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 無意識にぽろりとこぼれた本音にはっとした。
 こっそりと盗み見るように少しだけ顔を上げる。やや苦しそうに、でも規則的に聞こえる寝息は特に乱れることもなくて、このぼやきは彼女の耳に届かなかったようだ。それはおれにとって幸なのか、不幸なのか。うっすらと汗をかいたナマエの寝顔を認めて、おれは再び顔を伏せた。そして、今度こそ細心の注意を払って細く息を吐く。
 首を傾けて自分の手中に大人しく納まる細い手を眺めていると、なんとも言えない気持ちが湧いてくる。
 嬉しいのに、泣きたくなる。

 差し出された手を握ることがナマエの求めていたものなのかは分からない。掛け布団の端から現れたそれは頼りなくて弱々しくて、こうするのが良いんじゃないかと思った。
 結果、握り返された上こうして眠ったということは、概ね外れてはいなかった……のだと思いたい。

 重なった手に大義名分を与えようとぐるぐると考えても、答え合わせの相手が寝てしまってはそれもあまり意味を成さなかった。
 すっかり力の抜けたナマエの手を指の腹で少し撫でるがやはり彼女は起きない。
 握った手は熱くて、まだしんどいと言っていたのを思い出す。
 ――花瓶はナースに、食いもんの類いはサッチに……いや、4番隊の誰かに。サッチだとほぼ確実ににやつかれる、想像しただけでちょっと腹立つしめんどくせェもんなァ……。
 脳裏で算段をつけて、よし、とベッドに沈めていた上体を起こして片腕でなるべく静かに見舞いの品々を鞄に片付けた。再び膨れた鞄を肩に担いで椅子から腰をあげる。
 最後にもう一度ナマエの顔を見やった。無防備極まりなく眠る姿も、体調が優れないとあっては邪な気持ちも欠片ひとつ湧かない。空いた手で顔にかかった髪をよけてやりながらただただ快復を願った。

「おやすみ」

 名残惜しさを感じつつ繋いだ手をするりとほどいて、扉を静かに閉める。
 さてナースは、と気を取り直したところで廊下に座り込む人影に気付いてぎょっとした。のどちんこまで出かかった悲鳴をなんとか飲み下して凝視すると、デュースは手元のカルテから顔をあげた。

「お、済んだか?」
「……なんでこんなとこにいるんだよっ」
「おれが船医でここが患者の部屋だから」

 そーだけど。
 よいしょと腰をあげたデュースはおれのじっとりとした恨めしい視線を華麗に無視して、ナマエの様子を聞いてくる。

「まだしんどいってよ」
「そうか……まあ話せるくらいには良くなってるんだろうけど、一応熱くらい測っておくか」
「おいおい待て待て待て」

 今しがた閉めた扉をノックしようとするデュースの腕を思わず掴んで止める。顔をしかめるデュースに「寝てるから」と手短に伝えると、は? と間抜けな声が返ってきた。

「……ナマエ、寝てるのか?」
「そう言っただろ」
「エースがいたのに?」
「それくらい体調悪いってことだろ」

 扉へ向かっていた手をそのまま後頭部へ回し、へえ……とデュースはぽりぽりと水色の頭を掻く。
 自分を訪ねてきた人間を放置してあっさり寝るなんていつものナマエなら考えにくいことだが、体調がいつもと違うのだから納得もいく。デュースはいっていないようだけど。煮えきらず唸るデュースがようやく「エース……」と口を開いた。

「念のため医者として聞くが」
「なんだよ」
「襲ってないよな? あ、キスも含むぞ?」
「ばっっ…………!!!」
「念のため! 念のためだ!! 二次感染のおそれがないか一応!!!」

 カルテというなんの気休めにもならない盾の向こうでデュースが振りかざされたおれの拳にぎゃあぎゃあと狼狽える。
 襲ってないかだと? なんて人聞きの悪い! シッケーなやつだ!!
 なんとか拳を納め、不機嫌を隠さずふいっと顔を反らす。

「変なこと聞いて悪かったよ。面会謝絶状態でしばらくナマエに会えてなかったし、エースが憎からず思ってんなら尚更募るもんもあんだろうなってさ…」
「人を獣みたいに言うなよ」
「この船には獣が多いからなァ」

 明確な否定の代わりに阿呆と一言罵る。
 募るものはそりゃある。男ゆえのどうしようもないソレも寝込むナマエを前にして霧散した。ただそれだけのこと。

募っちゃいるのだ。
情も、欲も。


***


「おっ、エース! お前も飲みに行くよなっ?」

 もう間もなく港に着くという折、甲板に数人の輪を作って今宵の予定を話していたサッチがおれを見つけるなり弾むようなトーンでそう声をかけた。
 思えば最近、陸で飲んでいないような。
 ナマエは病み上がりだから船で大人しくすると言うし、見舞いに行く度に二次感染を心配されるのも馬鹿馬鹿しい。
 じゃあ、とサッチの誘いに乗って、おれは到着した島の繁華街に繰り出したのだった。


