02

 
 どうやら文字通り、空から突然降って湧いたナマエをこの男が見事に受け止めてくれたらしい。
 歳は若い。テンガロンハットのオレンジ色と緩くうねった癖毛の黒のコントラストが印象的な男だった。
 男の腕の中から半ばずり落ちるように降りたナマエは自分でも笑ってしまうくらい腰が抜けていた。顔面蒼白という言葉を使うなら間違いなく今がピッタリだろう。

 船は徐々にスピードを落とし、青海の真ん中で止まった。ゆったりとした波の揺れがここは海上だと嫌でも悟らせる。
 どこから落ちてきたのか、という男からの質問にも答えず、ナマエはしばし呆然と海を見つめた。痺れを切らした彼はナマエの横に腰を下ろして顔を覗き込んだ。ちょっと顔が近いがそれどころではない。

「おーい、聞こえてんのか? なァー」
「う、海です、ね……?」
「? おう、海だな」
「えと、あ……っ、助けてくれてありがとうございました……」
「こりゃどうもご丁寧に。どういたしまして」

 ぺこり、ぺこりとお互いのこうべを垂れる。間抜けという言葉の使いどきは今であろう。
 夜のバイト帰りに階段から落ちたと思ったら、真っ昼間の海に瞬間移動していました。彼女は脳内で状況を簡潔にまとめてみたが、まさかひとに言えるものではなかった。あまりにも分かりやすく非現実的で、頭が狂ったとしか思えない。なので、巨大な戸惑いを喉に詰まらせて言葉を失っている。

「まァ、怪我がなくて良かったじゃねェか」

 男は簡単な声音でそう言って、帽子を片手で軽くに押さえながら立ち上がった。その挙動ひとつで船は軽く揺れる。ナマエは思わず船縁をつかんで頼りなく彼を見上げた。そして見上げて気づいた。
 この男、よくよく見れば上裸に肩掛け鞄1つというとんでもない軽装である。この船だって大海原を渡るには心許ないものに見える。360度見渡しても島影ひとつ見えないこの状況。……
 彼女の心に、フと影がさす。

「……も、もしかして遭難、とかしてるんですか……?」

 恐々と訊ねると、男は目をぱちくりとさせ、ひと呼吸置いてから腹を抱えて笑い出した。ナマエは訳が分からず、つい眉間に皺を寄せて男を睨む。目尻に溜まった涙を拭って彼はヒーヒー言いながらなんとか口を開いた。

「遭難なんかしてねェから安心しな。しっかし、偉大なる航路ともなると人が落ちてきてもおかしくはねェってことか?」
「ぐらんど……? え? なんですか、それ……?」
「え?」
「え?」

 ざざんと波が船を揺らす。

「この海の名前さ。聞いたことくらいあンだろ?」
「ないですないです。え? ここ太平洋とか日本海とかじゃないんですか? どの辺の海なんですか?」
「タイヘーヨー……? あー、どの辺かって言われりゃあ……」

 男は何とかナマエに場所を説明しようと様々な島の名前を出してみたが、彼女はひとつもピンとこなかった。まったく話が噛み合わない。男もなにかおかしいと思ったのか、説明を諦めて口をつぐむ。
 沈黙が流れ、ナマエの心臓がじわじわと冷えていく。

「い、今からする質問に簡潔にお答えいただけますか?」
「お前、おれの質問には全然答えねェくせに……」
「いーから!」

 男はへいへい、とマストが立つ船尾に腰かける。

「日本はここからどっちの方角にありますか?あなたは何者ですか? 漁師さん? この船、オールもエンジンも積んでなさそうですけど動くんですか?」
「質問が多い……」
「いーーから!!」
「わァったよ」

 んー、と頭をがしがし掻く男の返答をナマエは固唾を飲んで待つ。頼むから納得できる答えがひとつでもあってほしい。それだけを切に願って。

「まず、ニホン? なんて島は知らねェ。聞いたこともねェし、たぶんこの辺りにもない。おれはエース、ポートガス・D・エース。海賊だ」
「は……? 海賊……?」
「そんで、船はこうやって動かす」

 男、もといエースの足が突如燃え上がる。強い風もない海上を、帆が畳まれた状態の船が進みだした。

「おれはメラメラの実を食った炎人間だ」
「わーーー!! 船!! 燃えちゃう!!」
「うおああ!? 海水をかけるな!! やめろ!!」

 ナマエの懸命な消火活動を一喝し、エースの足元の火は無事鎮火する。
 彼女は痛いほど強く鳴る心臓を抑えて、目の前で起こった事態をなんとか噛み砕こうとする。が、無理だった。

