21
エースたちが遠征から帰還した昨日は、慰労を兼ねた楽しい宴だった。
エースは好きなだけ飲み食いし、甲板でのびのびと寝落ちしていたところを今朝、マルコの蹴りで起こされた。風邪の心配をしたのではない。隊長招集を掛けたのにいつまで経っても彼が現れなかったからである。
このまま昼まで寝ていられたら最高だったのに、とエースは寝癖まみれの頭で招集に顔を出し、さらにげんなりすることになる。
「ゲェ、まじか」
エースは自分のくじ運の無さを恨んだ。
遠征から帰って来て早々、彼は甲板掃除を引き当ててしまったのだ。下唇を突き出して赤い印がついた棒を筒に戻すエースの肩を「働き者で助かる」と含みをもった笑みのイゾウがぽんぽんと叩く。
だが当たってしまったものは仕方ない。エースは腹をくくって甲板に出る。隊員たちに適当に掃除場所を振り分け、仕事に当たらせる……前に一言釘を刺しておかねばなるまい。
「お前ら、ナマエが来ても手伝わせるなよ。今日の甲板掃除はおれたち2番隊の仕事だからな」
「えー! おれらもナマエちゃんも仕事したいっスよ!」
「そうだそうだ!!」
「むしろナマエちゃんの折角の好意を無下にする方が悪……」
「てめェらさっさと仕事に取りかかれ!」
四方八方からあがったブーイングを一喝すれば蜘蛛の子を散らすように隊員たちは持ち場へ駆けていった。
彼女の働きすぎはエースが一番よく知ってるのだから、自隊の仕事を手伝わせる気はさらさらない。
ため息をひとつついて、エースもデッキブラシを手に掃除を開始する。隊長といえど仕事は平等、免除制度はあいにくない。
空はまずまずの快晴。終わったら昼寝でもしたい陽気だった。
甲板掃除もあと半分ほどという頃、風向きが変わった——……雨の匂いだ。
床に落としていた視線をあげると、エースと同様に天候の変化に気付いて空を見上げ始めたクルーが何人か見受けられた。四方の空をざっと見渡せば、南の空に不吉な雲が見える。まだ遠方だし雲自体も小さいが、ここは偉大なる航路。あの雲があっという間にバケモノ級の積乱雲に化けるなるなんてよくある事だ。
エースは近くにいた隊員に、航海士の面々に天候の変化を知らせるように指示を出す。
この後の航路の選択と舵切りは航海士チームに任せるとして、間もなく訪れるであろう嵐に備え、エースたちはエースたちの役割を果たさなくてはならない。
「お前ら!! でかい嵐が来そうだ!! 甲板に出てる荷物を船内に片付けとけ!!」
「「「「了解!!」」」」
エースの号令に頼れる仲間たちがきびきびと動き出す。
彼もとりあえずこの邪魔くさいデッキブラシを船内に放り込むため駆け出した。
***
横殴りの雨と雷。予想通り、海は大時化となった。
荒れ狂う波を見極めながら右舷へ左舷へと細やかに舵を切り、モビーは嵐の中を進む。操舵は経験豊富な航海士チームがいればまず心配はない。エースたちは突然打ち上げられる海王類や障害物、避けきれない大波の撃破に勤しむ。
「エース!」
「おお、ハルタ!」
「そろそろ中へ引き上げなよ!海に落ちたってこの荒れじゃ拾ってやれないよ!!」
「そうだな、じゃあ悪ィがこっちは任せたぜ!」
もっと素直に心配すりゃいいのに。しっしっ、と犬でも追い払うような仕草をするハルタにこっそり笑いつつ、エースは彼の言葉に従って船内に入る。
濡れていた髪も服も体も、軽く炎を纏わせれば瞬時に乾く。よその状況も聞いておきたいと思い、エースが人が集まりそうな食堂に続く廊下を歩いていると、不意に船が大きく傾いた。
「いってェ……こりゃまだまだ酷くなるか?」
