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「あと買うもんなに残ってる?」
「えー……と、野菜買ったでしょ、小麦粉買ったでしょ、お肉も買った、お米も買ったー……あとはお酒と香辛料と洗剤系ですね」
「オッケー」
「あっ、サッチ隊長鍋はっ!? こないだロブスターみたいなやつに穴開けられたじゃん!」
「あーっ、あのやたら活きがよかったやつな!? 完全に忘れてた買う買う買う、ナマエちゃん金物屋追加。そういやおれ新しいレードル欲しいんだよ。ジョズ叩いたら曲がっちまってさあ」
「ワハハ、当たり前でしょ! 何してんだアンタ!」
「たぶん酔ってた。前後の記憶ない」

 4番隊のクルーはサッチさんの肩をばし! と叩いて快活に笑った。
 買い出しメモを渡されたのは今朝のこと。何度見てもメモには「野菜」「粉」「肉」「米」「酒」などなど簡潔すぎる単語が走り書きされているだけだ。どんな種類がどれくらい、などは書かれていない。聞けば「? 行ってみないとなに売ってるか分かんねーし……」と顎髭をぽりぽり掻いたサッチさんに首を傾げられ、私も「……そか!」と考えることを諦めたのも今朝のこと。どんぶり勘定どころか寸胴鍋勘定で事が進むのが常である。そもそもここは何でもありの異世界・グランドライン、悩むだけ無駄なのだ。

 亜熱帯の無人島を経て次に着いたのは、高低差のある地盤に斜面を削るようにして作られた都市だった。
 石造りの建物が高く伸び、緩やかに蛇行した街並みはとにかくギュッと混み合っていた。手当たり次第に建設を続けたような無秩序さが独特の雰囲気を作っている。見上げれば細く切り取られたまばゆい青空を背景にして、建物の間に渡されたロープに洗濯物がはためく。窓外の手すりには植物が飾られ、溢れるように垂れた葉の緑と花弁の赤。それが光を受けてキラキラと漆喰の白壁に鮮やかなのである。
 買い出しの4番隊一行は広場や大通りに面した食糧市場を押し合いへし合い、賑やかに闊歩していた。4番隊が引く荷車はすでに食糧が山のように積まれている。

「んじゃお前らは荷物持って船帰れ。残りの買い物は荷車通れねェような道だろうから……ひとり酒樽二つ持って帰るとしてー、んー……5、6人残りゃいいや」

 サッチさんは慣れた様子で指示を出す。「おれ自分用の酒欲しいから行こっと」「おれも」「いい店あったらあとで教えて」と隊員たちも慣れた様子で適当に分かれて動き出す。
 私はいそいそとポケットから別のメモを取り出して銘柄を復習した。イゾウさんに教えてもらった日本酒とみりんの代用にするお酒だ。ちゃんと自分のお財布も持ってきた。よし、と買い出し用のリュックを背負い直し、大通りから脇道に入ったサッチさんの背に私も続いた。
 路地裏は薄暗く、人気は一気にまばらになる。似たような細い路地と階段が多く、これによって街全体が迷路と化していた。しかしサッチさんや4番隊の面々は臆することなく、たまに出くわす島民に店の所在を尋ねながらのんびり進む。


「あの、これ欲しいんですけどありますか?」

 荷物になるからと最後に回された酒屋にて、私は店主にメモを見せた。クルーと遜色ない体格の店主はあるよと短く返し、壁の棚から出してくれた。酒瓶のラベルとメモを見比べ、私は財布代わりの巾着袋を出す。
 そのやりとりを近くで見ていた隊員たちが声をかけてきた。

「ナマエが酒買うの初めて見た。飲めるようになったのか?」
「いえ、料理用です」
「そんなら隊長に言えば買ってくれるぜ」
「個人的にちょっと使いたいだけなので……」
「いーって、いーって、遠慮すんなよゴネれば全然イケっから」
「そうそう。なァーサッチたいちょ……」
「待っ…ひ。秘密なんです、サッチさんには…!」

