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 ぴょこぴょこと挙がる小さな紅葉の手を数え、ナマエは孤児院でおこなわれる授業の進行を見守っていた。ミハールに指名された男の子が教壇に上がって黒板に答えを書きつける。その様子はまさに小さな学校だった。
 東の丘に建つ孤児院には15人ほどの子供たちと1人のシスターが住んでいた。今の境遇に至る経緯は、昨日エースが話した通り、海賊の襲撃である。
 ここでもナマエたちは“旅の者”という曖昧で無害な立場を名乗っていた。我々が海賊であることを明かしてはいけないことは、当然彼女も理解していた。

「ナマエちゃん、ここ教えてー」
「ん? どこ?」
「ここ、よく分かんなくなっちゃった」
「んーと、これはね……」

 ナマエの元へきた女の子が持ってきた教科書を広げて指差す。彼女は少女と同じ場所を覗き込んで、なになに…と親身になって教えてやる。孤児院で長年使い回しているため、教科書は紙が日に焼け端々は擦り切れていたりとずいぶん年季が入っていた。教える内容は小学校低学年程度の算数だった。おかげでミハールの補佐役は彼女にも十分に務まり、子供たちの人懐っこさは彼女の仕事を円滑にしてくれた。
 正直、ナマエは子供たちに至って普通に授業を進めているミハールに驚いていた。彼は船では超インドア派として通っていてクルーと話すことどころか、部屋から出ることすら珍しいと言われている男だったからだ。しかしこれがミハールの本質で、己の夢に向き合う姿であった。

「みなさん、お昼の準備ができましたよ」

 控えめなノックとともに教室に顔を覗かせたシスターの言葉に、子供たちは勉強道具を放って我先にと食堂へ駆け出す。瞬く間に教室は空っぽになり、見事に取り残されたシスターとミハールとナマエの3名は顔を見合わせて笑った。

「シスター、エースさんは?」
「薪割りを手伝ってくださってます」
「そうですか」
「ナマエちゃん!!」

 舞い戻ってきた女の子がひとり。焦れた様子でナマエの腕を引いた。

「ナマエちゃんも早く!!」
「え!? え、えーと……」
「ぜひナマエさんたちも召し上がっていってください」
「いいんですか?」
「ええ。先生もいらしてください」
「では……お言葉に甘えましょう、ナマエさん」
「あ、ありがとうございます……わ、引っ張らないで、転んじゃう!」

 ナマエは女の子に引かれるがまま教室を出た。走らないようにというシスターの注意の声に女の子は良いお返事だけした。
 1階の食堂では、子供たちがすでに配膳を開始していた。その手つきはどの子も手慣れていて、大きい子供は料理が入った鍋の運搬やパンの切り分け、小さい子供はカトラリーや水差しの準備をしている。ナマエも子供たちに混ざり、見様見真似で食事の準備に混ざった。

「手伝わせてしまってすみません」
「いーえー、気にしないでくださいシスター」

 野菜スープを深皿によそいながら、遅れて食堂に現れたシスターに笑いかける。ナマエにとっては久しぶりに4番隊の給仕の手伝いをしているようなもの、特に厭いはしない。
 そこへコンコン、と近くの大窓を叩く音が飛び込む。ナマエが振り返るより先に「エースだー!!」と数人の子供たちが声を弾ませてその音の元へ駆け寄った。子供たちの手によって開け放たれた窓の外には、つい先ほどまで薪割りをしていたであろうエースが立っていた。窓枠に肘をかけて、「美味そうな匂いだな」とくんくんと鼻を利かせている。
 屋根越えの大ジャンプのおかげでエースはすっかり子供たちの人気者になっていた。

「エースなにやってたの?」
「えー!? なんでコート着てないの!? 寒くないの!?」
「それよりさっきのすっげージャンプもっかいやってくれよ!」
「元気だなァお前ら」

 エースは自由に口を開く子供たちを笑って簡単にいなした。室内にシスターの姿を見つけ、手を振って彼女を呼び止める。

「薪割り終わった! 割ったやつどこに置いときゃいい?」
「ありがとうございます! そのままでいいですよ、あとは運んでおきますから!」
「結構割ったぜ? あの量運べるか?」

