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 私は茫然自失のまま、ぽと……と仏壇の前に座った。
 習慣とはアッパレなもので、約三ヶ月ぶりの"独りきり"に心がぐしゃぐしゃになっても身体はきちんとその所作を覚えている。
 両手を合わせて仏壇の両親と祖母に何を言おうか、何から話そうか迷い。私は「あのね、」と口を開いた。


大きな船に乗ったこと。
海を渡り、いくつもの島を巡ったこと。
ありえない景色をたくさん見たこと。
いろんな人に優しくしてもらったこと。
家族ができたこと。
そして、一等素敵なひとがいたこと。

その手と折り重ねた時間のあたたかさ。
勇気をもらい、少しだけ大きく強くなれた。
毎日背筋を伸ばして口をあけて笑っていられた。
悪逆として追いかけられた街の凶悪な喧騒さえ愛しかった。

あの航海の日々のなんと眩しく愉快だったことか!


口に出せばまさしく夢物語のような日々だ。
荒唐無稽な冒険譚、しかし、決して忘れ得ぬ鮮烈な時間。
この胸に吹き荒ぶ寂寥と喪失感が本物だったと訴えかける。

「……っ、」

 ぱた。ぱた。と頬をつたって落ちた涙が洋服に染みを作った。
 身体の内側すべてが冷たいぬかるみに変わったようで、真っ白な頭は悲しみでずっしりと重たかった。
 ここは私が帰りたかった世界だ。しかし、あそこもまた私が帰りたくなかった世界だ。帰れないならここに骨を埋めようと決めた世界だった。決断は容易ではなかったけど、それでも選んだ。
 決めた途端に"これ"だ。

「……シスター、神様がいるとしたら、なんて意地が悪いの」

 あんまりよ。
 恨み節を吐いて項垂れる。呼吸がしづらくて、いつまでも胸がしくしくと痛かった。
 どこかへ行ってしまいたいと行った私を向こうへ寄越し、ここに居たいと腹を決めた私を再びこちらへ帰した。やっと舳先が向く先が定まった矢先に……。



『 ここにきて何かを成し遂げさせたいのでしょう 』



「あ……」

 シスターの言葉とともに考え至って、私は再び言葉を失くした。
 見開いた目からぱた、とひと雫がこぼれた。

「自分で人生を選べるようになりなさい……って?」

 しんと静まり返った部屋にその声は嫌に響いた。
 なにひとつ決められなかった。考えたくもなかった。それが彼と出会ってからは、あの船で過ごしてからは、私は確かに変わった。迷って立ち尽くすばかりの自分ではなくなったのだ。
 したいことも、居たい場所も、見たい景色も、自分本位でいられた。
 何を正義とみなして、誰とともに在りたいか、それを自分で決めたのだ。

「……ピアスだって、開けた」

 一点物を絶対に手離さないために、身体に傷だってつけた。
 耳たぶにはファーストピアスがあり、触ればまだ少し皮膚が痛んだ。
 ポケットを探れば小瓶があった。中には、エースにもらった赤いピアスとビブルカード。しかしカードは微動だにしない。主を失くして沈黙しているのだ。ただの紙切れと化したそれがまたあの世界との分断を否応なく知らせていた。

 けれど、これらはあの世界が存在していることを示していた。やはり夢なんかじゃないと分かる物的証拠だ。
 小瓶を握り締め、私は今一度、強く鼻をすすって前を見る。
 ……床を見詰めるのはもうやめだ。

 思い返せば神様はそれほど親切じゃないし、運命はいつも説明不足で理不尽だ。満足な解説もフォローもない。……振り回されてばかりだ。振り回されてばかりだが。
 もう悲しみに心を挫いて膝をつきたくなかった。


 まずは熱いシャワーを浴びて頭をしゃっきりさせる。髪を乾かすのもそこそこに、肩にタオルを引っ掛けて勉強机に座った。ルーズリーフを引っ張り出して、これからのことを考える。気を抜くと涙が出るし、100%気持ちが前を向けているわけではないが、それでも泣いて頭を垂れ続けるよりマシだと思った。
 帰れる可能性と帰れない可能性、どちらについても考え続け。
 やがて。

「わっ、」

 スマホのアラームが鳴った。
 夜が明けたらしい。窓を見やると、残酷なまでにまばゆい朝の日の光が目に沁みた。カーテンから透ける朝日は柔らかな金色で、嘘みたいに綺麗なのだった。
 アラームのタイトルは「バイトの日」。カレンダーアプリを開くとデジタルなマスにぴーっと線が引いてある。金曜日から週半ばの今日の日付まで。その上にちょこんと「バイト」の文字。
 目をこすりながらそれをぼんやりと見て、そうか今日もバイトを入れてたのか、と思う。

