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 遠征から帰って来て早々、甲板掃除を引き当ててしまったおれのくじ運の無さたるや。


 昨日は帰艦後の楽しい宴会、酒もしこたま飲んで甲板で寝落ちしたところをマルコの蹴りで一度起こされたような。このまま昼まで寝ていられたら最高だったのに。
 だが当たってしまったものは仕方ない、と腹をくくって甲板に出る。隊員たちに適当に掃除場所を振り分け、仕事に当たらせる……前に一言釘を刺しておかねばなるまい。

「お前ら、ナマエが来ても手伝わせるなよ。今日の甲板掃除はおれたち2番隊の仕事だからな」
「えー!おれらもナマエちゃんも仕事したいっスよ!」
「そうだそうだ!!」
「むしろナマエちゃんの折角の好意を無下にする方が悪……」
「てめェらさっさと仕事に取りかかれ!」

 四方八方からあがったブーイングを一喝すれば蜘蛛の子を散らしたように隊員たちは持ち場へ駆けていった。
 あいつの働きすぎはおれが一番よく知ってるのだから、そのおれが自分の隊の仕事を押し付けるわけにはいかねェだろ。
 ため息をひとつついて、おれもデッキブラシを握る手に力を込める。
 隊長とは言え仕事は平等、免除制度はあいにくない。甲板掃除は、日々おれたちを乗せて快適な航海をさせてくれるモビーディック号に感謝を込めて行うものだ。そりゃまあ、遠征明けに当たるのはちょっとかったるいなと思ってしまったが。
 空はまずまずの快晴。終わったら昼寝でもしたい陽気だった。



 甲板掃除もあと半分ほどという頃、風向きが変わった――……雨の匂いだ。
 床に落としていた視線をあげると、おれと同様に天候の変化に気付いて空を見上げ始めたクルーが何人か見受けられた。四方の空をざっと見渡せば、南の空に不吉な雲が見える。まだ遠方だし雲自体も小さいが、ここはグランドライン。あの雲があっという間に酷い積乱雲に化けるなるなんてざらだ。
 おれは近くにいた隊員に、航海士のやつらに天候の変化を知らせるように言伝てる。
 この後の航路の選択と舵切りは航海士チームに任せるとして、間もなく訪れるであろう嵐に備え、おれらはおれらの役割を果たさなくてはならない。

「お前ら!!でかい嵐が来そうだ!!甲板に出てる荷物を船内に片付けとけ!!」
「「「「了解!!」」」」

 おれの号令に頼れる仲間たちがきびきびと動き出す。

「折角半分きれいにしてやったのに、悪いなモビー。嵐を乗り切ったら、また掃除するよ」

 舳先の鯨へ語りかけ、おれもとりあえずこの邪魔くさいデッキブラシを船内に放り込むため駆け出した。



***


 横殴りの雨と雷。予想通り、海は大時化となった。
 荒れ狂う波を見極めながら右舷へ左舷へと細やかに舵を切り、モビーは嵐の中を進む。操舵は経験豊富な航海士チームがいればまず心配はない。おれたちは突然打ち上げられる海王類や障害物、避けきれない大波の撃破に勤しむ。

「エース!」
「おお、ハルタ!」
「そろそろ中へ引き上げなよ!海に落ちたってこの荒れじゃ拾ってやれないよ!!」
「そうだな、じゃあ悪ィがこっちは任せたぜ!」

 もっと素直に心配すりゃいいのに。しっしっ、と犬でも追い払うような仕草をするハルタにこっそり笑いつつ、おれはハルタの言葉に従った。
 ずぶ濡れの体を乾かすため、軽く炎を纏わせる。こういうときは便利なもんだなと我ながら思う。他の状況も聞いておきたいと思い、人が集まりそうな食堂に続く廊下を歩いていると不意に船が大きく傾いた。

「いってェ……こりゃまだまだ酷くなるか?」

 廊下の壁に打ち付けた肩をさすりながらずれた帽子を軽く直す。天井に吊るされたランプがギィギィと揺れていた。
 食堂に入るとサッチが寸胴鍋を前にしょげている姿が見えた。心なしかトレードマークのリーゼントも下を向いている。何事か聞けば先程の揺れで、昨日の夜から仕込んでおいた特製スープが鍋ごとひっくり返っておじゃんになったとか。

「そりゃ残念だったな」
「誰の腹にも入らずに全部捨てる羽目になるなんざ、料理人としちゃァ涙も止まらねェ事態だよ……ちくしょぉ……」

 めそめそと泣くサッチの肩を叩いて励ましてやる。
 ふと気付いた。あれ、と思って人の多い食堂をぐるりと見回して改めて首を傾げる。
 ……いねェ。

「ナマエは?」
「へ……?ナマエちゃん?」
「てっきりここの手伝いしてんのかと思ってたんだが……」
「あー、朝は手伝ってもらったけどその後は知らねェよ?」

 胸がざわついた。
 そうか、と生返事をサッチに残しておれは食堂を出た。



「ナマエちゃん?今日は手伝いも頼んでねェし、ここにはいねェぞ」

「たぶん今日はどこもナマエには仕事を頼んでいないはずよ。休ませようってみんなと口裏合わせてあるから……」

「ナマエさん?さァ……ここには来ていませんが」

「そういや朝飯の後から姿見てねェな。なんだ?いねェのか?」



 誰に聞いてもここには来てない、見てないばかりで手応えのある回答はない。目ぼしい場所は粗方探したが、ナマエはどこにもいなかった。
 こんな荒れた天気の中、どこにいる?
 焦燥感が歩調を早める。甲板への扉を開けば、先程よりも強く雨粒が襲ってきて思わず顔をしかめた。