 慌てて止めるも時すでに遅く、別の棚を物色していたサッチさんが「んー?」と間延びした返事をする。
 が、しかし。

「信用ねェぞーーッ」
「なッ…なにーーーッ!?」

 すかさずもう一人が声を上げてネタにする。サッチさんは真剣みのある声音で叫ぶだけで視線ひとつこちらに向けなかった。ゲラゲラと周りから笑いが起こる。「や待ってマジなんの話」と笑いが滲んだ声で形ばかりのツッコミをする程度。
 はなから冗談と分かっているのである。隊長を、部下を、仲間を、家族を当たり前に信頼し、信頼されてると信頼しきった人たちだから。
 それにひとつ救われて、私はドキドキしながら購入したお酒を緩衝材代わりの布に包んでリュックにしまった。隊員たちは垂直に立てた手のひらの側面を鼻先にくっつけてぺこぺこと苦笑いした。
 信用してないからではなく、信用しているからこそ話さないのだけど。あとはなにより私の意地が邪魔している。
 これで今度こそ、エースを。
 ……上手く作れたら他のみんなにも食べてもらおうかしら。

「!」

 突然、笛のような鋭い音が響き渡った。
 数名の隊員がその音の正体を確認しに表へ出る。

「隊長ォ、もう行かなきゃっぽいです」
「マジ?」
「マジマジ」
「今回はやくね?」
「あっ土煙立ってます、あっち、山の方」
「始まってんじゃん、ンモーー!」

 サッチさんはたしっ! と目元を片手で覆い、口をへの字に曲げる。そして店主のいるカウンターに行って素早く購入するお酒と樽の数を告げた。手短に支払いを済ませると「ありがとォ。お騒がせしまーす」と店を出た。隊員たちも「すんませんしたー」「どもー」「苦情は海軍にゆってなー」と酒樽を担いでぞろぞろ出ていく。
 展開についていけていない私も店主にぺこりと頭を下げて店を後にした。

「急にどうしたんですか?」

 遠くから微かに聞こえる悲鳴やものが崩れる音にものものしい空気を感じつつ、私は早足で通りを進む4番隊の面々に小声で尋ねる。

「え? あ、知らねーの? 離脱指示だよ、海軍に見つかったんだ」
「えっ」
「ねえ隊長! ナマエちゃんにちゃんと説明してねーとダメだろー!」
「はあ"!? エース君が悪いと思いまーす! あんだけ一緒に上陸してたくせに説明してなかったってことだろ!?」
「あー…確かに……ナマエちゃん、エースのこと好きなだけボコっていいよ」
「ぼ、ぼこらないです」
「ちなみにさっきのアレ、マルコ隊長ね。あ、今も飛んでら」
「……あっ、ほんとだ……」

 空を指差す先を辿ると、青々と燃える巨大な鳥が建物の隙間をチラと横切ったのが辛うじて見えた。
 陸での自由行動中に海軍に見つかると、誰かしらがこうして合図を出すのだという。マルコさんなら不死鳥姿の鳴き声と旋回で知らせる。エースは火の玉を打ち上げた上で蛍火で空に「RUN」と火文字を出す。イゾウさんは赤い煙が出る発煙弾を空に向かって撃つ。このように各々、白ひげ一味の誰かと分かるやり方でおこなう。それを見つけ次第、みな速やかに船へ引き上げてくるのだ。

 つまりこの合図は、これから海軍との追いかけっこが始まるぞ、というお知らせなのである。

「この街やべーや、どっちの道から来たっけ?」
「右……いや、この階段のぼった覚えないな……」
「アこれ、建物壊していけばラクショーじゃね?」
「バッカお前、それは海賊じゃなくても普通にシバかれるだろ」
「見つかる前にずらかればセーフ」
「! お前たち、見ない顔だな」
「見つかってんじゃん」
「まだ壊してないからセーフ」
「ここで何をしている! 答えろ!」
「どう考えてもアウトだな! 走れ!」

