23


もっと腰を落として、こうだー!!
はい!! 隊長!!!!
ちがう!! もっと脇締めろ!!
はいッ!!!! 隊長ーー!!!!

 その日は、いつにも増して暑苦しい声が溢れる甲板だった。

「8番電伝虫、ちょっと乱れますね。もう少し電波…念波…? の受信感度を調節した方がいいと思います」
「了解」
「ジョズさん、今日はなにか特別な訓練の日なんですか?」
「ん? ……あー、あれか?」

 ジョズさんが異様な熱気を放つ一団の方向へ顔を向けるのがなんとなく分かった。一番高い見張り台から見下ろせばジョズさんの巨大な体躯もお豆のように小さい。
 殻に8と書かれた電伝虫が、たまに始まるんだ、とジョズさんによく似た声色で喋る。

「ありゃァほとんどがこの間の分艦に乗ってた奴らだよ。何かしらで悔しい思いをして帰ってきた後は大体こうなる」

 みんなプライドがある。
 掲げた海賊旗に、忠誠を誓ったオヤジに、己に。
 治療もそこそこに険しい顔で鍛練に励むクルーの姿を私も見たことがあった。二度と負けるものかと、その目に宿る決意を。

「誰かが隊長クラスに稽古をつけてくれって言い出すと、連鎖反応的に手を挙げてこういう集団ができあがる」
「なるほど……」
「まったく脳みそまで筋肉で出来てる連中でな」

 呆れた口調とは裏腹に電伝虫は誇らしげに少し口角をあげていた。仲間のひたむきさはジョズさんにとっても誇らしく愛しいものなんだろう。
 私は納得して見張り台の縁から引っ込んで、太い支柱に背を預けた。

「あっ!! ジョズ隊長!! 隊長も稽古つけてくださいよ!!!!」
「声がでかいぞ……電伝虫のチェックが終わったらな」
「ええーー!!!!」

 受話器の向こうでそんな会話が漏れ聞こえる。
 稽古というより一緒に身体を動かしたくて堪らない駄々のようで笑ってしまった。当初は有志による真剣な稽古だったんだろうが、騒ぎを聞きつけておれもおれもと無邪気な声とともに膨らんだ一群の影を先程から眺めていると、そう思えてくる。

「おれが代わるから行ってやれよい」
「おォマルコ、いいのか?」
「そろそろエースが型の手本に飽きて手合わせ形式になる頃だ。手合わせならもっと隊長クラスがいた方がいいだろい」
「それもそうだな……よし、おれも行くとしよう」
「ジョズ隊長ー!!」

 マルコさんの厚い唇を表そうとしているのだろうか。電伝虫がむんっと力を入れて結んでいた口許をふにゃりと緩めた。

「……というわけだ。悪いが選手交替だよい」
「私はまったく構いませんよ。いま8番の子まで終わってます」
「あいよ、9番で繋ぎ直す」
「はい」

 ガチャ、と目を閉じて項垂れた電伝虫をそっと脇に避け、プルプルと鳴き出す9番を目の前に寄せる。
 先日の戦いで弱ってしまった電伝虫たちのほか、年老いた電伝虫たちにもこれを機に隠居を言い渡して、新しく迎えた子たちが20匹。放牧した電伝虫たちにはちゃんと寝床を作り、当分の食べ物を分け、天敵が少なそうな小さな島で別れてきた。森の草影へ散っていくマイペースな後ろ姿にみんなで手を振ったのだった。
 新しくきた子たちに通信障害がないかを確認するため、1匹につき5分ほど通話する。これをあと11匹分。意外と長い作業だなと思いながら私は受話器を取った。

「マルコさんとジョズさんって昔からこの船に乗ってたんですか?」
「ん? まァな。急になんだよい」
「古い日誌をいくつか読んだらお二人の名前があったので……」
「古い日誌……あァ、あの資料室か。ナマエが閉じ込められたっていう」
「……忘れて、ください…………」
「怪我がなかったなら別にいいよい」

 この優しさは父というか兄というか……肉親以外の大人からもらう温かさには未だに妙な気恥ずかしさを覚えてしまう。
 また甲板が一段と賑やかになった。野次のような歓声と床に叩きつけるような鈍い音のすぐあとには「おっしゃ次!!」という熱気の篭った声。もう一度下を覗くと、2箇所ほどに分かれた人だかりの中心で、なにやら取っ組み合いが……あ、もしやこれが手合わせというやつ? 千切っては投げ、千切っては投げ。そんな形容が似合うエースとジョズさんの姿が見えた。
 甲板から聞こえる威勢のいい掛け声とそれに呼応する野太い声たちは放課後の運動部を彷彿とさせる。圧倒的にここの方が濃い体育会系だけども。

