18


 初めて、または久しく訪れていない海域に踏み入れる際は偵察というものが大切らしい。海軍や敵船の手を掻い潜り、食糧調達の見通しをきちんと立てるための事前情報はとても重大な意味をもつ。
 モビーディック号の出港は、数日前に一足先に情報収集の遠征に出た分艦と沖で合流ののちと決まった。

 陸を楽しんだクルーたちが戻ってきた船上はいつもの賑やかさに包まれつつあった。医務室でクロエさんを見つけ、私は数日言いそびれていたお詫びをしに駆け寄る。
 おかえりなさい、それからこないだは、と口を開いたが、どこのお店が美味しかっただのこのグロスの色が可愛かっただのいい男がたくさんいただの、会話の主導権はあっさりクロエさんのものになってしまった。しまいには可愛らしくラッピングされたお菓子や化粧品をお土産として渡され両手が埋まる。
 あの日の私の行動をまったく気にしていない様子のクロエさんに話を蒸し返して謝罪するのも迷惑だろうかと思案したとき、クロエさんはそうそう、と思い出したように声を上げた。

「エース隊長とのデートは楽しかった?」
「えっ」

 違う角度で帰ってきた本題に意表をつかれる。
 私の動揺を察したクロエさんの口元がきれいな弧を描く。

「あのあとちゃんとエース隊長があの変な男は追い払ってくれたんでしょ?」
「えぇまぁ……」
「で、そのあとのデートは?」
「デートというか、ただのご飯屋さん巡りを……」
「それをデートっていうのよ!」

 詳しく聞かせなさい、とクロエさんにするりと腰をホールドされ、私の逃げ場はなくなった。

「実際、ピンチのときに必ず現れてくれる男ってかっこいいと思わない?」

 耳元で楽しげに囁かれたクロエさんのその言葉に、記憶の中の色んなエースの顔が浮かんだ。確かにエースは私が窮した状況のときに必ず居てくれる。チンピラに絡まれたときも、船を降りようとしたときも。
 恩着せがましいことも言わず、真夏の太陽のようにからりと笑う。

「…………それは、まぁ……」

 かっこいい、ですよね。
 耳がじんわり熱くなる気配を感じつつ、一般論としての体を装って答えようとしたその時、プルプルプル 、とこちらの世界の珍妙なカタツムリが鳴いた。電伝虫と呼ばれてたっけ。
 いいところなのに、と不満げに頬を膨らませたクロエさんが受話器を取る。

「はい、こちらモビーディッ……」

「良かった、通じた……!!こちら分艦ライリー号!!モビーディック号医療班に告ぐ!!あと20分程で帰艦予定、負傷者多数、大至急治療の準備を!!!!」

 切迫した悲痛な声が医務室に響き渡った。
 電伝虫は通話者の苦痛と焦燥に歪んだ顔を念波で受信している。
 クロエさんの表情が変わり、テキパキと確認すべき事項を電伝虫の傍に置かれたメモ紙に書き付けていく。私はただならぬ雰囲気に動揺する頭で漏れ聞こえるワードを懸命に拾った。

負傷者多数……
砲撃、出血多量、意識なし患者、オペ…………

 通話を終えたクロエさんがばたばたと慌ただしく動き出す。

「ナマエ、ありったけの包帯とガーゼと輸血パックを持ってきて。あとすぐに使える病床の数の確認。50なければ用意してちょうだい」
「は、はい!!」

 クロエさんは船内放送用の電伝虫の受話器を取って、音量を最大にあげた。


「船内全クルーに告ぐ!!帰艦予定のライリー号が敵襲に遭い、負傷者多数の被害!約20分で帰艦、医療班は大至急持ち場へ、手の空いてるクルーは迎船の準備を!!!!」


***


 すぐに医務室に集まった船医とナースたちは手際よく治療の準備を整えた。私もクロエさんから言いつけられた医療品の用意や病床の準備で駆け回り、告げられた20分などあっという間に過ぎ去った。
 甲板が騒がしくなり、帰艦したクルーたちが担架や仲間の肩に担がれて治療室へ運び込まれる。

 想像を遥かに越えるその痛ましい姿に私は息を呑んだ。

 強烈な鉄と硝煙の臭い。全身を染める赤と、痛みに呻く声。
 鼻に目に耳に、嫌でも刻まれるそれらが私の脚を震えさせた。

 停止しかけた思考は、ぐっとお腹あたりに押し付けられた救急箱の固い感触で引き戻された。はっ、と知らぬうちに浅く止まりかけていた呼吸を取り戻して顔をあげると、クロエさんが凛とした声で私に告げる。

「落ち着きなさい」
「クロエ、さん……」
「ナマエ、簡単な手当てならできるわね?表で待たせてる軽症なクルーたちの手当てをお願い。指示はその場のナースに従いなさい」
「わ、わたし、」
「大丈夫」

