27


 思わず吐き出した息で手を暖める。冷えた空気が鼻をツンと痛くする。次は冬島かしらね、と言いながら朝からナースのお姉様たちがクローゼットの厚手のコートをチェックしていた。
 なるほど、冬島。

「ナマエ、防寒具足りてる? 貸そうか?」
「うーん、どれくらい寒い所なのかによりますね……」

 私も数少ない自分の服をいくつか見やって言葉を濁す。なにせ主な衣服を買い揃えたのはハワイを彷彿とさせる夏島。寒さを凌ぐものとなると当然心許ない。

「相当寒いわよ。コタツちゃんが冬毛になってるもの」
「グルルル……にゃーん」

 鋭い目つきと対照的な可愛らしい鳴き声で応えたのは、白ひげ海賊団の大切な仲間であるコタツという名の大きな猫だ。そしてコタツの首にぎゅうと抱きついたまま真剣な声色で答えたのは、昨夜から女部屋にコタツを招き入れたお姉様だ。コタツの毛並みはもふもふで最高に暖かい。



 彼女の宣言の通り、その晩には雪すら降りそうな極寒の航路となり、到着した先は白銀の島だった。島の北部には険しい山がそびえ、麓から三方の海岸に向かって街が広がっている。
 南部の正規の港とは正反対の場所、山陰にその巨大な影を隠すようにモビーディック号は錨を降ろした。

「この島のログは3週間近くかかるらしい、くれぐれも揉め事は起こすなよい」

 下船前、マルコさんが遠足の注意事項のようにみんなに言いつける。
 私もみんなに紛れてその言いつけを聞きながら、キョロキョロと甲板を見回した。見慣れたオレンジ色の帽子をクルーたちの隙間に見つけて近づく。

「……違和感」
「あ? なんだよ違和感って」
「エースが暖かそうな格好してる」
「冬島だぞ。しかも雪まで積もってる」
「いや、そうなんだけどさ」

 厚手の外套を着たエースが片眉をあげて首をかしげる。肩から足首まですっかり隠せてしまう丈も冬物らしい黒という重たい色も、出会ってこの方、身体の表面積の半分を生まれたままの姿で過ごしているエースが身に纏うには新鮮に思えた。
 ここ最近は何かしら羽織っていていつもの半裸ではなかったけど、その服装も十分薄着だった。小学生の頃に学年に1人はいたっけな。万年半袖半ズボンで登校する男子。そんな気持ちで見ていただけに、いざ普通に防寒具を着られると。うん。
 エースの隣に立って、ふと言われていたことを思い出す。

「あ、本当になんか暖かい気がする」
「今度はなんだよ」
「クロエさんたちが、エースの周りは暖かいよって言ってて」
「そりゃあこの体質だからな」

 そう言ってエースは帽子のてっぺんを燃やしてみせた。その姿がおかしくて私は笑う。

「エースは島でなにか予定ある?」
「特には。なんだ? ナマエは買い物か? 付き合うぞ?」

 察しよく私の顔を覗き込んで問うエースの顔はなぜだかわくわくと楽しげだ。私もちょっと防寒具を揃えたくて、と返せば二つ返事で快諾される。
 今着ているコートはクロエさんから譲ってもらったものだ。クローゼットの整理だと思ってもらってよと気前よくあれこれ出してくれたクロエさんに遠慮したら、物凄く渋い顔で「じゃあコートだけでも」と押し切られたのだ。服を買いに行く服がないんじゃ話にならないだろう、と。そして、防寒具を買い足すまでは天然暖炉のエース隊長と一緒に居るといい、と。
 買い物までのこの経緯を聞くと、エースは天然暖炉と呼ばれていることに嫌悪も見せず、そうかよ、と快活に笑った。先に歩き出したエースの外套の裾を掴むと、少し驚いた顔でエースは振り返った。
 今まで気付かなかったけど、確かに暖かい。この寒さがエースの存在を強調しているようだと思った。

「エース」
「な、なんだよ……?」
「船縁じゃなくてタラップから降りたい」


***


 町の入り口には大きな旗が掲げられていた。カモメの姿を模したようなマークの下にMARINEとある。エースはその旗を一瞥して、ぐっと帽子のつばを下げた。

「駐屯所でもあんのかもしんねェな」
「……あのマークは海軍、だっけ?」
「あァ。ログも3週間くらいかかるっつーし、目つけられねェようにしねェと」

 海軍ということは海賊にとっての敵――正義の味方を敵と見なす一団に自分が身を置いていることに改めてやや落ち着かなさを覚える。
 私、警察に守られる側の模範的かつ善良な一般市民だったもんなぁ……。
 話をして一緒に過ごせば、白ひげ海賊団の皆が暴力や略奪を生業にしているわけじゃないことはすぐ分かる。彼らは広い海でただ自由に生きているだけ。でも、きっと世の中の目はそうじゃない。

 私が海賊は悪いひとたちだと思っていたように、彼らを悪と思って怖がる人々もいる。あるいは、本当に暴力や略奪を生業とする者たちに酷い目に遭わされたという人々も。
――だから銃や剣を携帯して町中を巡回する海軍という組織の存在意義が肯定される。
 すれ違う男性がかぶる白い帽子のMARINEの文字を見て、私はさり気なく視線を落とした。翻った外套の裾から鞘がちらりと覗く。

