31
春祭りまであと4日。
街を治め人々の長たる人間はなにかと忙しいだろうに、ロニーは時間を見つけては孤児院に顔を出していた。ロニーはおれたちと初めて会った日に隣島の視察や会合からちょうど帰ってきたのだという。雪を下ろした屋根に一緒に登りながらガタがきていた雨樋やら屋根やらを直していると、自分一人じゃ手が足りないところも多いからおれがいてくれて助かったと礼を言われた。ずいぶんとここを気にかけているらしい。
いつだか先生が言っていた。子供は宝で、未来だと。きっとロニーもシスターも同じようなことを思っているんだろう。
言われたことのない言葉は字面でしか分からない。おれにそんな大それた思想はないけれど、辛いよりは辛くない方がいいし、楽しければ楽しい方がいいとは思っている。単なる暇潰し以外に海賊のくせにこんな慈善まがいの手伝いをする理由なんて、おれにとってはそれくらいふわふわしたものだ。
「ロニー、こんなもんか?」
「ええ、実はあっちの方も気になってて……」
「エーーーースッ!!!!」
「あー?」
落っこちない程度に身を乗り出して下を覗くと、ウィルがいた。他のガキたちはまだゆっくり昼飯を食べてる頃だろうに早食いでもしているのか。でも、こうして早く降りてこいと急かす内容は見当がついている。
「今日もやんのか?」
「やる!!!」
「おーおー頑張れよ」
これの続き、明日でもいいか?、その問いにロニーはおれの手にあった工具を受け取って是とした。おれは屋根から稽古用の木剣を構えてすでにやる気満々なウィルのもとへ飛び降りた。
事の始まりは昨日。シスターからの頼まれ事を終えて、そろそろ飯時だなと思いながら歩いていたら、外壁に立てかけられた木剣を発見した。なんじゃこりゃと手に取って軽く素振りをしていたところをウィルに見つかった途端、
「エース、剣術できるのか!?」
と。キラッキラな眼差しに慌てて剣術は無理だと話せば、剣術以外なら!? と明るく問い詰められた。明かせぬ身とは言え四皇の船のクルー。喧嘩の腕には覚えがある。濁しながらもイエスと返したおれに突きつけられたのは、稽古の相手をしてほしいというウィルの熱烈な申し出だった。
子供の振るう木剣とはいえ素手で受けるのはさすがにしんどいので、物置小屋で見つけた壊れた箒を適当に分解して長い木の柄を獲物とした。コルボ山で振り回していた分、なにか武器を手にするなら剣や刀より鉄パイプのような長物の方が馴染みがあった。
準備運動がてら、昨日こさえたそれをくるくると回す。
「いつでもいいぜ」
闘争心を煽るように浮かべた笑みがゴングとなった。
汗だくになったウィルが一言「休憩!」と叫んで、雪原に倒れ込んだ。おれもその場に腰を降ろす。庭には昼飯を食べ終えた他の子供たちやナマエも出てきていつも通り遊んでいた。
「なあウィル、こりゃなんの訓練なんだ? 自警団にでもなるつもりか?」
雪に埋もれて半分ほど隠れたウィルに語りかける。腕っぷしが立つことは男の誉れだが、ただ喧嘩が強くなりたいだけのガキの目には見えなかった。
少しの間の後、空に向かってウィルが吠えた。
「おれは海兵になるんだ! ……っ、海賊なんておれがやっつけてやる!!」
ウィルががばっと勢いをつけて起き上がった。
動機なんて痛いくらいに想像に容易い。
「そりゃあ……頼もしい限りだな」
「ゴールド・ロジャーみたいな大悪党が現れてもおれは負けない! じゃないとここのみんなを守れねェ!」
力強く決意に燃える眼差しだった。海賊の代名詞たる憎たらしいその名前に胸がざわつく。無意識に逸らした視線の先には見覚えのあるつま先があった。つま先を辿って顔を上げるとウィルの言葉にちょうどナマエが首を傾げたところだった。
「……ゴールド・ロジャー?」
「姉ちゃん知らねェの!?」
「う、うーん」
ナマエは曖昧に笑って誤魔化す。日々の生活に関わる気候のような知識は教わっても、既にこの世から去った人間のことなど改めて詳しく聞く機会はなかったんだろうと思う。