 親指でくいっと指した先、山のようなシルエットの薪にシスターが口元に手を当て、声を無くす。薪はシスターの想定をはるかに越える量だった。

「ええと、じゃあ……運んでもらおうかしら……」
「裏の庇の下あたりか?」
「ええ……」
「おう。任せなー」

 軽い口調でエースは窓から離れていった。
 すげェ、しばらく薪割りしなくていいじゃん、やったー。口々にエースを褒めて、子供たちも自分の席に散っていく。ナマエもまた作業に戻った。

「えーと、もうみんな行き渡ったかな」
「ナマエちゃんの席ここね!」
「うん、ありがとう」

 配膳が終わり。定位置があるらしく、子供たちは各々自席におさまって食事の号令をキャイキャイ待っていた。
 ナマエはぐるりと食堂を見渡した折、入り口あたりにエースの姿を見つけた。薪運びも終わったと見えるが、ぼんやりと立ち尽くしているようでその足は一向に食堂に踏み入ってこない。
 おかしいな、いつもならご飯には文字通り飛びつく勢いなのに。そう不思議に思いながらナマエはエースへ近づく。

「私の隣、つめれば座れるよ」
「——え?」

 エースの腕を引いてそう伝えると、エースはハッと目を丸くしてようやくナマエを視界にとらえた。想定していなかったリアクションに彼女も少し面食らう。

「あれ? 席見つからなくて困ってたんじゃないの?」
「あ、あァ、うん、ありがとうな」
「どうしたの?」
「いや、……あったけェ部屋だなと思って」
「外寒かったもんね、お疲れさま」
「ん」

 鼻の頭を赤くしたエースがくしゃりと微笑んだ。
 全員席についたことを確認して、シスターの短いお祈りの言葉のあと食事が始まった。



 午後は授業の続きではなく、みんなで遊ぶだけだった。ミハール曰く、こういうのはメリハリが大事なのだとか。
 エースは子供たちのリクエストに応え、庭でバク転やら逆立ちやらを披露していた。町のレストランで軽業師と名乗ったのも頷けるほどの軽やかな身のこなしだ。ミハールは旅で見聞きした逸話や歴史を話してきかせている。
 ナマエは子供たちに孤児院を案内してもらったり内緒話に混ぜてもらったりと、穏やかな時間を過ごしていた。
 そして日が暮れてきた頃、孤児院を後にした。

「今日は騙し打ちのような形で連れてきてしまいましたが、明日以降はどうしますか?」

 丘を下りながらミハールが口を開く。

「春祭りが始まるまではあの孤児院で授業をする予定です」
「そうですね……なかなか楽しかったですし、お邪魔でなければ私も通いたいです」
「エースさんは?」
「いいぜ。どうせおれも暇だ」

 明日からの予定が決まった。朝から向かう場所と大まかなスケジュールが決まっている生活は、ナマエにとっては元の暮らしを思い出して安心感を覚えた。海賊の自由な船旅に慣れたと思っていたが、どこまでも彼女は庶民なようだ。
 ミハールと広場で別れ、朝のようにエースとナマエの2人になる。
 このままホテルに帰るのもひとつではあるが。

「エース、お腹空いてない?」
「あ?」
「お昼あの量じゃ足りなかったんじゃないかなーって。珍しくおかわりしなかったでしょ」
「そりゃまァ……こっちはよそもんだし、しかも孤児院のメシだろ? あんまりがっついて大事な食糧を食い潰すわけにもいかねェさ」

 さも当然と話すエースにナマエはちょっと驚いた。サッチに聞かせてやりたい台詞だ。

「……エースってたまにそういうとこあるよね」
「? どういうとこだよ」
「なんでもなーい。それより、夕飯なにか食べていこうよ」
「肉!!」

 間髪入れずに顔を輝かせたエースにナマエは笑った。


***


 春祭りまであと6日。
 孤児院での午前は授業、午後は遊んだり旅の話をしたり。ここへ通い始めて3日も経てばすっかり打ち解けた。
 そして今日はウィルを始めとする子供たちにとっておきの場所とやらへ案内されていた。

「ほらこっちだぞ!」
「早く早く!!」
「転ぶなよー」

 先導する子供たちの背中にエースが声をかける。孤児院から少し歩いた先は、眼下の森が開けて海が一望できるスポットだった。

「へえ」
「わあ! 見晴らしが良いね!」

 いいでしょ! と、子供たちは自慢げに笑ってナマエとエースの回りを跳ねたり駆けたりする。素直に微笑ましく思えていたのも束の間、ナマエはぎくりと固まった。隣にいるエースの外套をチョイと引っ張り、彼にだけ聞こえるくらいの声量で話しかける。

