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「うっそお」
「きゃーっナマエおめでとっ」
「まだネイルの塗りっこの約束果たしてないのにー!」
「これ持ってっていいよ〜あげる〜」
「困ったことあればいつでも相談に乗るからね!」

 部屋をエースの部屋に移したいと相談を持ちかけた途端、お姉様たちはキャアキャアとカラフルに騒いだ。どこから出したか、破裂音とともにクラッカーの紙吹雪とテープが舞い、詰め寄ったお姉様に頭を代わるがわる撫ぜられる。
 二度、しかも連日、エースの部屋から朝帰りをしたのにお姉様たちの反応は淡白なものだった。というのも、お姉様たちにとっては他人の色恋沙汰なんてくっつく前こそツツキ甲斐があって面白いのであり、くっついてしまえばあとはキスしてセックスして毎日ハッピーな桃色なんでしょハイハイ、てな具合なのだ。そのため、先日の冬島帰りの「き、キスしました」の報告で新人の恋愛いじりは終わりを迎えていたのである。そもそもくっついたあとをとやかく聞くのは野暮でしょう、と世界の常識みたいな顔で言われたのである。
 だから、部屋を移すことで正直こんなに騒がれると思っていなかった。
 なんだろ、早く追い出したいとか思われてたのかな……と不安になってお姉様の顔をチラチラ見る。不安を正確に察したお姉様の1人が「あっ、違うからねっ!?」と大きな目をさらに大きくさせて言う。

「確かに成就した恋路には基本的に干渉しないけど、門出は別!」

 そのお姉様は自分の前にいた別のお姉様の両肩に手を置き、グッと乗り出して続けて言う。その顔は大真面目で、不安にさせてごめんねという表情が堪らず漏れ出ていた。その声に周りのお姉様もエッ! と驚いて私を見てから、泣きべその小さい女の子をあやすようにわたわたと慌て出す。

「可愛い妹分だもの、みんなナマエのこと応援するのと同じくらい心配してるってこと!」
「なんていうかなあ、んーと、島を出て嫁ぐ娘を見送る気分ていうか……」
「そうそうそれそれそれ! ま、この女部屋にはいつでも帰ってきていいんだよ! 実家的な!」
「荷物もみんな持ってかなくていいし、ベッドだっていつでも使える状態にしておくよ」
「そだね、実家実家、お姉ちゃんたちここにいつでも居るから!」

 掛けられる言葉の数々に口を丸く開けて立ち尽くす。そして、泣きそうになった。
 もしも、あくまでもしもだが、私が元の世界でどこかの誰かと結ばれて嫁ぐ時、こんなことは決して起こらない。嫁ぐ私を送り出す家族も、帰ってこられる実家もない。私が出れば、家は無人になり仲介業者に引き払われるだけ。
 だから、こんな言葉を掛けてもらえる日がくるなんて思わなかった。
 クロエさんが少し俯いた私の頬を指の背でゆっくりと撫でた。おずおずと顔を見ると、とても優しく微笑む彼女がいた。

「みんな寂しい気持ちもあるけど……ナマエの幸せを心から願ってるのよ」

 その一言で涙腺は決壊した。四方からティッシュを差し出され、八方から頭を撫でられた。

「いっぺんエース隊長に指導入れといた方がいいかな」
「えー、さすがに付けるでしょ」
「そりゃそうだろうけど、ほら、ペースとか回数とかさ」
「あ〜、この船の男って基本体力おばけだもんね」
「ね」

 一部でヒソヒソとなされていた会話は聞き取れず仕舞いで、私は日用品や着替えなどの荷物をまとめてエースの部屋へ引っ越した。実家から徒歩5分の立地である。


***


 昼のピークを過ぎた食堂にて、私はイゾウさんと花札をしていた。遅めの昼を食べ終えて食器をさげた時、視界に入ったカードの模様につい「花札だ」と呟いたら「あんたイケるクチか」とイゾウさんに手招きされたのだ。

「勝負です」
「あちゃあ、ナマエの勝ちだ」
「うふふ」

 イゾウさん相手に3連勝である。
 参ったねェ、と苦笑しながらもイゾウさんはテーブルの上の札を集めて次の試合の準備をする。私も自分の近くに溜まっていた札を集め、おばあちゃんに鍛えられた甲斐があった! とニコニコとイゾウさんへ渡す。
 所属がひとつになったら当然ながら空き時間というものができて、誰かしらがちょこちょこ遊びに混ぜてくれるようになった。テーブルを囲んで試合を見ていた他のクルーが「おれ未だに役が覚えらんねェんだわ」「花見と月見しか分からん」「柄が複雑なのを集めりゃいいんだろ?」とワイワイしているのを聞いて、イゾウさんが、な? と視線を投げかけ呆れたように肩を竦める。

