20


 今日は久しぶりに仕事が少ない日だった。
 もとい、仕事が回ってこない日だった。


「いーーって!!ナマエちゃんはしばらくお休みだ!!」
「え、なん……どういう……」
「マルコたちが出払ってる間、ナマエちゃんえらく不安そうにしてただろ?」
「えっ、あ、やっぱりそう見えてましたか……」
「そうさ!!隙さえありゃァエースのビブルカード眺めて……」
「ああ、おれはその姿にちょっと泣きかけたぜ」
「ああああそれは忘れてください!!」
「そんな中でもテキパキ一生懸命働いてくれててよ……だからあいつらも無事帰って来たことだし、ナマエちゃんは今日くらい休めってわけだ!」

 とまぁ、どこに行ってもこんな感じ。
 朝食の給仕のお手伝いの後、仕事はひとつも舞い込んでこず、おかしいなと思って自分から出向いたらこうだった。
 ばしんと叩かれた肩をさすりつつ、船大工さんたちの工房もあとにする。
 一番紛れ込みやすい甲板掃除もあいにく本日の担当は2番隊。日頃から私の働きすぎを唱える隊長様からのお達しでここも断られてしまった。

 みんな優しい。そして押しが強い。
 不安な気持ちはみんなも同じだったはずだから私だけ休むなんて、と言いかけても必ず「いいって!」と遮られて最後まで言わせてくれる人はいなかった。

「……それなら観念して今日はその好意に甘えようかな」

 なにをするかなぁ。
 マルコさんやミハールさんから借りた本でも読むか、それとも贅沢に二度寝か……この間誘われたビスタさんたちのポーカーに混ぜてもらうのも楽しそうだな。

「……あ、そうだ」

 長く伸びるモビーディック号の廊下を何気なく眺めて、思いついた。むくりと湧いた好奇心が私の口角を持ち上げる。
 この船、広すぎて行ったことない場所まだまだいっぱいあるのだ――……そう、船内探検!
 昼食の給仕を手伝うにしても時間はたっぷりある。案内してもらった方が早く終わるだろうが、探検とはそういうものじゃない。一人で未知を開拓するところに魅力がある。
 踏み出した一歩目はなんとも軽やかだった。


***


 モビーディック号に来た初めての日、だいたいの部屋はエースが案内してくれた。雑用を任される度に覚えた部屋もあるけれど、この船にはまだまだ未踏の地が多い。
 いつもは素通りする梯子を下りて進み、たまにすれ違うクルーから珍しいな、なんて声を掛けられる。非番なので、と微笑んで会釈する私の気分はさながら冒険家のそれである。
 ガヤガヤと声が漏れ出ている部屋もあれば、なにやら低く機械音が唸る部屋もあった。通路かと思って開いた先がトイレで慌てて閉めたことも。これだけ広ければトイレも点在させないとまずいよね、そうだそうだ。


 だいぶ奥に進んだと思う。自分がモビーディック号のお腹のどの辺りにいるのか正直もう分からない。
 それでも、帰り道は誰かに聞けばいいやと楽天的になれるのは、私がこの船に馴染んだ証だろう。
 ひょいと覗いた曲がり角の先は一層薄暗かった。天井に吊るされたランプは油切れでところどころ灯りが点いておらず、廊下はしんと静まりかえっている。

日中のモビーディック号にもこんな場所があるなんて。
少し怖い気もするけど、やっぱりわくわくしちゃうじゃん……!

 人の気配があるエリアを過ぎ、この辺りは物置や倉庫スペースに近いんだろうなと推測しつつ、廊下に乱雑に置かれた樽やら木箱やらをそろりそろりと避けて進む。
 不意に廊下の丸窓がガタガタと鳴り、思わずびくっと歩みを止めてそちらを見た。

「風つよ……てか、ものすごく天気悪くなってる…朝は晴れてたはずなのになぁ……」

 空を覆うどんよりと黒く重たい雲が窓から見えた。まるで夕立のような天気の変わりようだ。これがグランドラインの天気というやつか。やや感心しながら探索を再開する。

「ここは……資料室?」

 ゆっくりと押し開いた扉の先は、本で溢れた部屋だった。立て付けの悪い扉はギィと大袈裟に鳴いた。壁の大半は本棚で埋まり、明かり取りの丸窓をいくつか塞いで他の部屋よりもずっと薄暗い。
 ほぉ、と棚から本を1冊取り出してみると、厚く積もった埃が舞った。かなりの間、人の立ち入りがなかったらしい。場所も場所だし当然か、と納得しながら適当にページを開いて、どうやらこれが航海日誌であると知る。
 海軍の軍艦を何隻沈めただの、ナワバリの島がどれだけ増えただの。荒々しく書き付けられた戦果の数々、これはこの白ひげ海賊団が頭角を現し始めた頃の日誌だ。
 歴史だなぁ……。感嘆の息を漏らしてほかの本棚を見やったとき。

