36


「あっ」

 恥ずかしくなるような言葉を好きなだけ並べ連ねたエースが声をあげた。ベッドの横に置いた椅子に腰掛け、布団に顔を埋めて亀を決め込んでいた私もその声に顔を倒してむすっと彼を見る。上半身を起こしてベッドに横たわるエースは片方の手を伸ばし、私の髪を優しく払いのけた。

「ピアス」

 驚きを孕んで綻ぶ声音に、ああ、と私も思い出して身体を起こす。エースが風邪で寝込んでいるだの、想いを告げてそれが実って一生分かと思うほどの面映い心地を味わうだの、ピアスを開けるよりも濃ゆい事柄が多すぎて忘れていた。

「うん、クロエさんに開けてもらった。本当はエースがくれたピアスをつけたかったんだけどね」
「つけられないのか?」
「ピアスホールが定着するまでは駄目みたい」

 ふうん、と上の空な返事はずいぶんとご機嫌だ。後ろについたままの腕に重心を預け、今度は私の髪を耳にかけてピアスが光る耳たぶを眺める。痛ェの? と聞かれ、少しねとそわそわ返した。

「つけられるようになったら赤いやつ一番につけるよ」
「楽しみだな」

 僅かに首を傾けて微笑む口元が、頬にかかった前髪がセクシーでくらりとした。優しさを煮詰めた眼差しにヒッと息が詰まる。元来仲間想いの人とは知っていたが、好き同士にはこういう顔をするらしい。
 耐性、つくかしら。と、跳ねる心臓に相談する。

「腹減ったなァ」
「軽く食べられるもの持ってきたよ」
「ありがとう、食う」

 ぺろりと平げたエースは「足りん」と一言。身体の調子を聞けばあっけらかんと「治った」と一言。結局食堂へ向かうのだった。
 その途中、廊下でデュースさんと出会う。彼はエースと私を見るなりぴたりと静止した。今にも手袋を投げて決闘でも始めそうな剣呑な面持ちでエースの顔をじぃっと見つめたあと。

「……酒?」
「酒」
「…良い酒?」
「良い酒!」
「〜〜〜っ、任せろ!!」

 と、謎の阿吽の呼吸で、エースと春一番のごとく笑い合った。
 医者という知的で冷静な印象が強いデュースさんには珍しく、なんとも年相応に海賊らしく豪快に歯を見せてエースの肩をばしばし叩いて廊下の先へ消えた。すれ違うときに聞こえた「あぁ、」という細い声は、安堵のため息のような、感極まった涙声を誤魔化すような震えを含んでいた気がした。

 次にエースと私の姿を見て声をあげたのはサッチさんである。アッ!!! と大袈裟な動作で両手をカウンターについて勢いよく身体を乗り出したので自慢のリーゼントがふよんと揺れた。

「やーーーーーっと帰ってきやがった! 遅ェ、ってか忘れてたろエース!! 」

 サッチさんにどやされたエースは「は、なにが?」と目を丸くする。そして地を這うような低い声で一言「船番」と恨みたっぷりに返され、ア"ッ!!! とサッチさんに負けず劣らずの巨大な声と共にぎくりと肩を強張らせた。

「そうだ、船番のこと聞かずに島に降りちまった!」
「だろうと思ったよこの野郎!!」

 カウンターに片腕をついて、サッチさんがふんとそっぽを向く。エースは決まり悪そうに頭をがしがし掻きながら「うわおれすっかり…」「買い物誘われて舞い上がってた…」「やべェやっちまった…」などとおろおろぽそぽそ呟いて島に着いた日の己を反省している。顔を背けて分かりやすく不機嫌をアピールしたまま、サッチさんはくいと片眉を上げてエースへ視線を寄越した。

