22

 
 モビー・ディック号は無事に嵐を乗り越え、昼過ぎには再び穏やかな空の下を進んでいた。
 その夜、寝転がったベッドの上、エースは考える。

おれはナマエが好き。
家族同然のクルーたちに向けるそれとは違う、つまりは一人の人間として、異性として。

 ひと度その答えに行き着いてしまえば、彼女にしばしば抱いていた複雑な感情たちは驚くほど簡単に腑に落ちた。
 水が土に染み込むように。曇った空が晴れるように。
 ああ、なるほどな、と。

「そっかァ……そういうことか……」

 感慨深く小さく繰り返してみるが、特別珍しがるような感情ではない。

 だってエースは童貞じゃない。
 女に免疫がないわけでもないし、上陸して気が向けばナンパもするしされるような男だし、まあ、そういう夜を“買う”日だってある。
 人並みの男女のアレコレは一処に留まることのない気ままな旅の中でも経験する機会はあった。惚れた腫れたのそういう類い。
 職業柄、清いお付き合いや末永い交際はないけれど。

 それでも、腹の底からこんこんと湧く温かさは新鮮だった。
 そして、するりと繋がった線は心地好かった。

 夢心地のままエースは本物の夢の淵へ落ちていった。




「エース、あれはお前が開けた大穴だ。責任持って修理手伝ってくれるよな?」
「……お、おう、もちろん…喜んで……」

 日が昇り、昨日の甲板掃除をいちからやり直してようやく終わったという頃、船大工のお頭が拒否権を捻り潰す笑顔でエースのもとへ来てそう言った。
 エースは甲板掃除後の休憩もそこそこに、船大工3名とともにモビーの最奥の部屋へ向かう。一番大きくて重たい木材の束を渡されたが従うより他あるまい。
 エースだってさすがに分かる。木造の船内で炎を放つなど、誰がどう考えても御法度だ。

「火事になってたらどうするつもりだったんだこの野郎め」
「悪かったっての! もうしねェ!!」
「あたりめーだ!!」
「大穴塞ぐついでに本棚がちゃんと固定されてるかのチェックも頼むぜ」
「えーまじかよ……」
「ついでだついで! あんなとこ、次にいつ行くかわかんねェからな」

 エースは道すがらちくちくと小言を言われながら、「あ、ランタン」と唐突に声をあげた。しまった、持ってくるのを忘れた。壁のほとんどが本棚で埋まったあの部屋では、天候が回復しても丸窓からの自然光はあまり期待できない。

「しくじったなァ。取りに戻るのもめんどくせェ……」
「よしエース、燃えろ。控えめに」
「なんだよそれ」
「腹の辺りだけ燃やすとかできねェのか?」
「できるけど」
「できるのかよ!」

 だはは、と肩を叩かれ思わずエースも笑う。
 しかし、この懸念は件の部屋に近付いて払拭された。ランタンはすでに部屋にあり、ほのかに明かりが漏れていたのだ。
 クエスチョンマークを浮かべて壁に空いた穴から室内を覗いた船大工が「ほォん」と意味深ににんまり呟き、続いて覗こうと近づいたエースの肩を先ほどの何倍もの力で叩いた。
 加減を知らぬ馬鹿力にじとっと睨むエースをよそに、ひょいひょいと室内を覗いた残りの船大工も「ははーん」「おお」と妙な第一声をあげる。

「なんだってんだよ……」
「ナマエちゃーん」
「え…ナマエ!?」
「あれ、皆さんどうしたんですか?」

 声の主、もといランタンを持ち込んだ先客に船大工たちはやけに上機嫌に「いやちょっとなァ」と穴を跨いで部屋に入っていった。

「この大穴を」
「エースが」
「塞ぐっていうもんで」
「あ?」

 エースの肩に肘を掛けてくいと親指で指す船大工。
 まるで“エースひとりでやる”とでもいうような言い種だ。話が違う、とエースは横にいる船大工たちの顔を慌てて見やる。

「そんじゃァ、おれたちは他の作業があっからよ!」
「頼んだぜエース〜」
「道具はドックまで返しに来いよな!」
「あっ! おい待て! そんなの聞いてねェぞ!!」

 おれは手伝いじゃなかったのか! というエースの懸命な制止もどこ吹く風。「じゃあな〜」とにこやかに退室していく船大工どもの足が止まるわけもない。去り際に飛んできた似合わないウインクで彼らが要らぬ気を回したことは嫌というほどエースも理解した。
 斯くして、彼は焦げた匂いの残る部屋にナマエと二人残されたのだった。

