24

 
 水銀の体温計を見てデュースはフム、と息をついた。

「風邪だな」
「ゲホッ……これが、ただの風邪…です…か……ゲホッ」
「ただの風邪だな」

 デュースは簡潔に診断を下し、なにやらカルテに几帳面にカリカリと書き付ける。茹だった頭でナマエはその様子をぼんやりと見つめ、「えー……」と思う。
 頭痛、咽頭痛、関節痛、39度近くの高熱、悪寒、全身の倦怠感、食欲不振、エトセトラ……病状を書き留めればフルコースができあがるこれがただの風邪とは。
 ナマエにはにわかに信じられなかったが、彼女の胡乱げな視線を悟ったデュースが「誤診じゃねェぞ?」と念を押す。
 医者が言うならそうなのだろう。きっとウイルスとか免疫とか、なんか、そういう、アレなのだろう。ナマエは意識を保つのもひと苦労な頭での思考をあっさりと放棄し、異世界だから、という一点で自分を丸め込んだ。

「ナマエは元々陸育ちの人間だろ? 慣れない海上生活でいい加減疲れが出たんだろうな。2、3日安静にしてりゃ良くなるさ」
「はい……」
「薬出しとくから、少しでもなんか腹に入れてから飲むように」
「お医者さんだ……」
「学位もねェヤブだけどな」

 デュースは軽くそう笑って、自前の医療かばんに体温計や聴診器をしまっていく。エースと歳が近い彼だが、その姿は良い意味で年不相応で、立派な医者である。
 どうやら診察はこれで終わりらしい。背筋にぴたりと張り付く寒気に、ナマエの背中がじわじわと再び丸くなり始める。いま一度体を包むように、彼女は羽織ったブランケットの端を胸元に手繰り寄せた。

「お大事に」

 そう言って扉が閉まるのを見届けて、ナマエはよろよろとベッドに戻った。



 最初の異変は喉の違和感であった。
 これは体調不良の前兆だなとナマエは瞬時に判断して、厨房の片付けの仕事を早めに切り上げさせてもらい、風呂で体を温め、入念に髪を乾かし、布団にもぐりこんで眠りについた。しっかり休めば悪化することもなく、起きた頃にはまた問題なく動けるようになっているはず。
 そう思っていたのに、彼女が迎えた翌朝は、地獄のような体調不良だった。
 まず起き上がれないほどの倦怠感。そして、布団から指一本すら出したくない寒気。あまりの喉の痛さに声も出ず、どうしよう、と動かした脳みそも熱に浮かされ意識は遠退いた。
 再び目を覚ますと、ナマエがいたのはいつもの女部屋の寝室ではなく医務室の個室だった。かたわらで看病してくれていたナースのお姉様は彼女が目を覚ましたことに気付いて、熱が高かったから個室に移動してもらったのよナマエちゃん、とにっこりと笑って額の濡れタオルを交換してくれた。白衣の天使は実在するのだ。

「…ありがとう、ございます……」
「いいのよ。いま若先生呼んでくるわ」

 しばらくして現れたトレードマークのマスカレードマスクと綺麗にセンターで分けられた水色の髪に、若先生ってデュースさんのことだったのか、と彼女は新たな知識を得たのだった。
 次に部屋を訪れたのはサッチだった。普段の明るさはそのまま、穏やかにトーンダウンした声はズキズキと痛む頭に優しい。お盆に乗った皿からは湯気が立ち上る。サッチは枕元に歩み寄ってなお起き上がれないナマエを見て「結構参ってるみたいだな」とナースを見やった。

「お粥、ここ置いとくぜ。しんどければスープだけでも飲んでくれ」
「すみません…朝のお手伝いもできなくて…」
「お? じゃあナマエちゃん、体調戻ったら正式にうちに入隊してくれる?」
「病人相手になに言わせようとしてるんですか。エース隊長に怒られますよ」

