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 ぴょこぴょこと挙がる小さな紅葉の手を数え、授業の進行を見守る。指名された男の子が先生の立つ教壇に上がって黒板に答えを書きつけるその様子はまさに小さな学校だった。
 ここには15人ほどの子供たちと1人のシスターが住んでおり、ここにいる子はみな孤児なのだという。その境遇に至る経緯は昨日エースから聞いた海賊の襲撃だということは多くを聞かなくても分かった。
 ここでも私たちは"旅の者"という曖昧で無害な立場を名乗っていた。

「ナマエちゃん、ここ教えてー」
「ん? どこ?」
「ここ、よく分かんなくなっちゃった」
「んーと、これはね……」

 私の元へきた女の子が持ち寄った教科書を広げて指差す。孤児院のみんなで使い回しているのか、教科書は端々が擦り切れてずいぶんと年季が入っていた。教える内容は小学校低学年程度の算数で、なんとか私にも補佐役が務まって良かった。なにより子供たちの人懐っこさに助けられた。
 船では超インドア派として通っていてクルーと話すことどころか、部屋から出ることすら珍しいと言われている先生が対生徒となると至って普通にその職をこなしていて、内心驚いた。これが彼の本質で、夢に向き合う姿ということか。

「みなさん、お昼の準備ができましたよ」

 控えめなノックとともに教室に顔を覗かせたシスターの言葉に子供たちは勉強道具を放ってわいわいと食堂へ駆け出す。あっという間に教室に取り残されたシスターと先生と私の3人は顔を見合わせて笑った。

「エースさんは?」
「薪割りを手伝ってくださってます」
「そうですか」
「ナマエちゃんも早くー!!」
「ぅえ!? え、えーと……」

 ぴゅんと舞い戻ってきた女の子に腕を引かれる。昼食会場にいけば必然的にお昼をいただく流れになりそうなのだけど。躊躇いを見せる私に「ぜひナマエさんたちも召し上がっていってください」とシスターが優しく声をかけてくれた。お言葉に甘えます、という先生の返事に私も続けてお礼をして、女の子に引かれるがまま教室を出た。走らないようにというシスターの注意の声に女の子は良いお返事だけした。
 転げ落ちないようになんとか階段を降りきり、1階にある部屋の中で一番大きな扉を開けるとふわりと良い香りが鼻腔をくすぐる。食堂と思われるそこでは、子供たちがすでに配膳を開始していた。その手つきはどの子も手慣れていて、これが彼らの日常らしい。私も子供たちに混ざって見様見真似で食事の準備を手伝う。

「手伝わせてしまってすみません」
「いーえー、気にしないでくださいシスター」

 野菜スープを深皿によそいながら、遅れて食堂に現れたシスターに笑いかける。私にとっては久しぶりに4番隊の給仕の手伝いをしているようなもの、特に厭いはしない。
 そこへコンコン、と近くの大窓を叩く音が飛び込む。私が振り返るより先にエースだー!! と数人の子供たちがきらきらとした声色でその音の元へ駆け寄った。子供たちの手によって開け放たれた窓の外には、つい先ほどまで薪割りをしていたであろうエースが立っていた。窓枠に肘をかけて、美味そうな匂いだな、とくんくんと鼻を利かせている。
 屋根越えの大ジャンプのおかげでエースはすっかり子供たちの人気者になっていた。

「エースなにやってたの?」
「えー!? なんでコート着てないの!? 寒くないの!?」
「それよりさっきのすっげージャンプもっかいやってくれよ!」
「元気だなァお前ら」

 自由に口を開く子供たちにエースはからからと笑った。
 室内にシスターの姿を見つけて、エースが手を振って彼女を呼び止める。

「薪割り終わった! 割ったやつどこに置いときゃいい?」
「ありがとうございます! そのままでいいですよ、あとは運んでおきますから!」
「結構割ったぜ? あの量運べるか?」

 親指でくい、と指した先の山のようなシルエットの薪にシスターが口元に手を当て、思わず声を無くす。シスターのリアクションを見るに、エースはものすごい量を割ったんだろうな……。