「なあナマエ、ここいらで賭けでもしねェか?」

 イゾウさんがしゃかしゃか札を切りながら持ちかけた。

「賭けですか?」
「あァ、負けたら相手の頼みをひとつ何でも聞く。分かりやすいだろ」
「何でも…とは言えませんが、できる限りお応えします」
「ふふ、はなから負けの相談なんて、あれだけおれを負かしておいて弱気じゃねェか」
「ここにきたばかりの頃に"何でもやる"は言うなとサッチさんに怒られたので」
「お利口だね。なに、勝ちゃあいいだけの話さ」

 札を配り終えたイゾウさんは、扇の形に開いた八枚の手札の向こうに口元を隠してニコと笑った。無害で、善良そうな笑みだった。
 そして。

「な、なんで……」

 連敗である。
 賭けになった途端、勝てなくなった。狙っていた札が目の前で取られていく。ほかに点になる札を集めようと思ったときにはもう遅い。手元に集まるのは到底勝ちには遠い札ばかり。…
 私はテーブルに並ぶ札たちを呆然と見つめてから、ゆっくりイゾウさんを見上げる。

「わ、わざと手を抜いて私に勝ちを譲ってたんですか」
「そりゃあ一回り以上若いお嬢さん相手に本気は出すのもなァ」
「能ある鷹は……」
「爪を隠す」
「じゃあ最後まで隠しててくださいよ!」
「ただの遊びならまだしも賭けでわざと負けるばかは居りやせん」
「ああ〜っ」

 ひどい! 騙された! と泣いてみるも、海賊社会に卑怯もなにもないので一笑されただけだった。

「さて、おれの勝ちなワケだが」
「うっ、!?」

 イゾウさんが肘から先をテーブルに乗せて身を乗り出した。美丈夫の顔がグッと寄ったのに驚いて後ろに身を引こうとしたが、それより早くイゾウさんの大きな手が私の顎先をクイと捕まえた。丸めた中指の第二関節が顎下の窪みに添えられて少し上を向かされる。親指と人差し指指で頬を両側からムニと潰すように掴まれ、半開きの口がさらに間抜けになった。
 ス、と細まった涼しげな目元は艶やかでありながら男性的で、弧を描く唇の鮮明な紅がツルリと美しい。きっと江戸の城下に棲む狐が人間に化けたら、このようにずいぶん見惚れる風貌になるのだろう。

「ちょいとツラ貸しな」
「はひ……」

 返事を聞いたイゾウさんは、応! と快活にパッと手を離した。

「お前さんいま化粧してるよな? いっぺん落としてこい」
「は、はい」
「駆け足!」
「はい!!」

 訳も分からず私は急いで顔を洗いに行く。食堂に戻ると、今度は向かいではなくイゾウさんの隣の席をチョイと指で指定されていそいそとそこに座る。
 彼の手には和柄の道具箱があり、慣れた様子でそれらをテーブルに広げ始めた。「ずっと思ってたんだよなァ」とイゾウさんが喜色をにじませて呟く。

「なにをですか?」
「ナマエの顔の作りはおれの故郷のもんによく似てる」
「顔? え、えと、もしかして私はこれからお化粧をされるんですか?」
「たまにゃァ他人のツラをいじりてェなって。昔は弟にやってたし……まァ悪いようにはしねェさ。ほら、黙らねェと口に入っちまうぜ」

 下地だろうか。手の甲に出したリキッドを指でチョンチョンと顔に置いてスゥと伸ばして馴染ませた。問答無用で始まった化粧に口だけでなく目も閉じ、じっと大人しくする。イゾウさんの指は拳銃を握るので皮が厚い。硬い指の腹の感触が皮膚を通して分かる。

「おれの国じゃ美人の第一条件は色白でな」
「ど、ドーランは嫌です……」
「ブハッ、やらねェよ!」
「よかった……」
「ちゃんとナマエの肌色に合わせる」

 メイクが始まって男性クルーの気配が去って行くかわりに、ナースのお姉様の気配が増えた。「イゾウ、次私やって」とねだる声を「うるさいやらん、勝手に箱を漁るな」と一刀両断しているが、野次もカチャカチャという物音も一向にやまない。まったく……と諦めのため息だけが結局聞こえる。

