29
先生との待ち合わせは広場に9時だったが、エースはそれより早くホテルのロビーで待っていた。柔らかいソファに腰掛けて目深に被った帽子をアイマスク代わりに微睡んでいたらしく、私に掛けたおはようの声はずいぶん眠たげだった。
よっこいしょと腰を上げたエースは私の顔を見るなり、ん? と片眉をあげた。首どころか腰まで傾けて、顔を覗き込み、しまいには人差し指で私のマフラーをひょいと少し引き下げるので驚いて固まってしまった。近い近い近い。
「今日は口紅、だけ?」
「……よ、よく気付くね…口紅じゃなくてグロスだけど……」
本当はいつもと同じ薄化粧もしてるけど、確かに目立つところで言えばグロスが違う。昨晩開講の白ひげナース流メイクアップ講座で気分が上がって、以前の夏島で買ったものを付けてみたのだ。
エースが私の化粧の具合に興味を持つなんて。しかもその違いに気付くなんて。昨日の化粧がそれほど良かったのかしら。
俯いて一歩後ずさる私にエースは「へェ、綺麗だな」と笑って曲げていた腰をすっと伸ばした。口紅とグロスの違いはあまり理解していなさそうだ。
「さー、行こ行こ! 先生待ってるよ!」
「へいへい」
私は照れ隠しにエースの背中をぐいぐい押して、ホテルを後にした。
「それで、今日は何するのかエースは知ってるの?」
「んーなんだろうなァ。がっつり雪積もってるし雪合戦とか?」
「なにそれ……」
道すがら今日の主旨を尋ねてみるが、私が期待する答えではない。昨日もどこかのレストランから漂ってきた肉の香りに誘われたエースが駆け出してしまって、結局有耶無耶なまま帰路についてしまった。
先生の目的に心当たりがあるなら少しくらい教えてくれてもいいのに。
「あっ、雪合戦はやめだ。ナマエ手袋ねェもん」
「そこはいいんだけど……つまりは小さい子たちと遊ぶってこと?」
「主におれは」
「主におれは、とは」
「ナマエは先生だと思う」
「……"先生"?」
頭の後ろで腕を組んだエースがこくりと頷く。私の頭の中にはクエスチョンマークがもりもりと湧く。
「そうですね、ナマエさんには私の授業の補佐をお願いしようと思ってます」
「わぁっ!?」
「お、先生おはよう」
「おはようございます。ちなみに雪合戦もおそらくなしです。私が昨日やってしまいましたので」
「そっか」
「せ、先生、おはようございます…いつからそこに……」
「今しがたですよ」
広場に着く前に、気配もなく合流してさらりと会話に入ってきた先生に思わず心臓辺りをぎゅうと押さえる。びっくりした、すごくびっくりした。一般人にも分かるように気配は多少漏れ出しておいてほしいです先生。先生の宿はこの辺りだったのかそうかそうか、と納得するエースの言葉を聞き流しながら心臓を落ち着ける。
ついさっきの短い会話の中に私の知りたい情報の欠片を見つけ、私は改めて先生に声をかけた。
「先生、授業ってなんですか? 授業…するんですか……?」
「ええ。教師なので」
教師……?
「……そんな驚くか? ナマエだってずっと先生って呼んでるじゃねェか」
「え……? 先生は先生なんですか…? 私てっきりそういうあだ名なんだとばかり……」
「教師です。こうして海賊船に乗ってオヤジ殿にも忠誠を誓っていますし、海賊という肩書きを名乗り始めてから久しいですが、私の本質は教師です」
凛と澄んだ声で先生はさも当然という風に言った。
先生、なのか。ぼけっと見上げる私を横目に先生は言葉を続ける。
「私の夢は、教育を受けられない世界中の子どもたちに海を越えて知識を授けることです」
真っ直ぐに前を見つめる視線同様、その言葉に淀みはなく、これが本来の先生なのだとようやく知る。
しかし今度は、やっと知り得た主旨に違う不安が頭をもたげた。
……授業って何するの? 人に何かを教えるなんてほぼ経験がない。テスト期間直前に泣きついてきた友人に英文の和訳を教えたのが最後の記憶だし。先生のいう子どもって何歳くらい? 小学生くらい、だとしたら人数は? これから行くところが学校みたいな場所ならそこそこいてもおかしくない。ああでも授業するのは先生で私は補佐だから人前に立つわけじゃ……教科、教科はなに!? 世界史や地理なんて言われても知識皆無だよ!?
