42


「帰ってきた!」

 船縁に張り付いていた誰かが嬉しそうに声を上げた。
 甲板に降り立ったマルコさんは、遠くのクルーにも見えやすいように青く燃える両翼のまま、頭上に大きくマルを作った。彼は島の偵察に行っていたのだ。
 それを見たオヤジさんが甲板の座席から立ち上がって、指示を出す。

「島を目指せ! 上陸だア! 全速前進!!」

 雄々しい声と共にクルーたちがイキイキ動き出す。

「? 次は大きな島なの?」
「んーー……こりゃたぶん……」


 水平線の先の島影をジィと眺めてエースが立てた予想は大当たり。
 モビーディック号が着いた先は"無人島"だった。しかも夏島。湿気は多いけれど寒いよりは良い。真っ新なビーチと透き通る渚、ギョワギョワとカラフルな怪鳥が飛び立つエバーグリーンのジャングル。古代遺跡や財宝が隠れていそうな島である。

「む、無人島? みんな無人島が嬉しいの?」

 私は浮き輪やパラソルを抱えて船縁からダイブするアロハシャツのクルーをキョロキョロと見やる。確かに冒険のしがいはありそうだけど……そんなに?
 私の声を聞きつけた通りすがりのクルーが「えー、だってよォ」とその場で駆け足をしたまま一人二人と溜まっていく。

「海軍とか一般市民とか気ィ遣うじゃん」
「そーそー。最近、ちゃんと栄えてる島ばっかだったからちょっと疲れたわ」
「おれたちお尋ね者だし? あんま柄悪いと大人しく飯食ってるだけでも通報されるしよー」
「オヤジやジョズなんか身体がでけーから、下手すると入れる店すらないんだぜ」
「その点、無人島ならやりたい放題よ! 店なんかなくたって欲しいもんはつくりゃいい。それができる腕利きがこの船にゃいくらでもいるわけだし」

 くい、と顎でさした浜辺にはすでに突貫工事で海の家が出来かけていたし、オヤジさんも早速ヤシの木を2、3本へし折って簡易椅子を作っていた。キングデューさんが可食のヤシの実を見つけたらしく、100個持ってこい! と声を張る。
 サバイバルに長けたひとたちである。

「キャンプファイヤーやんぞ!」
「スイカ割り!」
「その前にビーチバレー!」
「ジョズー! ブロッカーやって!」
「あズリィだろそれ!! ブレインハイムさーん!! ジャンプサーブやって!」
「ギャハハてめーコンニャロ!!」

 気持ちはすでに浜辺のあらゆるレジャーに染まった面々が船の下へ消えるのをエースと並んで甲板から見送る。
 ……。

「エースは行かないの?」
「えっ」
「エースもああして飛び出していくタイプじゃない?」
「い、いや、おれは……」

 肩を僅かに上げたエースがギクッとこちらを見下ろした。彼は口籠るが浜辺からは「エース! 早くこいよー!」と明るい呼び声がする。そちらが気になるのか視線がチラチラ揺れるし、なにより纏う気配がうずうずしている。
 いつも一番に駆け出しているんだろうなぁ。今日は私を置いてけぼりにしないでなんとか堪えていたんじゃなかろうか。
 その気遣いにフッと心が柔らかくなる。

「ふふ、ほらほら、行こ」
「あ、おいっ」
「行きたいんでしょー。めちゃくちゃ分かりやすいよ」
「ぐ……!」

 あったかい目でエースの背中を押して歩く。やはり図星らしく、気恥ずかしそうに僅かに歪めた顔が微笑ましい。

「……」
「アッ! だ、だめ、やだやだやだやだ下ろして!!」

 心温まったのも束の間、エースは身を翻して私を素早く・問答無用に横抱きにして、船縁から飛び降りた。
 腰を抜かして放心状態になった私をナースのお姉様たちが陣取る木陰に降ろす。「隊長にいじめられたの? かわいそお」「ナマエちゃんパインジュース飲みなね」「やだほら早く日焼け止め塗んなさい」と私がもちもちやられてるのを腰に手を当てて見下ろし、エースはヨシ、と頷く。

「マルコォ!! 前回のリベンジだ!」
「賭けんならおれのチームにしとけ、野郎ども! 今回も儲けさせてやるよい!」
「ぬかせ!」

 そして肩をぐるりと回して溌剌と砂浜へ駆け出した。私はその逞しく健康的な背中を恨めしく睨んだ。
 なにが、ヨシだ!