「ドーランなんてよく知ってるな」
「歌舞伎といったらあの白塗りのイメージですもん」
「ほお、歌舞伎まで……」
「イゾウさんの故郷の文化はほとんど分かると思います。多分ですけど、私の故郷の文化と瓜二つです」
「へえ! じゃあよ、」

 相撲茶道畳ウグイス寿司芸者…と矢継ぎ早に並べたてられる言葉に、横綱華道襖キジ天ぷら舞妓…と似たような言葉を返せばイゾウさんの声がますます明るく弾む。

「こりゃ驚いた。異世界っつっても、案外海で繋がってんのかもなァ」
「ふふ、そうかもしれないですね」
「いけね、手が止まっちまってた」

 ファンデーション、眉毛、アイシャドウ、アイライン。雑談をしながらメイクは進む。薄目で盗み見たイゾウさんの手元には梅や椿を想起させる鮮やかな赤があった。おかげで完成形の色味はなんとなく想像できた。途中途中に挟まるお姉様たちの声から察するに、なかなか悪くないようだ。
 早く鏡を見たい。どんな風になってるのかな。ソワソワと口紅の塗り終わりを待つ。

「よし、いいぜ」

 差し出された手鏡にキャッと飛びつく。鏡を正面に構え、右を向いて、それから左を向いて、ぱちぱちと忙しく瞬きをして。

「イゾウさん」
「なんだ」
「す、すごい」
「おう褒めろ」
「綺麗にしてもらっちゃった……」
「ン。別嬪だぜ」

 肌が驚くほど透明である。そっと触れてみるが塗りたくった粉の感触など微塵もなく、生まれつきのような玉の肌になっている。毛穴が見事に抹消されていた。雪に例えるのが相応しい白さに頬紅の桃色を差すことで人間らしい血が通う。
 遠山の眉はそこにあるだけで儚げな印象を与え、ツンと上を向いたまつ毛が柳のような強かさを加える。切長に引かれたアイラインは黒と赤だった。黒のラインの少し上に引かれた赤は日本刀の切れ味で格好良い。
 そして極めつけは口紅である。一際鮮やかな赤、欧米の赤リップではない、日本的な官能を与える赤であった。唇が小ぶりに見えるよう内気味に引かれたそれは、一粒の果実を思わせる。
 飽きずに自分の顔をしげしげと見つめる私をよそに、イゾウさんは傍に置いていた煙管の火皿に刻み煙草を詰めている。

「髪結って着付けすりゃ完璧だ」
「是非お願いします」
「ヤだね」
「えーっ」
「おれが勝ったんだからどこまでやろうがおれの勝手よ」
「そういえばそうでした……」

 失念していた。すっかりご褒美の心地になっていた。
 イゾウさんは懐のあたりをパタパタと数回叩いて、アレ? という顔をした。それからテーブルを囲むお姉様の人垣の向こう側、ちょうど私の後ろの島のテーブルへ首を伸ばして「おーい」と声を掛けた。

「火くれ、エース」

 エース?
 その名前につられて振り返ればヂヂッと空中に火花が走ってイゾウさんの煙管に火がつく。エース、いつの間に食堂に戻ってきてたんだろう。昼食を食べ終わったあと、早々に何人かのお姉様に連れ出されていく姿を見たきりだった。

「終わったかあ」
「終わった終わった。火ィありがとさん」
「へえ、どれ」

 ひょっこり覗いたエースの顔が、ビタッと止まった。目が丸くなり、徐々にぽや…と開いた口から「お、おお……」と締まらない声が漏れる。そんなエースとばっちり目が合っているもんだから、私もなんだか目を逸らせず中途半端に振り返った形で固まる。
 道を開けてくれたお姉様たちのおかげでエースはぼーっとした足取りでのろのろ私の目の前までやってきた。
 ため息のような苦い煙を一筋ふいて、イゾウさんがコソと耳元で話す。

「めかし込んだ女に言葉ひとつ掛けてやらねェたァ無粋だな。よし、ナマエ。こいつとっちめよう」
「は…え…? え?」
「エース! 花札やろうぜ、そこ座れ。向かいだ向かい」

 突然イゾウさんに明朗に誘われたエースが「え? 花札? こ、こっちか?」と気圧されるようにテーブルを豪快に跨いで向かいの席にすとんと座る。
 イゾウさんは化粧道具を適当に箱に放り込んで片付け、箱を腕でがーっと押しやってテーブルに花札のスペースを作った。エースはわけが分からんという顔をしている。

