33
春祭り初日の空は、まさしく春の訪れを祝うかのように晴れ渡っていた。
号砲が数発、領主であるロニーからの開会の挨拶をもって春祭りがいよいよ始まる。
朝一番でわくわくと丘を駆け降りた子供たちはシスターの手を引いて、すっかり街の雑踏に消えてしまった。ミハールは落ち着いて本を読める場所を求めて船に帰った。
「みんな行っちゃったね」
「だな。……ま、せっかくダンスも叩き込んだんだし、おれらも楽しもうぜ。ほら、うん、あっちから美味そうな匂いする」
今日も調子の良さそうな鼻で肉の香りを嗅ぎつけてエースが一歩踏み出す。ナマエとエースは必然的に二人で祭りで賑わう街を回ることとなった。
屋台や出店が連なる通りはより一層華やぎ、街の至るところにスノードロップが飾られていた。絶えず流れる音楽は人々の心を弾ませ、街のどこかには必ず踊りの輪がある。シスターの話に違わず、目が合った途端、ナマエは腕を引かれて輪に取り込まれた。
抜けるタイミングが掴めず二巡も三巡も踊っていたら「まだ踊るのか?」と観客に徹したエースがからかうものだから、彼も巻き込んでやった。したり顔のナマエに腕を引かれて驚いたのも束の間、彼はすぐにクッと目の下に小さな皺を寄せて男前に笑った。そしてまたすぐ、堪え切れなかったというようにプハッと吹き出して少年の顔になった。
しばらく踊ったあと、なんとか二人は踊りの輪を抜けて、逃げ込んだ路地裏でクスクス笑いながら息を整える。今日だけで3キロ痩せられそうと言うナマエに、じゃあ5キロ食えとエースは非人道的なアドバイスを返した。
ナマエはレンガの冷たい壁にもたれて、踊り通し・歩き通しで暖まった体を冷やしながら賑わう街を眺める。この世界についてまだまだ浅い知見しか持ち合わせない彼女の目から見ても、この島は本当に平和だ。これだけ人に溢れていても揉め事や無頼漢を見かけないのは、人々の民度と普段から巡回する海兵たちの賜物である。治安の良さは日本に通ずるものがあった。
この島での暮らしを勧めるロニーの気持ちも分からないではない。大海原を行く海賊船とこの島、どちらが彼女に“似合う”かなんて、子供にだって分かることだ。
「ぼーっとしてどうした、なんか考え事か?」
「…ううん、違うよ」
隣で同じように壁にもたれて休んでいたエースがひょこりと顔を覗き込んだ。いつの間に調達したのか、彼の手には串に刺さった唐揚げ。エースはそれをぱくぱく食べながら「疲れたか?」と軽く問うた。ちょっとだけね、と返したちょうどその時、すぐ近くで踊っていたおじ様とぱちりと目が合う。
「食う?」
ダンスの輪に誘う手がナマエへ伸ばされそうになるタイミングで、エースが唐揚げの串を彼女の目の前に差し出した。ナマエはそれにありがたく齧り付く。おじ様は唐揚げを咀嚼するナマエとエースを見て、仕方ないねという笑みでダンスの輪に再び収まった。
踊り明かすほど祭りのダンスが好きな島民でも、さすがに食事中の人間は誘わない。半日ほどかけて二人が見つけた優しいダンスの断り方だった。
ナマエがかじった唐揚げを躊躇いなく頬張る横顔を盗み見る。視線に気づいたエースが、もっと食うかと串をチラつかせた。ゆるゆると首を振って、ナマエはふにゃりと緩んだ口元をマフラーに埋める。そして染み入るような声で呟いた。
「エースの隣はあったかいね」
冬をも溶かす、温かさだ。
祭りは子供たちを家路につかせるために21時前で一区切りし、それ以降は飲み明かすも良し、踊り明かすも良しの大人の夜になる。
帰すタイミングを逃すから、と子供扱いをオブラートに包んだ理由でエースはナマエをきっちりホテルに送り届けた。せっかくの祭りだというのに、これでは孤児院を出てから夕飯を食べて帰るここ数日の流れと変わらない、と彼女は不服だった。
「私も夜のお祭り行きたい……」
「ガキか」
「ガ、ガキよ、悪い?」
「お、言ったな? ガキならなおさら歯ァ磨いて寝とけ」