「……はあ。ぐらついてる本棚あるか?」
「え、ええと、あっちの2つは結構危ない、かも」
「わかった……つっても、どれも締め直した方が良さそうだな。軒並み留め具が緩んでら」

 エースが近くの本棚を2つ、3つ揺らすと思いの外ぎしぎしと揺れた。背板が傷んでいるわけではないので作業自体は楽そうだ。必要な部品と道具を工具箱からあさっていると、エースの手元を覗きこむようにナマエが傍らにしゃがんだ。
 体は触れない。でも重心を少しずらせばすぐに肌が合わさる距離だ。
 ……警戒心とかねェの。昨日おれに抱き締められたばっかの部屋なのに。視界に少しだけ入り込んだナマエの靴先を見ながら、エースはぼんやりとそんなことを思った。男に対して危機感を持つのは、彼女には無理な話なのだろうか。

「ナマエはまたこんなとこで何してんだ?」
「いやー、散らばった日誌を片付けようかなって。ねえ、これ何するの?」
「本棚の固定。あんまり来ねェ部屋だからついでにな」
「そっか……それなら日誌を戻す前にこっちを先にやった方がいいよね。私もやる」
「またそうやって自分の仕事を増やしやがる……さては、いつもそういう感じなんだな?」
「なによ、手伝わない方がいい?」
「…………ナマエさんは棚の下の方をお願いします」
「ふふ、お任せください」

 一度手本を見せればナマエはすぐに理解し、手際よく作業を進めていく。この呑み込みの良さなら確かにどこにいっても欲しがられる人材だろうなァ……なんて今さらか、とエースは内心感心した。
 ナマエは奥側の本棚に、エースは手前側の本棚に取りかかる。ランタンは平等に部屋の中央だ。

「今日はちゃんと誰かにここ来るって言ってきたか?」
「い、言ってきたよ、サッチさんに……」

 背を向けて顔が見えなくてもばつが悪そうに唇を尖らせているのが分かる。

「それにしてもびっくりしたよ」
「なにが?」
「壁、あんな風に破ってくるなんて思わないじゃん」
「うっ……い、急いでたんだよ……」

 唇を尖らせるのは今度はエースの番だった。クスクスと肩を揺らすナマエがまた礼を言う。

「まさか見つけてもらえると思わなかった。こんなに大勢いたら私一人見当たらなくても普通分かんないよ」

 なんでもない当たり前のことを話すように彼女は言った。ナマエは自分がこの船ではちっぽけな取るに足らない存在だと思っているという事がありありと分かる声音だった。
 エースにはそれがやけに嫌だった。

「……ナマエが居なかったら、分かる」
「エースはすごいね。それだけ人を見てるってことだ」
「ちげェよ」

 確かにナマエはエースの部下でもなければ目立つ背格好でもない。それでも分かったのは、きっとナマエがエースにとって特別だからだ。少なくともこれは昨日証明されたばかりである。
 自分が大事にしてるものは、相手にも大事にしてもらいたい。自らの価値に気づいてほしい。どうでもいいなんて、思わないでほしい。

 エースはしゃがんで作業をしているせいでいつもより縮こまった背中に近付いた。彼の両足と本棚の間にナマエの体がすっぽりおさまる距離に立ち、ぐっと上体を屈めてその空間に蓋をする。
 決して体は触れていない。でもその気になればすぐに抱き締められる距離だ。
 濃くなった影にようやくナマエが手元から視線をあげ、その瞳にエースを捕らえた。

「……ちげェよ」
「エース……?」

 瞬きとともに揺れる睫毛が綺麗だと思った。
 綺麗で、綺麗で、

「おれはナマエのこと見つけんのが得意なんだよ」

 ——……とても触れられない。

「考えてもみろ。海のど真ん中でだって、おれはお前を見つけたんだぜ?」
「……そういえばそうだった」

 エースがにっと笑えば、ナマエもくしゃりと笑った。
 それからエースはナマエの傍らにあった部品をいくつか取り上げて、何事もなかったように元の作業場所に戻った。

 雑談と適度なサボりを交え、数時間で壁の修繕も日誌の整理も無事に終わった。
 工具を返しに立ち寄ったドックで例の船大工3人に何かあったか? とニヤつかれたエースは、無言で軽い仕返しをしてくるりと踵を返した。背後で聞こえる騒ぎ声など知るものか。焦げてけつに穴が空いたって、ズボンの替えくらいは持っているだろう。


***


 「で?」とデュースが回転式の椅子を軋ませてやっとエースの方を向いた。エースは待ってましたと背筋を伸ばして膝の上の拳を握り直す。
 医者ってのは、ちょっと待ってろのちょっとが果てしなく長いからいけない。

