37

 
 おれだって浮かれてる――そう打ち明けたエースは、言葉の通りだった。そんじゃァ夜まで遊び尽くそうぜとエースは上機嫌で指を絡めなおし、あと数刻で夜を迎える街へ繰り出した。
 フラフラになるまで踊って、街角にいる楽団に拍手を贈り、胸いっぱいにスノードロップの香りを吸い込んで。巡回の海兵を見かければさり気なく道を変えたり顔を背けたりしてかくれんぼのようにクスクス楽しんだ。

「散々サボったのに今日も遊んでよかったのかな」
「今さらサボりが1日増えたところでなァ……」

 然程気にする様子もない彼は5本目の串肉を平らげ、タレがついた指をぺろりと舐めた。エースを始めとする海賊という人間は確かに義理堅いところはあれど、基本的にはいい加減だ。ナマエが心配するほど咎められることはないのだろう。
 日は暮れ夜は更け、街角にぶら下げられた灯りが煌々と春を祝う祭りを照らす。しっとりと落ち着いた陽気さは昼間とは違う趣がある。ナマエは夜の街の隅を歩き、そんなことをご機嫌に思う。
 何の変哲もない、細い路地。そこを通りかかった時だ。
 唐突に排気ガスの匂いがした。

「え——、」

 車のエンジン音。電車が通過する轟音。繁華街の喧騒。
 ナマエは思わず足を止めた。この世界にはあまりにも異質で、でも彼女には馴染みのあるものたちがじわじわと鮮明になる。路地は人一人がギリギリ通れるくらいの幅しかなく、どんなに目を凝らしても薄暗くてその先はよく見えないが、直感的に悟った。

 ここから帰れる。

 この路地を抜けたら、日本に帰れる。心臓が嫌にうるさく、手足の先がぎゅっと緊張した。突然来たんだから突然帰されるのだろうと想像はしていたが、こんな風に帰路を提示されるなんて。
 ここから帰れると解っていても、突然の事態に彼女の足は竦んだままだ。

「ナマエ?」

 はっ、と声の方を向く。足を止めて振り返るエースがいた。不思議そうにきょとんと首を傾ける彼に少しだけ安堵して張り詰めた息を吐く。どうしたと声を掛けられ、なんと返せば良いかと戸惑いながらチラと路地裏へ視線をやると、匂いも音も嘘のように消え失せていた。
 呆然と立ち尽くすナマエの横に並んで、エースが路地裏の暗がりを覗き込んだ。そこにあるのは木箱や樽といった荷物と雪ばかり。

「猫でもいたか?」
「いや……」

 見間違い、と思い込むにはあまりに生々しかった。
 心臓は未だに不健全に血液を循環させ続けている。上の空でエースへ二、三返事をし、彼の背中についていく。

 あれはなんだったのだろう。神様とやらは何を考えているのだろう。あそこを抜ければ私は帰れたんだろうか。次はいつ。次はあるのかしら。もしまたああして道を開かれたとき、私は——……

「ナマエの部屋はこっちな」
「あ、はい」

 ホイと渡された鍵を反射で両手を皿にして受け取り、それを見つめ、3秒おいてからエ? と丸く口を開けて顔を上げた。エースもエ? という顔をしている。

「……同じ部屋が良い?」
「…………あっ、ち、ちが、う!!!」
「全力で言うな、ヘコむだろ」
「そういうわけじゃ、ない、けど、今日は…まだ…!」
「へいへい、“まだ”。“まだ”ね、よく覚えとくよ」
「……!」

 墓穴を掘ってカッと顔を熱くするナマエをエースがケラケラ笑う。
 気付けば宿屋の廊下だった。考え事に耽っていた彼女は、ボケッとエースの後ろを何の疑いもなく無防備についてきたのだった。その間に宿に着き、チェックインの手続きは滞りなく終わり、エースは約束通り2部屋取った。

「宿屋行くって言ってから何にも話さねェでよ、ちゃんと部屋分けてんだからそんなに緊張するこたァねェだろ」
「……」

 正確にはそういうわけではないのだが、彼女は何となく言い出せず。
 エースは言葉に窮したナマエの頬をするりと指の背で撫でた。つられるようにエースの顔を見上げると視線が絡まる。蜜でも滴りそうな眼差しと。

「……おやすみ」

 名残惜しそうに離れる指先。それを追うだけの度胸はなく、彼女はなんとかおやすみの返事をした。割り当てられた部屋へ大人しく入り、よたよたと歩いてベッドに正面から倒れ込む。目を閉じ清潔なシーツの匂いをゆっくり吸い込み、隣の部屋の扉が閉まる音を聞いて、結構壁薄いんだなとどうでもいい感想を浮かべた。吸い込んだのと同じペースで息を吐き、ほっぺた、撫でられた……と思い返した。
 触れた指先が嬉しくて、離れていく瞬間は寂しかった。