 時折笑い声を交えながら、マルコさんとの他愛もない会話が続く。いつもは誰かしらの気配がある船上だが、ここは違う。普段より空に近くて、切り離されたように静かで、それでいて風の音は絶えず響いている。
 目の前には眩しい青ばかり。



「……さ、これで終わりだ。お疲れさん」
「マルコさんもお疲れさまでした」
「そんじゃそっちに向か……」
「あ、あの」

 言葉を遮った私にマルコさんは、ん? と短く聞き返した。
 思わず出た自分の言葉に私は頬をひとつ掻いて苦笑する。

「もう少しここに居てもいいですか? 景色がよくて離れがたい、と言いますか……」
「ああ……別に構わねェよい。降りたくなったら適当に電伝虫使ってくれ」
「はーい」

 口をつぐんだ電伝虫を隣に避けて、ぐっと伸びをした。立ち上がって縁に寄りかかって一面の青を眺める。遮るものがなにもない水平線は少し弧を描いたように見えた。地球は丸いって本当だ。
 肺いっぱいに流れ込む潮の香りにもすっかり馴染んだ。ここは海のど真ん中。遠く離れた西の海面から巨大な魚の尾ひれが飛沫をあげて翻った。海王類と呼ばれる海の巨大生物もここのクルーにかかれば貴重な食糧として沈黙する。
 魚人や巨人といった出会ったことのない種族の人たち、常識から逸脱する天候と生物、驚異的な身体能力と悪魔の実…………これだけたくさんの驚くべきものに溢れていながら海はすべてを受け入れるかのように広大で、万物を乗せて静かにそこ横たわっている。

 子どもの頃に父の帰りを待って飽きるほど眺めた海も、同じだった――どこまでも広大で、自由。
 両親を喪って、おばあちゃんとのささやかでも平和な日常を送ることに一生懸命だった数年間。それから、おばあちゃんを喪った世界を受け入れられず、目を瞑るように生きていた1年と少し。海はずっと同じ表情で、全てを包み込みながらそこに広がっていたはずだ。見ようと思えばいつでも見に行ける場所にいたのに、私は長らく海を訪れていなかった。

ああ、また海が見られて良かった。

 波の音が遠のいたみたいに静かだな、と頭の片隅で思いながら私は瞼を閉じてしばし微睡んだ。

「あれ? ナマエ? なんでこんなとこにいんだ?」

 静寂を破ったその声に私はびくりと肩を跳ねあげる。
 急に現れたエースは驚く私のことなどお構いなしに、テンガロンハットが飛ばされないよう片手で押さえて見張り台へヒョイと着地した。

「びっ……くりしたぁ……えと、新しい電伝虫の通信チェックを。でもちょうど終わったところ……」
「あー、これか。隣いいか?」
「どうぞどうぞ」

 スペースを作ろうと電伝虫をいくつかどかそうとすると、エースは「そのままでいいよ」と手で制してそのまま座り込んだ。私とエースの間で電伝虫は居眠りしたり何もない空間をぼんやり見つめたり、なんとなく距離を取りたいのかのろのろ少し這ったりしている。

「エースは?」
「おれは休憩。今甲板で手合わせやってんだ」
「うん、声聞こえてたよ」
「さすがにぶっ通しは疲れる。下だと手の空いた奴らに絡まれるからこっちに来たんだが……そしたらナマエがいてびっくりした」

 嬉しそうに歯を見せて笑う顔があまりにも人懐っこくて、そうなんだと短く返すのがやっとだった。

「こんなとこまでよく自力で登れるね」
「? 登れなかったら見張りできねェだろ?」
「いや、そうだけどさ……」

 至極不思議そうに首を傾げるエースには分かるまい。
 軽業師のようにマストを伝って難なくこの見張り台まで登ってきたその所業の異常さが。海賊になるとみんなそうなるのか、そういう人が海賊になるのか、その因果の順序は分からない。

「それにしてもすごいね! 上からちょっと見てたけど、エースもジョズさんも一度も投げ飛ばされてなかったよね」
「まァな! 100人抜きだって楽勝だぜ! やっぱり強くなきゃ海賊は務まらねェからな」

 にっかりと得意気に笑うエースはぐっと拳を握って空へ突き出した。

「やっぱりそういうもの? 私も護身術くらい習おうかなぁ」
「身に付けるに越したことねェけど……ナマエはおれが守ってやるから要らねェよ」

……。
う、わ。

ときめきかけた……ずるい、ずるすぎる、そんな台詞……ドキッとするに決まってるじゃん!!