彼女の頭をばふばふ叩くエースの手は粗雑なのに、「また朝には迎えに来てやっから」という声は丸っこくて柔らかかった。優しい衝撃を頭に感じながらはたと思い出して、ナマエは口を開く。
「ごめん、明日はロニーさんにちょっと用事がある」
話を、返事をしなくては。彼女はずっとそう思っていた。だから明日会いに行くと決めていた。
一緒に行っても今日みたいに祭りを満喫できないかもしれない、そんな意図を込めてエースの顔を見上げるとバチリと目が合った。
ナマエの髪を離れてぎこちなくさまよったエースの手は、外套のポケットに収まる。
「そっか……なんか約束でもしてんのか」
「え、してない」
「……してない?」
「? うん」
「明日、ロニーが島のどこにいるのか知ってるのか?」
「いや……」
「あいつ忙しいんじゃねェの、だって島のカシラだろ」
「あー…………」
「……お嬢サンあのねえ」
半笑いとため息の混ざる声に、ナマエは恥ずかしさと気まずさで俯いた。
しまった。領主は忙しい、そうか、言われてみれば彼は文化祭実行委員みたいなものなんだろうし、そりゃそうか。なんでこう詰めが甘いんだろう私……。
ふ、と緩く笑う気配がする。
「……はは、んじゃ、また明日の朝な」
「え、でも、」
「一緒にロニー探すのが迷惑ならやめるけど」
「め、迷惑じゃない、ありがたいです」
「じゃあそういうことで」
ポケットにしまった手をヒラヒラさせて去っていくエースはあっさりとしたものだ。具体的な文句は思いつかないけどもっとエーとか何だよォとか言われるもんだとナマエは思っていた。それどころか。
エースは酒場の灯りがいつもより賑やかな街の中を、胸の底がうすら寒くなるのを感じながらぼんやり歩いた。
***
翌日。案の定、ロニーにはなかなか辿り着けなかった。
南の講堂前にいると聞いたのにもう商工会の方に顔出しにいったとか、かと思えば警備の打ち合わせで海軍駐屯所にいるはずだとかなんとかエトセトラ。気晴らしに踊ってみたり、小腹が空いたら屋台でスープをすすってみたり、そういうことをしながら二人は街を練り歩いた。
「あーーいた」
「え、どこ」
「ン、そこ」
チョイ、とエースが指差した先には街の男性が持つ書類を覗き込みながら二言三言話すロニーがいた。もう西の空がオレンジに色づいている頃だった。ナマエはドッと肩に乗っかった疲労が相俟って、ブワワと気持ちが昂る。
「ほんっっとありがとう! たぶん一人じゃ見つけ出せなかった」
「だろうな」
「じゃあちょっと話してくるね」
エースの元から一歩踏み出した時、「あ…っ、」と小さく掠れた声がした。
ナマエが振り返ると、中途半端に伸ばされた彼の手が瞬きの一瞬だけさまよって、ふらりと右を指した。
「あっちで、待ってるわ」
「う、うん」
燃え殻みたいな笑みをニコ、と残してエースは歩き出した。ナマエは不思議に思いつつも、話を終えてまた人混みに埋もれかけるロニーの背中を追った。
ロニーは彼女の姿を見て、合点のいった様子で場所を移した。
「お返事をしにきました」
「……はい」
「島には残りません。私は彼らとまた海に出ます。……誘ってくれてありがとうございました、お気持ちだけ受け取ります」
ナマエはぺこ…と頭を下げた。
「どうしても、ですか?」
ロニーの声に、彼女はゆっくり顔を上げて、目を合わせる。
「どうしても、です。自分の居たい場所は自分で決めます。世間からどう言われても、私の目で見て、私の手で確かめたものだけが、私にとっての本当で、本物だと思うんです」
「…じゃあ、ナマエさんにとっての本物とは、何ですか」
私にとっての本物は。
「あの船のみんなが好きだってことです。だから私はあそこが好いんです」
平和な島に残らず、ただの女が海賊船で旅をする理由——海賊嫌いな島の主に理解してもらえるものをと思ったが、大したものは見つからなかった。
代わりに、ぶれようのない確固たる理由だけが川底から見つけた砂金のように煌めいた。
そんな気持ちを口に出したら、胸が詰まった。
