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 教えて、と熱い声でねだられた夜、結局どうなったのかと言えば。

 ナマエは薄い朝日の中でぽかんと小さな口を開けて寝息を立てていた。晴天の午睡のごとく穏やかなモンである。
 衣服の乱れなし。首筋もまっちろ。唇は…少し赤いが昨日の紅に比べりゃなんてことはない。あの紅の方がよっぽど情事を思わせた。

 さてはて、度胸と耐性はイコールでない。努力と結果が必ずしもイコールでないように。
 ナマエは舌を差し入れたキスひとつでてろんてろんのくたくたのふにゃふにゃになって、どっぷりと身体の芯から酩酊してしまったのである。おれの胸に寄りかかってはふはふと繰り返す息はいやに熱く色っぽく、おれはすっかり色香にあてられてしまった。がしかし、これ以上無理強いすればぶっ飛んじまうのは火を見るより明らかだった。無理させるのもナシではないが、マそれは今じゃない。…
 と、結局己の欲より情が勝ったので水を飲ませて横にしてやり、ブランケットをかけた腹のあたりをポンポンと叩いてやった。寝かしつけられていることに気付いたナマエは「やめて」「寝ない」「やめてったら」と小規模にうごうご暴れたが、両瞼を掌で覆って3秒待ったら寝ていた。

 今朝はおれより寝坊している。珍しい。
 平和の象徴たるその寝顔を横で見ながら、鼻のひとつもつまんでやろうかと子供じみた悪戯を考えていると、朝日が沁みたように彼女の目元に少し皺が寄った。寝返りとともにスーっと鼻から息を吸い、ブランケットからはみ出た腕がシーツの冷たい場所を探して結局枕を抱いた。それからゆるゆると瞼が開く。寝癖のついた頭をズリとずらして、おれの名前をまあるい声で呼んだ。

「おはよ」
「………おはよ…」
「まだ寝てていいぞ」
「ん……」

 ナマエは枕に顔を押しつけている。二度寝するのか。これまた珍しい。
 枕から「いま何時……」と眠気に弱々しく抗うくぐもった声が聞こえた。おれはベッドボード上の時計を見て簡潔に答える。途端、びっくり箱みたいにナマエの身体がビョンと起き上がった。

「えっ!?」
「9時」
「くっ……!? あっ、わ、やだ寝坊した!!」
「うはは」

 バタバタと慌ただしくベッドを降りて面白いくらい右往左往している。それをのんびりベッドの中から眺める。起こしてよ! とありがちな八つ当たりを受けたが当然受け流し、パニックのあまり目の前で着替えだそうとするから「早起きすると得だな」と感想を述べれば今度は壁を向いていろと怒られた。
 そんなに体力を使わせたのかなと頭を掻いて、顔洗ってくると言い置いておれはナマエに部屋を明け渡した。




「おおおマジか」
「隊長当たりじゃん」
「ヤッタゼェー」
「すげー棒読み」

 2番隊のやつらと一緒になってゲラゲラ笑い、赤い印がついたくじ棒を筒に戻す。夕飯終わりの食堂でのことである。
 今夜の不寝番は2番隊、そしておれは所謂"ハズレ"の見張り台役だ。
 ほかのハズレ組を探して配置を決める。メイン・フォア・ミズン、3本のマストに設置された見張り台のどこを担当するか。どこもそう大差ないのだが。赤い印を引かなかったやつらは甲板の担当だ。
 四皇の船ともなれば迂闊に喧嘩を売ってくる同業者や海軍は少ない。不寝番で見張るべきは、悪天候の予兆と海王類の襲撃だ。

 見張り台役がなぜ"ハズレ"と言われるか。
 ひとつ、見張り台は遠方を見なくちゃならない分絶対に寝てはならない。だから酒も基本的にはご法度である。ふたつ、見張り台は狭く1人配備がほとんど。つまり話し相手がいなくてクソ暇。みっつ、雨や風にもろに晒されるので天気が傾くと最悪。よっつ、便所が遠い。
 甲板なんてのは不寝番でなくても夜通し飲んでるやつらがいて賑やかである。飲食物はいくらでも調達できるし、話し相手もいて飽きない。天候が悪いと海に投げ出される危険から屋内番で許される。もよおせば船縁で事が済む。ただの夜更かしと変わらん、と言うわけだ。
 見張り台役の良いところといえば、特別に夜食の弁当を作ってもらえることくらいである。