「ええと、じゃあ……運んでもらおうかしら……」
「裏の庇の下あたりか?」
「ええ……」

 任せなーと軽い口調でエースは窓から離れていった。
 すげェ、しばらく薪割りしなくていいじゃん、やったー。口々にエースを褒めて、子供たちも自分の席に散っていく。


「えーと、もうみんな行き渡ったかな」
「ナマエちゃんの席ここね!」
「うん、ありがとう」

 配膳を終えて、ぐるりと食堂を見渡した折、入り口あたりにエースの姿を見つけた。薪運びも終わったと見えるが、ぼんやりと立ち尽くしているようでその足は一向に食堂に踏み入ってこない。
 おかしいな、いつもならご飯には文字通り飛びつく勢いなのに。そう不思議に思いながら私はエースへ近づく。

「私の隣、つめれば座れるよ」
「――え?」

 エースの腕を引いてそう伝えると、エースはハッと目を丸くしてようやく私を視界にとらえた。想定していなかったリアクションに私も少し面食らう。

「あれ? 席見つからなくて困ってたんじゃないの?」
「あ、あァ、うん、ありがとうな」
「どうしたの?」
「いや、……あったけェ部屋だなと思って」
「外寒かったもんね、お疲れ様」

 鼻を赤くしたエースがくしゃりと微笑んだ。
 全員席についたのを確認して、短いお祈りの言葉のあと食事が始まった。



 授業の続きかと思いきや、午後はみんなで遊ぶだけだった。先生曰く、こういうのはメリハリが大事なのだと。
 エースは子供たちのリクエストに応え、庭でバク転やら逆立ちやらを披露していた。町のレストランで軽業師と名乗ったのも頷けるほどの軽やかな身のこなしだ。先生は旅で見聞きした逸話や歴史を話してきかせている。
 私も私で孤児院を案内してもらったり内緒話に混ぜてもらったり、穏やかな時間を過ごしていた。
 そして日が暮れてきた頃、孤児院を後にした。

「今日は騙し打ちのような形で連れてきてしまいましたが、明日以降はどうしますか?」

 丘を下りながら先生が口を開く。

「春祭りが始まるまではあの孤児院で授業をする予定です」
「そうですね……なかなか楽しかったですし、お邪魔でなければ私も通いたいです」
「エースさんは?」
「いいぜ。どうせおれも暇だ」

 明日からの予定が決まった。朝から向かう場所と大まかなスケジュールが決まっている生活は、元の暮らしを思い出してやはり安心感を覚える。海賊の自由な船旅に慣れたと思っていたが、どこまでも私は庶民なようだ。
 先生とは広場で別れ、朝のようにエースと2人になる。このままホテルに帰るのもひとつだけど。

「エース、お腹空いてない?」
「あ?」
「お昼あの量じゃ足りなかったんじゃないかなーって。珍しくおかわりしなかったでしょ」
「そりゃまァ……こっちはよそもんだし、しかも孤児院のメシだろ? あんまりがっついて大事な食糧を食い潰すわけにもいかねェさ」

 さも当然と話すエースにちょっと驚いた。サッチさんに聞かせてあげたい。

「……エースってたまにそういうとこあるよね」
「どういうとこだよ」

 首を傾げる彼より一歩先に歩き出して、なんでもなーいと軽い返事をする。

「夕飯なにか食べていこうよ」
「肉!!」

 間髪入れずに顔を輝かされて吹き出す。
 一歩引いて他人を思いやれるエースも、素直に気持ちよく笑うエースも、どっちも素敵だなと思った。


***


 春祭りまであと6日。

 孤児院での午前は授業、午後は遊んだり旅の話をしたり。ここへ通い始めて3日も経てばすっかり打ち解けた。
 そして今日はウィル君を始めとする子供たちにとっておきの場所を案内されていた。

「ほらこっちだぞ!」
「早く早く!!」
「転ぶなよー」

 先導する子供たちの背中にエースが声をかける。孤児院から少し歩いた先は、眼下の森が開けて海が一望できるスポットだった。

「へえ」
「わあ! 見晴らしが良くていいね!」

 いいでしょ! と、子供たちは自慢げに笑って私とエースの回りをくるくると駆ける。素直に微笑ましく思えていたのも束の間、私はぎくりと固まった。隣にいるエースの外套をちょいと引っ張り、彼にだけ聞こえるくらいの声量でひそひそと話しかける。