「おれとイゾウ」
「んえ?」
「2番隊隊長代理をやったんだ、埋め合わせしろよ!?」
「あ"ーー……わ、分かった、ごめん、ありがとうございました」

 反論の権利を持たないエースはしおしおと腰を折って丁寧に頭を下げた。サッチさんは素直な態度のエースに機嫌を直したらしく、ショーケースの前でケーキを選ぶ子供のようなはしゃぎようで「じゃあさじゃあさ」と元気よく挙手して目を輝かせる。

「おれ! エースを1週間コンロとして使いたい! 火力が物言う料理作りてェの!」
「1週間!? な、なげェ、やだ3日」
「生意気な! 譲歩しても5日だ!」
「4日!」
「5日!! ガタガタ言うと飯抜くぞ!」
「飯抜くのは話が別だろ!」
「うるせー! 船の上でコックに逆らうんじゃねェ!」

 どんなに抗ってもコックの権力は絶大なので、エースは5日間コンロになることが決まった。レシピを思い浮かべてあれもいいなこれもいいなと楽しげに呟くサッチさんの様子から伺うに、エースには終日働いてもらう気らしい。エースのこの嫌がりようも少し理解できた。
 食堂の居合わせたあちこちのクルーから「しっかり働けよォ」という野次と笑いが飛んでくる。

「……なに笑ってんだコラ」
「ふふ、ん、いや、あはは」

 げっそりとした顔のエースがじとっと視線を私へ送る。そんなエースの隣で場違いとは分かりつつも私は笑みが溢れて仕方なかった。

「この、口挟む隙もなくて眺めるしかないこの感じ? 懐かしいなって。初めてここに来た日も顔合わすなりエースとサッチさん、わーわー言い合ってたよね」
「あー…そういえば……」
「そんなこともあったなァ」

 半笑いで記憶を巡らせるサッチさんはカウンターに頬杖をつき、穏やかな顔つきになってフムと一息ついた。いつもの兄貴分のカオである。

「ほーんと仲良しよな、君ら」

 のほほんとした丸っこい声に、エースと私はお互いの顔を少し見合わせ、これどう答える? と伝わってるか伝わってないか曖昧なテレパシーを送り合う。
 エースは二、三度瞬きをして、サッチさんへスッと顔を向け。


「な、仲良し、だぜ」


 ぐいと私の肩を抱き寄せた。むぎゅと頬が胸板にくっついて潰される。
 あ、暴露した。そんな彼を上目遣いに確認して。


「そ、そう、仲良し、なんです」


 私もぎこちなくエースに追随し、彼の胴にむぎゅと抱きつく。ドキドキした。シャツ越しに聞こえたエースの心臓はもっとドキドキしていた。お互いの緊張が熱になって溶け出していた。
 サッチさんがエッ? とぽかんと口を開け、中途半端に身体を動かした体勢で固まる。気付けば食堂全体がシーンと静まり返っていた。
 エースと私はお互いの身体を密着させたまま、この後どうすりゃいいんだ、というテレパシーを完了させる。

「おっ、」

 永遠にも思えた沈黙のあと、サッチさんが喉を震わせた。

「おまえらァ〜〜ッ!!!!!」
「うおっ!?」
「きゃあ!?」

 漫画みたいな玉の涙を流し、カウンターを乗り越えて飛びかかってきた。咄嗟にエースが私を自分の身体により強く引き寄せてサッチさんからくるりと遠ざける。すかさず突き出した片手でサッチさんの顔面をギチギチ掴んで、エースは感涙で水浸しになっている彼を「危ねェな、何すんだ」と引きつった顔で叱りつけた。
 間髪を入れず背後からあがる野太い声と足音。ぎょっと振り返るとともにエースは私を抱え上げた。つまりは臨戦態勢である。私も目の前に迫る興奮にまみれたクルーたちの熱気に思わずエースの首に腕を回す。元より強面の猛者たち、束になって詰め寄られれば家族と言えど怖いのである。
 ハグを求めて広げられる両腕を躱し、頭を撫ぜっ返す大きな手から逃れ、ちょっとした殴打ほど威力がある激励と歓喜の肩組みを掻い潜り。しかしまあ結局もみくちゃにされ。
 なんとか生き残ったエースは私を抱きかかえたままこれまた漫画みたいにゼェハァと疲弊しきっていた。手加減不可の死闘の末、死屍累々の山にされた家族たちはお互いの身体を折り重ねて苦しそうに呻きながらもやはり幸せそうに口の端をあげるのである。

