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 一夜明け、私は再びしょぼくれていた。朝から街を探したのにエースが見つからなかったからだ。おまけに雪までちらつき出して、天候にも見放されたのかとさらに気分が落ち込む。
 でも諦めたくなかった。昨晩、自分の言葉にして話してみて気持ちはよりはっきりと強固なものになった。私はエースが好き。その一点に磨き上げられた気持ちはジョズさんのダイヤモンドにも負けないくらい固く価値のあるものだった。私はそれをエースに手渡さなければならない。
 涙が滲みそうになるのを堪えて、もう一度探してみようと路地裏の壁から背を離した。

「あら、ナマエどうしたの? こんな暗いとこで」
「あ……クロエさん……」

 涙がだばっと出た。



 ひとまずホテルに戻って事情を話すとクロエさんはあらあら、と涙で崩れた私の化粧を直しながら聴いてくれた。
 涙は止まったし諦めてはいないが私の心はやはりしょんもり萎んでいた。

「エースは私に会いたくないんでしょうか」
「そんなことないわよ、あんなに誤魔化しがへっっったくそな男。今すぐナマエに会いたいに決まってる」

 私はまったく信じられないという顔で訝しげにクロエさんを見つめた。

「でも凹んでるのかもね、意気地のない自分に。女から尻尾巻いて逃げてきちゃったんだもの」
「………」
「だからちゃんと見つけだして迎えにいってあげることね。惚れた男が弱ってたら優しく頭を撫でてあげられるような強い女でありなさい」

 思わず見惚れるほどの極上の女だった。私は胸を打たれた。

「……気合い、入れます」

 キュッと両の拳に力をいれて、それから「クロエさん、ピアスって開けるのにどれくらいかかりますか?」と聞く。
 クロエさんはぱちりと瞬いてすぐに美しく強かな女神の顔で笑った。

「安心して。私は優秀なナースだから2秒で終わるわ」

 片耳1秒。私は息を大きく吸って、奮い立つ心の追い風にした。
 ポケットからいそいそと小瓶を取り出し、エースにもらった赤い石のピアスを掌の上に転がす。大切なものはこの小瓶に入れて肌身離さず持ち歩くと決めているのだ。これをつけたいんですと見せるとクロエさんは、情熱的な赤ね、と綺麗な指先でつまみあげた。

 身体に穴を開けるのは怖い。怖くなくなったらそのうち開けようと思っていた。でも、そのうちじゃなくて今開けようと決めた。
 痛かろうと怖かろうと、今、舵を切らねば。

 クロエさんがふふ、と笑う。お泊まり用の鞄に入っていたポーチを探ったその手にはちゃんとピアッサーが握られていた。乙女の鞄はいかなる有事にも対応できる四次元ポケットと相場が決まっているので何でも揃っているのだ。

「大丈夫、今度はすぐ見つかるわ」
「そうでしょうか……」
「ええ。ビブルカードって便利よね」
「あ」

 ハッと小瓶に視線を向ける。ビブルカードは心なしか湿気を含んだようによれていた。これは早く行かねばなるまいと私は耳に髪をかけて、2秒で終わる施術に腹をくくった。
 消毒液やマーカーを手際よく準備しながら、クロエさんがさらりと告げる。

「あ、ファーストピアスに向かないからそれつけられないわよ」
「えっ」
「どっちからやる? 右でいいかしら?」
「あ、う、そうなんですか? この赤いのつけられないんですか?」
「つけられないですね、軸が細くて上手くホールが定着しないと思う。ハイ横向いて。開けるなら、うん、この辺りね」
「ま、待っ、」
「話は2秒後に聞くわ」

 両側一回ずつ、痛みより耳元で鳴ったバチンという音に驚かされた。本当にきっかり2秒だった。
 見てみて、と渡された鏡をおそるおそる覗くと。

「……わあ…!」

 スクエア型のクリスタルが一粒、きらりと光った。
 ピアスホールが定着するには大体6週間、ケアをしっかりすること、なにかあれば早めにナースへ相談しなさい――興奮ゆえに聞き逃していることがあるかもしれないけど、大体そのような説明を受けた。
 異物感のある耳たぶに指先が触れると、開けたてのピアスホールが僅かに痛む。

「こっちをつけられるのはまだ先なんですね……」
「ピアスホールが出来上がったら好きなものを付けて平気だから、それまで我慢なさい」
「はーい…」

 ピアスを開け方なんて調べたこともなかったから、てっきり最初から好きなものをつけられるのだと思い込んでいた。不覚……手のひらに残った赤い石のピアスへ視線を落として、ちょっと口惜しく思う。

「大本命は、満を持して」
「え?」
「お気に入りを末長く身につけたいなら、ちゃんと手順を踏んで準備万端にしないと、でしょ」

 私の心残りを見透かして、クロエさんが笑った。

「私が選んだファーストピアスだってよく似合ってるわよ!」
「えへへ、ありがとうございます」
「お礼は出港後の5日間、医療班でナマエ貸切で手を打つわ」
「かしこまりました!」