「――ほら、考えすぎる」
「へ、」
「ナマエさんはいささか真面目すぎるきらいがあります。昨日時点で下手に詳細を伝えると今みたいに一晩唸っていそうだったので黙っていたのですが……難しいと思いますが、あまり気負わずに」
「ええ〜……」
そんなこと言われても、という視線を受け止めて先生が小さく笑う。
「あれこれ言っててもあと少しで着きそうだぜ」
「え?」
エースの声に顔をあげると、緩やかな坂を登り切った先、件の建物はあと少しの言葉にふさわしい距離に近づいていた。辺りが白に覆われる中で、雪が滑り落ちた尖塔の濃い碧だけが厚い雪雲が覆う空へ真っ直ぐに伸びて映えている。遠くで見るよりも古ぼけた印象を受けたが、雪かきがしっかりとなされた道にはちゃんと人の気配があった。
「それとも、諦めて引き返すか?」
試すような、挑発するような、そんな笑みでエースが訊ねる。
ここで引き返して、くいは残らないか――自問自答の答えは考えるまでもなかった。
「っ、行く!」
大切な家族の夢の手助けができるなら、臆病風に吹かれてなどいられない。
***
目的地まであと100mほどという距離で足を止めたエースがぐっと人相を悪くして目を凝らす。そして、ありゃなんだ、と指差して先生を訝しげに問う。
「門番、とでもいいますかね」
「はあ? あのチビが?」
「チビじゃねェー!!」
腕を組んで仁王立ちで扉の前に立っていた少年がワッと吠えた。すぐに唇をきゅっと引き締めてこちらを威嚇するように睨む。
面食らう私とエースをよそに、先生は平然と歩みを進める。
「ウィル君、おはようございます」
「本当に今日も来やがったんだな」
「シスターとお約束しましたから。でも安心してください。今日の授業は読み書きではなく算数です」
「げっ」
「算数も苦手なようですね」
「う、うるせー!」
ウィル君、と呼ばれた10歳ほどの少年はあっさりと目の前まで近づいてきた先生にやや後退った。
「おっ、おれはまだお前のこと認めてねェからな!」
「おや、あなたのルールに則って正々堂々勝ったのに心外ですね。もう一度雪合戦で勝負しますか?」
「……し、しねェよ、負けは負けだっ! つーか! 昨日より知らねェ奴が増えてるし! どういうことだよ!」
先生との言い合いに勝てず言葉に詰まったウィル君の矛先がこちらへ向く。ああ、と振り返った先生は私たちが自分の仲間で、授業の補佐役と雑用として連れてきたのだと簡単に説明した。一応会釈をする私の横でエースは「雑用もあんのかァ」とぼやいている。
品定めをするように私たちを睨んだあと、ウィル君が叫んだ。
「ここに用があるってんなら、おれに勝ってからにしろ!!! おれを倒さねェ限り、この扉はくぐらせねェ!!!!」
宣戦布告だった。この様子だと、おそらく昨日先生にもしてるな。あ、雪合戦ってそういうことか。
「――ヘェ、こりゃ立派なナイトだ」
「馬鹿にすんじゃねェ!!!」
「してねェさ。いいぜ、やろう」
「ちょ、ちょっと……!」
不敵に笑って肩を回すエースに大人げないと言いかけたが、双方の真剣な眼差しを見て私は口をつぐんだ。
私たちが余所者であることを差し引いてもこんなにウィル君が敵意を剥き出しにする理由はまだよく分からない。とはいえ本気で挑まれた勝負には本気で応えなくてはいけない。
私も気合いを入れてウィル君に向き直る。
「勝負ってのは何すんだ?」
「おれを捕まえてみろ。範囲はこの丘全部だ」
「要は鬼ごっこってわけか。受けて立つ」
舞台はこの雪原。建物の周りはまだしも、柵で囲まれた庭は雪かきがされていない部分も多い。道の端に積もった雪は私のふくらはぎ程あって、この中を駆け回るのはなかなか厳しいかもしれない。私の体育の成績は並なのだ。
……いやでも待てよ?