 違いねェ、と肩を竦めて笑うサッチはひらりと手を振る。
 ナマエの所属に関してはエースが一枚噛むという暗黙のルールがすっかり定着していた。変な図式ができちゃったなぁ…と頭の隅で思いつつ、ナマエはサッチを見送ろうと腕を出そうと動かす。が、布団から腕が出る前にサッチの背中は扉の向こう側に消えてしまった。

 ナマエは浅い眠りを繰り返す。うっすらと開けた彼女の目にうつるのは、扉付近で人払いをしているナースの背中だったり、誰もいないガランとした部屋だったり、4番隊のクルーによって運ばれた温かな昼食だったり。彼女が掠れた声でなんとかお礼を言うたび、みな「はいはい」と微笑んだ。
 こんなときくらいのびのび甘えればいいのに。事あるごとに律儀に礼を言うなんて、子供がなにを気を遣っているんだか、と。熱ですっかり弱った彼女に対し、この船の大人たちはいつもより柔らかい心持ちでそう思っていた。
 ナマエはナマエで、本当にここは海賊船かしらと思っていた。衰弱した心にやさしさが沁みる。感謝だの情けなさだの、溢れる気持ちは色々とあったけれど、彼女は今すべきことをきちんと理解していた。ご飯を食べて、薬を飲んで寝る。それが病人にできる唯一のことであり、第一にすべきことである。早く治そう、とベッドの中で誓う。
 だが。夕方になってもそう良くなっていないということは、何度目かの検温結果を見たナースの溜め息と、何よりナマエ自身の体感で知れた。

「うちの薬よく効くはずなんだけどねえ……ナマエちゃんってもともと体弱い?」
「いえ……むしろ寝込んだの6、7年ぶりです……」
「うーん、立派な健康優良児……。とにかく安静に寝てることね、なにかあったらベル鳴らして」

 枕元の呼び鈴を指差したナースはぱちんとウィンクを飛ばして部屋を出た。体にこもった熱を吐き出すようにナマエは深く息をつく。
 寝込むのも、こんな風に誰かに看病されるのも、本当に久しぶりだった。彼女が最後に寝込んだのは小学生の頃、流行性のインフルエンザだった。朦朧とする意識の中で、自分の看病をする祖母の姿を見て、迷惑をかけてしまったと気落ちしたことをよく覚えている。
 祖母と二人暮らしの中では、ほいほい寝込んでいられないのだ。このインフルエンザを教訓にナマエは日々の体調管理を心掛けるようになったおかげで、体調を崩しかけることはあっても寝込むほどの大病はしないまま数年を過ごしてきた。そしてそれは一人暮らしになってからも。
 誰かに迷惑を掛ける前にしっかり自力で治す、それが彼女の中のルールだった。けれど、この度、あっけなく破ってしまった。

 咳をしてもひとり、そんな句を習ったっけな。
 どうしてこんな句をいま思い出すのか。

「……早く、治す」

 ぽつり呟き、ナマエは鼻先まで布団を引き上げて目を閉じた。


***


 薬が効き始めたのは2日目以降からだった。薬のおかげで、ナマエの頭痛や寒気などの諸々はだいぶ治まった。ナマエは上体を起こしてみて体の軽さに少し安堵する。あとは熱さえ下がれば寝たきりの個室生活からも解放されるだろうか。デュースやナースたちがそれを許すかは別として。
 寝てばかりで凝り固まった体をほぐすようにぐっと伸びをすると、途端にくらりと気だるさが襲ってきた。こりゃまだ駄目だ、と潔く諦めて、ナマエは再び枕に頭を沈めた。
 コンコン、と控えめなノックが病室に響く。彼女が軽く返事をするとすぐに扉が開き、数日見なかった黒髪の癖毛が「よう」と覗いた。
 エース、と慌てて体を起こそうとするナマエを「いいから寝てろ」とエースは一言諌める。彼女は大人しくその言葉に従って横になった。