 とても私の想像には及ばない世界が、きっとまだある。

「ナマエ!」

 私の物思いを遮ったのはエースの溌剌とした声だった。はっと顔をあげれば、いつもの調子で笑うエースが「なに見るんだ?」とこれから目指すべき店を問う。先ほど下げた帽子のつばも、見上げるほどの身長差なら多少影になろうと問題なくその整った顔が見えた。
 正義と悪、なにを以て線を引くのだろうか。

「ええと、マフラーがいいな」
「よし、良いやつ選ぼうぜ」
「予算内でお願いしますよ」

 他人の買い物にやけに意気込む姿にこっそりと笑みをこぼしながら、雪かきされた石畳の道を進んだ。



 ありがとうございました、という店員さんの声に見送られた後、お店が立ち並ぶマーケットをぶらつく。私は買ったばかりのマフラーを鼻先まで引き上げて、その防寒機能の高さを堪能する。少しくらいの北風ならこれでへっちゃらだ。元の世界で言うとカシミアのような肌触りの良さだが、値段はそこまでしなかった。この地域では一般的な素材なのかもしれない。

「マフラーだけでいいのか? 手袋とかは……」
「手も冷えるけど手袋はいちいち外すのが面倒でねぇ……身体の芯が暖かければ末端の冷えは我慢できる」
「我慢ってお前なァ……」

 満足げに目を細めて悦に浸りながらそう言うと、エースが不服そうにぼやいた。

「ひゃっ!?」
「……つめてェ。やっぱり手袋も買おうぜ」

 私の手を捕まえて、エースは眉間に皺を寄せて提案した。

「え、ええー……ダイジョブ、です…よぉ……」
「大丈夫なことあるか。すっげー冷えてるじゃねェか」
「う、うーん……」

 そうこうしている間も、私の手を包み込むエースの手から熱が移る。冷え切った指先が温められてじんじんとする。早鐘を打つ心臓から送られる血が全身をぽっぽっと熱くしていくのがわかった。

「手袋買わねェっつーなら、この天然暖炉様がずっと手繋いでることになるぞ」
「えっ」

 煮え切らない返事をする私にエースが意地悪を言う。

「ほらほら、どーすんだ?」
「えっ、ちょっと、えっ、」

 するすると反対の手も取られ、向かい合って両手を繋ぐという妙な構図になる。エースに手を引かれるまま、通行の邪魔にならないよう道の端に誘導される。繋がれた両手を凝視しながら私の頭はすっかり混乱していた。
 あったかい。恥ずかしい。でもあったかい。音を上げて買うと言わせる魂胆だ。困る、と言ってこの手を振り払うべきなのか。……困る? 私は、エースに手を繋がれると困るのか? ――この手に嫌な心地はしないのに?

「つ、繋ぐ」
「……は?」
「手、繋ぐ、エースと」

 ぐるぐると悩んだ挙句、ぽんこつになった思考回路が導き出した答え。体温をあげて混乱するのは、今度はエースの番だった。
 お互いの頭からぷしゅう、と音が出そうなくらい恥じらいと照れで満ちたむず痒い空気が流れる。

「っ、ナマエ、」
「え、エース、」
「ちょいとお二人さん」
「「うわぁっ!!??」」

 エースの背後、しかも足元からした声を慌てて見やる。

「店の前でイチャつくなら、なんかひとつ買ってきなよ」

 背を丸めた小柄なお婆さんがパイプの煙を盛大に吐き出した。揃って肩を跳ね上げた私たちに、心底呆れていますという眼差しをおくびも隠さず注ぎながら。
 エースの影になっていて気付かなかったとはいえ、一部始終を見られていたと思うともう手は繋いでいられなかった。ぱっと手を離して、エースと私、それぞれがお婆さんにおろおろと謝る。
 どうやらお婆さんは露天商で、私たちはちょうどその店の前であの青臭い寸劇を繰り広げていたらしい。木箱をいくつか並べて作った簡素な机には布が引かれ、その上に商品が陳列されていた。

「へェ、アクセサリーか」

 腰を屈めてエースが商品を覗き込む。ネックレス、ブレスレット、指輪、ピアス、女の子が好みそうな品々が一通り揃っていて、私も興味を惹かれる。

「天然石か? シャレてんなァ……ってなかなか良い値段つけてるじゃねェか婆さん」
「金のない男はモテないよ」
「けっ、余計なお世話だ」

 悪態をついたエースは手に取って眺めていた指輪をそっと元の場所に戻した。

「ここにあんのは全部一点物。今ここで買い逸れたら2度と出会えないんだから、本当に欲しいと思う奴は多少高くても買っていくのさ」

 ふぇっふぇっふぇっ、とお婆さんがパイプを咥えて笑う。一点物だのここでしかだの2度と手に入らないだの、お婆さんはそういう制約がいかに購買意欲を唆るのかをよく理解している。商売上手というやつだ。
 私も後ろ手を組んで並べられたアクセサリーを端から眺める。そんな中で私の視線がふと留まる。