「っ、マルコさんやっちゃえー!!」
「んなっ!?」
「私の仇とってくださーい!!」
「ははは! テメーの女に寝返られてちゃザマねェよいエース!」
「うっ、うるせェ!」

 ドッとビーチが沸き、エースが「ナマエ! お前なァ!」と振り返るも私はあかんべ、と舌を出して応戦。
 そうしたドタバタの中、ホイッスルの音が響き、海賊式ビーチバレー・試合開始である。

 お姉様に分けてもらった日焼け止めを塗りながら驚いた。試合、というか、まるきり暴力であった。
 やけにネットの横幅が、というよりはコート全体が広いのはジョズさんのような巨大な身体を持つクルーに合わせたせいもあろうが、それより全ての球がありえないほど強烈で、全ての球がありえないほど遠くへ飛ぶからだった。摩擦熱のせいなのかなんなのか、ボールは常に煙をまとって一筋の線のようにしか見えない。一点決まるたびに大規模な落石があったが如く、砂が激しく舞い上がって浜辺が形を変えるのだ。
 こんな自然体系を破壊しそうな行為を果たしてスポーツと呼べるのか。まぁ、ギャラリーの盛り上がり方を見るに、これが彼らの普通だということは察した。少し離れたところでは、ビーチフラッグという名の自然体系破壊型スポーツもやっているし。

「4番た〜い、しゅーごー」

 顔を上げて船を見やると、拡声器型の電伝虫を小脇に抱えたサッチさんが船縁に立っていた。派手な柄の短パンとシャツ、星形のサングラスに足元はサンダル。シャツは前を開けっぱなしにしていて、普段はきっちり隠れているお腹が露わになっていた。つまりは他のクルーたちと似たような格好である。
 サッチさんは「食材と器具運べー」と修学旅行の引率をする先生のように気だるく声を張って指示を出す。つかもう誰でもいいから暇なら手伝ってえ、と。
 バケツリレー方式で物が運ばれ、10分ほどで浜辺に野外設営のキッチンが出来上がる。お祭りの露店で見かけるような鉄板とキャンプ場にあるような簡易コンロと金網。背丈ほどもある巨大な大樽は蛇口がついており、砂に沈んで少し傾いていた。濾過した水が入っているらしい。それらをすっかり覆うようにパラソルとパラソルを麻布で繋いでつくった大きな影が落ちている。

「ナマエちゃん、あんね、今日はフリースタイルだから。自分で好きに作るかその辺にいるウチの奴らにリクエストしてくれ」

 サッチさんは熱した鉄板に食用油をダーーッと垂らしながらそう言った。鉄板は一度に百人前の焼きそばが焼けそうなサイズなので垂らした油が多すぎる気はしない。ヘラでカチャカチャ油を広げている。

「サッチ、魚! 焼いてくれ!」
「食えんの? これ」
「知らん」
「イノシシ獲ったァッ」
「そっちの網でやれー」
「野菜どれ使っていい?」
「どれでもいいよん」

 かわるがわるやってくるクルーたちは、嬉々として食材を持ち込む。海やジャングルから自分たちで獲ってきたらしいそれらを4番隊のクルーが受け取り、その場で適当に一品作る。つまり、ライブキッチンスタイルである。
 その他、料理に心得のある者は、大雑把に広げられた調理器具や食材、調味料を使って好きに作り始める。
 4番隊も常に全員が働いているわけではなく、適当に散ったりだらけたりお酒を飲んだりしている。当番制という風もなく、誰かしらがいればいいといった緩い雰囲気である。厨房を任されている隊とあって元から料理が趣味みたいなクルーが多い。休もうと集まる場所は自ずとキッチン周りになるようで付かず離れずこの日陰に集まってくるから問題ない。
 私はその光景をひとしきり眺めて「これが"フリースタイル"なのね……」と学び。
 肉じゃが。と思った。