 出会した海兵たちは、クルーの身体に彫られた刺青や服にデザインされた白ひげのマークを見て迷わず銃を発砲。
 例に漏れず鬼ごっこに巻き込まれた4番隊は、この銃声を皮切りにいよいよ駆け出した。しかしその顔はみなどこか生き生きと楽しげである。
 階段を昇って降りて、路地を右に左に……めちゃくちゃに走り続けてたどり着いた先は袋小路。

「大人しく投降しろ海賊ども!」
「隊長行き止まりッスよ!」
「あーもう仕方ねェ、オメェら酒は死守しろよ! いのちの水だ!」

 剣を抜いたサッチさんの号令におう! と力強い返事が隘路にぐわんと響いた。
 酒樽を壁際の中央に置いてそれを守るように陣形を取る。その酒樽の中央に私も降ろされ、「頭引っ込めてろ」と軽く頭を叩かれる。
 いよいよ戦闘が始まるというその時、背後の高い壁の向こうからふと巨大な影が現れた。4番隊も海兵もそちらへ目を向ける。

「ブラメンコ〜〜!!」

 空中でサッチさんと目が合った彼は、逆光の中でニッと笑って海兵たちの前に身の丈の3倍ほどはありそうな戦鎚を振り下ろした。轟音とともに地面が割れ、海兵たちは悲鳴をあげて距離を取る。

「よォ、サッチ。この街は本当に逃げづらいなァ。道が狭くてよ」
「ブラメンコ悪い、酒樽持ってって!」
「ん? おう、いいぜ」

 戦鎚を肩に担いだブラメンコさんはのしのしと酒樽の山へ近づくと、首元のポケットに樽を放り込んだ。駆け寄った隊員も正気に戻った海兵が反撃してくる前にブラメンコさんのポッケに粒胡椒の袋やら台所用洗剤やら鍋やらをせっせと詰め込んでいる。
 ポケポケの実……と聞いてはいたけれど、すいすい収納されていく様を間近で見るとまるで手品でも見ているようだった。私もつられてお酒の入ったリュックを差し出してぼけっと見上げていると、ブラメンコさんと目が合った。引き取られたリュックが収納され、二人の間に微妙な沈黙が流れる。

「……あー、人間を入れんのは、ちょっと……」
「あっ、いや! 入れて欲しいわけでは……!!」
「コントはあとにしな! おい! オメェらやっぱ撤退! ずらかるぞ!」

 大きな荷物がなくなってすっきりと身軽になったクルーたち、ここからが本領発揮である。庇うべき荷物もなくなった。ブラメンコさんが強烈な一撃を披露したいま、ここからかぶれる猫もない。


「ナマエちゃんも行こ!」


 軽快に笑うサッチさんのその声に、私は勢いのまま再び駆け出した。

 どの道を進んでも先回りをしたように現れる海兵たちを片っ端から蹴散らして進む。煙る土埃の視界に爆薬の閃光が瞬いて僅かばかり目が眩む。行き止まりの壁が荒々しく砕かれて新たな道ができ、いつの間にか合流したお姉様のハイヒールの駆ける音が反響する。誰かがぶつかったのか道端の樽が派手な音を立てて倒れる。勢いで破壊した水道管から水が噴き出す。真っ赤なりんごが転がり出る。水飛沫が虹をつくる。……

「は、はあっ、ふぅ、はっ、」

 走りすぎた足はもつれるのに。喉は焼けるように苦しいのに。心臓だって破裂しそうなほどなのに。
 全然笑えるような状況じゃないというのに、なにだかどうしてこの逃走劇は、極彩色の万華鏡のようであり、メリーゴーラウンドから見るパレードのようであった。胸が勝手にドキドキして、逸る心が足を止めさせない。きっとこれは私の走馬灯のひとつになる、そう思えるほどの目まぐるしく強烈なキラメキだった。