「鬼ごっこ……ねえ! 2対1にしろ、2回に分けるにしろ、君の方が不利じゃない?」
「はあ? あんたはやんなくていいよ!」
「え?」
何言ってんだとでも言いたげな目線がウィル君から寄越される。いま君、用があるならおれを倒せって言ったじゃないか。呆気に取られる私にウィル君がふん、と鼻を鳴らす。
「おれは女子供には手は出さないって決めてんだ」
「くくっ、いい男じゃねェか」
「アッ、ソウデスカー……」
真面目に準備運動の必要性を脳裏によぎらせた自分が恥ずかしい。
勝負の相手として対峙する2人の間にはすでに緊張感があり、土俵にすらあげられなかった私はそそくさと先生の側へはけた。
ウィル誰か来たのー? という幼い声がぱらぱらと降ってくる。声のした方を見上げると、ウィル君の声を聞きつけた同年代のほかの子どもたちが窓から顔を出して団子のように連なっていた。勝負事と分かるなり盛り上がり始める。
当然ウィル君を応援する声ばかりだが、アウェイの方が燃えるらしくエースはますます楽しげだった。
「あっ、こらウィル! またお客様に勝負を吹っ掛けてるんですか!?」
「うわっ、シスター…!」
「すみません、この子ったらまた……!」
扉を勢いよく開けて現れた黒いローブ姿の女性が先生の姿を見るなりぺこりとこれまた勢いよく頭を下げる。口ぶりからしてこの方が子どもたちの監督役のようだ。シスターという呼び名の通り、映画で見るような修道服姿につい見惚れてしまう。
恐縮する彼女にエースは「郷に入っては郷に従えってやつだ」とウィル君の勝負をこのまま受ける気でいることを暗に示した。
「でも……」
「いいです。好きなだけやらせましょう」
先生の言葉に申し訳なさそうに肩を落としたシスターはすみません…とため息をついた。
ウィル君が駆け出すと同時に始まったギャラリーの子どもたちによるテンカウント。0の声とともにエースも駆け出して、わっと場が湧く。
正直、エースが圧勝するものだと思っていた。相手が子どもだから、というよりはエースの体力と運動神経が超人級だからだ。雪なんて物ともせず、あっという間に勝負はつくだろうという予想に反して、ウィル君とエースの鬼ごっこは白熱していた。ウィル君は小柄な体躯を活かしてエースの脇をすり抜けたり、木に回り込んで逃げたと思ったら幹をひと蹴りしてエースの頭上に見事落雪させたり。窓から顔を出す子どもたちの「右から来てる!」「危ない!」などの野次がアシストになっているのも確かだが、ウィル君は相当上手く立ち回っていた。
首を振って帽子にのし掛かった雪を払い落としたエースがチクショウ! とウィル君を見据え、雪を蹴り上げて再び駆け出す。
「思ったより苦戦してますね……」
「相手のフィールドだからというのもありますし、なにより…」
「なにより?」
「やはりエースさんは雪に慣れていません」
彼は雪を溶かして歩く人間ですから、と耳打ちされる。
それもそうか。エースがひとたびその身体を炎に変えれば、行手を阻む雪の億劫さなんて感じる必要はない。改めて便利な力だな、と感心した。
そうこうしている間にエースがまた距離を詰めて、各窓がスリラー映画の観客のように沸く。このまま直線コースならエースに分があるが、あいにくウィル君が走る先には小さな物置小屋があった。また上手く回り込まれて逃してしまうかもしれない。おそらくウィル君もそのつもりで誘い込んでいる。
手に汗握る展開に私もつい声をあげた。
「エース!! がんばれ!!!!」
私の声はウィル君を応援する子どもたちの声に掻き消されず、エースに届いたのだろうか。
物置小屋の裏手へ素早く回り込んだウィル君に対して、エースはぐっと踏み込んで、高々と跳び上がった。ふわりと軽やかに屋根へ飛び乗り、勢いは殺さぬまま美しいフォームの宙返りを交えて向こう側へ姿を消した。その場にいる誰もがそのエースの鮮やかな身のこなしに言葉を無くして魅入っていた。
そして、間髪なく物置小屋の裏からウィル君の心底驚いた声が聞こえた。
「勝負あったな」
「くっそォ……屋根飛び越えるなんて無茶苦茶だろ……」
「そんな褒めんなよ」
肩をばしばし叩かれながら姿を現したウィル君が悔しそうに上機嫌なエースを睨む。どうやら軍配はエースにあがったと見える。炎の力を使わなくても、やっぱりエースの身体能力は異常だ。勝敗の行方を察したギャラリーたちは、手を叩いてより一層盛り上がりを見せた。
「約束だからな、仕方ねェ……お前らにこの孤児院への立ち入りを許可する」
エースと私に渋々告げたウィル君は、すぐさまシスターに雷を落とされていた。
どうやらこの建物は孤児院だったらしい。