「あれ、隊長?どうしたんスか?」
「ナマエを見なかったか?」
「え、ナマエさんっスか……?あー、一度来ましたけど、隊長が手伝わせるなって言ってたんで追い返しちゃいましたよ……?」
「……そうか」

 つい苦虫を噛み潰したような表情になる。
 船内にもいない、甲板にもいない。そうなると思い浮かぶの最悪の結末だ。
 どくりと脈打った心臓が全身に冷たい血を送るようだった。

「こらエース!!中に戻れって言っただろ!?」

 荒々しく飛沫をあげ、すっかり怪物と化した海原を見つめるおれの背に、ハルタの怒号が飛ぶ。

…………そんなわけあってたまるか。

「ちょっとエース、聞いてんの!?おい!!」

 嫌な予感を振り払うように拳をきつく握る。
 ハルタに返事をするのも忘れ、おれは再び船内に向かった。
 手当たり次第にクルーに声をかけてナマエの行方を探すも、依然として欲しい答えは返ってこない。船を駆け回ってる内に、普段なら来る用事なんてなさそうな場所になってきたが、思いがけず少し前にナマエとすれ違ったというクルーを見つけた。非番なので、とだけ残してさらに廊下の奥へ進んだという。

「おーい!!どこだ!?」

 こんなところ、おれだって来たことがあるか怪しいほどの場所だ。本当にいるのかよ。
 拭いきれぬ疑念と不安を胸に抱きつつもおれは叫び続けた。

「いたら返事しろ!」

どこだ、どこにいる。


「ナマエ!!!!」


 突然、微かに壁を叩くような音がした。ばっと振り返って耳を澄ますと、か細いが人の声も確かに聞こえる。

「……!?ナマエ!!?いるのか!?」

 音の出所を探すが雨音と雷鳴が邪魔だ。

「どこだよ!!」

 微かな音を頼りにたどり着いたのは、暗い廊下。さらに声を張り上げればとある一室から応答があった。ナマエの声だ。
 部屋の前の廊下を一目見て状況を察する。これのせいで出られなくなったってわけか。
 荷物をひとつふたつどかしたところでまどろっこしくなって思わず舌打ちが出た。

ようやくナマエがここにいるのが分かったのに、こんなもんでもたついていられるか?
いや無理だ。

「ナマエ!扉から目一杯離れとけ!!」
「……え、え?なんで……?」
「ぶち破る!!」
「はぁ!?」
「離れたか!?」
「えっ、ちょっと待って……!!」

 少しして、戸惑いながらも離れたと返事があった。声もちゃんと遠くなっている。
 おれはぐっと腰を落として、拳を振りかぶった。


「火拳!!!!」


 外壁にまで穴が開かないよう弱火にしたつもりだ。おれは無事に開いた穴から急いで部屋へ入り、本が床に散らばる薄暗い部屋の奥にナマエを見つけた。

 足が独りでに真っ直ぐナマエへ向かい、おれはナマエを抱き締めていた。
 ナマエの肩口に鼻先を埋めるようにして、この小さな身体を、その体温を確かめる。腕の中でナマエが少しもがくのを感じたが、どうしても離したくなかった。すぐに抵抗は止んで彼女は大人しくおれの腕の中に収まる。

良かった。
もしもナマエが海に投げ出されていたらと思ったら、生きた心地がしなかった。

 安堵のため息を漏らすと、ナマエがおれの肩に額を押し当てて謝罪と礼の言葉を述べた。
 探してるときはどうしてこんな場所にとも思ったが、今はもうどうでもいい。ナマエが無事だったなら、それでいい。


「今のでっかい音はなん…………ってなんだよこの大穴ァ!!!」
「ナマエちゃん見つかったのか!?」
「うおっ、こりゃまた派手にぶち開けたなエース……」

 物音を聞き付けたクルーたちがざわざわと部屋の前に集まってくる。
 そ、そんなに響いてただろうか……。
 クルーの人垣を割るようにして部屋の前に出た船大工から、ギャーーー!!と一際大きく悲鳴にも似た叫び声があがった。握った拳がわなわなと震えている。

「エース、この野郎……!!!!てめェがナマエちゃんにお熱なのはよォーーく分かったが大切な船を壊すんじゃねェーー!!!!!!!」
「お、お熱だァ!!???」

 怒り心頭の船大工の口から出た言葉は、見事におれを狼狽させた。

お熱、お熱ってなんだよ、それじゃおれがまるでナマエのことを"好き"みてェじゃねェか!!

 ヒューヒューと囃し立てる声にハッとしてナマエを抱き締めていた腕を緩め、肩をつかんで慌てて距離をとる。未だに肩に触れているのは、この期に及んでも完全に離れるのは嫌だと思ってしまった証だ。
 外野の声にうるせェ!と噛みつきながら、ふと横目でナマエの様子を盗み見ると、おれの狼狽えなど気にかける余裕もない様子で、皆さんお騒がせしてすみませんでしたぁ、と情けない声で涙ぐんでいた。


ナマエがいないと分かったら、居ても立ってもいられなかった。
どうやらおれは、この腕にすっぽりと収まってしまう小さな熱源をつかまえていたいらしい。


 ふにゃりと笑う締まりのない顔を見て、唐突に解ってしまった。


――おれは、ナマエが好きなのだ、と。