、危なっかしい。にやついたイゾウをそのままにするのは癪だったが、おそらくその理由を聞いても教えてはくれない。
 イゾウの笑みの真相追及は潔く諦めて、おれはナマエの元へ足を向けた。

「なにしてんだ?」
「あー……あっちの方、浜辺だよね?」
「あァ……たぶんな。街とは反対だけど」

 一度桟橋に降りてしまうと岩陰に隠れて見えないが、巨大なモビーの上からならプライベートビーチのような閉鎖的な美しい浜辺が伺えた。ナマエはあれのことを言っているらしい。
 逡巡ののち、ナマエは口を開く。

「散歩してきてもいい?」
「散歩?」
「すぐ帰ってくるから、ね?」

 わくわく、きらきら。そんな形容詞が似合う顔をされたら、さすがにノーとは言いづらい。船の上にいたって暇だろうし、おれもこの後はほぼ間違いなく暇をもて余す。散策したくなる気持ちも分かる。

「いいぜ」
「やったー!ありがとう!!」

 行ってくるね!、と早速船内に駆け出そうとしたのでその腕をつかまえる。モビーの腹あたりから桟橋に伸ばされたスロープ型のタラップに向かおうとしたんだろう。普通のクルーの乗降は大抵そこからだ。

「な、なに?」
「大人しくしてろよ?」
「…………普通に降りる!!」
「つーわけで行ってくるな、イゾウ」

 おれの意図を汲み取ったナマエがおれの腕から逃れようともがいたが遅い。行ってこい、と緩く手を振るイゾウを背に、おれはナマエを肩に担いで船縁から飛び降りた。


 危ない降り方をすることない、という文句には、あっちの方が早ェと返し、一人でも平気なのに、という文句には、お前危なっかしいからと返す。
 柳のように受け流すおれの態度が気にくわないのか、ナマエは唇を尖らせたままおれの1歩先を歩いていた。おれのものより一回り小さい足跡を辿るようについていく。
 街と反対方向であるため人気はなく、辺りは微かに砂を踏みしめる音と波の音しかしなかった。

 岩陰を抜けて景色が開けると、ナマエは喜びの声をあげて波打ち際まで駆け出した。
 夏島らしいマリンブルーの遠浅な海。海底の白い砂がそのまま透けて眩しさに拍車をかけている。

「こりゃまた綺麗な海だな」
「ねーほんと!グアムかハワイみたい!」
「ぐあむ……?はわい……?どこ……」

 おれの疑問はテンションのあがったナマエの耳には届かぬまま、彼女は昨日クロエと選んだサンダルをするりと脱ぐと素足で波と砂の感触を楽しみ始めた。
 波を蹴りあげて飛沫を飛ばしてみたり、寄せる波から大袈裟に逃げてみたり、子どもか。まあ、16だし、船の上から海を眺めることには慣れても実際に海と戯れるのが久しぶりだとしたら、そんなもんなのかもしれない。
 満天の星や透き通る海。おれにとっちゃさして珍しくないものも、ナマエには未だに非日常のそれらしい。
 にこにこと楽しげなその姿はおれの心を緩ませるには十分だった。

「エースもおいでよ!」

 ふくらはぎ辺りまで海水に浸かったナマエが浜辺のおれを振り返り、無邪気に手を振る。
 思いがけない誘いに思わず目が丸くなる。

「おいおい、忘れたのか?おれは能力者、水に浸かると力抜けちまうんだって」
「あー……そっか……うぅ……じゃあ私が手繋ぐから!膝下のとこまでしか行かないから!ね?」
「お前なァ…………」

 諦めきれないナマエが珍しく食い下がる。この海をいたく気に入ったのか、この素晴らしさを五感を以て共有したいようだ。
 実際、少し足を水に浸けるくらいなら使い物にならないほど力が抜けてしまうことはない。初めてメラメラの実を食べたときだって、ある程度まで海に浸かって初めて全身の力が抜けたのだ。おれの経験則からいって、膝下くらいの深さなら問題はないだろう。が、モビーから離れたこんな場所で不用意に能力者が海に入るのも如何なものか。
 そう頭では冷静に考える一方で、ナマエのお願いを聞いてやりたいという衝動に駆られたのも事実。昨夜、話し相手として付き合ってほしいと言われたときもそうだ。自分から頼み事やわがままを言わないナマエが、おれに対してはそういったものをぶつけてくれる。
 叶えてやりたくなるのが人情ってもんじゃねェのか。