「おれ、船番代わって良かったわあ…」

 死体の山からサッチさんが親指を立てた。

「コンロ、やっぱ1週間だろ」
「5日で話はついたはずだ」
「ケーーーチ!!……あー、もお、幸せになれよバーーーカ」

 そして、事きれたようにくたりと屍の山に伏した。



 エースはお腹を空かせたまま甲板に出た。コックは全員倒してしまったし、戦場跡地の食堂はすごく荒れていたので。
 甲板の様子を見て、私はようやく異変に気付く。まだ停泊中で日も高いというのに、なにやら荷物も人も多い。慌ただしく働きながら、積荷数えたかとかこっちに運べとか酒樽足りねェぞとかオヤジ最高とか雄々しい声が飛び交っている。

「買い出し係…ではなかったよな、今回は違うはず……」

 隣に立つエースが顎に手を添えてもごもごと呟く。船番をすっぽかしたとあって何やら自分の記憶が疑わしいらしい。そんな彼に尋ねてみる。

「ねえ、なんで今日はこんなに人が多いの?」
「? そりゃ明日の朝には出航だからな」
「え、春祭りはまだあと2日やるはず……」

 反射的にこぼれた私の疑問に、エースはぱちくりと瞬いて首を傾げる。その様子に私もつられるように首を傾げる。

「祭りの最終日まで待てるかよ、よりによってここには海軍の駐屯所があるんだぞ? ログが貯まったら即出航に決まってら」

 そうあっけらかんと返され、私はハッ…と固まった。
 祭りの終わりまでいるとばかり思っていたけど違うらしい。言われてみればその通りで、この島にきた目的と自分たちの立場と状況を鑑みれば長居は無用なのである。
 勘違いを察したエースがプッと噴き出す。置いていかずに済んで良かった、とけらけら笑う。祭りを満喫する気満々だった自分の恥ずかしさと間抜けさに返す言葉もなく私は黙り込んだ。

「あ、サボり野郎」

 そこへ現れたのはイゾウさんだった。襷掛けされた袂を見るに、イゾウさんも一仕事していたようだ。よく見れば白い額にはうっすら汗が浮いている。

「イゾウ、あー、サッチから聞いた。船番すっぽかしてすまねェ……穴埋めしてくれてありがとう」
「はは、別に構いやしねェよ。今度の掃除当番と洗濯当番としばらくの使いっ走りで手を打とうじゃねェか」
「結構あるな」
「ふふ、足らねェならそう言いな。煙管の火付け役も頼もうか」

 90度に曲げた腰を戻してうげ、と顔を顰めたエースの顔を見て、イゾウさんは軽く笑った。そして、当初の目的地であろう食堂の扉を開いて「お、おう? なんだこりゃ」と当然の反応をした。平和な母船で突然出くわした惨状に面食らったのだ。
 イゾウさんの声を聞きつけたサッチさんが絞り出すように「ッ赤飯!!!!!」と一言叫び、イゾウさんはその一単語で全てを悟った顔をした。
 ハッ、と噴き出すように息を吐くと同時にくしゃっとハンサムに眉間に皺を寄せて少し俯く。「そうかい、そうかい」としみじみとした温かな声が紅の唇から溢れた。
 歌舞伎の一幕から抜け出たような伊達男は私たちを振り返り、至極眩しそうにキュと目を細めて粋に笑った。