 抜け目ないクロエさんの提案を承諾して、私は小瓶に赤のピアスを戻し立ち上がる。


「私、行ってきます」


***


 ビブルカードを辿って着いた先はモビーディック号だった。エースは街のどこかにいると思っていたのがそもそもそれが見当違いだったらしい。道理で見つからないわけだ。
 ひっそりと停泊中の海賊船から無防備に梯子やタラップが降りているはずもなく、聳え立つ船体を見上げ、どうやって乗り込もうかと途方に暮れていると見張り台にいた誰かが声をかけてくれた。甲板にいた他のクルーに合図を出してくれたらしく、程なくして船縁からひとつ頭が現れた。

「ちょっと待ってろ! タラップ出す!」

 そう叫んですぐに引っ込んだ人影はデュースさんだった。

「陸からでも呼べば誰かしらいるんだから、遠慮するな」
「私の声でも届きます……?」
「おう、死ぬ気で叫べば、たぶん、ギリギリ」
「喉嗄れますね」

 船内で落ち合ってから他愛もないことを話す。手のひらに乗せたビブルカードに気付いてデュースさんは「あァ、」と声を漏らした。

「そのビブルカードはエースのか」
「はい……エース、帰ってきてますか?」
「いるぜ、医務室に」
「……医務室!?」

 エースとおよそ縁遠そうな言葉に思わず聞き返す。

「え、エース、どこか怪我したんですか?」
「頭痛ェんだと。風邪だよ、あいつバカだから」

 呆れたような半目で遠くを見つめてデュースさんがため息をついた。
 バカだからとはどういう意味だ。バカは風邪引かないんじゃないのか。頭にクエスチョンマークが浮かんだ顔のままデュースさんを見上げていると、彼は人差し指でこめかみをカリカリ掻いてまた口を開く。

「エースなら寝て肉食えば治るだろうけどさ」
「肉…では治らないんじゃ……」
「いンや、エースの身体ならよく寝ただけで9割治る。肉はオマケ。寝過ぎて腹減ったって騒ぐから供物みたいなもん」

 どういう仕組みよ。原理を訊ねても「エースだから」の一言だけでそれ以上説明らしい説明はなかった。
 エースが風邪。あいつのことだから大したことないという口ぶりのデュースさんの話を聞いても、私は人一倍胸がざわついていた。だって、おばあちゃんは"風邪"をこじらせて呆気なく死んだのだから。

「あの」
「うん?」
「差し支えなければ、看病しにいってもいいですか?」

 デュースさんはぱちくりと瞬いた。

「看病っつっても、あいつ寝てるだけだぞ?」
「いいんです……それに、もともと話したいこともあったので」
「あー、まあ、別に構わねェけど」

 向こうの医務室だ、と指差された廊下の先へいそいそと向かう。
 大丈夫よ、平気よ、あのエースだもの、デュースさんだって重大そうじゃないし、本当に寝てるだけよ。
 ピアノ線でキュウと締め上げられていくような心臓を頭の中で繰り返し宥めて落ち着かせる。本当は今すぐ駆け出したいくらいだけど、走り出せば自ずと嫌な想像が現実味を帯びるからぐっと堪えた。
 辿り着いた扉の前で小さく深呼吸をして、控えめにノックする。返事のない扉をそうっと開いて部屋を覗くと数台のベッドが並ぶ中で、一番奥のベッドにだけカーテンが引かれていて使用中と分かった。しまい損ねてずっと握っていたビブルカードが主を求めて手のひらの上でジリと這う。

「エース、開けるよ?」

 やはり返事はない。ゆっくりとカーテンを引くと、探し求めていた男がすうすう眠っていた。両腕は布団の上に無造作に投げ出され、いつも凛々しい表情も今はあどけなさすら感じる。起こさないように静かにカーテンの内側へ踏み入れ、苦しそうな様子ではないことを確認して、良かった、と胸を撫で下ろした。
 それから体温計を探しに行ったり、食堂へ水差しとコップを取ってきたり、軽く食べられるものがあった方がいいかもと思ってもう一度食堂へ舞い戻ったりした。その間、顔の角度や腕や脚の位置がやや変わっているくらいのもので、エースの眠りは深かった。
 一通りのものを揃え終えた私はベッド脇に丸椅子を運んで、よしと腰掛ける、が、ものの数秒でそわそわしだす。エース、汗かいてたりする? タオルあった方がいい? き、着替え? エース着替えなんて持ってる? いや持ってるか持ってるでしょ。と、取ってくる? ……などと一人頭の中で大会議を繰り広げて目線を右へ左へさせていた。デュースさんに偉そうにお願いしたけど、私看病なんてしたことないのである。
 鼻から大きく息を吸う音とともに、エースの顔がこてんとこちらを向いて、ビクッと肩が跳ねる。良い感じに露わになったおでこに「し、失礼します」と断りを入れて手のひらをぴたりとつける。体温計を探し出してきたことなどすっかり忘れていた。

「……本当に寝てるだけ、なんだなあ……」

 おでこは汗ばんだ感触もなく、平熱と言って差し障りなかった。自分の手で確かめてようやく安心できた。

起きたら、話そう。

 早く起きてね、と願うばかりだ。