「泣いて喜べー」

 カウンターの向こうに立ったサッチがフライパンとオタマをガンガン鳴らして視線を集める。その横にちょこんとナマエが立っていた。エプロンしてる。可愛い。

「なんと。今日の夜食弁当、全部ナマエちゃんの手作りです」
「おれフォアマスト!」
「うるせえ甲板引いてたろお前」
「お前頻尿だろ? 遠慮すんな代わるよ」
「お断りです」
「隊長も甲板でのんびりしてていいすよ」
「いや結構、こう見えておれは真面目な男だ」

 見張り台組から鬨の声が上がり、甲板組が床に泣き伏した。
 ハズレを大当たりに変えてみせた張本人は、お口に合えばいいんですけど……と控えめにはにかみ、カウンターに件の弁当を取り出し始めた。
 床の大男たちを蹴って避けながら素早く列を作った。ある者は新生児を初めて抱く父親のように。ある者は勲章を受け取るように。ある者はオヤジから盃を受けた時のように。各々独自の方法で大袈裟に恭しく弁当を受け取る。
 どいつもこいつも、あわよくば「そんなに喜んでもらえるならまた作りますよ」とナマエに言ってもらえることを期待しているのである。
 がっつく男はダセェ。そう思ってなんとか腕を組んでソワソワをやり過ごし、おれは最後に弁当を受け取った。弁当の底が温かい。
 出来立てだ! いま食いたい!

「今日の不寝番は2番隊だったんだね」
「えっ、ああ、おう。お前も夜食当番だったとはな」
「あコレ? 違うの、今日は寝坊したから朝食の仕事できなくて……」
「だから代わりに別の仕事させてください! ってよォ。そんで聞かねンだ、これがまた。たまの寝坊くらい別にいいっつったのにさ〜……まじで偉くない? 涙出るかと思った。爪の垢飲め全員」
「不問にされても落ち着かないですし……」
「だはは、ナマエらしい」
「つーか寝坊の原因、どうせエースだろ。女に無理させやがって」
「無理なんかさせてねーし、死ぬほど抑えてんだぞ」
「お前みたいなムキムキ筋肉だるまの基準で物事測るなバカ」
「もっ、もういいですか? 下がっても……お弁当も配り終わりましたので……」

 顔を赤くしたナマエが居た堪れなさそうに小さくなる。
 最後まで致したような反応だけど、進度は全然なんだよなァ……ここでわざわざ言うほどおれも馬鹿じゃないけども。
 案の定勘違いしたままであろうサッチが「ん、ワリ。お疲れさん」と話題を切ってやった。

「ナマエちゃん、部屋戻っていいぜ。あと明日非番な」
「わ、ありがとうございます」
「うちの隊ホワイトなんで〜」
「良い隊に入りました」
「あんま夜更かしすんなよ」
「はぁい」

 エプロンを外しておやすみなさいと下げられた小さな頭にみんなでおやすみを返す。

「あそうそう、これいつものな」
「おー……」

 そう言って弁当の上に乗せられたのは小型電伝虫。
 これはおれの悪癖のために用意されたものである。弁当を食べるときにこいつに向かって「いただきます」と元気よく言え、そう約束させられている。おれのいただきますを聞いて、電伝虫の向こうにいるクルーはおれのいびきが聞こえ次第、怒鳴るなり歌うなり水風船を投げつけるようにほかの見張り台のクルーに指示するなりでおれを叩き起こすわけだ。
 この習わしの起源はおれがフォーク片手に眠りについて気持ちよく迎えた翌朝、マルコにめちゃくちゃ怒られたことに端を発する。

 こんな格好のつかない話はナマエには内緒にしておこう。是非そうしよう。そう思っていたのに。

「いただきます」
「召し上がれ」

 おれは信じられないくらい目をかっ開いて足元に置いた電伝虫を見た。
 見張り台にのぼってしばらくして、弁当を食おうという時だ。いただきますのポーズのまま、たったいま聞こえた声をじっと頭の中で繰り返す。
 今の声は。

「えー、えー……と、……ナマエ?」
「はい」
「お、おう、え? なんで、寝たんじゃねーのか」
「? 夜食担当だから……」
「は?」
「夜食担当がエースの見張りするんでしょ?」
「……ウン」

 全然違うけど。夜食担当の仕事は夜食を作るまでで、自分らの隊長の世話は自分らでやれという当たり前の方針だけど。ウンって言っといた。
 サッチがどういうつもりで嘘を吹き込んだか、きっと悪意じゃないし、むしろその逆だと分かるからありがたく乗っかることにする。好きな女に見張ってもらえるなんて、男にとっちゃご褒美なので。隣にいれば尚よしだが。
 仕切り直して弁当を開け、肉9割の海賊弁当を早速掻きこむ。美味い、身に染みる美味さだ。いくらでも食えそう。