たとえその人間が大きく時代を変えた人物であろうと。
「海賊王さ! 悪党どもが世界中に現れたのも、おれたちの街がそういう奴らに襲われたのも、全部そいつのせいなんだ!」
「へぇ……」
「でも姉ちゃんのこともおれが守ってやるから安心しろ!」
「ふふ、じゃあお願いしようかな」
「おう!」
「……」
子供の純粋な心意気をナマエは素直に受け止めた。端から見れば微笑ましいワンシーンだけど、ざわつく胸の奥を素知らぬ顔でやり過ごすにはあまりに眩しい。
ナマエが思い出したようにあ、と呟いた。腰を折って顔を近づける。
「シスターが、お鍋とかそろそろ片付けるからエースも中入ってお昼食べてって」
「ああ、うん」
どうやらこれが本題だったらしい。尻についた雪を払って立ち上がると、あからさまに不満げに顔を顰めるウィルにようやく屋根から降りてきたロニーが相手役を買って出てくれた。気兼ねなくメシが食える、なんともありがたい計らいだ。
「ゴールド・ロジャーって人はここじゃすっごい有名人なの?」
「……この世のどっかに莫大な財宝を置いてきたっつーそいつの死に際の一言でこの大海賊時代が始まったんだ。有名っつったって単なる最低最悪の大罪人だよ」
「ナマエさん……あの海賊王をご存じないのですか?」
「えっ…、とぉ……」
食堂で鍋からスープをよそいながらおれたちの会話をこぼれ聞いたシスターが目を丸くした。そりゃそうだ、あの海賊王を知らないなんて。
「こいつ、ちょっと世間知らずで」
「そ、そう、私が育った島は全然情報が入ってこないような田舎でして〜……」
「へえ……そういう島もあるんですね」
適当な嘘にまんまと誤魔化されてくれたシスターに密かに感謝しつつ、おれは皿を受け取った。パンを2つほど取って、近くの適当な席につく。
シスターは洗い場へ下がり、ナマエは後学のためにこの世界の有名人の話を知っておきたいのかおれの正面の席に腰掛けた。
鍋を空にするためいつもより多く盛られたスープからじゃがいもを掬って、大きく口を開けて齧り付く。
「エースが海に出たきっかけもそのロジャーの言葉?」
「……バカ言え、おれは財宝に興味はねェ。前にも言ったろ、おれはくいのねェよう自由に生きるために、海賊になったんだ」
「そっか」
食堂に残った子供たちはおれたちの席からは離れた暖炉近くで本を囲んでお喋りに興じている。おかげで、おれとナマエの会話は聞こえていない。
頬杖をついて話を聞くナマエの様子を見るに、やはり世間での海賊王の恨まれようは想像しにくいらしい。
「お前を襲ったチンピラだって、ロジャーが生んだ海賊を食い物にするために出てきた奴らだ。間接的でも、お前はロジャーに迷惑かけられてんだよ」
「あー……そういう考え方もあるのね」
「みんなそう思ってる。悪党がのさばってるのも海軍がいなきゃ平和に暮らせねェのも、全部この時代の始まりであるそいつのせいだって」
知らない。そう、ナマエは知らないのだ。
「名前しか知らない人をどう恨めばいいかなんて私にはわかんないな」
「……」
「私は自分の目で見たものを信じたいし」
だからこんな風に笑ってくれる。
「……ナマエは、どう思う? その、ロジャーに子どもがいたら……」
「え?」
もしも、知った後も、笑ってくれたら。
食事の手が止まる。口を衝いて出たおれの質問にナマエは思案の声を漏らしながらゆるく首を捻った。
返事を待ったほんの数秒、スプーンの先が浸かったスープの水面を見つめ、祈るような気持ちになっていた。
「あー、いやいい、やっぱりなんでもねェ」
できるだけ明るい声色で、あっさりと、どうでもいい問いかけだったと思ってもらえるように、ナマエの思考を遮った。
食事の再開とともに適当な話題を振ると、最初こそ謎の問いかけを自ら水に流したおれを不思議そうに見ていたが、すぐにいつも通りの会話のペースになった。
おれはナマエにどんな答えを期待してたんだ? ナマエなら赦してくれると思ったか? ナマエなら受け入れてくれると?
