28

 
 ぐありと大きく口を開けて欠伸をひとつ。未だ覚醒しきらぬ頭をぽりぽりと掻いて、冷気を閉め切る分厚い木の扉を押し開く。暖炉の暖かい空気に満ちたホテルのロビーをぐるりと見渡せば、ナマエの姿はすぐに見つかった。向こうもおれの姿に気付くとパッと顔を綻ばせてソファから腰を浮かせたので、軽く手を上げて応える。
 駆け寄ってくるその姿に、いつかの島で見かけた子犬の姿が重なった。千切れんばかりに尻尾を振って、足元にじゃれついてきた可愛い毛玉。
 なんの悪意もなく、犬みてェ、と感想を述べようと開いた口がはっと固まる。おれの数歩先の距離まで近づいたナマエに言葉が詰まった。
 あれ、なんか今日、すげェ可愛い。

「お、おはようエース!」
「……おはよう」

 何か違う、何が違う。
 目を丸くしてまじまじと見つめるおれに、ナマエは照れ隠しのようにわざとらしく挨拶をしてきた。違和感の正体を見つけ出すことに一生懸命なおれは当然生返事だ。

「お化粧したんです。可愛いでしょ」
「おわっ!!?」

 いつの間にか隣に来ていたクロエに肩が跳ねる。ふふん、と得意げに口角をあげたクロエは後ろからナマエの両肩を抱いて、どう? と感想を求めてくる。
 化粧と言われ、改めてナマエに視線を戻して合点がいった。ほんのりと色づいた頬といつもより持ち上がった睫毛。昨日買ったばかりのマフラーに埋めるように隠れてしまったがその唇には確かに潤みと艶が足されていた気がする。

「素材を活かしたナチュラル愛され系メイクです。すごく良いと思いませんかエース隊長?」
「ク、クロエさん、もういいですって……ほら、エースも反応に困ってますから……」
「良い」
「え?」

 ゆるゆると口元が緩んで、自分でも分かるくらいに満面の笑みになる。

「すげー良い! 可愛いな、ナマエ!」

 率直な感想をありのまま伝えれば、ナマエは耳まで真っ赤にして口をぱくぱくさせた。犬の次は魚みてェ、そんなことを言ったら女心にうるさいクロエに即刻大目玉を食らうのが目に見えていたのでなんとか堪える。
 クロエが固まるナマエの肩をぽんぽんと叩いた。

「じゃあデート楽しんでね、お二人さん」
「デッ、デートじゃないですってば!」

 この感じ、たぶん昨日からイジられるんだろうなと察しがつく。一方的かつ勢いで取り付けた約束だったけど、デートと言われれば間違いなくデートっぽい誘い文句だったように思う。
 むくむくと湧く悪戯心に乗っかって「デートじゃないのか?」と首をかしげると、ナマエはさらに分かりやすく動揺する。

「おれはデートのつもりだったんだけどなァ」
「ほら、言ったじゃないナマエ」
「〜っ、2人してからかわないでください!」

 けらけらと笑うおれとクロエにナマエが怒る。ひとしきり笑ったあと、クロエからこそっと声をかけられた。笑いの余韻に浸りつつ、あまり構えず耳を傾ける。

「今日は手、繋げると良いですね」
「は、」
「そわそわとナマエの手元を見てるだけじゃ繋げませんからね?」
「なっ……!!」

 ナマエの手を捕らえようか捕らえまいかと出したり引っ込めたりさまよわせていたのは、言わずもがな、ピアスを買ってからクロエたちに合流するまでのあの道でのことだ。昨日の心残りを再びイジられて、ぶわりと顔に熱が集まった。
 はいはいいってらっしゃーい、と半ば無理矢理クロエに送り出されてホテルをあとにする。
 結局クロエの一人勝ちである。この船の女は強かなのだ。


***


 店主のオススメというホットワインに口をつけて、辛味のきいたチョリソードッグにかじりつく。向かいに座ったナマエはジンジャーなんとかミルクティーとかいうのを飲んでいて、暖炉にあたる猫のように蕩けた顔で息を吐いた。

「なんかいいねえ……観光みたい」
「観光でいいんじゃねェのか」
「そっかー……」

 カップを両手で包んでかじかんだ指先を温めているらしい。その指先に今日はまだ触れられていない。一口啜るふりをして葡萄が香る淡い湯気ごしについ恨めしげに見つめてしまう。