「人生ってのは楽しいんだ。ゆっくり生きろよ、若人ども」



***


 街のレストランにて、食後の紅茶にちみちみ口をつけながら私はお向かいに座る男を盗み見た。街へ降りてから現在進行形で、これまでエースとどうやって会話してきたっけとおろおろドキドキ身体中に変な汗を掻いている。改めて2人きりになったら物凄く緊張するのだ。これは、やばい。
 これがエースも多少なり落ち着かない様子でいてくれたら良かったのだ。変化した関係性に緊張しているのは私だけじゃないんだなと気休めでも安心できた。が、エースはいつも通りなのである。むしろいつもより穏やかで、厄介なことにそういう春の海のような横顔に新鮮な魅力を感じてしまっている。
 今だって頬杖をついてデザートメニューを静かに目で追っているその様が、ミルクをひとつ入れたコーヒーカップの持ち手に添えられた指先が、なぜだかこんなに胸をときめかせている。

 言葉にするって、伝えるって、すごいことなんだ。曖昧でふんわりしていた感情が実体を持って影を得る。確固たるものとして存在感を得る。解像度が変わるとか、輝いて見えるとか、すべてが新しく感じるとか。巷のJ-POPでよく歌われている"恋が成就した前と後では見える世界が変わる"というあれってあながち嘘じゃないんだな。

 ……とまあこんな具合に私の心はコインランドリーで回る洗濯物の如くぐるんぐるんと桃色に掻き回されている次第なのだ。

「どうした、あちィのか」
「えっ」
「全然減ってねェから」

 カップを指差し、エースが緩く笑う。その顔がまた優しくて、心臓に赤ランプが点灯する。

「ち、違う、美味しいから大事に飲むの」
「ふーん」

 嘘だって分かってるまあるい声でエースは口元に微笑みをたたえたまま再びメニューへ視線を落とした。
 あ、もうダメ、心臓もたない。めろめろと目眩を催す視界をぎゅっと瞼で遮って、紅茶の味に集中しようとしたその時、コンコンと音がした。何かと思えばエースがテーブルをノックしたらしい。

「出航前に買い足してェもんは?」
「えー、と……大丈夫、ないよ」

 エースがカップを口に運ぶのを見て、私もつられて紅茶を啜る。温かいものを飲んだら幾分心が落ち着いた。私はゆらゆらと揺れるカップの水面を眺め、ずっと胸にあった気掛かりを零した。

「シスターやウィル君たちにお別れ、していけないのか……」

 きっと別れを惜しんでくれるだろう。そして、見送ると言うだろう。そうすれば、私たちが何者であるか知られてしまう。怖がらせないようについた嘘ならば、最後まで隠し通すべきだ。ひとたびバレてしまえばそれは彼らを深く傷つける刃になるのだから。
 あー…、と視線をずらして曖昧な返事をするエースが何より海賊の船出の作法を知っている。やはり黙って去るのが良いのだろう。

「…手紙」
「え?」
「それくらい寄越したってバチはあたらんだろ」
「いいの?」
「いいもなにも、そうしたいって顔に書いてある」

 だろ? と言わんばかりに首を傾げられ、私は丸くしていた目を細めた。
 レストランを出て便箋を買いに雑貨店を訪れた。店主にインクとペンを借り、私はレジ横でこれまでのお礼と出航のことを簡単な手紙をしたためた。書けたか? と覗き込んできたエースに便箋を渡すと、さっと目を通した彼は私にペンを要求した。そして、罫線をまるっと無視した男の子らしい粗い字でP.S.を書き出しにしてペンを走らせた。