 どうすっかなァと何気なくモビーを振り返ると、船縁に頬杖をついてこちらを眺めるイゾウと目が合った。
 ……ずっと見てやがったのか。悪趣味な野郎だ。
 眉間に皺を寄せるおれの視線にイゾウは呑気に手を振って応え、この距離でナマエとの会話が聞こえていたとは到底思えないが、早く行けとでも言うように顎をしゃくった。

 ……ま、隊長格の男があそこで見てるんだ。もしものときはどうにかしてくれるだろう。
 どちらかと言えばおれは"楽観的"に分類される男である。

「……しゃあねェな」
「いいの?やったぁ!」

 ブーツを浜辺に脱ぎ捨て、ナマエがいる波打ち際に近付いていくと胸がわくわくと疼いた。
 当然ながら、能力者をわざわざ海に誘うやつなんていないし、娯楽として自発的に海に入ることもない。悪魔の実が存在しない異世界の人間だからこそできる発想のお誘いだ。
 足が海水に浸る。波のリズムに合わせて足の指の間から逃げていく砂がくすぐったい。ぱしゃぱしゃと波を蹴っておれを迎えにきたナマエが躊躇いなく手を差し出した。
 つい昨日、スキンシップには慣れていないと言ったのはどこのどいつだっただろうか。頭の中でそんなことを思いながらも素直にその手をとった。

 能力者は海に嫌われてカナヅチになる。
 それは能力の代価として与えられた永遠の呪い。
 久しぶりの海はやはりおれを嫌って触れた場所からじんわりと力を奪っていくが、ナマエはおれを支えるようにぎゅぅっと手を握っていてくれた。

 おれの手にすっぽりと納まってしまう華奢な手。
それでも、心強かった。

「やっぱり力抜ける?」
「ちっとな。でも立って歩けねェほどじゃねェ」
「無理に付き合わせてごめんね」

 別に無理にじゃねェから謝んな、と眉の下がったナマエに笑いかけてやる。

「わざわざ手繋いでまで一緒がいいとは、ナマエは結構寂しがり屋なんだな」
「そんなことない……と思うけど、一人ではしゃいでるのもなんかアレじゃん。折角一緒に来たのに」
「……これがマルコだったら誘ったか?」

 斜め下の水面を見つめているナマエのつむじにそんな言葉を落とした。ナマエが頭をもたげてぱちくりと瞬く。

「いや、マルコさん誘うのは恐れ多いでしょ……」
「じゃあサッチ」
「サッチさんだったら、うーん、誘わなくても一緒に入ってきそう」
「だったらあの若い航海士は」
「航海士?」
「海図の読み方教えるとか言ってた野郎だ」
「えー……もう、さっきからなに?」

 変なの、と笑う。

――……"おれだけ"って言わせたかったのかもしれない。

 そう気付いて、なんとなくだよ、と誤魔化した。
 気恥ずかしくて逸らした視線の先には魚が泳いでいた。

「お、魚」
「え?どこ?」
「ほらあそこ。捕まえて食うか!」
「ちょ、ちょっ……!転ぶから!」

 ナマエの手をつかんだまま魚の元へ忍び寄ってみたが、魚はするりと沖へ逃げてしまった。あーあ、と見送れば今度はナマエがあそこにもいる!と声をあげた。
 次は逃がすまいと、二人で慎重に近付く。

「あと少し……」
「おう……ッくしょん!!」
「あっ!!」

 おれのくしゃみに驚いて、またもや魚影がぴゅっと遠ざかった。

「タイミング悪っ!!」
「我慢できなかったわ」

 悪ィな、とポーズだけ決めて謝れば、ナマエはやや膨れた面で仕方ないなぁとすでに次の魚を探している。

 意外とこういう馬鹿なことに付き合って一緒に楽しんでくれるんだよなァ、こいつ。
 おれにとっては、ナマエが騒ぐような星だの海だの魚だのよりもナマエの方が珍しくて面白ェんだけど。

 魚も探さずに目を細めていたらナマエに叱られてしまった。
 二人してあっちだこっちだと足元ばかりを見つめて魚を追っていて、背後のそれに気付かなかった。

「うおっ!!??」
「きゃ!!!??」

 おれの背中半ばくらいまで覆う高めの波を二人してまんまとかぶったのだった。

 波の勢いに押されるがまま、おれもナマエも体勢を崩す。
 自分の身体から力が抜けていくのが分かった。立っていられない、海はおれを拒絶して木偶の坊にする。
 離せばいいものを、おれの手を握ったままだったナマエはおれと一緒に尻餅をついた。
 波は過ぎ去り、再び穏やかな浜辺に戻る。さざ波だけがそ知らぬ顔でおれたちの服を穏やかに揺らしている。
 お互い身体を海水に浸したまま、呆然と顔を見合わせた。