「お味はどうですか……?」
「ンまい!」
「! そう、良かったぁ」
「気が遠のく」
「寝ないでね」
「ン」

 おれの生返事に電伝虫の向こうから「なんで寝るかな……難しくない?」と苦笑いが聞こえる。ガサガサと衣擦れの音もする。
 ベッドで横になりながら話しているんだろうか。それなら寝落ちまで時間もねェな。
 口の中の食べ物を片側の頬によけて「そらお前……天にも昇る心地、を地でいってんのさ」と回答を冗談めかして述べてやる。本当はすぐにでも意識が飛んでいきそうなくらいだが、ナマエと話がしたくて根性でそれを堪えた。

「にしてもナマエは料理上手だな」
「サッチさんのレシピがいいんだよ」
「故郷の料理ってなんか作れないのか? 食ってみたい」
「え〜なんだろうな……肉じゃが、きんぴら、ぶりの照り焼き……あ、だし巻きたまごとか? とんかつ、はこっちでも似たようなのあるよね……あでも甘辛く卵とじにするとまた違う感じするかも……」
「! 全部で!」
「まだ作るとは言ってないんですけど」
「よろしくお願いします、この通りです」
「見えないからノーカンです」

 電伝虫に向かって下げた頭を起こし、ダメか? と粘ると満更でもない様子。押せばいける、と分かったがここはあえて黙る。
 この沈黙が憐れっぽさを演出する。彼女の脳裏に主人をじっと見上げる犬の瞳が浮かんでいれば御の字だ。
 ニクジャガはなんとなく肉とじゃがいもの何かと推測できたが、キンピラはさっぱりだ。
 でも食べてみたい。この子のご飯がもっと食べたい。

「サッチさんから……キッチンと食材の使用の許可が降りたら……」
「ッッシャア!!」

 甲板よりもうるさく叫んで他のマストから怒られる。
 お前のためならおれコンロやるよ、という口説き文句はあまりにもダサいから呑み込んで「必要な食材があったらなんでも揃える」に言い替える。
 電伝虫がウフウフ桃色に笑った。


***


 大きな天候の変化に直撃することもなく、無事に夜が明けた。解散の号令を隊員にかけ、食堂に弁当箱を返して眠い目を擦りながら自室に引き上げる。
 昨夜は結局ナマエも夜更かしをした。明日非番だろ、とおれが引き伸ばして満更でもない彼女が応えてくれたという感じだ。
 おかげさまで。

「……よく寝てら」

 ベッド上の小さな山は呼吸に合わせて規則正しくわずかに膨らんだり萎んだりを繰り返している。なるべく物音を立てないようにおれも寝支度を整えながら、ベッドボード上で眠る小型電伝虫を机へ避けた。
 最初にこの部屋で眠った時からのくせなのか、ナマエは扉側に寄って寝る。おれのいない時くらい、ベッドの真ん中でのびのび寝りゃあいいのに。ナマエの身体を跨いで彼女の隣に空いたスペースに踏み込む。ベッドがぎしっと大きく軋んだ。
 ナマエはブランケットを抱え込むようにして丸くなってすうすう眠っている。無防備そのものである。
 肌寒いわけじゃないが人肌恋しくて、寝こけるナマエをそのまま抱き枕にした。腕の中でもぞもぞ動いたが、ちょうど良いところを見つけてすとんと静かになる。
 込み上げる欠伸に目尻を濡らして、おれも眠りについた。



 腕の中の気配に意識が薄く浮上する。
 ナマエ、起きたのか……。寝ている人間のそれとは違う、意識を持ったぎこちない身じろぎを感じる。が、圧倒的な睡魔で瞼を持ち上げる気にはならない。特に何もなければこのまま二度寝するつもりである。どれだけ寝てたかは知らんが、抜け出そうと思えば抜け出せるだろうし……まァほっときゃいいか、と。
 しかし、彼女はベッドから出ない。顔や手をわずかに動かす衣擦れの音がするくらいで大して動きもしない。ナマエも二度寝すんのかな、と眠気に8割方呑まれた頭でぼんやり思っていたら、口の端に柔らかいものが当たった。
 お……? これは……。と思っているうちに、今度はちゃんと唇の正面にふに、と当たる。
 おれはパチと目を開き、案の定目の前にあったナマエの鼻を。