 クロエさんは喝を入れるように私の両頬をぴしゃりとその両手で包んだ。


「今は自分に出来ることを、精一杯やりなさい」


 私に出来ること――……救急箱を強く抱え直して私は頷き、すくむ身体を叱咤して私は甲板に出た。
 軽症とは言え、その場に座り込むクルーたちの傷も相当なものだった。
 先に手当てに奔走していたナースに合流し、これまでに教えてもらった症状の判断、消毒法、包帯の巻き方、患部の固定の仕方などを駆使して私もなんとか動き回る。

 私は終始唇を噛んでいた。
 手当てを受けたクルーたちはすまない、ありがとうと言葉を掛けてくれたが、私はいいえ、と声を絞り出すのが精一杯だった。



 治療も一段落つき、私は補充用の医療品箱を抱えて船内の廊下を歩いていた。負傷したクルーたちは全員適切な処置を受けて、命に別状はないとクロエさんから聞いた。
 廊下の角を曲がり、周りに誰もいないことを確認して鳩尾の真ん中に居座り続ける冷たい不快感に私はしゃがみこむ。

「こわ、かった」

 ため息に同化して転がり落ちた本音は古い板目に染み込んだ。
 ここは生々しい死と隣り合わせの世界で、この船はそれが日常なのだと思い知った。ここに来てから私は幸いにもそういったものに直面しなかっただけなのだと。
 昨日まで話していたクルーと二度と会えなくなる可能性が十二分にあるという事実が脳裏を過り、ぎゅっと目を瞑る。
 不意に武器庫の方が騒がしいことに気付く。耳を澄ませてみれば、金属ががちゃがちゃと擦れ合う音と火薬庫も見てこいというクルーの声。
 はっと息を呑み、私は抱えていた医療品箱をその場に置き去りにして縺れる足で甲板へ駆け出した。


「奴さんがどんな手を考えてるかは知らねェが、手加減は要らねェよなマルコ」
「ああ、オヤジも存分に暴れてこいだとよい」
「ったく、旗印が見えなかったわけねェだろうに身の程知らずもいいとこだぜ」

 私が開け放った扉の勢いに甲板のクルーが数人こちらを見た。ひどく慌てた様子の私にどうしたんだ、と心配そうな声もいくつか飛んできたが、あいにく構っていられなかった。案の定、甲板に集まっていた隊長たちの姿に釘付けになったまま、私はよろよろと歩を進める。


私はこれから彼らになにを言う気なんだろう。
行かないで?戦わないで?死なないで?
命の応酬すら当たり前の世界を生きる彼らに、そんなことを言うのはお門違いも甚だしいのではないか。

 頭の片隅から至極冷静な意見が聞こえる。

分かってる、分かってるけど。


「……ナマエ?」
「おうおう、顔が真っ青じゃねェか」

 エースとイゾウさんが最初に私に気付く。
 なにか喋ろうと吸い込んだ空気はうまく肺に入らず、喉がひきつった。

「――……ナマエ、心配すんな。ちゃんと戻ってくるよい」

 ゆっくりと振り返ったマルコさんが私の心境を見透かしてそんな言葉を掛けてくれた。心中の不安を言い当てられて泣きそうになるのをなんとか堪えようとして、情けなくもようやく声が出た。

「行くん、ですか」
「仕掛けられたからには黙っていられねェよい」
「…………」
「うちは無闇に戦いを吹っ掛けるような船じゃねェが、手ェ出されたら容赦しない。ナワバリを張ってる以上、おれらはこの海じゃ絶対に折れちゃいけない旗のひとつだからねい」

 私が納得できるように選ばれたマルコさんの言葉はちゃんと頭に届いたが、心にまではなかなか到達しない。理解と納得が一致せず、ちぐはぐな感情が私の顔を未だ曇らせる。
 イゾウさんがため息とともにナマエ、と声をかけた。

「心配するこたァねェさ。おれもマルコもエースもそこいらの賊にゃ負けねェ」
「そうだ!すぐに片付けて帰ってくるから大人しく待ってろ」

 いつもの調子で、な?と笑いかけるエースに上手く笑い返せない。周りからあがる賛同と大丈夫だと太鼓判を押す声は、彼らが今までその言葉通り無事に帰ってきたことを裏付けていたが、視界は水っぽくなるばかりで、私はそれがバレないように少し俯く。

人なんて呆気なく死ぬ。私の悲しい経験則だ。

 そんなことを口にするほど子供ではない、と思うものの、慰めるような言葉をこれだけ投げ掛けられてしまっては、今の私が立派に子供じみているのは明白だ。
 嫌だ、行かないで、と泣きわめいた方がよっぽど扱いやすいのかもしれない。
 分かりました、ちゃんと怪我せずに帰ってきてくださいね、と笑えたらどれだけいいのだろう。
 どちらに転がることもできず、押し黙ってしまった私を前に、どうするよ、とイゾウさんがエースをつつく気配をつむじで感じる。
 困らせてる、ごめんなさい。