「あ、もうすぐ始まるんじゃない?」
「そうみたいだな」

 店内のテーブルをどかして設けられた空間で、バイオリン、チェロ、アコーディオンの奏者らと1人の歌姫が楽しげに目配せをしながらチューニングを始める。ナマエもそわそわと居住まいを正してそちらを伺った。
 昼食を取ろうと店を探していたところ、ランチの時間に合わせて生演奏があるという誘い文句に惹かれて選んだのがこのレストランだった。プロではないがなかなかの腕前だぞ、と自慢げに笑った店主はこの小さな楽団と古くからの顔馴染みらしい。
 楽団の一礼を合図に拍手が湧き、演奏が始まる。軽快なリズムと心地よい音色におれたちを含む店のみんなの顔に笑みがこぼれた。人々の雰囲気といい、海軍の警備の厚さといい、昨日今日と見て回っただけでもこの街が牧歌的で平和な暮らしを送るには最適な場所であるかはよく分かった。

「おまちどお! ブートジョロキアペペロンチーノ大盛りと7種の野菜のポトフだ!」
「おお、ありがとうよ」

 チョリソードックをとうに食べ終え、2曲目が始まって少し経った頃、笑顔の店主が大皿を持って現れた。料理を置けるスペースを作るためにテーブルの上のグラスやカップを避けようと腕を伸ばしたとき、おれの袖から覗いたログポースに店主の眉がぴくりと動いた。
 ――どうやら昨夜、酒場で会ったスカルから聞いた話は本当らしい。
 どうぞ、と手の平を見せて善良な口振りで今しがた空けたスペースを促せば、熱いから気をつけてくれ、と店主も何気ない素振りで言葉を添えて料理をテーブルに置き始める。目の前にやってきた料理にナマエが美味しそうと微笑んだ。

「――兄ちゃんたちは船乗りかい?」
「ああ、そんなところだ。あちこち渡り歩いてる」
「つかぬことを尋ねるが……まさか海賊じゃねェよな?」

 警戒心を露わにした店主の質問にナマエが分かりやすく固まった。テーブルの下でこつんとおれのブーツの先をぶつける。つま先に伝わった小さな振動に、はたと瞳を揺らしたナマエがこっそりと視線だけこちらに寄越した。
 店内は演奏も相まって賑やかで、おれたちの会話に耳を傾ける客はいない。おれは背もたれにゆっくりと体重を預けて、店主を見上げた。

「とんでもねェ! おれたちは旅の一座さ」

 肩を竦めて笑い飛ばす。
 おれの返事に店主は少しだけ肩の力を抜き、ナマエはもちろんきょとんとしていた。

「旅の一座っつーと、演劇か?」
「いいや、どちらかというとサーカスに近いな。各々の特技を演目にして路銀を稼いでる」
「へえ、兄ちゃんの特技は?」
「軽業をいくつか」

 にこやかに続く会話に店主はおれたちが旅芸人だとほぼ信じたようだった。珍しい職業の旅人に出会ったもんだと今度は好奇心が勝っている。

「姉ちゃんの特技は?」
「え…ええと、私はその……裏方、なので特技とかは……」
「裏方だって大事な仕事だぞナマエ!」

 ナマエは戸惑いながらも空気を読んで話を合わせてくれた。

「しばらく見慣れねェ連中が街にいるが、おれの仲間だからよ。よろしく頼むよ」
「この時期はいつもより人の出入りが多いからな。知らない顔が多くても不思議はねェんだが、この島のエターナルポースじゃなくてログポースを持ってんのがちょっと気になっちまってよ……気を悪くしたらすまねェ」
「別にいいさ。それより、なにかあるのか?」
「あれ、あんたら祭りの参加者じゃねェのかい?」

 店主が意外そうな顔をする。祭りか。悪くねェどころか、わくわくする響きだ。飲めや歌えの楽しい宴は大好きだ。
 この島には公演目的で来たわけじゃないこと、今は休暇中みたいなものであることを適当に付け足して、出し物をする側でなく楽しむ側として祭りの詳細を尋ねてみる。

「春祭りって言ってな、スノードロップが咲き始めるこの時期に踊り明かして春の訪れを祝うんだ!」
「スノードロップって、白い花の……?」

 ナマエが問うと店主は、おう! と頷いた。雪が積もる中でも咲く強い花だ、と。思い浮かべていた花と一致したことが嬉しかったらしく、ナマエは手を合わせて小さく感激していた。