 頬が、耳が熱い。
 反応するな反応するな!! 頭の中で己を宥めるが、鼓動があからさまに早い。おれが守るってなに。今時の月9でも聞かないベタなイケメンの文句だ。そのベタな殺し文句でベタに殺されているのも、悔しいことに、事実。

「わ、私だって訓練すればきっとむしろエースも守れるくらい強くなりますし!?」
「本当かァ?」
「うっ……」

 くつくつと笑うエースが、ほれパンチ、と掌をかざす。
 おそらく拳を打ち込んでみろ、という意味のそれを見て、ムムと口がへの字に曲がった。エースの顔を一瞥すると毒気を抜かれるようななんとも穏やかで楽しげな顔をしている。
 先ほどのエースに倣ってぐっと拳を握って構えてみた。

「……へなちょこ」
「ひっど……」

 ぺちん、と掌にぶつかった私の拳をエースのごつごつとした5本の指がやわく包んだ。
 大きくて、温かい。

「別におれの事なんか守れなくたっていいさ。その気持ちだけで十分だ。それに、女を守るのは男の役目だしな」
「えぇ……なにそれ、ずいぶん古風な考え方だね」

 つい口から漏れた素直な感想。
 エースらしいと言われればそうかも知れない。この船の人たちも大半が賛同する意見かもしれない。
 でも、それでは。

「男女平等、男の子も泣いていいし女の子も強くたっていいんだよ」

 一体誰がこの人を守るんだろう。
 男だ女だ言う前に、人は悲しいときに泣き、愛する者のためなら奮い起つ。そういう生き物ではないのか。
 エースはぽかんと私の顔を見つめたあと、少し笑って私の拳を包んだ手をやんわりと下ろした。

「確かにそういう奴もいるけど、おれはそうってだけだ」

 押しつける気はねェから聞き流してくれよ、と頭をあやすようにぽんぽんと叩かれる。
 頭の後ろで手を組んだエースはマストに背を預けた。

「で、そんなへなちょこチャンはどうやってここまで登ってきたんだ?」
「へなちょこ言うな」
「だってへなちょこパンチだったろ」

 ケラケラとからかうエースに、登るときはマルコさんに連れてきてもらったと言うと、急にエースがむ、と口を結んで考え込んだ。

「じゃあ降りるときはおれが……」
「え、やだ」

 きっぱり、即答。
 エースはショックを受けたように目を丸くして「な……なんだと……」などと呟いているが、私だって学習するので当たり前だ。
 マルコさんは青い鳥になってふわふわの背中に乗せてくれたけどこの男はきっと。

「だってエース、いつも荷物担ぐみたいに私のこと抱えるし、どうせまた飛び降りる気でしょ」
「…………」
「ほら図星!」
「わァったよ、ちゃんと抱えればいいんだな!?」
「へ? あ、ちょっと、な、なにっ、きゃあ!!」

 勢いよく立ち上がったエースは私を軽々と横抱きにした。安定感はあるし、れっきとした人間を持ち上げるときの抱え方へ変えてくれたことはありがたい。だが。

あああもうだからなんでこの人は上の服着てないんだ……!!

 直に当たる肌にどぎまぎするのは年頃の女なら相応の反応だ。何をするんだと慌てて顔を上げた先には、やや不貞腐れたようにふんと鼻を鳴らしたエースが。

「これでいいな?」
「あ、う、いやこれは、これでっ、めちゃくちゃ恥ずかしいから下ろして……!」
「やだ、聞いてやんねー」

 悪ガキよろしく、意地悪にべっと出された赤い舌。エースはお構いなしに見張り台の縁へ歩き出す。
 ――おお、歩いてるのにほとんど揺れない。素晴らしい安定感。これぞ鍛え抜かれた筋肉の裏付け。
 動揺する頭の一部でそんな呑気な感想がこぼれかけたが、膝の裏や肩、半身に寄り添うように感じるエースの体温にすぐさまハッと我に返って抵抗を試みる。足をばたつかせたり、胸板を叩いてみたり、あいにく効果はいまひとつのようだ。
 周りのマストや張り出した帆桁を一頻り眺めて「あー、やっぱ飛び降りるしかねェな」としれっと宣うエースにぎょっとする。

