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 水銀の体温計を見やったデュースさんがフム、と息をついた。

「風邪だな」
「ゲホッ……これが、ただの風邪…です…か……ゲホッ」
「ただの風邪だな」

 彼は平然とした様子でそう返し、なにやらカルテに書き付ける。

 喉が痛くて頭が痛くて熱が39℃近く出てて四六時中気だるくて寒気が止まらなくて身体の節々が痛くて食欲もなくて、病状を書き留めれば病のフルコースができあがるこれが、ただの風邪。

 信じられない、という視線を悟ったデュースさんが「誤診じゃねェぞ?」と念を押す。医者が言うならそうなのだろう。きっとウイルスとか免疫とか、なんか、そういう、アレなんだろう。頭がぼーっとして意識を保つのもやっとだ。あっさりと思考放棄した私は、異世界だから、という一点で自分を丸め込んだ。

「ナマエは元々陸育ちの人間だろ? 慣れない海上生活でいい加減疲れが出たんだろうな。2、3日安静にしてりゃ良くなるさ」
「はい……」
「薬出しとくから、少しでもなんか腹に入れてから飲むように」
「お医者さんだ……」
「学位もねェヤブだけどな」

 デュースさんは軽く笑って、自前の医療かばんに体温計や聴診器をしまっていく。エースと年が近いと聞いたことがあるが、良い意味で年不相応にその様は立派なお医者様だ。
 どうやら診察はこれで終わりらしい。背筋にぴたりと張り付く寒気に、思わず背中が丸くなる。今一度身体を包むように、私は羽織ったブランケットの端を胸元に手繰り寄せた。

「お大事に」

 そう言って扉が閉まるのを見届けて私はよろよろとベッドに戻った。



 最初の異変は喉のいがいが。
 これは体調不良の前兆だなと瞬時に判断して、厨房の片付けの仕事を早めに切り上げさせてもらい、お風呂で身体を温め、入念に髪を乾かし、布団にもぐりこんで眠りについた。しっかり休めば悪化することもなく、起きた頃にはまた問題なく動けるようになっているはず。
 そう思っていたのに、迎えた朝は地獄のような体調不良だった。
 まず起き上がれないほどの倦怠感と、布団から指一本すら出したくない寒気。あまりの喉の痛さに声も出ず、どうしよう、と動かした脳みそも熱に浮かされ意識は遠退いた。
 再び目を覚ますと、いつもの女部屋の寝室ではなく医務室の個室だった。傍で看病してくれていたナースのお姉様は私が目を覚ましたことに気付いて、熱が高かったから個室に移動してもらったのよナマエちゃん、とにっこりと笑って額の濡れタオルを交換してくれた。白衣の天使は実在する。

「…ありがとう、ございます……」
「いいのよ。いま若先生呼んでくるわ」

 しばらくして現れたトレードマークのマスクと綺麗にセンターで分けられた水色の髪に、若先生ってデュースさんのことだったのか、と新たな知識を得たのだった。
 次に部屋を訪れたのはサッチさんだった。普段の明るさはそのまま、穏やかにトーンダウンした声はずきずきと痛む頭に優しい。お盆に乗った皿からは湯気が立ち上る。サッチさんは枕元に歩み寄ってなお起き上がれない私を見て「結構参ってるみたいだな」とナースさんを見やった。

「お粥、ここ置いとくぜ。しんどければスープだけでも飲んでくれ」
「すみません…朝のお手伝いもできなくて…」
「お? じゃあナマエちゃん、体調戻ったら正式に入隊してくれる?」
「病人相手になに言わせようとしてるんですか。エース隊長に怒られますよ」

 違いねェ、と肩を竦めて笑うサッチさんがひらりと手を振る。
 私の所属に関してはエースが一枚噛むという図式がすっかり定着してるんだな。そんなことを頭の隅で思いながら、サッチさんを見送ろうともぞりと腕を動かすが、布団から出る前にサッチさんの背中は扉の向こう側に消えてしまった。

 ご飯を食べて、薬を飲んで寝る。病人にできる唯一のことであり、第一にすべきこと。
 浅い眠りを繰り返す。うっすらと開けた目にうつるのは、扉付近で人払いをしているナースさんの背中だったり、誰もいないガランとした部屋だったり、4番隊の方によって運ばれた温かな昼食だったり。掠れた声でなんとかお礼を言うたびにみんな微笑んだ。
 本当にここは海賊船だろうか。ひょっとしたらそこらの病院より手厚くて優しい気すらする。早く治そう、とベッドの中で誓うものの夕方になってもそう良くなっていないということは、何度目かの検温結果を見たナースさんの溜め息と何より自身の体感で知れた。

「うちの薬よく効くはずなんだけどねえ……ナマエちゃんって元々身体弱い?」
「いえ……むしろ寝込んだの6、7年ぶりです……」
「うーん、立派な健康優良児……。とにかく安静に寝てることね、なにかあったらベル鳴らして」