 とある酒場で我ら白ひげ海賊団は大いに騒いでいた。
 あちこちでかち合うジョッキとテーブルや床に転がる酒瓶の本数に比例して大きくなる陽気な声。噎せ返るような酒の匂いと熱気に満ちる空間は海賊には大層馴染み深い。

 酒、肉、パスタ、肉、肉、スープ、肉、酒、酒、肉肉肉。
 店のおすすめだと差し出されたよく分からない魚料理もつまみ、サッチの与太話に茶々を入れる。何度目か知れぬ乾杯に幾度となく応えてジョッキを飲み干し、あれやってくれよ!とジョズにねだれば仕方ないなと渋る素振りを見せるくせに、皆まで言わずとも彼はお決まりの宴会芸をばっちり披露して店内を沸かせた。ジョズの身体を張ったミラーボール芸はいつも場が盛り上がるので大好きだ。
 こういうどんちゃん騒ぎの宴会には店の者なのか、はたまた偶然居合わせたノリの良い客なのか、大抵知らない女らが混じっていて、野郎連中は鼻の下を伸ばして隣へ迎える。そこから夜の街へ消えるのもまた一興。

「ぶへ、寝てた」
「顔にソースつけて、可愛いひと」

 いつの間にか隣に座っていた見知らぬ女が率先して額のソースを拭う。一体この悪癖の何が可愛いのか、おれにはいつも分からない。頼んでもいないのにと思いながらも施しには素直に礼を言って、口に残っていた肉を飲み込んだ。次はなにを食おうか。

「あなたエース隊長でしょ? 手配書よりずっとハンサムね」
「そりゃどうも。こんな風に褒められるなら有名になってみんのも悪かねェな。あんたも肉食うか? これ美味かったぞ」

 甘じょっぱいタレが照り照りと輝くブロック肉をフォークで示してやるが、女は隊長さんが食べてよと遠慮してみせた。

「久しぶりに飲みっぷりの良い海賊さんたちで楽しいわ」
「いやァ、騒がしい連中ばかりでお恥ずかしい。おれも陸で飲むのは久しぶりでついハメを外しちまう」
「ずいぶん長旅だったの?」
「うーん、まあそんなとこだな」

 なんとなく説明が面倒臭くなって、ついこの間ストライカーで島に行ったばかりだということは酒と一緒に喉の奥へ流し込んだ。やけに甘ったるい声を適当にあしらいつつ、カウンターの店員に酒の追加を頼む。
 新しい酒がくるまでの繋ぎに前方にあった誰かの飲みかけの酒瓶を取ろうと腕を伸ばした時、つつつ、と細い指が背中を撫でた。

「背中にマークってセクシーよね」

 艶っぽい口調、うっとりと伏せがちになった瞳、ねだるように刺青をなぞる指先。

「こいつはおれの誇りさ。あまり気安く触られちゃあ困るんだが?」
「あら失礼。じゃあこっちは?」

 女はすっと手を引っ込める代わりに悪戯っぽく笑って左腕に興味を示した。覗き込むように変えられた体勢で身体がより密着するが、腕や太ももに柔らかいものが当たったところで今さら動じるような野暮ではない。
 別に面白いもんじゃねェよ、と小さく笑っておれは手繰り寄せた酒瓶を一気に煽った。女は少し瞬いたあと、「なァんだ、つまんないの」と同じく小さく笑ってグラスを一口飲んだ。酒瓶に口をつけたままその様子を横目で見て、いい女だなと思った。

 夜は更け、酒は進み、回っていた酔いがさらに回り始めて3周半ほどした頃。便所から出てきたおれの前に、先程の女がいた。壁に寄り掛かって煙草の煙を細く吹き出す様をぼうっと眺めて、煙草を吸う女だったのかとアルコールでふわふわする頭で思った。
 おれに気付いた女は吸い残しの多さも気にせず、ぽとりと床に捨てた煙草を踏み消して、隊長さん、と近づいてくる。そして、物陰に誘うように正面から首に腕を回してきた。ガヤガヤとうるさいはずのホールの音が遠のいた気がする。

「私、少し夜風に当たりたいの。付き合ってほしいわ」

 形の良い赤い唇が触れそうな距離にある。
 どう? と首をかしげた女から香る甘ったるい香りに、これじゃあ煙草なんて気付かねェわけだと納得がいった。

 それと同時に、なんとも素朴な女が恋しくなった。


「――おれ、あんたみたいな女が好みだったんだけどな」


 妖艶で扇情的。獣、と言われればおれは俄然獣で、燃え上がるような夜が好きだし、慎ましい言葉の紡ぎ合いでは物足りない。ましてや手を繋ぐだけで心を満たすなんて到底無理な人間、だったはずなのに。
 思わず自嘲する。