「んー……?」

 私は顔を顰めてゆっくりと首を傾げた。
 肉じゃがを作ろうと思ったのだ。真夏のビーチに似合う料理とは私も思わないけれど、4番隊の手伝いをしはじめて数ヶ月、隊に入って数日経てど、我が物顔でキッチンを使えるほどには至っていない。だからこれはまたとない良い機会だと思ったのだ。
 小皿に残った汁をもう一口含んで転がすが、やはりなにか違う。なんとか似通った味はできたけど、どこか違う。
 まぁ当たり前だ。日本という国が存在しない以上、だしや醤油、酒、みりんといった日本風のものがない。あったとしてもどれがそれに当たるのか、検討がつかないので結局試すしかないのである。
 フリースタイルとはいえ食材を無駄にしたくない。手数は少なく収めたい。妥協もしたくない。実に悩ましい。

「……おでん? あ、ちげェや」
「難しい顔して何してんだい、ナマエ」
「わ」
「腹減った、それくれよい」
「おれにも」

 突然現れたマルコさんとイゾウさんが肉じゃが(もどき)の鍋の横に並んだ。スタメンの二人がいるということはビーチボールは終わったようだ。ビーチボールが終わったということは、と浜辺に目を配ると「エースならフラッグに行ったよい」とすかさず説明が入る。だから早くくれとマルコさんの目が言っていた。

「肉じゃが、作ったんです」
「ほお、こりゃまた懐かしいもんを……」
「へー……ニクジャガ……」
「肉じゃがなんか作っておいてアレですけど、真夏のビーチでおでんはあんまり作らないと思いますよ」
「? おでんは夏だろうと砂浜だろうと食うもんじゃねェのかよい」
「はは、あの人はなァ」

 イゾウさんがくしゃっと顔を崩して笑う。なにかを懐かしむような、いつもより柔らかくて丸っこい笑い方だった。

「えと、それでなんですが、なんか……しっくりくる味じゃなくて……味見してアドバイスもらえませんか?」

 このまま鍋に入れててもじゃがいもが煮崩れてしまうだろうから、皿によそって二人にすすめてみる。イゾウさんとは対照的に、マルコさんは物珍しそうに観察して「ルーのないカレーみてェだよい」と言う。馴染みがないらしいながらも、イゾウさんに倣って皿を受け取った。
 イゾウさんは大きな一口でしばし咀嚼、それから「そうさね」と斜め上を見て思案。舌先でチロッと唇を舐めて、調味料置き場へ行って私を手招きした。アドバイスをくれるのかしらと嬉しくなって駆け寄る私の後ろをマルコさんが肉じゃがを食べながらのったりついてくる。
 イゾウさんは木箱に詰め込まれた瓶や缶の頭をつまんでラベルが確認できる程度に持ち上げては下ろしを繰り返す。目当ての調味料にあたるまでがさごそやっている。

「あったあった。使ったのはこれか?」
「あ、はい。香りも味も醤油に近いかなと……」
「んで、えーと、こっちも混ぜな。だしは?」
「うーん、この辺を使いました」
「次はこれで作るといい。鰹節じゃねェが、かなり似た味になるぜ」
「! 試してみます」
「んで、酒、酒なんだが……ありゃ、ねェな……?」
「そう、ないんですよ、みりんも!」
「参るよなァ。味の染み方が全然変わっちまうもんなァ」

 勝手知ったる、という感じでイゾウさんは額に浮かんだ汗の粒を手のひらの付け根でぐいと拭ってため息をついた。「じゅうぶん美味いよい」とマルコさんだけがのんびり皿をつついている。

「次の島で買いな。どの島でも大抵手に入るから。あとで紙に書いてやる」
「はい! イゾウさん詳しいですね、普段お料理するんですか? 」
「いンや。この船に居着いた頃にサッチにイチャモンつけて研究させた」
「しばらく食堂に出禁くらってたアレかよい」
「そう、アレだよい」

 イゾウさんは喉の奥でくつくつ笑い、お肉とにんじんを箸でごそっと掬って頬張った。イゾウさんは見た目の美しさに反して随分と所作は男らしい。

「料理関係なら最初からサッチに聞きゃよかったんじゃねェのかよい?」
「う」
「わざわざ一人で試行錯誤するより楽で確実だろい」
「それもそうだな」
「なんかワケでもあんのかよい」
「ええと、それは……」

