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 一夜明け、ナマエは再びしょぼくれていた。朝から街を探したのにエースが見つからなかったからだ。おまけに雪までちらつき出して、天候にも見放されたのかと彼女の気分はさらに落ち込む。
 でも諦めたくなかった。昨晩、自分の言葉にして話してみて彼女の気持ちはよりはっきりと強固なものになった。私はエースが好き。その一点に磨き上げられた気持ちはジョズのダイヤモンドにも負けないくらい固く確かなものだった。
 彼女はそれをエースに手渡したかった。愛される価値なんかない、そう言った彼に反証を。あなたは愛されるに値する人間だと、少なくとも私にはそうなのだと、目の前に提示したい。
 ナマエは涙が滲みそうになるのを堪えて、もう一度探してみようと路地裏の壁から背を離した。

「あら、ナマエどうしたの? こんな暗いとこで」
「あ……クロエさん……」

 堪えていた涙がだばっと出た。



 ひとまずホテルに戻り、クロエはアラアラと涙で崩れたナマエの化粧を直しながらナマエとエースの事情を聴いてくれた。
 涙は止まったし諦めてはいないが彼女の心はやはりしおしおと萎んでいた。

「エースは私に会いたくないんでしょうか」
「そんなことないわよ、あんなに誤魔化しがへっっったくそな男。今すぐナマエに会いたいに決まってる」

 ナマエはまったく信じられないという顔で訝しげにクロエを見つめた。

「でも凹んでるのかもね、意気地のない自分に。女から尻尾巻いて逃げてきちゃったんだもの」
「………」
「だからちゃんと見つけだして迎えにいってあげることね。惚れた男が弱っていたら、優しく頭を撫でてあげられるような強い女でありなさい」

 思わず見惚れるほどの極上の女だった。ナマエは胸を打たれた。

「……気合い、入れます」

 彼女はキュッと両の拳に力をいれて、それから「クロエさん、ピアスって開けるのにどれくらいかかりますか?」と尋ねる。
 クロエはぱちりと瞬いて、すぐに美しく強かな女神の顔で笑った。

「安心して。私は優秀なナースだから2秒で終わるわ」

 片耳1秒。ナマエは息を大きく吸って、奮い立つ心の追い風にした。
 ポケットからいそいそと小瓶を取り出し、エースにもらった赤い石のピアスを掌の上に転がす。大切なものはこの小瓶に入れて肌身離さず持ち歩くと決めているのだ。
 これをつけたいんですと見せるとクロエは、「情熱的な赤ね」と綺麗な指先でピアスをつまみあげた。

 体に穴を開けるのは怖い。怖くなくなったらそのうち開けようと彼女は思っていた。しかし、そのうちじゃなくて今開けると決めた。
 痛かろうと怖かろうと、今、舵を切るのだと。

 クロエがふふ、と笑う。お泊まり用の鞄に入っていたポーチを探ったその手にはちゃんとピアッサーが握られていた。乙女の鞄は四次元ポケットと相場が決まっている。したがって、いかなる有事にも対応できるのだ。

「大丈夫、今度はすぐ見つかるわ」
「そうでしょうか……」
「ええ。ビブルカードって便利よね」
「あ」

 ナマエはハッと小瓶に視線を向ける。ビブルカードは心なしか湿気を含んだようによれていた。これは早く行かねばなるまい。ナマエは耳に髪をかけて、2秒で終わる施術に腹をくくった。
 消毒液やマーカーを手際よく準備しながら、クロエがさらりと告げる。

「あ、ファーストピアスに向かないから、ソレつけられないわよ」
「えっ」
「どっちからやる? 右でいいかしら?」
「あ、う、そうなんですか? この赤いの、つけられないんですか?」
「つけられないですね、軸が細くて上手くホールが定着しないから。ハイ横向いて。開けるなら、うん、この辺りね」
「ま、待っ、」
「話は2秒後に聞くわ」

 両側一回ずつ、痛みより耳元で鳴ったバチンという音に驚いてナマエはギュッと目を閉じた。きっかり2秒である。
 見てみて、と渡された鏡をおそるおそる覗くと。

「……わあ…!」

 スクエア型のクリスタルが一粒、きらりと光った。
 ファーストピアスが外せるのは大体6週間後、ケアをしっかりすること、なにかあれば早めにナースへ相談しなさい——興奮ゆえに聞き逃していることがあるかもしれないが、大体そのような説明を受けた。
 異物感のある耳たぶに指先が触れると、開けたてのピアスホールが僅かに痛む。

「こっちをつけられるのはまだ先なんですね……」
「ピアスホールが出来上がったら好きなものを付けて平気だから、それまで我慢なさい」
「はーい……」

 ピアスを開け方なんて調べたこともなかったナマエは、てっきり最初から好きなものをつけられるのだと思い込んでいた。手のひらに残った赤い石のピアスへ視線を落として、彼女はちょっと口惜しく思う。

「大本命は、満を持して」
「え?」
「お気に入りを末長く身につけたいなら、ちゃんと手順を踏んで準備万端にしないと、でしょ」

 ナマエの心残りを見透かして、クロエが笑った。

「私が選んだファーストピアスだってよく似合ってるわよ!」
「えへへ、ありがとうございます」
「お礼は出航後の5日間、医療班でナマエ貸切で手を打つわ」
「かしこまりました!」