「悪いがほかを当たってくれ」
「……あーあ! ほんと残念!」

 絡みついた細い腕は思いの外あっさりと解くことができた。女はべっと舌を出してわざとらしく拗ねたが、じゃあね、と騒がしいホールへ踵を返した。不用意に踏み込んでこない後腐れのなさは一夜のお相手としては大変好ましい気質だから、すぐに次が見つかるだろう。
 たぶん見た目もサッチあたりのストライクゾーンだ。

「わ、お姉さん可愛いねー! ずっといた? 今までどこで飲んでたんだ? え? エースんとこ? やめとけやめとけ、あんなせっかく人が作った飯に顔突っ込んで寝る男!」




 もとの席に戻って酒を飲む気分にもなれず、おれはそのまま店を出た。花街に近い繁華街を当てもなく数メートルぶらついただけでも纏わりついてくる女は数人いたが、やはり気分が乗らなくて全部断った。
 溜まるもんは溜まるのでこの辺で適当に発散させてくるのも悪くない。そんな下心を隠し持って今夜は飲みに出たんだけど、もういいや。おれの頭の中を占める女を忘れさせるほどの女は、少なくとも今夜は現れそうにないから。
 モビーに帰り着いたおれは水でも飲んで寝てしまおうと思って食堂を目指してのろのろと船内を歩く。
 ああ、なんだか無性に会いてェな。ナマエ、起きてねェかな。起きてるわけないか。

「あれ、どうしたの? 今日は陸に宿とるのかと思ってた」
「ナマエ………」

 日頃のなけなしの善行が実を結んだ、あるいは向こう一週間の幸運を注ぎ込んだのだと思う。
 薄暗い廊下で出くわしたナマエはおれを見つけるなり、とてとてと小走りで近づいてきた。元より酒であまり働いていない頭が、思いがけず叶った願望にきらきらと停止しかける。なんとか捻り出した台詞は「まだ、起きてたのか」という当たり障りのない問いかけだった。

「いやー、変な時間まで寝ちゃって……さっきお風呂あがって、水飲んでもう寝ようかなってところ」
「そうか……」
「そうなの」

 へらりと笑うナマエに心が緩んでいくのが分かる。

「おかえり、エース」
「――……」

ふわりと微笑まれ、堪らなくなった。
やっぱりこいつがおれの好きな女だ。

 ほぼ無意識だった。
 流れるような自然な動きで、ナマエを抱き締める。
 そのまま首筋に鼻を寄せると、シャンプーの香りに混じって飾り気のないほのかに甘い匂いがした。あ、だの、う、だの言葉にならない声を漏らしながら、ナマエが腕の中でぎこちなく動く気配を感じる。ちらりと見えた耳はすでに真っ赤で、素直に可愛いなと思った。

「エ、エース……、」

 上擦った控えめな声とともに、所在なく彷徨っていたナマエの両手が、意を決したようにひたりとおれの胸板に添えられる。
 おそらく本人としてはここからぐぐっと胸板を押しやって少しでも隙間を設けようという算段なのだろう。……そんなもの、押し返すだけの力があって初めて成り立つ状況だというのに。
 隙間なんて作らせてたまるかと思って背中と腰に回した腕に少しだけ力を込めてさらに身体を密着させる。首まで赤くなった。可愛いやつ。意地悪くほくそ笑んだって、余裕のないナマエは気付くまい。

「〜〜っ、エース! よ、酔ってるのね⁉」
「んー? どうかなァ、おれは酒強いぞ」
「う、嘘、騙されない! だって現にお酒の匂いするし‼」
「確かに飲んでたけど、正体無くしてるわけじゃねェし」

 これを単なる酔っ払いの気の迷いと思われるのも癪なので、一応釘を刺す。
 ナマエの香りと温度と声が、腕の中にすっぽり収まる距離にある。そう実感するとこのまま目を閉じて眠れそうなくらい満ち足りた心地になった。
 腕の中でささやかな抵抗をしていたナマエが不意にぴたりと止まる。

「………………エースいつもと違う匂いする」

 違う、匂い?
 違和感の正体を突き止めようと考え込むナマエの顔を窺えるように腕の力を緩める。

「なんか…甘い匂い……香水?」
「…………あ」

 思い当たる節なんてひとつしかない。

「……お風呂あちらです」

 ナマエはおれの間抜けな声に何かを悟ったようで、すすすと離れた。そして、呆れのような明らかな負の感情が含まれた口調と眼差しで風呂の方向を指差した。
 やべェ、こいつおれが一発ヤってきた不潔な大人だと思っているのでは?
 背中に嫌な汗が伝う。

「か、勘違いしてるようだがおれは女を買ったりは……」
「きゃー! もうそんな下世話なことわざわざ聞かせないでよ! 早く! お風呂! でなければ部屋帰って!!」

 ナマエは耳を塞いで顔を赤くし、ぴしゃりと言い切った。ずんずんと廊下を引き返していく背中におい、と手を伸ばしたが空を掴むだけだった。

「誤解だ……」

 1人取り残された廊下ですっかり酔いが醒めたおれは途方に暮れたのだった。