35

 実を言うと、ナマエに直接明かされるよりも前から、彼女がロニーに下船を誘われていたことは知っていた。
 それを知ったのは春祭り初日の朝食の席だった。「あのね、私聞いちゃったの」とまるでロマンチックな物語を吐露するように、隣に座った女の子がおれに潜めた声で打ち明けた。

「? 何を」
「昨日領主様がナマエちゃんに、この島に残らないかって言ってるところ! あれって絶対コクハクだよね!!」

 それはそれは無邪気な作法だった。あばらの内側にぺしゃりと雪玉を投げつけられた気分だった。

「――……へェ、そうなのか」
「エースは嫌じゃないの!? 仲間なんでしょ!」
「ナマエが決めることだ。むしろ男なら仲間の決断をどーんと受け入れるってもんだ!」
「えー、そうなの?」
「そう、ナマエの自由だ」

 格好つけてドンと笑った裏側で、死ぬほど嫌だと思う。そんなもん嫌に決まってる。だけど、そうでなきゃいけないだろ。
 ナマエからの相談は何もなかった。祭りが始まってから、考え込むような横顔にそれとなく探りを入れてみたが濁された。それだけ真剣に悩んでるんだと思った。それだけロニーからの申し出はナマエにとって魅力的なのだと。

 やっぱりナマエは綺麗なのだ。野蛮で血生臭い世界とは程遠く、草花と笑顔に囲まれた穏やかな島暮らしがよく似合う。元々そういう世界の人間なんだけど、改めてそれをまざまざと思い知った気分だ。薪割りを終えて立ち尽くした孤児院の食堂が蘇る。あのときおれはあの平和で温かな輪に自分の居場所を見出せなかったけど、ナマエはあそこにずっと馴染んでいた。
 もしもナマエがこの平和な島での暮らしを選んだとしても、誰が責められよう。至極当たり前。ナマエと初めて出会った日に訪れた島がここだったら、彼女は何の迷いもなく根を下ろして生活を始めただろうし、おれも安心して別れを告げていた。そしてただの一度会ったことがあるだけの赤の他人同士で終わっていたに違いない。
 自分はロジャーの実子で、生まれてきたことすら疎まれる存在。そんな人間が恋慕を理由に連れ出すなんてまさかできまい。
 おれがナマエを選ぶように、ナマエにもおれを選んでほしい、そんなことは口が裂けても言えないのである。

 ナマエがロニーの誘いを断り、おれに会いたくなったと目の前に現れたとき、喉の奥が熱くなった。
 おれの元を帰る場所に選んでくれたように思えて、全身が感激で震えていた。オペラ座で一心に拍手を浴びる演者の高揚だった。
 そしてすぐに怖くなった。背中に回ったナマエの細腕の温もりを感じて、なにかとんでもなく身の丈に合わないものを手にしてしまったんじゃないかと心臓にどっと冷や汗をかいた。浴びたスポットライトは海軍本部艦隊の白くて冷たい探照灯にすり替わった。


 だから、白状した。
 おれに流れる血のことを。反応を見るのが怖くて顔が上げられなかった。目も合わさず、おれは文字通り逃げてきたのである。せっかく自分のもとにやって来てくれた女を置き去りにして。


 自分の生まれを呪ったことは幾度もあったけれど、今回の重たさは比ではなかった。ダンスをする気分には到底なれなくてバケットサイズで唐揚げを買い、人のいない方へ流れながら街をぶらついた。唐揚げがなくなる頃、宿を探したが祭りのせいでどこも満室だったからモビーに帰った。船番のクルーたちにバレないようにひっそり乗り込み、鯨の頭に積もった雪でもそもそとカマクラを作って夜を明かした。とにかく人に会いたくなかったのだ。


 結果、おれはぐるぐる考えすぎて頭を痛めていた。比喩ではなく、マジに。


「一晩中外で考え事とかバカにも程がある。冬島だぞ考えろ阿呆!!!!」

 デュースはおれの眉間に測り終えた体温計をざくざく刺しながら怒っている。見張り台にいたクルーに明け方発見されて、即座に医務室にぶち込まれて今に至る。
 さすがに怒髪天を突きまくるデュースの説教にぐうの音も出なかった。冷静に考えりゃ、人に会たくないなら自分の部屋に引っ込めばよかっただけだ。なにしてんだおれ。熱がこもって鬱陶しい布団を頭からかぶって「スンマセン」と力なく鳴いた。