あの船に乗ると決めたとき、寂しくなったってここにいると決めた。
いつか訪れる悲しいことも辛いこともすべて受け入れて、自由に生きると。
別れの時がきたら、ちゃんと元の場所へ帰るとも。

 仰向けに転がる。しんと冷えた部屋には雪明かりが蒼く差し込んでいる。そのまましばらく天井をぼんやり眺めてから、ナマエは寝支度を整えた。冷たいベッドに潜り込んで目を閉じた。つま先に当たるシーツはどこもひんやりとしているが、なんとか眠れそうだ。


 朝。ほんの数時間の仮眠程度だった。
 冬島の雲は厚く、夜が明けても朝の街は薄ぼんやりとしている。ナマエは鼻先までマフラーに顔を埋め、二人は宿から南東の海岸を目指す。いくつかの店が開店準備をしているくらいで、通りは抜け殻のように静かだった。もう少し日が昇れば再び人で満ちるのだろう。

「寝れたか?」
「うん、起きるの辛かった。エースは?」
「ン、辛かったけど頑張った」
「だよねえ。朝はほんと冷えるね」

 両手をポケットに突っ込んで肩を竦める。すると。

「おっかしいな、昨日はちゃんとおねだりしてくれたのになァ」
「わっ…!?」
「変だなァ、おれは夢でも見てたのかね」
「ちょ、な、なに!」

 エースの手がズボッとナマエのポケットに侵入してきて。抵抗する間もなく、狭いポケットの中で器用に彼女の手を捕まえ。ひと回り大きな手ですっぽりと包んで半ば強引に引っ張り出し。
 エースは顔を前に向けたまますっとぼけ、ついには繋いだ手を自分のポケットに収めた。
 悔しいくらいに彼の手は今日も温かい。

「……エースさんったらキザですね!」
「ナマエチャンはウブだなァ」

 可愛くない憎まれ口をエースは笑い飛ばし、ナマエは先程より深くマフラーに顔を埋める。

「? なに握ってんだ?」
「……ん」

 違和感を感じたのか指先でなんとなく彼女の手を探っていたエースが尋ねた。ナマエはポケットの中で手を緩め、大人しく手中にあったものを渡す。それは常に彼女のポケットにあるので何の気無しに握っていたものだ。
 小瓶である。エースの掌の上、瓶の中でカロンと石とガラスがぶつかる音がした。

「ピアス。……と、ビブルカード?」

 誰の? という顔のエースに、ナマエはじっと見つめ返すことで答える。彼は素早く3回瞬きして、紙に視線を落とし、もう一度彼女の顔を見た。

「おれの?」
「持ってて構わないって、エース言ってたし」
「いつもこうして持ってんのか」
「うん」
「……ふーん」
「…なに」
「いや? そっか、いつも、ふーん、いつもねえ」
「ニヤニヤしないで」
「してねェです」
「してるから! もーー返してよ!」
「ふーーん」

 空に透かすようにエースが小瓶を掲げるのでナマエの腕はスカスカと宙を掻くのみだ。
 彼の笑い方がニヤニヤからくつくつに、くつくつからケラケラに変わる。その様はポップコーンが弾けていく過程に似ている気がした。
 ナマエが腹いせに繋いだ側の腕に体当たりをすれば、加減してやり返され、負けじとやり返し。
 そうしてじゃれているうちに。

「あ」
「あ゛ーーーーー!!!!!」

 エースの手からすっぽ抜けた小瓶は綺麗な弧を描き、道脇に積まれていた雪山に消えた。ナマエは顔を真っ青にして彼女の背丈ほどもある雪山に駆け寄るが時すでに遅し。小瓶の在り方はもう分からない。一面の白がキラキラと朝日にまばゆく輝くばかりである。

「ど、どっか行っちゃった……」
「悪い……」

 ビブルカードでエースを探すことはできても、エースでビブルカードを探すことはできない。となれば自力で探すしかない。ウィルたちとの約束の時間は迫っているが、あれには大事なものが入っているのだ。諦められない。
 ナマエの決断は早く、彼女は雪山に膝をつき、手当たり次第に雪を掘り始める。湿り気のない冬島の雪はサラサラと軽いが、痛みを伴うほど冷たい。エースは慌てて彼女の二の腕を取って捜索をやめさせた。