「調子はどうだ」
「ん…だいぶましになったけどまだしんどいな……」
「そっか」

 エースはベッド脇に置かれた椅子に腰かけて、背負っていた鞄をどさっと足元に下ろした。緑の生地に不規則な黒の縞柄が入ったその鞄はエースが下船する時によく使っているものだ。船内で持っているなんて珍しい、とナマエがぼんやり眺めていると、彼はなにやらがさごそと鞄をあさりだした。
 髪の黒、肘当てのオレンジ、左腿あたりの小さなポーチの青、健康的な肌の色。エースを構成する色たちを盗み見て、ナマエはなぜだか胸のあたりがきゅうとした。

「近くの島の市場で、風邪にいいってもんを見繕ってきたんだ」
「……停泊の予定なんてあった……?」
「いや、ストライカーでひとっ走り」

 はちみつが入った瓶、りんごや桃などの新鮮なフルーツ、紅茶缶、エトセトラ。
 鞄から取り出したそれらを枕元のサイドテーブルに並べながら「おれあんまり風邪引かねェからよく分かんなくて、市場のばあさんやおっさんたちのオススメばっかなんだけどよ」とエースが話す。

——わざわざ自分の船を出して買いに行ってくれた、ということか。

 ずらずらと並ぶ品々に、ナマエは思わず笑みをこぼした。彼女の小さな笑い声に反応して、エースが「ん?」とようやく視線を彼女へ向ける。

「……食べ物ばっかりだね」
「食えねェのもあるぜ」

 にっと口角をあげたエースが少し体を後ろにひねって死角からなにか取り出す。まだ出てくるなんて手品師みたい。ナマエは少しだけわくわくして、何が現れるのかしらとエースを無垢に見つめる。
 程なくしてふわりと鼻腔をくすぐったのは、花の香りだった。

「——……きれい」
「だろ?」

 差し出されたミニブーケに彼女が目を細めれば、応えるようにエースも笑う。

「あとで花瓶もらってくるよ。はちみつはサッチに渡した方がうまいもん作ってくれる気がするなァ……あ、りんご剥くか? ほかに何か欲しいもんあったら……」

 欲しいもの、と聞かれ。
 彼女は、ああ、それなら。と素直な心で体が動いた。


「――……、」

 布団の端から出された彼女の指先に、エースの動きが止まる。
 少しの間を置いてエースの指先がおずおずと重なる。ナマエが小さく握ると、握り返された。熱を分け合う指先が嬉しくて、彼女はひどく安心した気持ちで目を閉じる。
 疑問やからかいの言葉もなく、エースは手を繋いだままじっとしていた。病人の、ましてやナマエの手を振りほどくなんてきっとエースには容易いもないことだ。嫌になったら自然に離すだろう——そんないつもより甘えたな考えにナマエは身を任せた。

 できることなら寝込まない方がいい。弱った体を動ける程度になんとか回復させてでも、休まず活動を続けるというのは、それはそれは効率的だ。
 でも、本当はいっそ寝込んで甘えたかったのかもしれない。甘えて委ねて弱った姿を晒しても、離れていかない何かを実感したかったのかもしれない。

 だからなのか。
 滋養のいい食べ物や病室を彩る花もいいけれど、ナマエの手をすっかり包んでしまうこの大きくて温かな手が、彼女はなにだか無性に欲しくなったのだ。



 しばらく無言の時間が続き、不意にナマエの脇腹の辺りに温かな重みが乗っかった。彼女はその正体を確かめようと思ったが、もう瞼も持ち上げられないほど彼女の意識は微睡みに浸かっていた。

「あー……好きだなあ……」

 布団に半分呑まれるようにくぐもった声でしみじみと紡がれた言葉が夢かどうか、もうすでにナマエには分からなかった。
 ただ、正夢なら、嬉しいと思う。
 ふわりと綿菓子のように甘く融ける心地のなか、ナマエは眠りについたのだった。