 前後を海兵に阻まれた窮地、巻き起こった竜巻のような風に身体が真上に突き上げられる。

「、っあ、はあ」

 それは一味最速を誇るスピード・ジルさんによるものだった。ランスが空を裂き、彼の腕が私と一緒に逃げていたお姉様2人の身体を空高く運んで離脱させたのだ。見下ろした赤レンガの景色と空の冷たく透明な空気でやっとそれに気づく。
 そして一瞬の完全なる無重力の次は、全身が泥に変わっていくような重力。

「おーおー、景気良くぶっ飛ばしたねい」
「あと拾ってくれマルコ!」
「まったく」

 滑り込むように現れた青い怪鳥がお姉様二人をその背に受け止めていくのを視界の端に捉えて。ジルさんが再び隘路の影に去っていく姿を察し。鳥にしてはずいぶん色っぽい流し目がふっと細まるのを見て。
 自分の髪が、汗の粒が空に向かって流れ続けていることに気付いて。
 鳥の巨大な羽ばたきが遠のくのを感じて。

「ぁえ、」

 私だけ拾ってもらえなかった! とサッと心臓が青くなる。
 間に合わなかったというよりは、敢えて拾わなかった、という感じ。日頃の行いを反省する余裕はなく「落ちる!」という圧倒的な焦りで思考が止まる。
 叩きつけられる先はレンガ屋根かはたまた地面か、背中を下にして落下しているから分からない。目の前は遠近感のない青空ばかりだからどれくらいでそれに辿りつくかも分からない。その恐ろしさに私は目をきつく瞑って身を固めた。
 熱波と轟音を感じると同時に、何かの上にドン! と身体が収まった。

「大丈夫か?」

 勢いよく顔を上げれば、そこにはエースがいた。
 肩から帽子のつばあたりまでがゆらめく炎となって、彼の勝ち気な笑みを朱と金に照らしていた。

 初めて出会った時を思い出す。
 あの時もエースはこんな顔で笑っていた。

 エースは近くの屋根に着地すると、そのまま私を両腕に抱きかかえて屋根の上を歩き始める。屋根の上は思いのほか静かで、清涼な風が汗が滲んだ額や首筋を冷やしていく。足元の路地からは、いまだ海軍の声や銃声が聞こえるけれど。
 頭上でエースが「マルコの野郎、おれが間に合うと思ってたかくくりやがって……」とぼやく。それをだっこされながらぼんやりと聞き、ああ、だからか……と働かない頭で曖昧に納得する。

「ずいぶん海賊らしい逃げっぷりになったじゃねーか」
「え、見てたの?」
「一度チラッと見かけただけさ。マ、ワタシやっぱり謝ってきます、なんて立ち止まってなくてよかったぜ」
「ちゃ、ちゃんと代金は払ったし、怒られるような悪いことしてないもん……」
「っははは! 海賊なんだから何したって海軍に怒られるに決まってんだろ! テメェのドクロを掲げたが最後、アイツらとは死ぬまで大喧嘩だ!」

 エースは豪快に笑い飛ばし、塀を伝ってヒョイと路地へ降りた。
 そして、心拍数も呼吸もいまだに整わず、ふうふうと息を弾ませる私の顔をじっと見てから、唇を横に引き伸ばして目を細めた。

「おれがこのまま抱えていく必要はなさそうだな」
「わっ、」

 地面にすとんと降ろされる。「港はあっちか」とブーツの底をゴツゴツ鳴らして前を行く。私はドクロが笑うその背中に視線を注いだまま強く二度瞬きをして……歩けるから自分の足で歩いてついていく。
 屋根の上から見えた景色を頼りに当たりをつけてエースは歩いているらしく、大通りを避けながらも港の方角へ進んでいた。