 枕元の呼び鈴を指差したナースさんはぱちんとウィンクを飛ばして部屋を出た。身体にこもった熱を吐き出すように私は深く息をつく。
 寝込むのも、こんな風に誰かに看病されるのも、本当に久しぶりだ。最後に寝込んだのは確か小学生の頃、インフルエンザだったと思う。朦朧とする意識の中で、私の看病をするおばあちゃんの姿を見て、迷惑をかけてしまったと気落ちしたことを覚えている。
 おばあちゃんと二人暮らしの中ではほいほい寝込んでいられないのだ。そのインフルエンザを教訓に私は日々の体調管理を心掛けたおかげで、体調を崩しかけることはあっても寝込むほどの大病はしないまま数年を過ごしてきた。そしてそれは一人暮らしになってからも。
 誰かに迷惑を掛ける前にしっかり自力で治す、それが私の中のルールだったけどこの度、あっけなく破ってしまった。

咳をしてもひとり、そんな句を習ったっけな。
どうしてこんな句をいま思い出すのか。

「……早く、治す」

 ぽつり呟き、私は鼻先まで布団を引き上げて目を閉じた。


***


 2日目以降から効き始めた薬のおかげで、頭痛や寒気などの諸々はだいぶ治まった。上体を起こしてみて身体の軽さに少し安堵する。あとは熱さえ下がれば寝たきりの個室生活からも解放されるかな…デュースさんがそれを許すかは別として。
 寝てばかりで凝り固まった身体をほぐすようにぐっと伸びをしたらくらりと気だるさが襲ってきた。こりゃまだ駄目だな。ぽふっと枕に頭を沈めた。
 コンコン、と控えめなノックが部屋に響く。軽く返事をするとすぐに扉が開いて、数日見なかった黒髪の癖毛が「よう」と覗いた。
 エース、と慌てて身体を起こそうとするといいから寝てろと諌められたので大人しく横になる。

「調子はどうだ」
「ん…だいぶましになったけどまだしんどいな……」
「そっか」

 エースはベッド脇に置かれた椅子に腰かけて、背負っていた鞄をどさりと足元に下ろした。緑の生地に不規則な黒の縞柄が入ったその鞄はエースが下船する時によく使っているものだ。船内で持っているなんて珍しい、とぼんやり眺めていると、なにやらがさごそと鞄をあさりだした。
 髪の黒、肘当てのオレンジ、左腿あたりの小さなポーチの青、健康的な肌の色。エースを構成する色たちを盗み見て、なぜだか胸のあたりがきゅうとした。

「近くの島の市場で、風邪にいいってもんを見繕ってきたんだ」
「……停泊の予定なんてあった……?」
「いや、ストライカーでひとっ走り」

 はちみつが入った瓶、りんごや桃などの新鮮なフルーツ、紅茶缶、エトセトラ。
 鞄から取り出したそれらを枕元のサイドテーブルに並べながら「おれあんま風邪引かねェからよく分かんなくて、市場のばあさんやおっさんたちのオススメばっかなんだけどよ」とエースが話す。

――わざわざ自分の船を出して買いに行ってくれた、ということか。

 ずらずらと並ぶ品々に思わず笑みがこぼれた。私の笑い声に反応したエースが「ん?」と、ようやく視線をこちらへ向ける。

「……食べ物ばっかりだね」
「食えねェのもあるぜ」

 にっと口角をあげたエースが少し身体を後ろにひねって死角からなにか取り出す。まだ出てくるなんて手品師みたいだな。少しだけわくわくしている自分がいた。
 程なくしてふわりと鼻腔をくすぐったのは、花の香りだった。

「――……きれい」
「だろ?」

 差し出されたミニブーケに目を細めれば応えるようにエースも笑う。

「あとで花瓶もらってくるよ。はちみつはサッチに渡した方がうまいもん作ってくれる気がするなァ……あ、りんご剥くか? ほかに何か欲しいもんあったら……」


欲しいもの。
欲しいもの、ああ、それなら。


「――……、」

 布団の端から出した指先にエースの動きが止まる。
 少しの間を置いてエースの指先がおずおずと重なる。小さく握ると、握り返された。熱を分け合う指先が嬉しくて、私はひどく安心した気持ちで目を閉じる。
 疑問やからかいの言葉もなく、エースは手を繋いだままじっとしていた。病人の、ましてや私の手を振りほどくなんてきっとエースには容易いはず。嫌になったら自然に離すだろう――そんないつもより甘えたな考えに身を任せた。

 できることなら寝込まない方がいい。弱った身体を動ける程度になんとか回復させてでも、休まず活動を続けるというのは、それはそれは効率的だ。
 でも、本当はいっそ寝込んで甘えたかったのかもしれない。甘えて委ねて弱った姿を晒しても、離れていかない何かを実感したかったのかもしれない。

 だからなのかな。
 滋養のいい食べ物や病室を彩る花もいいけど、私の手をすっかり包んでしまうこの大きくて温かな手が、なんだか無性に欲しくなったのだ。

 不意に脇腹の辺りに温かな重みが乗っかる。その正体を確かめようかと思ったけどもう瞼も持ち上がらないほど私の意識は微睡みに浸かっていた。


「あー……好きだなあ……」


 布団に半分呑まれるようにくぐもった声でしみじみと紡がれた言葉は夢だろうか。
 ――正夢なら、嬉しいな。
 ふわりと綿菓子のように甘く融ける心地のなか、私は眠りについたのだった。