夢を見るな、おれに流れている血は――……。
***
「燃えたい」
孤児院からの帰り道、屋根に乗っかった雪を虚な目で眺めて呟く。隣を歩いていたナマエが変な生き物でも見るようにおれを見上げた。
「唐突に、なに」
「炎にならねェようにすんのは地味に疲れる」
「……そういうもんなの?」
ぱちりと瞬いて首を傾げるので、こくりと頷く。
どんな物理的衝撃も無意識的に身体が炎になってすり抜けるというのは、こと戦闘においては非常に便利だ。でも今は事情が違う。
「ガキたちがタックルしてくる時……特に昨日からはウィルとがちゃがちゃしてる時とかな、うっかりじゃ済まねェだろ」
「あー……身体が変わらないように常に気を張ってるわけだ」
「そ」
孤児院通い3日目を過ぎた辺りからじわじわとフラストレーションが溜まっていた。滞在期間が長い上、海軍の駐屯所があるこの島では大人しくしてなきゃならない。そもそも喧嘩の気配もしないこの平和な町ではおれの炎をお披露目する機会はない。
「……じゃあ、燃える?」
「んあ?」
「ちょっと寄り道して行こうよ」
じゃあ燃えるかって。なんちゅー誘い文句だ。というかどういうことだ。
言い出しっぺは早速足を止めて、遠方をキョロキョロ見渡しだした。そして、あ、とやや明るい声を漏らして、振り返る。
「あっち森っぽい、人気なさそう。エース、私の前なら燃えてもいいでしょ」
指差した先は確かに建物の合間から木々の深緑。合点はいくが突拍子もない誘いは、おれを海に招いた日を思い出させた。
行ってみよう! とやけに乗り気なナマエが先導してたどり着いた場所は予想通り人気のない雑木林だった。確かにここなら少しばかり炎を出しても分かるまい。
丁度よく木々が開けた空き地に躍り出たナマエは、両手をいっぱいに広げて満面の笑みで振り返った。
「さ、思う存分燃えちゃって!」
「山火事起こして怒られるのおれなんだけど」
「その辺は上手く調整して!」
そんくらいできるけどよ、と笑って、前に突き出した右腕を数日ぶりに炎に変える。
足元を炎に変え、一歩先の雪を溶かしてナマエがいる広場の中央へ歩み寄る。ナマエも足元を見ながら楽しげにざくざくと新雪を踏み荒らす。
――私の前なら燃えてもいいでしょ
おれはその言葉が存外気に入ったらしい。頭の中で繰り返されたナマエの声に帽子のつばの影で笑った。
と、何かが頭にぶつかる。正確には、炎に包まれて跡形もなく無くなった、だけど。ん? と顔をあげると、悪戯っぽく笑ったナマエがにぎにぎと雪玉をこさえていた。犯人はアイツか。
「……覚悟はできてんだろうなァ?」
「勝負! あ、でも手加減はしてよ? どう考えてもエースの方が有利なんだから!」
「わがままな女だな」
悪態をつけば2投目がきた。かわす必要もない。身体が反応するがまま、炎が雪を呑み込むだけだ。勝負のリクエストに応えて足元の雪を片手いっぱいに掬い上げると、ぱたぱたと騒ぐ可愛い女は「そんな大きいの反則だ!」と早速抗議するのだった。
「はー、ほんと悪魔の実って不思議だね」
夕闇が濃くなってきた頃、ナマエがコートについた雪をぱたぱたと払い落としながら近づいてくる。そして何気なく手を伸ばす。
「雪玉は溶かすのにこうやって触っても炎にならない」
ちょうど胸の真ん中、心臓の辺りにそっとナマエの手が添えられる。
「今わざと炎にならないようにしてる?」
「いや、そういうわけじゃねェけど」
「じゃあこうして触らせてくれるのも無意識?」
「……おう」
どんな死角から銃弾や斬撃がこようと身体は炎になってこの身には傷ひとつつかないのに、宴の途中に勢いよく組まれる肩が炎になったことはない。我ながら不思議なものだ。意図的に操る炎は別として、ナマエの言う通り、なにかを無意識で選んでいるのかもしれない。
どこまでがおれの身体で、どこまでが炎なのか、その境はひどく曖昧だ。
「おもしれーもん見せてやろうか」
「なに?」
「見てな」
「ひゃっ」
つま先から迸らせた炎が渦のようにぐるりと地を這う。ナマエと雪の下に眠る新緑の芽には触れず、炎を走らせるのは雪だけ。敵と味方が入り乱れる白兵戦で、船も味方も傷つけずに戦えるくらいにこの炎の扱いは心得ている。
熱が生む上昇気流にぶわりと噴き上げられた雪の粒は、夕日に照らされて煌めいたかと思うとたちまち溶けて霧散した。驚いたナマエはおれの胸にどんと肩をぶつけたが、そのまま身を寄せながらその光景に目を奪われている。艶のある髪に炎の赤が映り込んで綺麗だった。
最後の炎がはらりと消え、足元に残された渦巻き模様の妙ちきりんな雪を見てナマエはきゃあきゃあとはしゃいでいた。予想通りの反応に思わず口の端からふは、と笑みが漏れた。
その気になれば町ひとつ簡単に焼き払えるくらいの火力を出せることだって、ナマエは知らないままだ。