 鍋の方へ戻っていったマルコさんが2杯目を勝手によそいながら訊ねる。
 鋭い推察である。

「エースと関係あるか?」
「と……遠からず……」
「ふーん」

 イゾウさんはそう言ったきり、自分の2杯目をよそってマルコさんの隣に並んで立ったまま食べ始めた。
 平均身長約2mの男性たちが目の前に立ち塞がり、もそもそ咀嚼しながら無表情にジィと見下ろすのだ。恐ろしいまでの圧であった。知らず知らずのうちにグーの形にした両手が胸の前に揃う。これ以上先を問う言葉はなくても、立派な尋問として成立していた。
 なので、耐えかねた。

「え、エースを、一口で寝つかせたいんです」

 私は視線を斜め下にさまよわせ、たどたどしく話す。

「こ、この間、私が不寝番の夜食を作りまして…エースは美味しいとは言ってくれたんですけど、その、寝る…までには至らなくて……」

 あの悪癖について、天にも昇る心地を地でいってるのだと彼は言った。美味しい料理は彼の心を満たして意識をもシャボン玉のように軽やかに飛ばしてみせるという。
 普段の食事ならエースは十中八九、お皿に顔を突っ込んで寝てしまう。周りもそれを「またかよ」と笑い、時には気にも留めないほどである。それほど日常と化したイベントなのだ。
 そんな彼が私の作った料理では寝なかった。これが日が経つにつれ、なにだか、大いに、じわじわと悔しくなった。そして、次こそエースが堪らず寝てしまうほどの料理を出したいと思ったのだ。出来ることなら、彼が食べてみたいと言ってくれた故郷の料理で。

「サッチさんに聞けば、それはきっと美味しいレシピにしてくれるはずです。それこそ、エースも必ず寝ちゃうくらいの……でも、サッチさんに手伝ってもらったらそれはもうサッチさんの料理だし……」
「おお、分かった分かった。みなまで言うな。無理に吐かせて悪かったよい」
「意地悪しすぎたな、すまん。ずいぶん健気じゃねェの」
「2番隊にはイイ女が出来るセオリーがあんのかね……まったく憎らしいよい」

 話すうちに段々と恥ずかしくなってきて目をキュッと瞑りだすと、2人は慌てて優しく宥めた。しかし手元は3杯目のお代わりをしようと鍋を傾けてつゆと具をかき集めている。片手間にあやされているのだ。全力であやされてもそれはそれで気恥ずかしいので、これくらいがいいのかもしれない。
 有力で具体的なアドバイスはもらえたし、イゾウさんが教えてくれたものを次の島で揃えてみよう。未成年がお酒を一人で買えるかわからないけれど。

「お、なんだ? ナマエ、なんか作ったのか? おれにもくれよ」
「!」

 背後からひょっこり現れたのはエースである。運動直後の熱い腕でのしっと肩を組まれる。ぺたりと触れた肌が汗で湿っていた。

「駄目だね、散った散った。いま食ったんじゃそらァお前、野暮ってもんだよ」
「はっ? なんでだよ」
「もう鍋は空だ。残念だったねい」
「その皿にあるやつくれりゃいーじゃん! ケチケチすんな! ……つか、なに? 薄いカレー?」
「肉じゃが」
「ニクジャガ!?」

 エースの両目がキランと光る。全身からそわそわと浮き足だったオーラが噴き出していた。皿に乗った肉じゃがと私の顔をそわそわと見比べて私の「いいよ」をまだかまだかと待っている。
 でも。

「エースの分は、また今度ね」
「えっ」

 あからさまに落胆するエースの顔は思わず笑ってしまうほどかわゆかった。


***


 ナイトブルーの浜辺にキャンプファイヤーの巨大な炎が煌々と輝く。炎を囲ってマイムマイムを踊る影が放射状に長く伸びていた。
 お酒や料理をお供におしゃべりを楽しんだり、カードゲームに興じたり、クルーたちが思い思いに過ごす中、私は砂浜に設営された映画上映会の一角にいた。白いシーツをスクリーンにしてフィルムを読み取る電伝虫とそれを念波で伝えて投影する電伝虫、スクリーンの両端で音声を流す計四匹で上映するのだ。石とベニヤ板で作った土台の上に船から持ってきたソファをコの字に並べ、各々ピザやポップコーン、コーラやお酒を片手に少し眠い目でスクリーンを見つめている。
 日が暮れた頃から始まり、いま三本目のクライマックス。一番いいところ。もうすぐ日付が変わる。