「おいおいおい待て待て待て」
「やだ止めないで」
「お前、手えらいことになるぞ。霜焼けじゃすまん」
「でも、」
「だからちょっと下がってな」
「……?」

 そう言ってエースはナマエを優しく押しのけて前に出た。もう少し後ろ、という短い指示に彼女は訝しげにしながらも従う。
 途端、巨大な炎が湧き上がる。炎は雪諸共エースを呑み込み、熱を孕んだ風が彼女の髪を後ろへ流した。
 エースは上陸からひた隠しにしていた炎を惜しげもなく纏っていた。その姿は呼吸を忘れるほど神々しく、美しかった。
 「火事か?」「なんだこれは」「どうなってんだ」「あの男は何者だ?」……辺りがざわざわと騒がしくなり、人が集まり出す。が、みな赤々と燃え上がる炎を前に慄き立ち尽くしていた。海兵を先導する声が一本通りを離れた曲がり角きから聞こえたのと、エースが溶かした雪山の残骸から小瓶をヒョイと拾い上げるのは同時だった。

「えー、皆さんどうも朝からお騒がせしました。探しもんも見つかったんで、おれたちゃこれにて」

 鎮火した彼はくるりとギャラリーに向き直り、きっちりと頭を下げる。
 それから人懐っこい顔でエヘとひとつ笑い。

「さ、ナマエ逃げるぞ」

 彼女の腕を引いて走り出すのだった。
 背後から「捕まえろ! 火拳だ!! 一般人を人質にしてるぞ!!」と軍用ブーツの硬い靴底が石畳を駆ける音が聞こえる。二人は南東の海岸へひた走る。抜刀した何人もの海兵がその後ろを追ってきていた。
 ストライカーが見えた。エースはスピードを落とさぬまま器用にナマエを小脇に抱える。そして、一足跳びでストライカーへ乗り込み、固定用ロープを瞬時に焼き切って出航した。海岸では追跡不可になった海兵たちが船を回せと叫んでバタバタと方向を変えて駆けていく。

「火傷すっから上に立て」
「こ、ここ?」
「そ。肩でも掴んどけ」

 ナマエはエースに言われた通り、マストがそびえるタービン部分の上に立つ。彼女の方がエースより頭ひとつ分高くなるため彼の背中は風除けにならず、彼女は真正面から潮風を受け止めて目を眇めた。
 島沿いにストライカーをしばらく走らせてから、エースが肩越しに小瓶を差し出した。

「ほらよ、落として悪かったな」
「あ……ううん、見つけてくれてありがとう。最後、騒ぎになっちゃってごめん」
「はは、騒ぎはおれが起こしたんだろうが。もう出航するところだったし、海軍に追われるなんて日常茶飯事だ。別にナマエが謝ることじゃない」
「そ…そう……?」
「ああ。気にすんな。むしろ慣れろ」

 エースは軽い調子で言った。その顔はエイプリルフールの午後みたいに清々しかった。ナマエは目を細め、肯定の返事を小さく返す。
 波を割る音をBGMにしばらく行くと丘が見えてきた。ナマエは左手を心臓の辺りで握ってドキドキと目を凝らす。

手紙は読んでくれただろうか。
みんなは来てくれてるだろうか。

 丘が角度を変えて徐々に近づく。
 人影がひとつ、ふたつ……第一発見者の声を聞きつけてか、船体を見つけてか、その影はわらわらと増えた。声は届かないが、小さな影たちがぴょんと跳ねて両腕を目いっぱいに振って喜んでいる。喜んでくれている。
 ナマエは眉間にくっと力を込めて腕を大きく振り返す。丘の正面に差し掛かったところで、エースは肩に置かれた彼女の手首をグッとつかみ。

「落ちんなよ」

 とだけ言い、船尾に近い側の床をダンッと勢いよく踏み込んだ。すると船の先頭がぐわんと浮いて、ストライカーがトビウオのように跳ねた。
 浮遊している間は世界が止まったように無音で、水飛沫さえガラスの工芸品のごとく一粒ずつ鮮明に見えた。瞬きひとつでシャッターが切れそうなほど。
 ストライカーは派手な音と大きな水飛沫を立てて着水し、再び真っ直ぐ北へ走り抜ける。子供たちの影はエースの操舵に興奮したように飛び跳ね、最後まで船を見届けるために丘の端まで船を追って並走した。
 そしてお互いの姿が見えなくなるまで手を振り合った。

 こうして二人の旅人は、小さな冬島を出航した。


***


 ストライカーの上は無言だった。
 ナマエは黄色い船体に横向きに腰掛け、脚はパドル部分の黒い外装に下ろしていた。ストライカーから落ちぬようマストに左腕を回して寄りかかる。
 エースは胡座をかいた状態で船を進めていた。すぐ隣は極寒の海で、しかもカナヅチだというのに。この男は立ってバランスを取るでもなく、なんとも肝の据わった操縦をする。
 彼もまたナマエが座る船体に片肘を引っ掛けてもたれかかっているので、波を越えるときの揺れで帽子のつばや彼の黒い癖毛が彼女の腰あたりに当たった。
 上手く逃げ切れたらしく、ストライカーを追う海軍船の姿はない。海を進むストライカーが生むどうどうとした風と波の音だけが辺りを占めていた。リラックスした沈黙だった。お互いに気まずさはない。
 モビー・ディック号の巨大な影が見えてきた頃である。