――明朝6時、孤児院から見える海を通る


「ストライカー回してやる。上手くしたら最後に一目会えるぜ」

 便箋とペンがぽいっと返される。彼の粋な計らいに胸がいっぱいになり言葉に詰まっていると、髪を掻き撫ぜられた。

 孤児院は静かだった。みな祭りに出払っているので当然である。たった数日でも愛着は湧くもので、子供たちの声で溢れていた建物を見上げて感傷に浸る。私は玄関のドア下の隙間へ手紙をそっと差し込んだ。
 それから、ストライカーを取りに行くために一度モビーディック号へ向かった。原動力が炎であるストライカーは夜に走らせるとすぐに海軍に見つかってしまうので、日が高い内に島の南東へストライカーをつけておくのだという。明日の朝はそこからストライカーを走らせ、島の東を通って孤児院のみんなとお別れをし、北岸から出航するモビーに合流するという寸法だ。

「明日、少しでも顔を見てお別れができたらいいなあ」
「そうだな」

 南東の岩場、ストライカーから降りたエースはそう返事をしてくれた。あとは明日の朝にまたここへ来ればいい。
 ロープでストライカーを固定するエースの手元を見ながら、お別れ、と反芻する。いつか私にも訪れるお別れを思うと、引き攣れるような寂しさが募る一方で今が一層愛しくかけがえのないものに感じられた。ロープを引っ張って結び目が解けないか確認し終えたエースの背中に声を掛ける。

「エース」
「ん?」
「あのね、…手が、冷たいの」

 手、と聞いたエースは一呼吸分呆けてからふ、と柔こく笑った。

「手袋、買う?」
「意地悪、買わないよ」

 分かっているくせに、と膨れる。
 ちゃんと分かっている彼は今度こそカラカラと楽しげに笑いながら、私の手を取って歩き出す。握られた手に穏やかな熱が移るのをエースの半歩後ろを歩きながら、嗚呼と噛み締める。相変わらず緊張しているけど、この一瞬すらも逃したくないのだ。

「!」

 指が一本ずつ絡まる。あれよあれよという間にがっちりと絡め取られた。絡まったが最後、一生くっついて離れない気すらして、胸が苦しくなる。幸せが喉に詰まるようだ。骨の髄まで桃色に痺れた。
 照れてる? それともこんなの子供じゃあるまいし、余裕? エースは振り返らないが、手だけがとにかく熱い。

「大きい」
「おう」
「ゴツゴツ」
「おう」
「かさついてる」
「おう」
「厚くて固い」
「さっきからなんだよ」

 ぽやぽやと浮かれた頭で感想を思いつくままに口にしていたら、もう黙れと言わんばかりに繋いだ手をぐいと引かれた。ちらっとこちらを向いた顔が少し笑ってたから怖くはないんだけれど。
 また正面を向いたエースがそのまま話し続ける。

「明日は朝が早ェからよ」
「うん」
「街の方で一晩明かそうと思ってんだ。船の奴らにはストライカー出すときに野暮用で明日は後から合流するって言ってある」
「ということは……」

 ということは、だ。

「夜までお祭り楽しめるね!!」
「え……? あ、あァ、そういうことになる、けど」
「夜ってやっぱり街の雰囲気も違う!?」
「あー、ノリは変わんねェと思う……いや…いや! そうじゃなくて!!」

 一度空に向かってワッ! と吠えたかと思うと、エースは焦れたように、もどかしそうに、ガシガシと後ろ髪を掻いた。それから、ぴたりと動きをとめて観念するように項垂れ、大きく息を吐いた。溜め息に似ていたが、深呼吸にも思えた。
 そして、視線を落としたままぽそぽそと話し出す。