「な、何したんですか!? こんな狭い船で火遊びなんかやめてくださいよ!」
「どうやって動かすのか聞いたのはそっちだろ!?」
「大体海賊ってなんの冗談ですか!? このご時世にそんなのいるわけ……っ!」

 ない、と言おうとしたがそれはエースの鋭い眼光で阻まれた。ナマエがぐっと口をつぐむと今度は彼が口を開いた。

「なァ、お前の名前は?」
「……ナマエ、です」
「ナマエ、お前がニホンとかいう島の世間知らずだってこたァ分かった」
「世間知らずって……」
「だけどな、偉大なる航路は確かに存在するし、この世には海賊なんざごまんといる」

 エースの肩に陽炎が揺れた。


「おれのこの炎を見て、まだ火遊びなんて言うか?」


 ゆらりと炎を纏って不敵に笑うエースが、この何もかも馴染みのない世界が本物だという何よりの証拠だった。
 ナマエはヒュッと息を呑んで、思わず胸の前で両拳を強く握る。彼女の顔に届く熱は本物だった。
 事実は小説よりも奇なりとは言うけれど。でも、だけど。

「こ、これはどういう仕組みなんですか……?」
「さあ? 自分の体が炎になる。それだけだ」
「エースさん、熱くないんですか……?」
「おれはな。でもナマエが触れば火傷するれっきとした炎だ」
「……」
「信じたか?」
「……はい」

 ならばよろしい、とばかりにエースは炎を収めて笑った。
 ナマエはエースが当たり前のことのようにこの摩訶不思議を話すし見せてくるから、ドキドキと脈を早くしながらもそう返事をするよりほかなかった。
 この近距離で見ても、なにか仕掛けや細工があるようには思えなかったのだ。エースの体は炎と化していた。彼が名乗った通り、その姿はまさしく炎人間と称するにふさわしい。

「とりあえず船を出すぞ。おれはいま食糧調達の旅の途中でね」
「え、あ……ど。どうぞ……」
「これから行く島は、そこそこ栄えた島だからそこまで乗っけてやるよ」
「いいんですか? 助かります……」
「海に捨ててくわけにもいかねェからな」
「怖いこと言わないでくださいよ……」
「ワハハ」

 ナマエは船の後方部分にちょこんと座ってマストにしがみつく格好で腰を据える。エースとはマストを挟んで座る形である。彼の炎を原動力に、船は大海原を進みだした。
 島への道中、エースは色々教えてくれた。ここが偉大なる航路という名の海であること、悪魔の実とその能力者のこと、自分は白ひげ海賊団の一員であること。
 そして何より時間を割いて語ったのが、彼が尊敬してやまない“オヤジ”と大切な“家族”のことだった。身振り手振りを交えて語られる白ひげ一味の冒険譚は聞き飽きることはなかった。
 最初こそ半信半疑だったが、こうも目の前で燃え盛るエースを見てしまっては信じざるを得ない。

「なんだか、私が知ってる世界とかけ離れてて現実味がないですねー……」

 船頭の先に広がる水平線を眺めてナマエは呟いた。ひと度口に出せば、真っ黒な不安が満ち潮のように胸に流れ込んでくる。
 これが現実だと言うなら、これからどうやって生きていくんだろう? 島に着けばなんとかなるだろうか? そもそもどうしてこんな世界に来てしまったんだ? 帰り方は? 元いた世界は今どうなってる?
 ああ、いけない。頭がパンクしそう。

「かけ離れてるっつーか、ナマエは違う世界からきたんじゃねェか?」
「いやいやいや、そんなまさか……」

 追い討ちというか、トドメというか。軽い調子のわりに的を得たエースの一言は、ナマエの言葉が途切れる決定打になった。
 背後で沈黙した彼女に、エースは口をへの字にして「しまった」と思う。

「……ナマエ、島に着いたら何か美味いもんを食おう!」
「え?」
「ここで会ったのも何かの縁さ。島にいる間くらい、一緒にいてもいいだろ?」

 島まで乗せるという約束を自ら反故にしてエースは、な? と笑顔でナマエへ振り返った。キョトン…とした顔の彼女を見て、泣いてなくて良かったとエースは密かに胸を撫で下ろす。
 ナマエは彼のこの心遣いに胸を温かくして、胸に広がる安堵にほろりと笑みをこぼした。

「……はい、ありがとうございます」
「うん、お前笑ってる方がいいな!」
「そ…そりゃどうも……」

 ナマエは慣れないストレートな褒め言葉にどぎまぎする。照れて視線を逸らした彼女をよそに、エースは「肉くいてェな肉!」と腹の虫とすでに食事の相談を始めていた。