「おっ! 海が見えたぜ」
「あ、本当だ。あと少しだね」

 階段降りて通りに出たエースに続いて私も通りに出る。大通りとは外れた道らしく人影はない。だから道の先にある水平線がくっきりと見えた。潮風が真っ直ぐに吹き抜け、髪を荒っぽく乱して後ろへ流していく。
 では海を目指そうと踏み出したその時。カァン! カンカンカンカンカン…と凄まじい音が斜向かいの路地の暗がりから突如鳴り出す。

「!」

 びくっと身体がすくむ。エースはさっと左腕で背中の後ろと壁の間に私を追いやって、遮断機の音が響く路地を警戒する。
 それに気を取られていると、今度はドップラー効果で歪んだ電車の警笛がプァン! と耳をつんざいた。今しがた出てきた階段からだ。慌ててそちらからも距離を取る。
 別の路地から換気扇の唸る音。また別の路地からは横断歩道のとおりゃんせ。スマートフォンの木琴の着信音。車のクラクション。飛行機の重低音。入店時の短い電子音。間延びした学校のチャイム。

「急になんだってんだ?」
「——……」

 私が、私だけが知りうるありとあらゆる音が響いていた。音だけじゃない。匂いも気配もそこにあった。また道が開いたのだなと分かった。
 全身で警戒するエースの隣で私の心境は呑気なものだった。
 ひとつひとつは怖いものじゃない。ただの道である。まさか得体の知れない黒い手が伸びて引き摺り込まれることもあるまい。これだけ一度にあちこちから騒がれればそれは確かにブキミで戸惑うけれど。どの道にも入らないとすでに決めているから、特にどうこうすることもないのだ。
 壁と背中に閉じ込められるのもそろそろ窮屈になって。「えっとね、エース」と左手の丸いブレスレットをチョイと引っ張る。短く「なに」と返ってくる。

「これはね、私のもとの世界に繋がってる……と思われる道、です」
「は……?」

 路地を指してそう説明すれば、エースはもっと難しい顔をしてゆっくり振り返った。

「繋がってるって……通って確かめたのか?」
「違うけど…そんな気がするの。いま聞こえてる音とか匂いとか、全部日本にあったものだから……これに出くわすのも初めてじゃないし」
「え」
「ロニーさんの島と、こないだの夏島と、今日が3回目」
「……」

 それを聞いた彼は、視線を左下に落としてシン……と黙り込む。
 説明が足りなかったかしらとあれは電車の音でね、電車というのは日本の交通機関でね、と一生懸命話してみる。
 エースは沈黙したまま右手で目元を覆って、左の手のひらを私にゆっくりかざした。少し黙ってくれのジェスチャーだ。そのポーズのままのろのろと私へ向き直る。至近距離で向き合えば塔のように巨大な彼に気圧されて私は少し後ずさる。背中が壁に触れた。彼は私の顔の真横の壁にペタ……と静かに左手をつく。
 いきなりこんなことを言われたら混乱するよね…と彼の動揺を理解して私はこの沈黙に付き合った。
 彼はたっぷり30秒黙ってから、目元を覆っていた手をそのまま顔を撫でるように鼻下まで降ろした。今度は口元が掌に覆われて、引っ張られた頬の肉が彼の目をいつもよりわずかに大きく開かせた。
 足元に落ちていた視線がキロッとこちらを向く。


「……帰、んのか……?」


 目力に反した小さな小さな声で、ポチンと呟くように彼は言った。

 帰るなと押さえつけない優しさを彼らしいと思った。
 こうして選択肢を与えながらも道を塞いでいるこの左手がちぐはぐで可愛らしかった。
 言葉の裏に隠しきれなかった「帰らないで」という願いが愛おしい。

 私はなんだか堪らない気持ちになった。
 心臓の最奥から迫り上がるようなこの衝動をなんと呼べばいいのか。
 今すぐに抱きしめたいと思い、この両腕いっぱいに納めてお互いがひとつになるまでくっつきたいとも思う。走り出したいような、泣き出したいような。身体中を巡る血潮のように瑞々しくて忙しない感情だ。
 心ばかりがドキドキうるさくて遮断機が鳴ってるのか自分の心臓が鳴ってるのか分りゃしない。