「ずいぶん古いの見てんなァ」
「静かにして……」
「つれねーの」

 ソファの背もたれを跨いでやってきたエースは私の隣に収まる。私が抱えるポップコーンバケツに片手を突っ込んで勝手に食べる。それで静かになるならと私はスクリーンから目を逸らさないまま、彼にそれを明け渡した。彼は大人しく続きを食べ始めた。
 20分後、黒い背景に白い文字が下から上へゆっくり流れた。私はエンドロールを見つめ、はーっと息をついて背もたれに背中をくっつけて脱力した。
 面白かった。胸の辺りで映画のしっとりとした熱い余韻が渦巻いている。
 エースは空になったバケツを床に置いて、その上で手を払って食べカスを落とした。

「良い子はもう寝ろ」
「ううん、まだ寝ない。映画見る」
「アホか」
「あ!? ポップコーン全部食べてるし!」
「お前が渡してきたんだろうが!」
「全部食べることないじゃん!」
「夜にバクバク食うと太るんだぜ」
「う……え、エースが言っても説得力ないもん」
「作りがちげーだろ、ツクリがよ」

 ごねている間に次の映画が始まった。私は再び前のめりになってスクリーンに意識を奪われる。エースは背もたれに両肘を引っ掛けて「ハッ」と短い息を吐く。呆れとか諦めとかが込められた、サッパリとした溜め息だった。
 背もたれに沿って倒した頭を少し横に傾け、エースは近くにいたコタツを「チッチッ」と呼んだ。手のひらを上に向け、人差し指で空中を引っ掻くように動かす。
 コタツはぶるぶる身体を揺すってからこちらへやってきた。

「おまえ、砂だらけだな」
「にゃーん」
「ん、おやすみな」

 エースはコタツの背中を雑に撫でて砂を払ってあげる。コタツがエースの手のひらに頭を擦り付ける。コタツはエースに一番懐いているから大抵彼の視界に入るところにいるのだ。
 ソファの足元に丸くなったコタツの背にエースは伸ばした両脚を乗っけた。器用に足だけで靴を脱ぎ散らかし、頭の後ろで手を組んでリラックスモードに入った彼は「乗せれば? あったけェぞ」と私にも促す。エースは礼儀正しいがお行儀が悪い。
 少しためらいはあったが、コタツは一度グルルと鳴いたきり、露ほども気にしていなさそうだったので私もサンダルを脱いでそろりそろりと脚を乗せた。柔らかい毛とコタツの体温が気持ちよかった。

 映画はどれも面白かった。
 船旅で出会った街並みや文化とも違う、まだ知らない世界がそこにあった。巨人族の誇り高き戦い、人魚たちの深海の楽園、海を渡る蒸気機関車、常世の闇でゆらめく魔城の主……そのどれもに自動車や電車、携帯電話といった私の知る現代文化はない。異世界のフィクションは、それこそどこまでがフィクションなのかが分からなくて、ますます知りたくなる。
 この海を越えていったら出会えるのだろうか。

 そんな高揚感とともに四本目を見終える頃には映画コーナーにいるクルーは大体寝ていた。エースも腕を組んだまま身体を少し傾けていびきをかいている。
 私は凝り固まった身体をぐっと伸ばしてしょぼつく目をこすった。かなり夜更かしをしてしまったが、後悔や罪悪感より楽しかったの感情が優っている。五本目の上映のためにフィルムの入った木箱をあさるクルーがいる。まだシアターはお開きにはならないようだ。私はそっとソファを抜け出した。
 船に帰ってお風呂と歯磨きを済ませて甲板から浜辺を見下ろすと、キャンプファイヤーを中心にしてあちこちに団子ができていた。夜の砂浜は意外と涼しい。少しでも暖を取ろうと折り重なるように固まっているのだ。
 エースは……と思って目を凝らせば先ほどより崩れた体勢でのびのび寝ている姿を見つけた。私はタオルケットを持って再び船を降りた。