「ええと…こんなの感情論だって言われたら、それまでなんですけど……」
「……いえ、立派の理由ですよ」
参った、という顔でロニーは清々しく笑った。それから首の後ろを掻きながら「あーあ、好きか、これじゃあ敵わないや」と言う。
その反応にナマエは面食らった。こんな道理が通るのかしら、と。
「知っての通り、この島は海賊嫌いです。それでもナマエさんに声を掛けたのは、私があなたを好きになったからです。領主という立場をおしてでも、あなたを誘ってみたかった」
ロニーは目を伏せて噛み締めるように話す。立派な理由と肯定してくれたのは、どうやら彼も使った道理だったかららしい。
「ナマエさんの帰りたい場所はあの船なんですね」
「——……はい」
喉がキュと苦しくなった。心臓の核から迫り上げた熱い塊がそうさせた。
「私、もう行かなくちゃ」
「ええ。お返事くださってありがとう」
良い旅を、とロニーは少し寂しげに微笑んだ。もう一度お辞儀をして、ナマエはエースの元へ向かった。
あっちで待ってると言った指の先を思い出しながらナマエは街を探し歩いたが、エースがいたのは通りの外れだった。路地を抜けた先のそこは、民家や店どころか人の立ち入りもないのかろくに除雪されていなかった。祭りの喧騒も遠い白い景色の中で、エースは壁に寄りかかって空を眺めていた。
「エース」
「……おう、用事は済んだのか」
「うん」
雪を踏みしめて近づくと、エースは彼女へ顔を向けた。先ほど別れたときからその声も表情も仕草も、どことなく元気がない。エースはそれを誤魔化すように「そろそろ行くか」「行きてェ場所があれば言えよ」と矢継ぎ早に口にした。ナマエは通りへ戻ろうとする背中を呼び止めた。
「ロニーさんに、島に残らないかって言われた」
「……、それで?」
一呼吸置いてゆっくり振り返ったエースと目が合う。
「断ってきた」
「………は、」
「そしたら、エースに会いたくなった」
エースは目を丸くする。その表情にまた熱いものが込み上げて、笑みが溢れる。
「…………おれ?」
「うん、エースに」
「なん、で……」
「なんでだろうね」
あの船のみんなが好きだと言ったとき、ナマエが一番に思い出した顔は、やはりというべきか、エースだった。脳裏に浮かんだ真夏の太陽のような笑顔が、彼女の胸をジンと焼いた。
「とにかく、会いたくなったの。ね、おかえりって言って」
私の帰る場所があの船なら、迎えてくれる人はエースが好い。この言葉は、彼に言ってほしいのだ。
エースの眉間と唇にく、と力がこもる。泣き出すのを堪えるような顔だった。
「……おかえり」
「うん、ただいま」
りの字が少し震えたその声に、ナマエは大きく頷いて返す。
強い力で抱き締められた。首に回された腕がぎゅうとさらに隙間を埋め、ナマエは目を白黒させるばかりだった。なおもエースは何も言わず、彼女の体をきつく抱く。
心臓はこれでもかと慌ただしく鳴っていた。彼女は目だけ動かして様子を窺うが、ぴたりとくっついた黒い癖毛が呼吸に合わせて僅かに揺れるだけで肝心の顔は見えない。しかし、縋るようなただならぬ気配に、ナマエはやわやわとエースの背中に腕を回して、抱き締め返した。
すると、今度は突然肩を掴んで体を引き剥がされた。ハ、と荒く息を吐いたエースの瞳は揺れていた。怯えた子供のような目でくらくらとナマエを見つめる。
その瞳に堪らなくなって、ナマエから身を寄せた。エースはぎこちなく固まってしまったが、彼女は構わず腕を回して彼を抱き締める。エースの鍛え抜かれた大きな体は彼女の腕には収まりきらないのだがそれでもいい、できるだけ肌を寄せた。
エースは抱き締め返そうか否か迷った末、遠慮がちにナマエの肩へ手を乗せた。
優しく、でも確かな力で体を突き放される。
2人の間にできた隙間が寒々しかった。
「おれには、ひとに愛される価値なんか、ない」
「……、どうして」
「——おれは、大罪人の、ロジャーの血を引いてる。世界中のやつらが憎んで、おれは生まれてきたことすら疎まれる存在なんだ」