廊下の壁に打ち付けた肩をさすり、ずれた帽子を軽く直す。天井に吊るされたランプがギィギィと揺れていた。
食堂に入るとサッチが寸胴鍋を前にしょげている姿が見えた。心なしかトレードマークのリーゼントも下を向いている。何事か聞けば先程の揺れで、昨日の夜から仕込んでおいた特製スープが鍋ごとひっくり返っておじゃんになったとか。
「誰の腹にも入らずに全部捨てる羽目になるなんざ、料理人としちゃァ涙も止まらねェ事態だよ……ちくしょお……」
「そりゃ残念だったな……ま、モビーが飲んだと思えよ。コイツも腹減ってたのさ、きっと」
「ずいぶん行儀のなってねェ食い方だ……クラバウターマンの格好で来ればパンのひとつも付けてやるってのに……」
めそめそと力なく笑うサッチの肩を叩いてエースは慰めてやる。
そこでエースは、ふと気付いた。あれ、と思って人の多い食堂をぐるりと見回し、改めて首を傾げる。
「——……ナマエは?」
「へ……? ナマエちゃん?」
「てっきりここの手伝いしてんのかと思ってたんだが……」
「あー、朝は手伝ってもらったけどその後は知らねェよ?」
胸がざわついた。
そうか、と生返事をサッチに残してエースは食堂を出た。
「ナマエちゃん? 今日は手伝いも頼んでねェし、ここにはいねェぞ」
「たぶん今日はどこもナマエには仕事を頼んでいないはずよ。休ませようってみんなと口裏合わせてあるから……」
「ナマエさん? さァ……ここには来ていませんが」
「そういや朝飯の後から姿見てねェな。なんだ? いねェのか?」
誰に聞いてもここには来てない、見てないばかりで手応えのある回答はない。目ぼしい場所はほとんど探したが、ナマエはどこにもいなかった。
こんな荒れた天候の中、彼女はどこにいる?
焦燥感が歩調を早める。甲板への扉を開くと、先程よりも強く雨粒が襲ってきてエースは思わず顔をしかめた。
「あれ、隊長? どうしたんスか?」
「ナマエを見なかったか?」
「え、ナマエさんっスか……? あー、一度来ましたけど、隊長が手伝わせるなって言ってたんで追い返しちゃいましたよ……?」
「……そうか」
エースは苦虫を噛み潰したような表情で頷く。
船内にもいない、甲板にもいない。そうなると思い浮かぶの最悪の結末だ。
どくりと脈打った心臓が全身に冷たい血を送るようだった。
「こらエース!! 中に戻れって言っただろ!?」
エースは荒々しく飛沫をあげ、すっかり怪物と化した海原を見つめる。背中にハルタの怒号が飛ぶ。
「ちょっとエース、聞いてんのか!? おい!!」
そんなわけ、あってたまるか。嫌な予感を振り払うようにエースは拳をきつく握る。
ハルタに呼びかけにも応えず、彼は再び船内へ駆け出した。
手当たり次第にクルーに声をかけてナマエの行方を探すも、依然として欲しい答えは返ってこない。船を駆け回ってる内に、普段なら来る用事なんてなさそうな場所になってきたが、思いがけず少し前にナマエとすれ違ったというクルーを見つけた。非番なので、とだけ残してさらに廊下の奥へ進んだという。
「おーい!! どこだ!?」
こんなところ、エースだって来たことがあるか怪しいほどの場所だ。本当にこんなところにナマエはいるのか。
拭いきれぬ疑念と不安を胸に抱きつつもエースは叫び続けた。
「いたら返事しろ!」
どこだ、どこにいる。
「ナマエ!!!!」
突然、微かに壁を叩くような音がした。ばっと振り返って耳を澄ますと、か細いが人の声も確かに聞こえる。
「……!? ナマエ!!? いるのか!?」
音の出所を探すが雨音と雷鳴が邪魔をする。