「え!? やだやだやだ! この高さだよ!?」
「だって両腕塞がってるし……まあ大丈夫だ、慣れてる」
「私は慣れてないから!」
「じゃあいい機会だから慣れるといい。舌噛むから口閉じとけよ」
「エースってば!!」

 抱き方が変わったところでそんなワイルドな降り方では意味がない。
 いよいよ縁に足を掛けて踏み出そうとするエースに思わずしがみつく。エースしか支えのない中で見下ろした景色にヒュッと喉が引きつった。服があれば布を掴めるというのに人の肌ではそうもいかない。背に腹は変えられぬと身体を極力縮こまらせてエースにぴったりとくっつく。

 恥ずかしいとか言ってられないくらい怖い、めちゃめちゃ怖い。明らかに死ぬ高さじゃん。エースは無事でも私はきっと無事じゃない。いや、そんなお化け屋敷に挑む子どもを勇気づけるように微笑まれたってなんの足しにもならないんですけど?

 私の心配をよそに、今一度ぐっと私を抱き寄せたエースは軽やかにマストやロープを伝ってするすると甲板へ降りていくのだった。


「〜っ、エース……!!」
「あっはっは、大丈夫か? 立てねェならしばらく抱えててやるぞ?」
「結構です!!」

 すとんと下ろされた甲板の上にへたりこんで吠える私と、腰に手を当ててケラケラと笑うエース。もちろん私の腰は抜けている。

「エース! 休憩長ェって!! 続きやんぞーー!」
「おう! とりあえず端に寄ってろよ」
「うう……!!」

 手合わせの再開を望むクルーの声に朗らかに答えるエースをありったけの眼光で睨む。
 端に寄れと言われたって、今しがたのこの男の蛮行のおかげで立てないのだ。でもこんな甲板の中央に座り込んでいるわけにもいかない。悔しい。不本意。二度目はないぞ。
 仕方なく抱っこをせがむようにエースに両手を伸ばす。くしゃりと笑ったエースは快く再び私を横抱きにして、壁際に運んだ。不服そうな私の眉間の皺を視認してなお「軽いなァ、肉食えよ」と笑うのだからあまり反省はしてなさそうだ。
 しかし不思議なことに、募る苛立ちを勘定しても、私を下ろしてから逆光の中で笑う姿には見とれるほどに爽やかで魅力的な何かがあった。
 じゃあなーと熱気の中心へ元気よく駆け出す背中を見送りながら私はため息をつく。と、そこへ誰かが隣に来る気配を感じて視線をあげた。

「やられたなァ」
「マルコさん…………あ!! 電伝虫繋がってましたよね!?」
「おう、筒抜けだったよい」
「じゃあ止めるなり助けにきてくるなりしてくれても良かったじゃないですか!」
「楽しそうだったもんで」

 くつくつと笑うマルコさんに、盗み聞きなんて悪趣味ですよ、と精一杯の悪態をついて膝を抱えた。
 人垣の向こうで時たまぴょーいと巨体が舞う。エースが投げ飛ばしたらしく、やんややんやと盛り上がっている。
 そんな喧騒を眺めていたら、肩の力が抜けた。一人でいつまでも腹を立てているのがばかばかしくなるくらいの陽気さがそこから溢れ出ているから。

「……エースはいつもああですか」
「ああ、っていうと?」
「マイペースで、強引で、……でも結局優しくて。色んな人を惹き付ける」
「そうだな……あいつは自由で、豪快で、情にも厚いからな」

 エースを囲んでわいわいと楽しげに騒ぐクルーたちを見て、ついに眉間に寄っていた皺もほどける。
 みんなエースが大好きだ。

「……エースは眩しい人ですね。こんな素敵な人、初めて出会いました」

 なぜ海賊になったのか、そう問いかけたあの日から彼はずっと眩しい。

 エースは、広い海原に帆を張って、恐れず果敢に、なにより自由に、どこにだって行けるんだろう。波も風も天候もものともせず自前の熱量で青海を進むストライカーのように。
 このときは確かにそう思っていたのだ。

「その殺し文句、おれに聞かせたってしょうがねェだろい……」
「はい?」
「なんでもねェよい」

 マルコさんはふ、と息を吐くように笑ったきり、視線を手合わせの一団に向けてそれ以上教えてくれなかった。