「……?」

 ふっ…と炎が消え、ストライカーが減速する。どうしたんだろうと思っているうちにストライカーは波に揺られるだけになった。
 エースは前を向いたまま舳先の延長線上にあるモビー・ディック号の白い影を眺めてむっつりと黙り込んでいる。なにかしら、とナマエはマストに寄りかけていた体を起こし、船を見てからエースを見る。

「次に上陸すんのいつになるか分かんねェし」
「ん……?」
「部屋に連れ込むのはあからさますぎるよな」
「……なんの話?」

 なおも彼は振り向かなかったが、返事だけは返ってきた。なにか考え事をしながら呟くようなそれはあまり要領を得ず、結局船を停めた真意はつかめない。
 せめて表情だけでも見ようと彼女は体を伸ばそうとしたとき、エースはおもむろに立ち上がり、彼女のすぐ横にドカッと腰掛けた。彼の長い片脚が雑に乗り上げる。マストが邪魔で人二人がゆったり座れるようなスペースはないため、必然的にお互いの太ももがぶつかるほど体が近づいた。
 近くなったエースの香りにナマエは思わずマフラーの端を握る。たじたじとマストへ体を寄せると、エースは右手を彼女の背中側について空いた分だけ距離を詰めた。船がギッと僅かに音を立てて波間で揺れた。
 帽子のつばが目の前で軽く押し上げられ、エースの顔がよく見える。そこに笑みはなく、ものすごく真剣な顔つきだった。エースの黒い瞳がすぐ近くにあり、そこにナマエが映っているのだ。
 彼女は揃えていた脚をきゅっと強く閉じる。知らず知らずのうちに呼吸が浅くなっていた。
 海の上の小舟。
 体の側面にはマストの固さと彼の熱。
 逃げ場はない。

「本当はナマエが好きだって言ってくれた時したかった」
「ん、ん……?」
「でも布団に頭押し付けて動かなくなっちまったから諦めた」
「……そ、それはそっちが恥ずかしいことばっか言うから……」
「昨日、寝る前もしたかった」
「……」
「歯止め効かなくなりそうだったからやめた」
「えと、なにを……?」

 なにを、なんて。ちょっと、いやだいぶ白々しい。
 得体の知れない期待が胸を満たしていた。じんわりと汗をかくほどに。

「聞くなんて野暮だぜ」

 鼻から抜ける笑みをひとつこぼして、エースの大きな熱い手が顔の横に添えられる。指先が髪の生え際に届いて擦れた。ザリ、という音が耳元でやに大きく聞こえた。
 拘束力のない手だから俯くことも顔を背けることもできたはずなのに、彼女は魔法にかかったように無抵抗に瞼を緩々と下ろしてしまう。睫毛を震わせ、吐息を最小限にして、脚をぴたりと閉じ切って。

「……、」

 唇にふに、と熱いものが押し当てられた。「ぁ、」と思う頃にもう一度、二度と合わさる。
 エースの短い睫毛が頬を掠めた。

「ナマエ」

 これまでで一番近くで見た彼の瞳はぐらぐら煮えた色をしていた。

 キスをした。
 認知した途端、羞恥心が体中に巡り、ナマエの頭は「キスした」でいっぱいになってしまった。
 おーいおーいと目の前で大きな手が翻る。彼女は反応を返さない。聞こえているし見えているのだが、身じろぎひとつで心臓が飛び出てしまいそうなので動けないでいる。恐怖も人を固めてしまうが、巨大すぎるトキメキもまた人を固めてしまうのである。
 エースはあまりにも想像通りのその様子を素直に可愛いなと思う。

「返事しねェならもっかいする」
「……」
「あ、いいんだな?」

 エースが先ほどよりも素早く近づいてちゅっ、と可愛らしい音を立てる。
 バチンとブレーカーを入れ直されたようにナマエが跳ねた。大した距離も稼げないのにマストに縋り付くようにじりじりと体を引く。
 「動けるじゃねェか」とからから笑うエースを見て、意地悪しないで! と思った。しかし彼はくいと顎を上げ、見下ろすような角度で口の片端を上げる。そして、意地悪したろという顔で「意地悪したくなるなァ」と意地悪く笑うのだった。
 悪ガキをそのまま大きくしたようなこの男をなんとか睨み返す。が、睨み返すだけで文句のひとつも出てこないのは、結局のところ彼女の胸に砂を吐くほどの甘ったるい悦びがあるからだった。