「エース、あれって」
「……モビーのけつだな」
「………大丈夫かな」
「帆は畳んでるし、旗も……ギリ見えねェ、と思う」

 町外れの見晴らしのいい丘の上でようやく船体のごく一部が見えるくらいだから大丈夫、と信じたい。ウィル君たちも気付いていないようだし。ホテルに帰ったらクロエさんから連絡を入れてもらうようにお願いしなくては。

「あっちにはスノードロップがたくさん生えてるんだよ」
「へ、へえ! 私そっちも見たいな〜!」
「おう、行こう行こう」

 そそくさとその場を離れて、今度はスノードロップが自生しているという場所へ向かう。木々の合間の薄く積もった雪を掻き分けてスノードロップはすっと葉を伸ばしていた。
 ふと、シスターでも先生でもない人影があることに気付く。

「あ、領主様!」

 ウィル君が声をあげて走り出す。領主様と呼ばれたその人は、駆け寄ってくる彼に快く腕を広げて迎えた。20歳後半くらいの男性だった。

「やあ、今日も元気そうだね」
「うん! 見てよ、もう咲きそうなやつがあるんだ!」
「そうだね、今年は少し春が早いらしい………あの2人はお客様かい?」

 私とエースの姿に気付いたその人は、ウィル君に向けていた優しい眼差しを私たちに向けた。テンガロンハットを取ってぺこりとお辞儀をするエースに倣って私も慌てて頭を下げる。
 お客様と言われると違う気もするが、なんて説明したらいいんだろう。そんな戸惑いが脳裏を過ったが、我先にと私たちの紹介と説明を始める子供たちに救われた。

「シスターから聞いています。私はこの町を治めているロニーと言います」
「領主ってことはアンタがこの町で一番偉いやつか」
「ちょっと……」
「はは、あけすけに言うとそういうことになりますね」

 礼儀正しいかと思えば途端にフランクすぎる。エースをいなすが、ロニーさんは朗らかに笑ってくれた。

「まだ若そうなのに立派なもんだ」
「ええ……数年前の襲撃で私も跡を継ぐのが少し早まってしまいまして……」

 ウィル君の頭を撫でてやや伏せた瞳が孕んだ物悲しさの意味を悟ったエースがすまない、と謝る。
 領主を含めて大勢の市民が犠牲になった――……レストランでの話をワンテンポ遅れて思い出して、胸が詰まった。

「領主の僕がいうのもなんですが、いい町でしょう? 受けた傷は大きいけど立ち上がる力もある」
「――……人は優しいし、メシも美味い。これ以上にいい町はねェな」
「皆さんは旅の方だとか。子供たちに優しくしてくださってありがとう。ログが貯まるまで、どうか春祭りも楽しんでいってくださいね」
「あァ、楽しみにしてる。おれはエースだ。しばらくこの町で世話になるぜ」

 歩み寄って伸びてきたロニーさんの手をエースが握り返す。こういう自然なやり取りを見ていると、やはりエースは年上で様々な経験を積んだ大人なんだなと内心感心する。偉そうに誰目線だって言われそうだけど。
 ロニーさんの手がすっと私の方にも伸びる。

「ナマエ、です、よろしくお願いします」
「ナマエさん、どうぞよろしく」

 すっかり油断していた。あわあわと手を差し出すとにこりと笑って同じく握り返される。

「もう1人いらっしゃると聞いていたんですが……」
「あれ、先生外にいなかったか?」
「あ、先生ならシスターに書庫があるって聞いて授業に使えそうな本を探すって……」
「まーたあいつは籠ってんのか」

 エースが呆れ顔でぽりぽりと頭を掻く。

「はは、あとで私から挨拶にいくからいいですよ」
「すまねェな……っと、なんだなんだ」
「話長いー」

 待ちくたびれた子供たちが私たちの腕を引いて構え、遊べ、と唇を尖らせた。
 そんなに言うなら、と悪戯する気満々の顔でエースはにっと笑った。そして、近くにいた子を2人、両脇にがっちりと抱えてそのままぽーんと足跡もない真っ新な雪の上に放る。きゃー! と楽しそうな声をあげて転がる姿を見て次は自分だとエースの背中に体当たりのようにワッとじゃれつく子供たち。ここ数日で見慣れた豪快な遊びのひとつだ。

「私にはさすがにあれは無理だなァ」
「いやー…あれはエースくらいじゃなきゃできない遊び方ですよ……」

 ロニーさんは首を竦めて笑った。雪にまみれて遊ぶエースの顔は無邪気そのものである。