「……これかい?」
「え? あぁ、可愛いなーって」

 それは小ぶりな赤い石が一粒あしらわれたシンプルなピアスだった。
 お婆さんは目敏く気付いて、小枝のように細い指でその赤を指す。見てただけです、と付け加えようとしたが、すでにエースがその指先を辿るように覗き込んでいた。

「お、綺麗だな。デザインも良い」

 一点物なら尚更触れない。そう思って観賞を決め込んでいた私を尻目に、エースはなんの躊躇いもなくそれを摘み上げ、私の耳元にあてがう。

「似合う」

 言われた言葉はたった3文字なのに、細められた目元が柔らかくて心臓が跳ねた。

「で、でもこれピアスだし、私穴開けてないから……」
「婆さん、イヤリングに直せないのか?」
「下手にいじると石を傷つけるからおすすめしないよ」
「そうか……」

 エースは残念そうに手の平の上でピアスを転がす。
 褒めてもらったのは嬉しいけど、買っても身につけられないなら仕方ない。素敵なものは見てるだけでも心を満たしてくれるから十分だ。
 少しだけ考え込んだあと、エースはお婆さんに声をかけた。

「これ、買うよ」
「ふぇっふぇっふぇっ。良い男だ、毎度あり」

 にっと笑ったエースにお婆さんは皺が深く刻まれる顔をさらにくしゃりと崩した。
 エースってピアスホール開いてたっけ。あ、クロエさんにお土産かな。それとも他のクルーに……?

「ほい、ナマエ」
「……はい?」

 ぼーっと二人のやり取りを眺めて考えていたら、くるりと向き直ったエースに小さな紙袋を差し出された。中身は当然知っている。たった今支払いを終えて梱包されたあの赤いピアスだ。

「……え、え!? 私に!? ピアス開けてないって言っ……」
「いつか、」
「へ……」
「いつかピアス開けたら、つけてくれ」

 そう笑ってエースは目を丸くする私の手に半ば無理やり紙袋を収めた。

「じゃあな、婆さん。商売の邪魔して悪かった。ありがとう」
「あっ、ありがとうございます」

 ゆるゆると目を閉じたお婆さんは片手を軽くあげて、パイプの煙を美味しそうに吸い込んだ。先に歩き出したエースに私は小走りで並ぶ。

「ねえ、本当にもらっていいの? 値札よく見えなかったけど高かったんじゃないの?」
「プレゼントだ、プレゼント。おれもそのピアス気に入ったんだし、値段も別に気にすんな。そんくらいの持ち合わせはある」

 ひらひらと手を振られてそう言われてしまっては、これ以上何か言うのは逆に失礼な気がして口をつぐんだ。

「ピアス、ありがとう。まだ穴開けるのは怖いけど…もう少し大人になったら開けるよ」
「おう、楽しみにしてる」

 紙袋ごしに指で撫でるとつるりと丸い石の形が分かった。エースからの贈り物が無性に嬉しくて、紙袋を両手で大切に持ちながら緩む口元をマフラーに隠す。
 確か校則には引っかからないけど開けるの怖いしピアスは卒業したらかなぁ、なんて妄想を膨らませてエースの後ろを歩いていると、「あ!」と聞き慣れた声があがった。手元の紙袋に注いでいた視線を前方へ向ければ、クロエさんたち、もとい数人のナースのお姉様方がこちらへ手を振っていた。
 そのまま近づいていく。クロエさんがエースの顔をちらりと伺ってにんまり微笑んでいる。

「エース隊長はなにそわそわしてたんです?」
「……別に、何でもねェよ」

 頭をがしがしと掻いて拗ねたような声を出すエースにクロエさんだけでなく周りのお姉様たちもケラケラと笑い出した。クエスチョンマークを浮かべる私の隣でエースだけが居心地悪そうに、ンだよ! と唇尖らせて黄色い笑い声に噛み付いていた。

「ねえナマエ、もう宿は決めてる? 決めてないなら私たちが取ったとこに一緒に泊まらない?」
「宿、ですか?」
「そう! 何週間もログが掛かる島のときはいつもナースでまとめて何部屋か取ってるのよ」
「船待機の子たちも降りてきたら代わりばんこで泊まれるようにね」
「女子だけで楽しい夜更かししましょうよ」

 微笑みと共に指差された先にはレトロな煉瓦造りのホテルが立っていた。
 女子だけの、楽しい夜更かし――その言葉に心が浮き立つ。思わず持ち上がった私の口角を見逃さず、決まりね! とクロエさんが抱きついた。

「ということで、悪いけどエース隊長は別のお宿を探してくださいね」
「〜っ、ナマエ! 明日はどっか行くとこあんのか!?」
「えー…特にないけど……?」

 防寒具は手に入れたし、あ、手袋はないままだけど。それでも別段不都合はないな。差し当たりしたいことはなくなったと伝えるとエースはびしりと私を指差した。
 明日の朝、このホテルのエントランスで待ち合わせ。それが次の約束となった。