「なにがあったんだ」

 息がもたなくてそろりと布団から顔を出したおれに、じっと睨み続けていたデュースが尋ねる。寄せられた眉間の皺には怒りと呆れのほかに、心配の色が見て取れた。

「…………ナマエに言った」

 言おうか言うまいか少し悩んで、それだけ口にした。ごろりと寝返りをうって壁を向く。

「……話したのか」
「一方的に、だけど」

 話しちまったんだよな、と改めて思う。

 ああ、船に残ると言ってくれたナマエにえらいことをぶち明かしてしまった。これでやはり乗りたくないとなったらどうしよう。やっぱり島に残りたいです、なんてナマエだってもう言えない。そしたらおれがロニーに頭下げりゃいいか。……おれのこと嫌いになったかな。おれの性格や顔がいけ好かないってフラれんのはまだマシだ、いや嫌だけど。それでもマシだ。血筋を出されちゃなんも言えない。おれの努力でどうなるもんでもない。そこを嫌だと言われたら、もうどうしようもないのだ。変えられない事実、いくら隠しても無くならない事実。
 また頭が痛みだした。

「……今はゆっくり寝ろ。どういう結果になっても、付き合う」

 デュースの気配が扉の向こうに消える。
 おれはすっかり弱っていた。春祭りの中日だというのに島には雪が降った。


***


 暗い靄の中を歩いている。

 自分の足元さえよく見えない。どこに向かって歩いているのかも分からない。それでも立ち止まれば常闇にたちまち絡め取られてしまいそうなうすら寒い気配だけがいやに鮮明で、足を動かし続ける。

ああこりゃ夢だなと思う。昔からたまに見る夢だ。

 歩き続けていると次第に囁きが聞こえる。その声は次第に大きくなり、ロジャーとその息子を罵る。耳を塞ぎたくなるような罵詈雑言と嘲笑。鼓膜に貼り付いたそれらは散々聞いてきたものだった。
 固く目を瞑ってやり過ごしながら、入り混じる大小の声の中でまた気付いてしまうのだ。ずっと聞こえる覚えのある声に。


――ロジャーの息子なんか生まれてこなきゃ良かったんだ

――誰もお前が生きることを望んじゃいねェのさ


 これはおれの声だ――子供の声で、大人の声で、"ロジャーの息子"という架空の誰かではなく、明確に"おれ"を突き刺す。
 ろくでもないと一番近くで罵ってきたのは自分自身だ。生まれてきてもよかったのかという途方もない問いの答えは、いつもここに辿り着いた。


「 エース 」


 サボの声、ルフィの声、デュースの声、オヤジの声、マルコの声――そして、ナマエの声。
 声は灯りとなり、重たい靄は徐々に晴れて色付く。波の音、潮の香り。辺りは青海に様相を変えた。浜辺も島陰もない、空と海の深い青の無限回廊である。おれは薄い氷が張られたような海面にぽつねんと立ち尽くしていた。
 そして気付く。自分の目の前にぽっかりと口を開けたひとつの穴。深海の色をしたその穴を覗きこめば、引きずり込まれるような引力でおれの身体はどぷんと海に落ちた。

 全身から力が抜けて下へ下へと沈んでいく。

抗えない。敵わない。仕方ない。足掻く気にもならない。

 またか。この穴もいつも夢に現れる。
 このまま沈んでしまおうかと目を閉じかけたとき、誰かに手を引かれた。



 そこで目が覚めた。

 視界には医務室の天井。なにか夢を見た気がする。すっかり寝ちまった、と身体を動かそうとしてこちらを覗き込む小さな頭と握られた手の感覚に気付く。

「ナマエ……?」

 頭が回り始めて、目の焦点が合って。ようやくその名前を呼ぶ。返事なのかうわ言なのか、彼女も呆然とエース……と小さく呟いた。
 はたと覚醒したナマエが空いていた片手も添えて、ギュウとおれの手を握った。そして身を乗り出して真剣で心配そうな顔でおれの瞳を捉える。

「な、なんかね、エース魘されてて…っ、嫌な夢でも見た!?」
「え……あー、あんまり覚えてない……」

 なんでナマエが泣きそうな顔してんだよ。
 曖昧に誤魔化して、眠りすぎて重たい身体をのろのろと起こす。

「熱は? まだだるい? 水飲む!?」
「ああ……水は、ほしい……」
「わかった!」

 水差しなんかあったっけ、と思う傍、パッと離れた熱を寂しく感じて甲斐甲斐しく動く手を無意識に目で追う。
 差し出された水を口に含んでその冷たさで頭が冷静になった。やべェ、と思う。昨日あんな逃げるような真似をした手前、バツが悪い。なんでナマエはここに居るんだろう。まさか会いに来てくれた? また都合のいい夢を見ているだけじゃないのか。
 ナマエの方にちらりと視線を寄越すと、ガツンと目が合った。