 抜け目ないクロエの提案を快諾して、ナマエは小瓶に赤のピアスを戻し立ち上がる。


「私、行ってきます」


***


 ビブルカードを辿って着いた先はモビー・ディック号だった。エースは街のどこかにいると思っていたのが、そもそもそれが見当違いだった。道理で街中探しても見つからないわけだ。
 ひっそりと停泊中の海賊船から無防備に梯子やタラップが降りているはずもなく。ナマエはそびえ立つ船体を見上げ、どうやって乗り込もうかしらと途方に暮れた。
 見張り台にいたクルーが彼女のちまこい影を見つけ、甲板の仲間に合図を出す。程なくして船縁から人影が現れた。

「ちょっと待ってろ! タラップ出す!」

 そう叫んですぐに引っ込んだのは、デュースだった。

「船番が必ずいるんだから、次は遠慮なく呼べよ」
「私の声でも届きますか?」
「んー……死ぬ気で叫べば、たぶん……ギリギリ?」
「次は頑張ります」
「冗談だよ」

 船内で落ち合ってから他愛もないことを話す。彼女の手のひらに乗せられたビブルカードに気付いてデュースは「あァ、」と声を漏らした。

「そのビブルカードはエースのか」
「はい……エース、帰ってきてますか?」
「いるぜ、医務室に」
「い……」

 いむしつ、イムシツ、医務室……。ナマエは2回ほどの変換を経て、「……医務室!?」と目を丸くした。エースとおよそ縁遠そうな言葉だったし、そんなところにいるなんて本当に予想外だったから。

「えっ、エース、どこか怪我したんですか?」
「頭痛ェんだと。風邪だよ、あいつバカだから」
「ば……バカだから? バカは風邪ひかないとは言いますけど……」
「バカだから、だ」
「……?」
「エースなら寝て肉食えば治るよ」
「肉…では治らないんじゃ……」
「いンや、エースの体ならよく寝ただけで9割治る。肉はオマケ。寝過ぎて腹減ったって騒ぐから供物みたいなもんさ」
「……どういう仕組ですか?」
「エースだから、だ」
「……?」

 それ以上の説明はない。
 医学の知識はあれど、論文を書くタイプではないデュースの説明は不親切だった。マ、医術論文を書くタイプではなくとも、物書きになりたいのなら致命的な欠点である。この欠点にあまり自覚がないのでデュースの処女作はいまだ書き上がっておらず、プロットばかりが溜まり続けているのだ。
 ナマエの胸は人一倍ざわついていた。デュースにいくら大したことはない、心配はないと言われても。
 彼女の祖母は、風邪をこじらせて呆気なく死んだのだから。

「あの」
「うん?」
「差し支えなければ、看病しにいってもいいですか?」
「看病?」

 デュースはキョトン…と瞬いた。

「看病っつっても、あいつ寝てるだけだぞ?」
「いいんです……それに、もともと話したいこともあったので」
「あー、まあ、別に構わねェけど」

 向こうの医務室だ、とデュースは廊下の先を指差した。ナマエは頭を下げて、いそいそと向かう。

 大丈夫よ、平気よ、あのエースだもの、デュースさんだって重大そうじゃないし、本当に寝てるだけよ。
 ピアノ線でキュウと締め上げられていくような心臓を頭の中で繰り返し宥めて落ち着かせる。本当は今すぐ駆け出したいくらいだけど、ぐっと堪える。走り出せば自ずと嫌な想像が現実味を帯びる。

「……」

 ナマエは辿り着いた扉の前で小さく深呼吸をする。控えめにノックし、返事のない扉をそっと開いて部屋を覗く。数台のベッドが並ぶ中で、一番奥のベッドにだけカーテンが引かれていて使用中と分かった。ずっと握っていたビブルカードが主を求めて手のひらの上でジリと這う。

「エース、開けるよ?」

 やはり返事はない。ゆっくりとカーテンを引くと、探し求めていた男がすうすう眠っていた。両腕は布団の上に無造作に投げ出され、いつも凛々しい表情も今はあどけなさすら感じる。ナマエは起こさないように静かにカーテンの内側へ踏み入れ、苦しそうな様子ではないことを確認して、胸を撫で下ろした。
 それから彼女は体温計を探しに行ったり、食堂から水差しとコップを取ってきたり、軽く食べられるものがあった方がいいかもと思ってもう一度食堂へ舞い戻ったりした。その間、顔の角度や腕や脚の位置がやや変わっているくらいのもので、エースの眠りは深かった。
 一通りのものを揃え終えたナマエはベッド脇に丸椅子を運んで、よしと腰掛ける、が、ものの数秒でそわそわしだす。
 エース、汗かいてたりする? タオルってあった方がいい? き、着替え? エース着替えなんて持ってる? いや持ってるか持ってるでしょ。と…取ってくる? ……などと一人頭の中で大会議を繰り広げて目線を右へ左へさせていた。
 鼻から大きく息を吸う音とともに、エースの顔がこてん…とナマエを向いた。彼女の肩がビクッと跳ねる。ちょうどよく露わになったおでこに「し、失礼します」と断りを入れて、手のひらをぴたりとつける。体温計を探し出してきたことなどすっかり忘れていた。

「……本当に寝てるだけ、なんだなあ……」

 エースのおでこは汗ばんだ感触もなく、平熱と言って差し障りなかった。彼女は自分の手で確かめてようやく安心できた。

 起きたら、話そう。
 早く起きてね、と願うばかりだった。