ひどく弱々しい声だった。喉から茨の鉄球を吐き出すような言い様だった。暗い海がとぽんと胸に広がった。
「どうして、そんな寂しいことを言うの」
これではまるで、エース自身が自分のことを憎み、生まれてきたことすら疎んでいるようである。
深く俯いたエースの顔に髪がかかる。もう二度と目を合わせてくれないんじゃないかと、ナマエはそればかりが恐ろしく、明かされた事実への驚きよりも息苦しいほどの悲しみが込み上げた。
エースは小さく「ごめんな」と謝ってふらふらと後ずさる。帽子のつばをぐっと下げられ、その顔はますます見えなくなってしまった。
「エース」
「通りに戻って左に進めば、孤児院の見える広場に出る」
「ねえエース」
「そこからならホテルへの道、分かるよな」
「待ってよ」
「暗くなる前にちゃんと帰るんだぞ」
「エースってば!」
言うだけ言ってエースは一足で屋根に跳び上がって去ってしまった。普通に走り出してくれればまだナマエにも追いようもあったが、あんなルートで逃げられてはどうしようもない。本当に追いかけてほしくなかったのだろう。それを理解して、ナマエはその場に立ち尽くすより他なかった。
***
ナマエは諦めきれなくてエースを探し歩いたけれど、ついぞ彼の姿は見つけられなかった。その晩、彼女はホテルへしょぼくれて帰ってきた。ジェラピケみたいな可愛いナイトウェアを着たお姉様は、昨夜外泊してきたナマエをつつく気でいたが、意気消沈した彼女を見るなり顔つきを変えてベッドやソファから降りてそばにやって来る。
「おかえり、どうしたのナマエ」
「元気ないわね、どこかぶつけた?」
「この唐揚げなに? 福引きでも当たった?」
「バケットサイズじゃん、でか」
「ダンスをする気分じゃなかったから……」
「? ね〜いっこ食べてい〜い??」
「どうぞ……」
お姉様に唐揚げをバケットごと譲り渡し、ナマエはションボリ俯く。
あばら骨一本一本に無数の細い針が生えたようだ。息をすることさえ苦しい。
悶々と考えて落ち込んでいる間に、ナマエは泡風呂に放り込まれ湯上がりの保湿を施され誰かの可愛いジェラピケを着せられ髪に花の香りのオイルをまぶされドライヤーで優しく髪を乾かされていた。
手触りの良い丸いクッションをぎゅむぎゅむお腹に押し付けられたところで「じゃっ、お話、聞きましょっか」とお姉様たちによるカウンセリングが始まった。
ナマエはことの経緯を話した。
領主に島に残らないかと誘われたこと。船のみんなが大好きだから誘いは断ったこと。無性にエースに会いたくなったこと。会いに行ったら、抱き締められたけれど苦しそうな辛そうな顔ですぐに離されたこと。そのあとは話すことはおろか、追うことすら拒まれてしまったこと。
エースが海賊王の血を引いているということは伏せた。内容と彼のあの様子から察するに、あまり人に言いふらされたくない話なのだろうと思ったから。
ひと通り話し終えると、お姉様たちはほぅ…と息をついて各々の手にあったアルコール入りのグラスを傾けた。
「そっかあ…ナマエはエース君のことが好きなのねえ」
リスのように頬を膨らませたお姉様がのんびりと言った。唐揚げはだいぶ減っていた。その言葉にナマエは小さく深呼吸をして、口を開く。
「私は、エースのことが、好きです」
こんなに胸が痛いのはそのせいだ。たくさん話したら頭の中が整理されて、よく解った。
「離れたくないし、逃したくないし、そばにいたい」
あんな風に明確に線を引いて拒まれたこともショックだったけれど、もっとショックだったのは、あんな寂しい想いを彼が独りで呑み込んでいたこと。
それを知らずに、エースは眩しいばかりの人だと思い込んでいた。
誰かの助けがなくとも自力で突き進める強い人だと。
いつまでも蹲って悲しいと落ち込んではいられない。
エースが暗い凪の海にいるのなら、迎えに行かなければ。
「エースは私にとっての、一点物なんです」
ここで手離したらいけない人なのだ。