あ。ちゃんと話しに来てくれたんだ。


 そう信じさせるに足りるほど、ナマエの眼差しは雄弁だった。どこまでもおれはカッコ悪い。慌ててコップをベッド横のテーブルに置き、袖口で濡れた口元を拭う。
 何言われても腹括らなきゃな、そう思ってナマエへ向き直るのと同時にベッドが軋んだ。ベッドの縁に腰掛けて身体をこちらへ向けたナマエは思いの外近くにいる。
 やわらかそう。キュと結ばれた薄い唇を見て場違いなことを考えた一瞬の隙間、そのちまい両手がそっとおれの両頬を包んだ。
 魔法にかかったように動けなくなる。

「よく聞いて」

 真正面から見つめる瞳は燃えるようだった。

「私はエースが好き」
「なっ……」
「私はエースと出会えて嬉しい」
「ナマエ、なに言っ……」

 身じろぎすら許さぬ両手に優しく力が篭る。まだ聞け、と言葉の外で語る。


「私は、エースが生まれてきてくれて、すごく嬉しいよ」


 丁寧に染み込ませるように紡がれた言葉が切実に心臓を焼いた。


「……でもっ、おれは……っ」
「私はいま"エース"の話をしてるの。私言ったよね、自分の目で見たものを信じるって。時間としては全然長くないけど私はエースを見てきた。私が見てきたエースは、家族想いで真っ直ぐで優しくて世話焼きでどこまでも自由で、すごく眩しい人」

 どんなにその瞳を覗き込んでも、同情や憐憫や建前は見当たらない。
 注ぎ込まれる言葉がありのままであることしか分からない。


「それが私にとっての本当で、本物。エースが誰の子だろうと、どんな血が流れていようと、変わらない。そばに居たいし、居て欲しいの」


 ナマエの温かな声がぽっかりと開いた暗い虚を満たしていった。
 目の奥や喉がカッと熱くなるのに気付いて、慌てて奥歯を噛み締める。落ち着け落ち着けと念じて空気を吸い込んでみたけど、上手くいかなかった。みっともなく震えた短く浅い呼吸がほろほろとおれとナマエの間に落っこちた。
 ゆっくりと瞼を下ろし、持ち上げ、唾をひとつ嚥下してからシーツの波間に彷徨わせた視線をちろりとナマエに返す。ナマエは相変わらずおれを見つめていた。

 こんな日は一生来ないもんだと思っていた。
 能力者が生涯海に嫌われる呪いを背負うように、あの穴は埋まらなくても仕方ないのだと心のどこかで諦めていた。幸せにしたいと思う人の隣に自分が居ることを夢見るたび、おれには甘美な妄想だと線を引いて押し殺した。

 昔、ガープのジジイが言ってた。生まれても良かったのかの答えは、生きてみりゃ分かるって。あの意味がようやく解った気がする。
 生きて、生きて、自分以外の誰かに出会わないと、分かりっこない。どうでもいいとかなぐり捨てることもできず、かと言って一人では決して見つけられない。これは誰かから愛されて初めて完結する問答なのだ。


「――なあ、」


 堪らなく迫り上がる血潮に似た衝動をこの世では愛って呼ぶんだろうか。
 分かんねェな。いつか分かるかな。分かりたいな。


「抱き締めても、良いか……?」


 見つめ返してそう問えば。


「ん!!」


 愛しい女は両腕を目一杯広げて応えた。

 ぎゅうと抱き寄せた身体は小さいし、すぐさま背中に回された腕は細い。でも、この脆そうな造りの女はおれより大きくて強い。
 彼女はおれが誰彼構わず心の内で密かに引いた境界線を、ヒョイと軽く飛び越えてやって来る。そして、当たり前のように手を取って呪いの外へ連れ出す。その容易い仕草に何度掬い上げられたことか。
 一生敵わないんだろうなと心の芯で嬉しく思うのだ。

 長いこと抱き合った。離れがたいと思ったからいくらでもくっついていた。お互いの体温がどれだけ移っても飽き足りなかった。
 おれの背を撫でていた手がいつしか止まって心臓の音もひとつになったかと思う頃、身体を少し離して再び視線が絡み合う。

「おれも、ナマエが好きだ」

 あれだけ吐き出すことを躊躇っていた言葉は大海を泳ぐ魚のようにするりと言えた。おれの名を小さく呟いてナマエは目を丸くする。

「頑張り屋で素直で、」
「ま、待って、言わなくていい、恥ずかしい……」
「あ? ナマエは言ったじゃねーか」
「わたしはいいの!」
「……優しくて可愛くて肝が据わってて、」
「だから!!」
「うるせェ言わせろ」

 顔を赤らめ両手をばたつかせておれの口を塞ごうと奮闘するナマエを難なくかわし、おれはお構いなしに続けた。怒られたって知るか。怖くない。

 こうして甘えて委ねてどうしようもない姿を晒しても、きっと彼女は離れていかないとそう思えるのだから。