 感情に言葉が追いつかなくて唇を口内にしまう。そうしてエースの真剣な瞳をただただ見つめ返せば、彼の眉が哀愁を帯びて歪んだ。この無言を悪い風に捉えたのだろう。心臓をつねられたようにキュンと切なくなる。

「エース。私、帰らないよ」
「——……いいのかよ」
「うん」
「これが最後のチャンスかもしれねェぞ」
「最後でもいいよ」
「……残してきてるもんもあんだろ」
「あるけど……帰った方がいい?」
「馬鹿野郎」
「ふふ。帰れって言われたって帰らない」

 ゴチンと乱暴に合わさった額が少し痛い。
 重力に従ってだらんと下されたエースの右手が私の小指と薬指を頼りなく握る。あらわになった彼の口元は案の定への字である。

「たくさん考えたのよ」
「……」
「大丈夫。大丈夫よ」
「……ン」

 ゆっくり、丁寧にそう伝えれば、真剣に私の目を覗き込んでいたエースは諦めたように安堵した。私は繋がれた手を今一度握り直し、エースにぎゅっと抱きつく。肩口に顎を乗せて目を閉じ、こめかみを彼の頬に寄せた。
 そうしてくっついていれば、辺りに満ちていた音や気配は次第に遠のいて消えた。道が閉じたのだろう。代わりに鋭い銃声が建物越しに響いてきて……。

「こうしてる場合じゃない」
「だな。さっさと船戻んねェと」

 海賊はいつも大時化の海にいる。荒々しく凶暴な風を巨大な帆に受けて、直向きに前に進むのだ。
 銃声と重たい轟音が聞こえる。建物が崩れるせいで不穏な地鳴りがする。潮風が強く吹き抜けた。塩っからい透明な風に片目を眇めて、私たちは一歩を踏み出す。


 この手を繋いで、どこまでも歩いて行きたいと心の芯から思うのだった。


***


 船にはすでに街から戻ったクルーたちがいた。積荷を運び込んでいたり、船に乗り込むクルーに手を貸してやっていたり。まぁ大半は船縁で「やってるやってる」と土煙が立ち昇る街並みを呑気に眺めている。
 私もエースに抱えてもらって無事に欄干へ辿り着いた。

「コケんなよ」

 先に甲板に降りたエースが下から手を差し伸べてくれた。その手に助けてもらいながら、積み上げれた木箱や樽を階段のように使って少しずつ降りる。
 周りから掛けられる朗らかなおかえりの声に応えつつ、なんとか最後の木箱一段分に辿り着いた。
 えい、と一息に飛び降りて。


「…………?」


 着地した途端、フッと部屋の電気を消されたように辺りが暗くなった。カモメの声や活気のあるざわめきがなくなる。潮の香りもない。片手に触れていた心地良いぬくもりも。
 視線の先にあったのは、アスファルトの地面だった。

「——……え…?」

 顔を上げて見回せば、そこは見慣れた・懐かしい道だった。バイト先からの帰り道、あの日踏み外したと思った階段の下に私はぽつねんと立っていた。
 服装も持ち物もあの日のままで特に怪我もしていない。スマホで時間を確認したが、あまりに"元通り"だった。
 中途半端に口を開けて呆然と立ち尽くす。自転車に乗った巡回中のお巡りさんに早く帰りなさいねと促されて、離れがたくもここに居続けることもできず。おぼつかない足取りでよろよろ帰宅。

「……、」

 玄関扉を開けると頭が痛くなるほど懐かしいにおいがした。
 私はとうとうその場に座り込んだ。


「帰っ…て、来た…………」


 待ち人のいない、一人きりの我が家はとてつもなく静かで、時計の音が1秒ずつくっきり聞こえた。