「なんで急に花札なんだ?」
「さっきナマエとやってたんだ」
「ナマエ、花札できんのか」
「うん」
「お前もナマエとやってみろよ、結構強いぜ」

 私をこてんぱんに負かした口が何を…と思うが黙っておく。先ほどの連敗を自ら暴露するのはさすがに恥ずかしかった。
 エースはこちらをチラチラ見ては時折思い出したように口元を引き結んだりしている。

「負けたら相手の頼みをひとつ何でも聞く」

 エースの眉が一度クッと上がる。「……ほお、いいね」とゆっくりと意味深に目が細まる。ゲームに至る経緯は分からなくとも、どうやら乗り気になったらしい。内心焦る。イゾウさん、またそんな条件つけて! あの目は意地悪を考えてる目!!

「悪いがおれは花札の腕にはちっとは自信がある」
「う…」
「エースは花札なんてどこで覚えたんだよ」
「昔、弟の恩人と飲んだ時にしこたま付き合わされた」

 だから負けねェぜ、と笑う。ヨンコウ仕込みだ、と。
 その勝ち気な視線に怯んだ。私がエースの上手をいくことなんて、これまで数える程しかない。負かされる未来が見える。勝って何を言いつける気かは知らないけど、たぶん、私を甚振るようなことだろう。
 イゾウさんはそんなエースを一息フ、と笑って、しゃかしゃか札を切りながら私に再び耳打ちする。

「役をよォく思い出せ。そんで相手の手札に何が渡ったかきちんと覚えておくんだ。あとは相手の視線。手と場、どの札を気にしてんのか視線を読む。今テメェが欲しい札、相手が欲しい札、後でも取れる札、よく考えろ。分かったか」
「は、はい」

 花札の必勝法が伝授される。
 それはまるきり勝負師の声音だった。煙の香がよく似合う。自然と背筋が伸びる。

「男は度胸、女は愛嬌っていうが……ひとたび海へ出たら、女も度胸だぜ」

 パシンと背中を軽く叩かれる。追い風のような掌であった。

「かましてこい!」



「んで! なにをお願いすんだっ?」

 ぺかーっとニコニコ顔のイゾウさんである。この小僧を負かせて気持ちよかったです! と顔に真ん中に元気よく書いて、満足げに煙をぷかぷか吐いている。バラッと札を右手からこぼしたエースがカクンと首を上向きに倒して「悔し…」とぼやいている。
 なんと3本勝負で2勝を勝ち取った。勝つ気で挑んだが、まさか本当に勝てるとは。エースに勝った、という高揚感でいっぱいだ。

「お願い、何にするか考えてなかったな……どうしよう」
「……ないならおれに譲れば?」
「それはやだ」
「ちぇっ」
「参考までに聞くけど、エースは私に何をお願いする気だったの?」
「………………ナイショ」
「コラ隊長ー! さっき指導入れたばっかでしょーが!!」
「るせー! ちゃんと許容範囲内にするわ!!」

 お姉様から飛んできた謎の野次に、エースはガタッと立ち上がって言い返す。一拍遅れてイゾウさんがそのやり取りに「真面目か」とゲラゲラ笑い出した。私だけがハテナを浮かべていた。


***


 ドライヤーで乾かしたばかりで熱と湿気が僅かに残る髪を手櫛でほぐしながら部屋に入る。ノックはしたけど、返事を待たずに扉を開けた。そのうちノックも要らんと言われるのだろう。
 エースはベッドに仰向けに寝転がっていた。彼は立てた片膝に反対の足首を引っ掛け、新聞をパラパラと読んでいたが、私が入ってくるとおう、と身体をずらしてベッド上にスペースを作ってくれた。せっかくなのでそこに座る。
 新聞を適当に畳んでポイと投げ出し、エースはごろりと肘枕の体勢になって私のすぐ後ろに身体を寄せた。そして機嫌良さげに私の毛先を空いた手でいじる。

「化粧はもう落としちまったのか」
「うん。お風呂入ったし」
「いつもと雰囲気が変わって綺麗だった」
「えへへ、ほんと?」
「あァ、滅茶苦茶にしたくなるくらい」
「めっ……」
「マ、よその男に紅を引かれるのは、ちと妬けるかな」