「…………」
「…………」
「…………ぷっ」
「…………くくっ」
「やられたね」
「あァ、派手にやられたな」
「あははは!!」
「だーっはっはっは!!」

 二人揃って魚を追って波に呑まれて全身びしょ濡れ。
 あまりにも間抜けで、滑稽で、馬鹿馬鹿しくて、笑いが止まらなかった。
 一頻り笑うと繋いだままの手を促すように軽く引きながら、ナマエがようやく海水から腰を上げた。
 その姿が目の前に晒され、素直な感想がこぼれる。

「ほー……これはなかなかそそるな」
「……?」
「透けてる」
「……!!!!ばっっ……!!見ないでよスケベ!!!!」
「いってェ!!!」

 透けたへそあたりを指差したら思いっきり脛を蹴られた。海の中ってのは炎に姿を変える反射もろくにできなくて不便だ。
 ナマエの蹴りで簡単にぐらりとよろめくおれの手をナマエが再び慌てて引っ張り、なんとか体勢を戻す。
 辛うじて腕で上体を支えてはいるが駄目だ、一度脱力してしまうと立ち上がることすら容易でない。

「エース重たい!!」
「仕方ねェだろ、おれは能力者だぞ。あー力入んねェ、ナマエがんばれー」
「もー!!」

 しおらしく海底に尻をつけている理由は、無理だと諦めてるのが半分、ナマエがわーわー騒ぎながら脱力したおれを引っ張りあげようとしてる姿が面白くて、もう少しほっといてみようかなという好奇心が半分。
 わはは、と笑いが止まらないので、もしかしたら後者が7割かもしれない。

 魚も捕まらない、パンツを含めて着替え必須、肌は潮と砂で気持ち悪い。
 端から見れば散々なのになぜだか楽しくて仕方なかった。


***


「……あれはなんだい。イゾウくん」
「若ェもんがイチャついてるだけさ」
「眩しい……サングラス持ってねェ?」
「あいにく」

 砂吐くわ!!とトレードマークのリーゼントを掻き乱さんとするサッチの横でイゾウがゲラゲラと笑った。イゾウが浜辺を向いていた身体を反転させる。そして、悠々と船縁に肘をかけ紫煙を吐きながらサッチに問うた。

「サッチ、お前さんなんでまた船に?今日は当番の日じゃねェだろう」
「あ?街で会ったやつに、エースが珍しく船に残ってたって聞いたからよ。食糧庫なァーんも残ってねェんじゃないかと思って」

 サッチが親指でさした桟橋では確かに4番隊の数名のクルーが追加の食糧を積み込んでいた。合点がいったという様子でイゾウは流し目でそれを見やる。

「本日のお当番の隊長様はなんであんなとこで楽しいことしちゃってんの」
「たまにゃァ年相応に楽しませたっていいだろ」
「それがあのデート?」
「エースはちぃとばかし、生き急ぎすぎだ」

 エースは17歳で海へ出て、ルーキーとして躍り出たかと思えば七武海の誘いを蹴って白ひげの首を狙いに来た。このモビーへ転がり込んだ時、己の名を世界中に知らしめてやるのだと野心を燃やすエースは獰猛な獣そのものだった。実力とセンスは十二分だったが、何かに急き立てられるようにがむしゃらに己の道を突き進んできたその姿は焦げ付くような痛々しさを伴っていた。
 オヤジと盃を交わしてずいぶんとマシになった。が、こうも周りを囲む連中が粗野なゴロツキばかりでは、未だ埋められない部分は大きい。
 イゾウの言葉にサッチがふむ、と頷く。

「なァ、もひとつ面白ェこと教えてやろうか」
「なによ?」
「あいつにとってナマエは"妹"なんだとよ」
「……はああァァァん??どの面下げてェ???」

 船縁から身を乗り出し、エースの柔らかく緩んだ顔を少しでも鮮明にとらえようとサッチは眉の上に水平に手を翳して目を凝らした。その大袈裟な所作が再びイゾウの笑い声を呼ぶ。

「いやァ、若いってこわいね」

 まったくだ、と吐き出された煙は青空に消えた。