「ひっ!?」

 鋭い閃光の直後、つんざくような轟音が船を底から揺らした。

「か、雷、……!?めちゃめちゃ近くなかった……!?」

 そんなに天気荒れてたっけ!?
 曇天を認めてから10分も経っていないはず。まさかね、と疑いながら丸窓に近付くと、再び雷鳴が響いた。
 反射的に瞑った目をおそるおそる開ける。
 窓の外は――……

「これは……まさに、嵐……」

 大荒れだった。
 先程よりも濃くなった雲のねずみ色。横殴りの雨は容赦なく船体を打ち、波は荒々しくうねっていた。その上、雷は数十秒に1度のペースに変わっている。
 夕立なんて例えでは足りない。天変地異でしょこんなの……それがこの海の恐ろしさの真髄か。いつもは揺れなど感じないこの巨大な船も、嵐に揉まれて不穏に揺れている。モビーディック号に乗って初めて船酔いしそうだ。

まずいか?
これは一旦みんなのところに戻った方がいいかもしれない。

 背筋を這いのぼる悪寒にいそいそと日誌を本棚に戻して扉へ向かおうとしたら、なんとタイミングの悪いことか。
 転覆せん勢いで船が一段と大きく傾いた。

「えっ!?うわ、ちょっ……!」

 再び轟く雷鳴とガラガラと物が倒れる派手な音。バランスを崩して床に倒れ込んだ私は、頭上から容赦なく降ってくる大量の本たちから必死に頭を守った。
 幾分か揺れが収まり、私は呻きながら本の山から抜け出す。
 本棚が倒れてこなくて本当に良かった……。埃やば、うーーもう早くみんなのとこ戻ろう!本の片付けはまた後にする!!
 涙目になりながらドアノブに飛び付いて、え、と乾いた声が漏れた。冷や汗が伝う。

「う、嘘でしょ、」

 扉が開かない。
 焦ってドアノブをガチャガチャと回して全身全霊で扉を押してみるがびくともしない。辛うじて開いた扉の隙間から散乱した樽や木箱などが見え、最悪のシナリオに心拍数があがる。どうやら廊下に積み上げられていた荷物が崩れたらしい。

「だっ、誰か!!いませんか!?あのー!!誰か……!!」

 雷鳴と船を穿つ雨音に掻き消されぬよう精一杯声を張り上げて扉をドンドンと叩くが、返ってくる声は案の定ない。喉と拳が痛くなってきたところで、私はずるずるとその場にしゃがみこんだ。
 耳元に心臓が移動してきたのかと思うほど、自分の脈がどくどくと大きく聞こえる。


 この猛烈な嵐を乗り越えるためにクルー総動員で慌ただしく駆け回っているはず。そんな中で私ひとりが居ないことになんて、誰が気付く?
 そもそも私は誰かに行き先を告げるどころか、船内探検をしてくるとすら公言していない。なにが非番ですので、だ。ばかばかばか私のアホンダラ……!
 加えて、ここは人が滅多に来ないであろう場所。積もった埃の厚さが数日どころの話ではないことを物語っている。ここに来る道中だって途中から誰ともすれ違わなかった。
 誰かが私の不在に気付いて、さらにここに辿り着くまでに要する時間は……


「………………」


あ、詰んだ?

 がばっと顔をあげ、私は部屋をぐるりと見回す。
 どこかに通気孔があるかもしれない。別の部屋に繋がる梯子だとか。この部屋の出口がこの扉だけとは限らない。
 弱音を吐くな、おばあちゃんが天国から見てるぞ!異世界だけど!!
 手の甲で目尻をぐいっと拭い、私は部屋を隈無く調べはじめた。



はい、無理でした。

 ものの数十分で撃沈。出口はやはりこの扉ひとつきりだったし、扉を破れるような道具もなかった。あるのは本棚と大量の日誌と部屋の隅に丸まった海図たち。あと埃。
 私は開かぬ扉に背を預けて膝を抱える。ビカビカと光る丸窓、嵐はまだまだ収まりそうにない。

「お父さん、お母さん……おばあちゃん〜…………」

 膝を抱える腕にぎゅっと力が入る。
 そのうち誰か来てくれる、と己を励ましても効果は薄っぺらい。どう足掻いても、心細い。私はここで誰にも見つけてもらえず飢え死にしてしまうんだろうか。