「〜っ!?」

 かじった。甘噛みよりももっと弱い力でだ。
 いたずらがバレた上に反撃されたとあって、ナマエは声も出ないほど驚いてかじられた鼻をパッと手で覆い、ボン! と顔を赤くして目をひたすらに白黒させる。
 見事なまでに予想通りのリアクションである。本当にいじめがいのある……。

「寝込み襲うたァ、行儀の悪ィやつだな? おれだってしねェのに」
「え、ぇーす」
「おれもしていいってことか?」
「ご、ごめんなさ、出来心で、す……んむっ」

 困り眉でじりじりと俯いていく赤い姿が可愛くて、鼻に当てていた手をペッと剥がしてキスをし返す。
 簡単に仰向けに転がされてしまったナマエにはおれを押し退けることは難しく、そのままぐーっと潰さない程度に体重を乗せて唇を押し当てる。腕や肩をぱしぱし叩かれるが、意に介さず。

「いっかいめ」
「っは、なに、えっ…、ん!」

 下唇をやわく噛んで2回目。
 2回されたんだから2回やる権利がある。彼女の顔の横に肘をついて見下ろし、その慌てた顔が可愛くて込み上げるものがあったのでもう一度。
 両手で口元を覆って4度目をなんとか防衛しようとしている。
 そこで、ふと思いついて、おれはス……と手のひらをナマエに向けた。ちょうどハイタッチを待つような感じだ。

「……?」

 きょどきょど視線を泳がせながらも、無表情を崩さずじーっと待てばおそるおそる伸びてきた片手がそっと合わさる。その手首を緩く掴み、ナマエの頭の上あたり、シーツにぽす……とゆっくり下ろす。
 そして持ち上げられて露わになった白い二の腕の内側をあに、と噛んだ。

「やーっ!」
「ブハッ! お……おま、はは、引っ掛かるかよ普通……」

 彼女の二の腕に額をくっつけてアハアハ笑い、そのまま倒れ込むようにのしかかる。おれの下で足をばたつかせて重い! とナマエが怒っている。
 心配になるくらい素直で可愛らしい。

「もっ……、噛むのやめて!」
「痛かったか?」
「痛くない、けど!」
「ならいいだろ」
「よくない! 重い! てかあっつい!」
「ンハハ」

 ごろんと横に身体を転がしてどいて、腕も元の位置に戻してやる。ナマエはかじられた二の腕をさすって、膝を立てて両足を少し丸めた。唇を尖らせてまだ少し不満げだ。

「目冴えちゃった……」
「興奮して? いでっ、アすんません」
「はー……エースはもう寝ないの? 不寝番って徹夜でしょ?」
「いやー寝込み襲われたんで……」
「もうしません」
「えっ! そりゃねーよ!」
「二度と致しません」

 もそもそとブランケットを胸に掻き抱いてナマエが天井を見つめたままむすっと言う。ぬいぐるみを与えたらぬいぐるみを腕いっぱいに抱くのだろう。今は頭の下にある枕でもきっと同じようなことをするに違いない。物理的に心臓の上に蓋をして守備と対抗の姿勢を示している。ナマエは頬を膨らませていないのが不思議なくらい分かりやすく拗ねた。

「本当にもうしねーの?」
「しません」
「さびしーこと言うなよ……」
「……」
「なァ……」

 がしかし彼女の牙城は脆く、少しすれば簡単に揺れる。
 躊躇いがちに視線がこちらに向くが、おれが少しにやついてるのを見て「あ! こいつ!」といった表情をして慌てて顔をもとの向きに戻す。濡れた犬みたいな哀愁を想像していたんだろう。
 くつくつ笑う声にナマエはブランケットを頭からかぶって芋虫みたくくるまった。すかさずその山を揺さぶる。ブランケットの端を一生懸命つかんでいるのでなかなか顔を出さない。

「ナマエナマエナマエ」
「……」
「なーァ」
「……」
「……」
「……」
「くすぐっていい?」
「っ、」

 そういうとすぐに顔を覗かせた。
 噛まれるのも嫌、不意打ちも嫌、くすぐられるのも嫌。おれとのセックス、向かねーんじゃないかな。これから一生懸命絆そうと思った。
 出てきた小さい頭を両手で包んでつかまえ、正面で固定する。髪がぐちゃぐちゃだ。ブランケットなんかかぶるから髪があちこちにハネッ返っている。
 それを間近で眺めていれば、胸の奥が強制的に緩むのがわかる。

「ナマエ」
「なによ……」
「おはよ」
「? う、おはよう」

 なんでもない朝もこんな風に変わるのか。
 幸せなことだなァと思って、おれは彼女の額に優しくキスをした。