「おれは、ナマエのことが、好きらしい」
「……ほォ、今さら自覚したのか」
「う、うるせェ!」
「あーん? それが相談しにきたやつの態度かエース?」
「ぐっ……」

 そう、相談。
 相談するなら兄弟に次いで最も付き合いが長くて信頼も厚いデュースしかいないと考え、夕食が終わるとエースは真っ直ぐに彼の元を訪れた。
 部屋に入ってきたエースを見るなり、デュースは呆れ顔で「擦り傷なら唾でもつけときゃ治るぞ」と診断と対処法を出してやったが、ちげェちげェとエースは患者用の丸椅子を陣取って居座ったのだ。
 鉛筆のしりでこめかみを掻きながら、「そんで?」とデュースは先を促す。

「……いや、そのなんだ…………」

 そわそわと拳を握り直してみたり髪を掻いてみたり。

「……………おれは、誰かを愛してもいいのかな、って……」

 ようやく吐き出せた本題にデュースはゆっくり首を傾げた。

「今までだって散々女は“愛して”きただろ」
「そうだけどよ……」

 エースは「ナマエは他の女とは違うんだ」という三流恋愛小説のような台詞を言おうか迷ってまた口ごもる。しゃんと伸ばしたはずの背中も、視線の下降とともにしおしおと丸くなっていった。
 あーあーとぼやきながらデュースはくるりと回した鉛筆でぴっとエースの鼻先を指した。

「大体察しはつく。あれだろ? 遊び目当てとして見てなかった女を好きになっちまって、今さらどうしたらいいか分かんねェってとこだな?」
「う゛……」

 話が分かる男であるのはありがたいが、あけすけなご明察にエースはやや居心地が悪い。

「っ、最初は普通に嬉しかったんだ! この船のみんなや弟みてェな大事な存在が増えたんだと思って……!! ——……でも、いざ目の前にしたら、……ナマエは、おれなんかが触っていい相手に、思えなくて…………」
「おー……ずいぶん入れ込んでんだな……」

 デュースは少し驚いたように目を丸くして、鉛筆をカルテの上に放り出してエースに向き直った。
 本気にならないという前提のもと始まるそれらが今回はまるで違う。まったくのノーガードの中で気付いたら進行してしまっていた。これが普通の恋愛の経過なのだろうが、エースにはイレギュラー中のイレギュラー。デュースの助言だってほしくなる。

「誰かを愛してもいいのか…ねェ……」

 背もたれを軋ませ、デュースが目を閉じてうーんと考え込む。
 その間数秒。瞼を持ち上げたデュースとばっちり目が合った。

「そもそもおれが駄目だって言ったら収まるもんなのか? ナマエへのそれはよ」

 デュースの台詞に思わずぐっと言葉が詰まる。
 エースの様子を観察してさらに数秒、デュースは表情を崩して「ははっ、」と噴き出した。

「そのだんまりが答えだろ。エースはばかだな! 童貞か?」
「ちげェわ!!」
「わはは」

 それに、と椅子に深く座り直すために軽く腰を浮かせたデュースが言葉を継ぐ。
 再び目が合うとデュースは片眉をあげて笑った。

「誰かを好きになるのに許可なんか要らねェ。お前がどこの誰だって、別にいいんだよ」

 エースの中に流れる忌まわしい血を知っているのは、この船ではオヤジとデュースだけである。彼が二の足を踏む理由をデュースは理解している。

「お前はただ目いっぱい、愛情を示せばいい。それを受け入れるかどうかはナマエの問題で、エースがぐだぐだ悩むことじゃねェ」

 エースは喉が震えそうになるのを奥歯を噛んで堪えた。
 息をひとつ吐いてからありがとう、と頭を下げた。何に対しての礼だよ、と軽く笑われた。

「ま、フラれたらおれが骨のひとつも拾ってやるさ」
「デュース……」
「百戦錬磨の色男がフラれたっつったら何人集まるかな!? そうなったら格別うめェ酒が飲めそうだぜ!」
「お前な……!!」

 エースが拳を掲げて睨めば、デュースはさらにゲラゲラ笑うのだった。


***


 エースが部屋を出て、一人になった部屋でデュースは小さくため息をついた。

 優しさも気遣いも愛情も、エースは人に与えてばかりだ。しかも、なんの衒いもなくやってのけるのだから、その人の良さには参るものすらある。
 天国のように美しいあの島で、エースと分けあった悪魔の片実の凄まじいまずさが懐かしい。

 そんな男が、おれは誰かを愛してもいいのだろうか、だと。


「本当にばかだな、エース。お前にねェのは愛する覚悟じゃなくて、愛される覚悟だよ」