「エース、あれって」
「……モビーのけつだな」
「………大丈夫かな」
「帆は畳んでるし、旗も……ギリ見えねェ、と思う」

 街からは見えない場所に停泊したつもりだったが、モビーの巨大な船体は山の陰からほんの少しはみ出していた。
 ウィルたちが船に気付いている様子はない。町外れの見晴らしのいい丘の上でようやく船体のごく一部が見えるくらいだから大きな問題はないのだろうが……念のため、船には連絡を入れておくことにする。

「あっちにはスノードロップがたくさん生えてるんだよ」
「へ、へえ! 私そっちも見たいな〜!」
「おう、行こう行こう」

 そそくさとその場を離れて、今度はスノードロップが自生しているという場所へ向かう。木々の合間の薄く積もった雪を掻き分けてスノードロップはすっと葉を伸ばしていた。
 そこには、シスターでもミハールでもない人影があった。

「あ、領主様!」

 ウィルが声をあげて走り出した。領主様と呼ばれたその人は、駆け寄ってくる彼に快く腕を広げて迎えた。20歳後半くらいの若い男だ。

「やあ、今日も元気そうだね」
「うん! 見てよ、もう咲きそうなやつがあるんだ!」
「そうだね、今年は少し春が早いらしい………あの2人はお客様かい?」

 ナマエとエースの姿に気付いたその人は、ウィルに向けていた優しい眼差しを2人へ向けた。テンガロンハットを取ってぺこりとお辞儀をするエースに倣ってナマエも慌てて頭を下げる。
 お客様と言われるとなにか違う気もするが、なんと説明したら良いやら。そんな戸惑いが脳裏を過ったが、我先にと新参者の紹介と説明を始める子供たちに救われた。

「シスターから聞いています。私はこの町を治めているロニーと言います」
「領主ってことはアンタがこの町で一番偉いやつか」
「ちょっと……」
「はは、あけすけに言うとそういうことになりますね」

 礼儀正しいかと思えば途端に馴れ馴れしい。ナマエはエースをいなすが、ロニーは気を悪くした様子もなく朗らかに笑った。

「まだ若そうなのに立派なもんだ」
「ええ……数年前の襲撃で私も跡を継ぐのが少し早まってしまいまして……」

 ウィルの頭を撫でてやや伏せた瞳が物悲しさを孕む。その意味を悟ったエースがすまない、と謝る。
 領主を含めて大勢の市民が犠牲になった——……ナマエはレストランでの話をワンテンポ遅れて思い出して、胸が詰まった。

「領主の僕がいうのもなんですが、良い町でしょう? 受けた傷は大きいけど立ち上がる力もある」
「——……人は優しいし、メシも美味い。これ以上に良い町はねェな」
「皆さんは旅の方だとか。子供たちに優しくしてくださってありがとう。ログが貯まるまで、どうか春祭りも楽しんでいってくださいね」
「あァ、楽しみにしてる。おれはエースだ。しばらくこの町で世話になるぜ」

 歩み寄って伸びてきたロニーの手をエースが握り返す。
 エースの手を離れた彼の手は、今度はナマエの方にも伸ばされる。

「ナマエ、です、よろしくお願いします」
「ナマエさん、どうぞよろしく」

 すっかり油断していた彼女は、あわあわと手を差し出した。にこりと笑って握り返される。

「もう1人いらっしゃると聞いていたんですが……」
「あれ、先生外にいなかったか?」
「あ、先生ならシスターに書庫があるって聞いて授業に使えそうな本を探すって……」
「まーたあいつは籠ってんのか……」
「あはは、あとで私から挨拶にいくからいいですよ」
「すまねェな……っと、なんだなんだ」
「話長いー」

 待ちくたびれた子供たちがエースたちの腕を引いて構え、遊べ、と唇を尖らせた。
 「そんなに言うなら」と悪戯する気満々の顔でエースはにっと笑った。そして、近くにいた子を2人、両脇にがっちりと抱えてそのままポーンと足跡もない真っ新な雪の上に放る。きゃー! と楽しそうな声をあげて転がる姿を見て、次は自分だとエースの背中に体当たりのようにワッとじゃれつく子供たち。ここ数日で見慣れた豪快な遊びのひとつだ。

「私にはさすがにあれは無理だなァ」
「いやー…あれはエースくらいじゃなきゃできない遊び方ですよ……」

 ロニーは首を竦めて笑った。雪にまみれて遊ぶエースの顔は無邪気そのものである。