「今年はなんでか一昨日くらいから雪が止んでるから、もう少し早く咲くかもな」
「ま、まァ、そういう年もあんだろ。グランドラインだし」

 メラメラの実のせいなのか、おれがいる海域は大抵雪が降らない。大いに心当たりがある店主の疑問に、バレるはずもないのに要らない誤魔化しをつい入れる。
 厨房のカウンターから恰幅のいいおばさんが次の料理を運ぶようにと店主を呼んだ。

「おっと、悪いな。せっかくの料理が冷めちまうところだった」
「いや、祭りがあるって知れて良かったよ」
「春祭りは今日から10日後、5日間続く。旅のお二人も良かったら楽しんでいってくれ」

 店主がテーブルから離れ、さあ食うぞとカトラリーが入った籠に手を伸ばすとナマエと目が合った。

「……旅の一座って…」
「嘘も方便だ。ほら、スプーン」
「………」

 ポトフを食べるのに必要そうなカトラリーを漁ってナマエに渡す。ナマエは複雑な顔をしてポトフの皿を見つめた。おれはいただきますと手を合わせた。
 ナマエは何を思っているのだろうか。
 おれはぐるぐるとフォークに巻きつけたパスタを頬張る。

「当たり前だが、褒められた職業じゃねェからな」
「……そうかも、しれないけど」

 演奏はメドレーのように途切れることなく、3曲目に入る。冷める前に、ともう一度促すとようやくナマエも料理に手をつけ始めた。

「この町は、海賊が嫌いらしい」
「え?」
「数年前に海賊に襲われて、隣島の海軍が着く頃には領主も含めて大勢の市民が犠牲になった。それから一致団結で町を復興させて、海軍に強く要請して駐屯所を置いて、今日に至るってわけだ」
「そんなことがあったの……」

 ナマエは悲痛な顔で手を止めた。
 白ひげ海賊団に入る前から航海を共にしてきたスカルという男は、情報屋としての才能に長けた男だ。昨晩、酒場でばったり会ったそいつが掴んできたこの町の過去を聞いて、おれは静かに酒を傾けたのだった。残念ながら、この世界ではよくある話だ。

「不用意に相手を怖がらせたり怒りを買うくらいなら、黙ってた方がいいこともある」
「うん……」
「そんな顔すんなってナマエ。食い逃げするわけじゃねェんだ、これくらいの嘘は許してくれよ」

 理由はどうあれ、ナマエは嘘をつくのが嫌なんだと思って許しを乞うてみたが、彼女は首を振った。そして、小さく違うと呟いた。

「違くて、その、エースの言ってることは分かるし、咎めるつもりはないの……でも、なんていうか、」

 言いたいことがまとまらなくてナマエはもどかしそうに唸っている。その不思議な様子をもぐもぐとパスタを咀嚼しながら見つめる。

「わ、私は、好きだよ!」

 悩みに悩んだ末、一段と真剣で切実な表情で真っ直ぐおれを見つめてナマエが言い放った。
 呆気に取られるおれを見て、ナマエは少し身を乗り出してさらに言葉を足す。

「一緒にいて楽しいし、安心するし、優しいところもたくさん知ってるし、私はっ、私の目で見たものを信じるから!」
「ま、待て待て待て……」
「周りになんて言われてようと、大好きだよ!」

 なんだこの愛の告白は。
 いきなり始まった熱烈なそれにおれも混乱する。制止しようと掛けた言葉がナマエをより懸命にさせてしまったのか、ヒートアップしていく。

「私はほんとに…っ!」
「待てっつーの! お、お前が、その、だっ、誰を…好きだっつーんだよ…!?」
「"みんな"に決まってるでしょ!!」
「〜っ、だよなァ!!」

 テーブルに肘をつき、片目を覆うように手を当てておれはがっくりと項垂れた。でっかいため息もつけて。
 みんな、みんなね。分かってたよクソ。

「本当だもん……」
「……大丈夫だよ、そんなの普段のお前見てたら分かる。ちゃんとみんなには伝わってるよ」
「……ならいいけど…」

 頬杖をついてあまりにも今更な主張に少し笑うと、ナマエは唇を尖らせて気まずそうに目を泳がせた。
 海賊なんてなりたくてなった奴らばかりじゃない。事情は人それぞれでも、大半が世間からはみ出した連中の寄せ集め。万人から好かれることなど端から期待していない。
 分かって欲しい相手に分かってもらえたら、それでいい。おれたちはその絆を家族と呼んでいるのだ。