「あー……まァ、ナマエが信用なんねェってのも分かるさ。おれたちがドンパチやってるとこなんか見たことねェもんな」
「信用してないわけじゃ…ない……けど…………」

 体つきだけ見たって、戦闘に長けているのはよく分かる。たまに甲板で見掛ける訓練と称して拳を交えてる姿だって十分物騒だ。
 エースがぎこちなく話し続ける。

「しかもあれだ、ナマエのいた世界にゃ海賊なんていねェって話だし、こう、血の気が多いのは慣れねェよな」
「…………」
「でもよ、本当に安心して待ってていい。おれたちはちゃんと帰ってくる」
「…………うん」

 これ以上の駄々はさすがに、と思って私は形だけの首肯を見せる。
 気まずく流れる沈黙ののち、エースが心底じれったい様子でわなわなと震えた。

「……ッダーーーーー!!」
「きゃぁっ!?」

 突然エースが私の頭を乱暴にぐしゃぐしゃと掻き撫でる。その勢いに振り回され、視界がぐらぐらと揺れた。
 なに、なんだ、やめろ、首が痛い!!

「めそめそすんな!!」
「ちょっ……!!やめっ、」
「納得いってねェのに物分かりのいいふりしやがって!!」
「エース……っ!待っ……!!」
「何が腑に落ちねェのか言え!!」
「わ、分かった!分かったからもうやめて!!」
「分かった!?本当だな!?」

 私の髪を鳥の巣にしたエースの両腕がぴたりと止まる。助かった、とばかりに顔をあげれば、不機嫌に口をへの字に曲げたエースと目が合った。

「おれたちは海賊で、戦闘なんて慣れっこだ。弱けりゃ失う、だから戦う。おれらは命懸けてこの海にいんだ」

 エースたちにはエースたちの道理があり、曲げられない信念がある。危険な場所に敢えて赴くのはただの死にたがりや命知らずの暴挙ではない。
 自分なりの言葉で自分たちの生き方を真剣に説いてくれたエースに、私も私なりの言葉で思っていることを吐き出さねばと思った。

「……私は……みんなが大事だから心配になる……いくら強くてもさっきみたいな怪我をしてこないなんて言い切れないでしょ……? ――……家族を失うのは、もうやだよ」
「ナマエ……」

 私の言い分を聞いたエースは、唸りながら髪をがしがしと掻いた。どうしたもんかと頭をひねったエースが、あっ、と声を漏らした。思い出したようにハーフパンツのポケットをまさぐって、なにかを握った拳をこちらへ突き出したので、私もおそるおそる手のひらを出す。

「これやる!」

 やや満足げなエースの声とともに渡されたのは、小さな紙きれだった。

「…………ゴミ?」
「ちげェ!おれのビブルカードだ!この紙が、おれが生きてるって証だ!!」

 腰に手を当てたエースが己の胸を、心臓のあたりをとんと親指で指す。
 ビブルカード。聞き慣れない単語だ。
 まじまじとビブルカードなるものをつまみ上げて眺めてみるが、なんの変哲もないこの紙がエースが生きてる証になる、とは一体どういうことなのかさっぱりである。

「私のことばかにしてる……?」
「してねェって……」

 紙きれから視線をずらして訝しげに訊ねる私にエースが呆れたようにため息をついた。私とエースのやりとりを静かに見守っていた周りのクルーからもようやくけらけらと笑いがこぼれる。
 エースの話によれば、これは別名、命の紙。紙の状態は持ち主の生命力と比例しており、その命が危険な状態にあるときは焼け焦げるように小さくなるらしい。平らにした掌に乗せたそれは、エースの方へずず、と這った。無事が分かるだけでなく大まかな居場所まで教えてくれるとは、なんて便利な代物なんだろう。

「ナマエの心配はありがてェし、受けとるよ。それでもおれたちは船を出す。ビブルカードが気休めにしかなんねェのは分かっちゃいるが、どうか信じてくれ」

 エースが私を見つめた。
 その淀みのない言葉に私も深く息を吸い込んで、喉元に溜まった不安を腹に納める。

「……うん、信じる」

 微かに動くビブルカードを包むように掌に納め、今度こそ私は首肯した。
 ――この人が、自分を信じろと言っているのだ。
 ふっと微笑んだエースが、良い子だ、と先ほど乱した髪を整えるように優しく撫でる。いつもなら気恥ずかしさが先行して避けようとしてしまうこの仕草も、このときばかりは素直に受け入れた。エースの確かな温度を感じていたいという気持ちが勝っていたから。

「お二人さん、そろそろいいかい?船の準備ができたよい」
「おう!!じゃあな、ナマエ。行ってくる!」

 ぱっと離れたエースの手が少し名残惜しくて、屈託もなく笑うその顔を精一杯目に焼き付ける。


この人は決して私を見捨てたり置いていったりしない。
このままお別れなどありえない。


 私は心の中でそっと唱えて、彼らの船出を見守った。