「どこだよ!!」
微かな音を頼りになんとかたどり着いたのは、暗い廊下。さらに声を張り上げればとある一室から応答があった。ナマエの声だ。
部屋の前の廊下を一目見てエースは状況を察した。崩れた木箱や樽が扉を見事に塞いでいる。これのせいで出られなくなったというわけだ。
荷物をひとつふたつどかしたところで彼はまどろっこしくなり、思わず舌打ちが出た。
こんなに近くにいるのに何をチマチマと。道がないなら作りゃいい。最短距離でたどりつける道を。
「ナマエ! 扉から目いっぱい離れとけ!!」
「……え、え? なんで……?」
「ぶち破る!!」
「はぁ!?」
「離れたか!?」
「えっ、ちょっと待って……!!」
少しして、戸惑いながらも離れたと返事があった。声もちゃんと遠くなっている。
エースはぐっと腰を落として、拳を振りかぶった。
「火拳!!!!」
彼はたった一撃で、易々と扉を壁ごと吹き飛ばした。
一応、外壁にまで穴が開かないよう弱火にしたつもりである。エースは無事に開いた穴から急いで部屋へ入り、本が床に散らばる薄暗い部屋の奥にナマエを見つけた。
足は独りでに真っ直ぐナマエへ向かい、彼はナマエを抱き締めた。
ナマエの肩口に鼻先を埋めるようにして、この小さな体を、その体温を確かめる。腕の中でナマエが少しもがくのを感じたが、どうしても離したくなかった。すぐに抵抗は止んで彼女は大人しくエースの腕の中に収まる。
安堵のため息を漏らすと、ナマエはエースの肩に額を押し当てて謝罪と礼の言葉を述べた。
エースも探してるときは「どうしてこんな場所に」とも思ったが、今はもうどうでもいい。ナマエが無事だったなら、それでいい。
「今のでっかい音はなん…………ってなんだよこの大穴ァ!!!」
「ナマエちゃん見つかったのか!?」
「うおっ、こりゃまた派手にぶち開けたなエース……」
物音を聞き付けたクルーたちがざわざわと部屋の前に集まってくる。
クルーの人垣を割るようにして部屋の前に出た船大工の一人が「ギャーーーッ!!」と悲鳴を上げた。握った拳がわなわなと震えている。
その巨大な声にエースは顔を引き攣らせ、ヤベェ! と焦り出す。
「エ、エース…よくも、この野郎……!!!!」
「わ、悪い、急いでたもんで……!」
「てめェがナマエちゃんにお熱なのはよォーーく分かったが、大切な船を壊すんじゃねェーー!!!!!!!」
「なっ……、おっ、お熱だァ!!??」
怒り心頭の船大工の口から出た言葉は、見事にエースを狼狽させた。
お熱、お熱ってなんだよ、それじゃおれがまるでナマエのことを“好き”みてェじゃねェか!!
ヒューヒューと囃し立てる声にエースはハッとした。ナマエを抱き締めていた腕を緩め、肩をつかんで慌てて距離をとる。未だに肩に触れているのは、この期に及んでも完全に離れるのは嫌だと思ってしまった証だった。
外野の声に「うるせェ!」と噛みつきながら、エースは横目でナマエの顔色を盗み見る。もしも彼女が嫌そうな顔をしていたら…と不安がよぎったのだが、彼女はエースの狼狽えなど気にかける余裕もない様子で、「皆さんお騒がせしてすみませんでした……」と情けない声で涙ぐんでいた。
ナマエがいないと分かったら、居ても立ってもいられなかった。
もしも彼女が海に投げ出されていたらと思ったら、生きた心地がしなかった。
どうやらおれは、この腕にすっぽりとおさまってしまう小さな熱源をつかまえていたいらしい。
安堵からふにゃりと笑う締まりのない顔を見て、エースは唐突に解ってしまった。
——おれは、ナマエが好きなのだ、と。