「……夜まで連れ回さないのは帰すタイミングをなくすからだっつったよな」
「……? うん」

 祭りの初日、泊まっていたホテルに送り届けられたときにそんなようなことを言っていたっけ。要はお子ちゃまは早よ寝ろというやつ。

「帰る、じゃなくて、帰す、だ」
「……」
「意味、分かるか」

 独り言みたいな声量でも、最後の言葉とともに合わさったエースの熱っぽい瞳は明らかに私の返答を待っていた。

 たっぷり時間を費やして、エースの言葉の意味を咀嚼して、私の思考回路は一瞬でショートした。

 胸がドキドキして呼吸が下手になる。ぱちぱちと何度も瞬いてエースの顔をはわ、と見つめる私は、茹で蛸のように赤く間抜けな顔だったに違いない。
 衝撃のあまり思わず私が繋いでいた手を緩めてしまうと、エースは照れ隠しに怒る子供のような顔で唇を尖らせて、むしろ指をさらに絡めた。
 それにまた驚いて私は空いた手でコートの裾をぎゅうと握って、いよいよ何も考えられなくなった。何か返事をしようと開く口はもじもじと情けなく開閉を繰り返すだけ。
 エースもこりゃ駄目だと痺れを切らしたのだろう。何も言わず抱き締められた。鼻がエースの肩にぶつかって痛かったが彼はお構いなしで、自分より一回り小さい私を抱きすくめ、パッと離れた。

「別に取って食いやしねェ。宿には行くけど、ちゃんと2部屋取る」
「え、あ、」
「でもそういう心づもりがあることは覚えとけ」
「は…はひ……」

 そんな宣言をされては蚊の鳴くような声しか出ない。そういう心づもりの実行が今日ではないだけ。

 なんだか大変なことを聞かされている。

 唖然とする私を前にエースは難しい顔を引っ込めて、いつもの顔で笑った。

「ガチガチになってんのも確かにウブで可愛いけど、も少しリラックスしてもいーんじゃねェの」
「む、無茶言わないで」
「無茶なもんか! ナマエ、これからも同じ船の上で顔突き合わせて暮らすんだぞ? ほれ、しっかりしろー」
「うううう」
「がんばれー気合入れろー」

 緊張しているこっちが馬鹿らしくなるくらいの明朗快活な笑い声をたててエースは私の頭をわしゃわしゃと撫でる。
 そりゃあエースは恋愛経験も豊富なんでしょうけど!? 私にとっては初めてのお付き合いなのだ。漫画やドラマや他人の恋バナで得た知識ではとても太刀打ちできないのだ。テンパっておるのだ。
 この温度差が無性に悔しくて繋ぎっぱなしの手にぎちっと力を込めて仕返しするも、当然ながら、特に堪えた様子はない。人の頭の上で好き勝手に動く大きな手をぺちぺち払い除ける。

「私ばっかり浮かれててすいませんね!」
「はあ?」

 めちゃくちゃにされた髪をなんとか手櫛で直しながら、私はそっぽを向いて悪態をついた。

「"私ばっかり"、だと?」
「へっ、わっ、きゃあ!!」

 何をするかと思えば、エースは私の両脇に手を差し込み、軽々と持ち上げ、まだ街にたどり着く前の足場の悪い道でくるくると回った。ダンスでも踊るかのように、心底楽しげに。

「おれだって浮かれてる!」

 目まぐるしく変わる景色の中で、私の正面にいるエースだけが眩しいほどの笑みをたたえて変わらずそこに居た。世界の中心にエースが居る、そう思えた。
 私はエースの顔に目を奪われたままで、そっと地面に降ろされる。よろける私の身体を抱きとめて、エースもまた私の顔から目を逸らさず言葉を続けた。

「1日中だって踊れる。この島の雪を全部溶かすことだってできる。ナマエを抱きかかえたまま過ごしたっていい」
「エース、」
「なァ、どうしたら伝わるんだ、こういうのって」

 首を傾けて少し困ったように眉を下げて笑う顔を前に、ぷっすりと胸に矢が刺さったのが分かる。あまりの甘さにくらくらした。
 エースも私と同じように浮かれてる。それがわかっただけでも心持ちが違う。確かに恋愛経験値は違えど、私たちは同じ多幸感の中にいる。それがわかっただけでも――……。

「ナマエ」
「……なに?」
「好きだぜ」

 ああ、ノックアウトです。