「――……」

 少しだけ、夢を見てしまう。

――不用意に相手を怖がらせたり怒りを買うくらいなら、黙ってた方がいいこともある。

 先ほどナマエに説いたばかりの講釈を自分に言い聞かせて、無謀な望みをひとり鼻で笑った。おれはそっと瞼を伏せ、話題を変えることにした。

「スノードロップって、ナマエの世界じゃ有名な花なのか?」
「え?」
「名前が出たとき、すぐにピンときてたみてェだったからさ」
「あぁ…昔、冬休みの自由研究で冬に咲く花を調べたことがあって。それで覚えてただけだよ」
「ジユーケンキュー……小難しそうなことしてんだなァ」

 研究だなんて学者みてェ。眉間に皺を寄せてそうぼやくと、ナマエはぷっと噴き出した。

「そんな大層なものじゃないよ、小学生の頃の話だし」
「ショーガクセーってなんだ?」
「ええと、6歳から12歳までが通う学校……って、エースは学校通ってなかったの?」
「通ってねェな。その歳なら山で熊とかワニとか狩ってた」
「ワニ!!!??」

 兄弟と仕留めたワニの大きさを両手で再現すれば「嘘でしょ!?」とナマエは一層笑う。その顔はさっきよりも明るくて、初めて彼女に出会った日に思ったことと同じことを思った。

ナマエは笑ってる方がいい。ずっと笑っててほしい。

 おれがずっと笑わせてやりたい。それは出過ぎた願いだろうか。


***


 東の空から夕闇が広がり始め、街灯がぽつぽつと灯り出した。他愛もない話をしながらぶらついていたらもうこんな時間だ。

「日が翳ると一気に冷えるね……うー」
「だから手袋買えば?」
「いやーでも次は夏島かもしれないし……」
「また冬島かもしれねェだろ」

 頑なに購入を渋るナマエがさすさすと手を擦り合わせる。その冷えた手をとっ捕まえて熱を分け与えてやりたいと思いながらも、クロエのしたり顔が脳裏を過るとなんとなく二の足を踏んでしまう。白い息が吐きかけられるナマエの両手をチラチラと横目で伺った。
 ああもう完全にタイミングを逃した。

「あれ?」
「なっ、……んだよ、急に立ち止まって……」
「あそこにいるの、先生?」
「あ?」

 家路を急ぐ人影が行き交う広場、ナマエが指差した先には確かにクルーたちから"先生"と呼ばれているミハールが歩いていた。
 ミハールはスカル同様、おれにとって旅の古株。狙撃の名手だが極度のインドア気質で滅多に部屋から出てこない。いつでも船番を率先して買って出る上、外出の用事も極力手短に済ませる男なので、船外で会うのは相当珍しい。

「おーい、先生!」
「……おや、エースさんとナマエさん」
「こんにちは…いや、こんばんは?」
「お前が下りてるとは珍しいな。本屋か?」
「それもありましたが……今日はあそこに」

 ミハールが静かに振り返った。東の丘の上にぽつねんと建物がひとつ建っていた。本屋や武器屋には見えない建物にミハールが行くとなれば、あそこがどういう場所なのか付き合いの長いおれなら自ずと窺い知れる。
 同じタイミングで建物を見やったナマエだけがきょとんと首を傾げていた。

「お二人、明日お暇なら一緒に行きませんか」

 わざと説明を省くミハールに思わず苦笑いが溢れて肩を竦める。

「え……え?」
「いいぜ、明日この広場でいいか?」
「ええ。時間は……9時なら起きられますかエースさん?」

 懐中時計を覗くミハールに「ばかにすんな」と舌を出したが、二日酔いで来られては困りますからね、と他の心配も付け足される。心外である。
 おれとミハールの間で約束が取り付けられていく様をおろおろと見ていたナマエが建物の正体をミハールに尋ねた。

「ナマエさんは子供の相手は苦手ですか?」
「ええと、苦手ではない、ですけど……?」
「良かったです。あそこが何なのかは明日行けば分かりますので」

 それでは、と軽くシルクハットを持ち上げてミハールはさっさと踵を返しておそらく自分の宿へ向かってしまった。話の流れにも物理的にも置いてけぼりを食らって、ナマエは困った顔でおれを見上げた。

「ま、そういうことだ」

 おれも説明は下手くそな方なので、ナマエの頭をぽんぽんと叩くことで誤魔化すことにしたのだった。