「…………エース……」

 ぽろりと口から零れたそれは、ピンチのときに必ず現れてくれる男の名前。
 だが、今回はそうもいかないらしい。
 それもそうだ、ピンチのときに必ず現れてくれると言っても毎回もともと一緒に行動していたのだから。連れが居なくなったから面倒見のいい彼は探しに来てくれて、そしてその度に私がトラブルに巻き込まれていたというだけ。私が勝手にピンチに陥っているだけ。そう、今回も。
 紐解いてみれば、なんてことはない。
 クロエさん、エースは確かにかっこいいけど、本当に面倒見がいいだけなんだと思うよ。弟のルフィ君に似てるって言われたし。スキンシップが多いのは単純にそういう文化というか。

「…………落ち込んできた、やめよう」

 なにかないかとポケットをまさぐって出てきたのはエースのビブルカードが入った小瓶だった。
 小瓶を握りしめ、深くため息をつく。膝におでこをつけて、這い寄る不安から少しでも逃げるように私は身を縮めた。
 瞼の裏に浮かぶ白ひげ海賊団の面々。一番多く色濃く浮かぶのは、やはりエースの顔だった。からりと笑うその顔に、自分がいかに彼を頼っているのか思い知り、情けない、と自嘲した。

 船が揺れる。床や壁が不気味な音で軋む。丸窓が雷の閃光で明滅を繰り返す。
 恐ろしいほど時間がゆっくりと過ぎていくように感じた。


「――……え、」

 激しい雨音の合間に、ドタドタと駆け回る足音が微かに聞こえた気がした。
 まさか、と思いながらも顔を上げて必死に耳を澄ます。


「おーい!!どこだ!?」


「いたら返事しろ!」



「ナマエ!!!!」



エースだ、



「っ、エース!!ここ!!ここにいるよ!!」



 ありったけの力で扉を叩き、声を張り上げる。
 気付いて、お願い。

「……!?ナマエ!!?いるのか!?」
「エース!エース!!」
「どこだよ!!」
「廊下の一番奥!!助けて!!」

 幸いにも、エースの声と足音が私の声を頼りに慌ただしく近づいてくる。

「ここか!?ナマエ!!」
「良かったぁ…!!扉開かなくて……!!」

 なんだこれ、ひでェな、と廊下に散乱した荷物を見たであろうエースが苦々しくそう吐き捨てるのが聞こえた。
 この壁一枚向こうにエースがいる。そう分かっただけで涙が出るほど安心してしまう。
 ガタガタと荷物を動かす音が聞こえたのも束の間、エースの苛立ちがこれでもかと詰まった舌打ちが続いた。

「ナマエ!扉から目一杯離れとけ!!」
「……え、え?なんで……?」
「ぶち破る!!」
「はぁ!?」
「離れたか!?」
「えっ、ちょっと待って……!!」

 ぶち破るって、本当にぶち破る気なのか。扉を?壁を?でもエースならやりかねない。
 顔は見えないが相当キていらっしゃるのを肌で感じ、散らばった日誌を踏まないように気を付けながらわたわたと扉から一番離れた壁に張り付く。混乱しつつも、離れたよ!!と大声で返したのとほぼ同時だった。


「火拳!!!!」


 息もできないほどの熱波。圧倒的な熱量が部屋を一挙に照らし、目が眩む。
 うねるような業火が、扉ごと壁を吹き飛ばしたのだった。
 我が身を守るように咄嗟に顔の前で交差させた腕の隙間から、慌てた様子で部屋に飛び込んでくるエースの姿が見えた。右腕の炎を仕舞いきることも忘れ、きょろきょろと部屋を見回した彼は、私を視界に捉えると大股で近づいてきた。

 そして、一も二もなく、その両腕にぎゅうと私を納めた。


「……!?エース……!?」

 密着したエースの熱い肌に心臓が跳ね上がる。
 一分の隙間も許さぬように抱きすくめられ、身動きひとつ取れない。
 私をすっぽりと包み込んだその力強い両腕には、欠片も取りこぼすまいとするような懸命さがあり、とてもじゃないけど振り払えなかった。私は困惑しながらも大人しくエースの熱を受け入れた。


「…………ッ、良かった……!!」


 絞り出すような焦燥しきったエースの声が鼓膜を揺らした。エースのこんな声を聞くのは初めてだ。
 彼の腕にまた力が入る。

「おれァてっきりナマエが海に落ちたんじゃねェかって……海ん中じゃ、おれはお前を助けられねェ……!!」

 良かった、と噛み締めるように呟く。
 合わさったエースの肌は珍しく汗ばみ、ダイレクトに伝わる鼓動はいやに速い。

 エースのすべてが物語っていた。


 私の身を案じて、必死に船内を駆け回って探してくれていたのだと。


 涙をぐっと堪え、私はエースの肩に額を押し当てた。

「勝手に船の中を歩き回ってごめんなさい…………エース、探してくれて、見つけてくれて、ありがとう……」
「……はは、どういたしまして」

 耳元でふっと緊張が解けたようにエースが笑った。ようやくエースの腕が緩まったが、離れる気配はない。
 今はそれでいいと思った。