 話し声もまばらになった静かな浜辺を歩く。波の音が空からも地面からも鳴るようにゴゴォ……と重たく響く。
 上陸するとクルーの大半が船ではなく陸で眠る。潮風で髪が傷むからとナイトキャップを欠かさないナースのお姉様も、今宵ばかりはヤシの木に渡したハンモックで無防備に眠るのだ。
 彼らは陸を愛している。揺るがない地面、眠たくなるような無風の陽光、小鳥が巣を作る梢の影、地図に落とし込める風景——……それでも錨を上げて帆を張り、陸を離れて再び海原へ繰り出す。

 彼らは陸を愛している。
 そして、海を愛している。

 キャンプファイヤーの火が一番よくあたる場所にオヤジさんの席は置かれていた。空っぽになった大きな徳利がいくつも転がっていて、オヤジさんは豪快ないびきをかいて寝ている。肘掛けから投げ出された手にそっと触れると、巨大な手はのそりと動いて、私のつむじ辺りをこしょこしょ撫でて元の位置へ戻っていった。
 寝ぼけながらも愛でられた。口の端が緩んだ。

 タオルケットを持ってまた歩き出す。まだ起きているクルーたちは目が合うとゆるく手を振ってくれた。砂を踏み締める音がサク、サク、と波の合間に聞こえる。

「……!」

 不意に光の帯が走った。反射的に足を止めてジッと暗い森を見つめる。
 幾重にも重なった厚い葉の向こうからトラックが走り抜ける音が聞こえた。車のライトが木の影を切り取るように一瞬濃くして幾筋も走り去る。排気ガスの匂いが風の流れによってたまに濃く流れる。
 突如現れた"懐かしい"違和感は本物だ。

 道はまた開かれた。ここを抜ければ、きっと……。

 私はタオルケットを胸に抱えたまま、その世界を見つめた。少しでも目を離せば閉ざされてしまうのだろう。だから目を逸らさず、見つめた。
 不思議と心は落ち着いている。

初めて"帰り道"を見つけたあの冬島の晩から、私は考え続けていた。
元の世界に残してきたものもあるし、会いたい友人も恩師も先輩も確かにいる。天涯孤独でも全部が全部悲しい思い出だったわけではない。だから、未練がないと言えば嘘になる。
けれど……どちらかしか選べないというのなら。どちらかと別れなければならないというのなら。


私はここに居たい。
明日も明後日も、そのずっと先も、見たことのないものを見に行きたい。
誰かのために良い子でいるより、自分のために自由でいたい。
手離したものを想って寂しくなったって、私はここに居たい。


「私、海が好きよ」


拓けた世界を前に、私はどこにでも行けると胸を高鳴らせているのだ。

 口元は自然と弧を描いていた。
 現代文明の喧騒に向かってそう一言答えを告げ、私は再び歩き出した。
 少し進めば、"懐かしい"違和感はそれこそ幻のように消え失せてしまった。




 エースはすっかり体勢が崩れて、とうとうソファに大の字になって寝ていた。そっと声を掛けると、寝ぼけた彼は「う……」と一度唸って起き上がり、睡魔に身体を乗っ取られて目を開けられないまま手探りで私をタオルケットでもそもそとくるんだ。そして、くるみ終えたのをまた手探りで確認し、抱き枕のように抱えてまたソファに沈んだ。
 エースはいつも私を冷やさないようにする。寝る時も私にばかりブランケットを掛けたがるし、気温が下がるとシャツの一枚も貸そうかと言う。本当によく冷える日は何も言わずに傍にいて、人間暖炉の役を買う。それでも足りなければソッと肩を寄せて手を繋いでくれる。
 今日だって、わざわざコタツを足元に呼んでくれたのはそういうことだろう。
 
 私は巻きついたタオルケットを剥がして、エースの身体にも掛かるように広げ直す。私もこの人には寒い思いをしないでいてほしいから。エースの腕の中、身体の収まりの良い場所を探し、ムギュと抱きつく。
 そうして深く息を吸って目を閉じた。


 私の大好きなひとは潮の香りがする。