 さらりとそんなことを言わないでほしい。
 こっちは腰あたりに感じるエースの体温やら触られている髪やらで心臓はギリギリなのだ。もっと言えば彼の部屋に2人きりというシチュエーションにだって、まだ。…
 ふと、イゾウさんの言葉を思い出す。少し迷って、でも身体ごと振り返って横になるエースを見下ろす。

「……」
「ん? どした……って…おわっ、なんだなんだ」
「イ、イゾウさんが言ってた。女も度胸だって」

 私がいきなり抱きついたところで、筋肉モリモリのエースの身体はびくともしない。体幹だけじゃない。心だって少しもぐらついていない様子。
 だけど今日の私はやや強気。なぜならあのエースにひとつ黒星をあげた女だから。エースがふぅん、と笑っても下唇をキュッと噛んで果敢に視線を逸らさずにいられる。

「そうだな。このだだっ広い海をテメェの脚で往こうってんだ、そりゃあ度胸がなきゃ務まらねェ」

 そう言って起き上がったエースは私の両脇に手を差し込んで持ち上げ、よっこいせと自分の腿の上に乗せ直した。ベッドの縁に足を下ろして座ったエースの上に跨るかたちになる。頬だけでなく鼻梁にも薄くそばかすが散っていることを知る。

「じゃあまず…手を繋ぐなんて朝飯前だな?」
「あっ」

 所在なさげに彷徨っていた私の手をエースの大きな手がするりと捕まえて指を絡めた。空いた片方は腰に回る。

「ハグはたった今してるし……でももっとくっついたって良いくらいか、ウン」
「ひぅ」

 グッと引き寄せられる。鳩尾から下がべたりとエースの身体に合わさる。思わず全身を緊張させて上体を逸らせば追い詰めるようにエースの顔が近づいた。
 心臓がピンポン玉みたいに跳ねている。重なった掌にじわりと汗を掻くのが分かった。鎖骨にエースの息が掛かる。背骨をくすぐられているみたいに感じた。
 彼は今にもロマンスが始まりそうなスパイシーな沈黙をつくり。

「――はは、大した度胸だ」

 それを自ら壊した。
 寂しそうな色も、口惜しそうな色もない。初めからここが行き止まりと分かっていたようにアッサリ打ち切った。これは目の前で乱暴に扉を閉められたように寂しく、悔しかった。身勝手極まりない話だけれど、発作的に私は怒っていたのかもしれない。
 私はエースの赤い首飾りをつかみ、離れゆこうとする体温を無理やり引き戻して唇を重ねた。
 押し付けるだけのキスは乱暴で幼稚で、ムードも駆け引きもあったもんじゃない。呼吸の仕方すら分からなくなるから、数秒息を止めただけですぐに苦しくなった。
 唇を離すと至近距離でエースと目が合った。


「女も、度胸よ」


 呆然とするエースの首飾りを今度は軽く引いてわざとジャラと音を立てて挑発する。

 かかってこいと。
 ここを行き止まりと思わないで、と。

 心臓は本当に爆発しそうだったし、なぜだか涙が出そうだった。力を込めて誤魔化そうとしたが首飾りに掛けた手は羞恥で震えていた。きっとこれは反対側の繋がった手でバレていただろう。だからエースはちゃんとそれを拾ってしっかりと握り直してくれた。

「良い女」

 今度はエースから唇に触れる。
 とても優しいキスだった。お互いの唇の柔らかさを確かめ合うような触れるだけのキス。されるだけは嫌で、私からも唇を押し当てる。そうすると、ようやく唇を薄く開けて食むようなキスに変わった。腰に回っていたエースの手はいつしかうなじ辺りを支えるように髪に差し込まれている。
 だんだん頭がボーっとして力が抜けていく。私は手を首飾りからエースの肩へ滑らせた。直に肌が触れ合う気持ちよさと、自分の掌の熱さを思い知る。
 もっと違うキスがある、のは知っている。だけど具体的にどうすればいいのか分からない。
 酸欠の思考回路は自分でも驚くほど一生懸命だった。
 そして、本日得た私の特権を思い出した。私はキスを中断し、絶え絶えの呼吸でエースに声をかける。

「エース、お願い、思いついた」
「ん?」
「花札の」
「ああ……なに?」
「大人のキスのしかた、教えて」
「ブッッ」
「教えて」
「お、おま、」
「ダメなの?」
「ダメじゃねーけど、え、ア…まじ?」
「まじだよ。ほかに誰に習うの」
「おれ以外絶対にダメ」

 エースの喉仏が上下した。長い夜のことである。