 バイトに行ったら、気が紛れるかしら。
 酷い顔だけど……シフトに穴開けるのも悪いし。体調を崩しているわけでもないのだし。こうして一人で家にいるより良いかもしれない。気持ちも紛れるかも。
 でも、なんか、今日は……。

 私はきゅーっと眉間に皺を寄せて画面を見つめて悩んだ末。

「……」

 初めてバイトをサボった。ずる休みをした。初めて仮病というものを使った。
 行きたくないなと思って、けれど紙に向かうのもそろそろ疲れたなと思って、午前は仮眠にして午後から気晴らしに海へ来た。幼き日に母とよく過ごし、父を待った場所。電車を乗り継いで数十分、想像よりも呆気なく簡単に着いた。
 これまで真面目に働いていた甲斐あって店長は快く休みをくれた。幾許かの罪悪感はあったが、後悔はあまりない。
 だって海、来たかったんだもん。と、子供っぽく凹凸の少ない気持ちで開き直れた。啜った鼻は詰まり気味で、泣き腫らした目元に潮風が少し痛い。
 春の海風はずいぶんと肌寒かった。護岸に三角座りしたお尻からコンクリートの冷たさが登ってくる。私は膝を抱え直して身体を縮めた。
 前方一帯から唸るように響く潮騒は、良い思考も悪い思考も緩やかにする。頭を空にして不規則で規則的な波の往来を眺めていれば少しばかり心は落ち着いた。


 ……船のみんなはどうしているだろう。
 いきなり居なくなって困らせていないだろうか。それとも、こちらの時間が一切止まっていたように、あちらの時間もなかったことになる? 私が現れる前の続きの時間が流れ出してる? ……それは嫌だな…。
 思えばオヤジさんのお酌もしたかった。お酒の席は子供には早いと追い出されてばかりだったから。彼の冒険譚も聞かせてほしかった。
 サッチさんのレシピ覚えたかったなとも思う。せっかく入隊させてもらったのだから雑用でもなんでもしたかった。夜食の当番だって手放しで任せてもらえるくらい。
 そういえばマルコさんの本、借りっぱなしだ。エースの部屋に読みかけで置いたままである。返しそびれた、というか彼の本棚を制覇したかった。いつかはミハールさんの本棚だって。
 それを言うならナースのお姉様秘伝の美容の秘訣もまだ聞けていない。クロエさんとショッピングに行く約束もしていた。果たせないまま、帰ってきてしまった。
 イゾウさんと和食の味の研究したかった。彼の故郷の話をもっとたくさん聞きたかったし、できることなら訪れてみたかった。桜の花の色を聞かせてほしかった。蝉時雨の暑さを、稲穂の香りを、雪影の眩さを。
 もっと色んなことをやって習っておけばよかった。
 航海術の勉強、火器の扱いの練習、ものづくりの手習い。
 甲板掃除のコツ、洗濯の極位。
 海に生きる者の心得。……


「……やり残したことばかり」


 毎日充実していたと思った。精一杯生きていたつもりだったけど、こうして思い返せば未練ばかりだ。目に映るものすべてが楽しかったからこうなった。もっともっと、と欲が尽きないのだ。
 水平線を見つめた左目からツ……と流れた一筋の涙を拭って、欲張りになったものだと思った。しかし、それを恥とは思わない。


「……イゾウさん、この海は繋がっているのかもって言ってた」

 春怒涛を前に、私は呟く。

「オヤジさんも、腹の底に動かないものがひとつあれば大丈夫だって言ってた」

「自分に出来ることを、精一杯やりなさいって、クロエさんも」


「くいのないよう、自由に生きる」


 どれもこれもが私の身体に染み込んだ言葉だ。
 それが今は私の背骨のようになる。

 私はあの船で何にでもなれた。コックでありナースであり航海士であり船大工であり、娘で恋人で海賊だった。
 ここには道しるべも先人の足跡もない。船もない。オールもない。帆も舵輪も。だけど波の向こうへ馳せる心がある。どこへだって行けるし、どこへ行ったっていい。なんとでもなる気がする。どこに行きたいか、どう在りたいか、そんなものは全部自分が決めることなのだ。
 いつ戻れるのかは分からない。戻れるかどうかも分からない。
 それならいつ何時でも彼らに顔向けできる自分でありたい。


 凛々しい決意の反面、向こう数ヶ月はパイナップルを見て泣くし、フランスパンを見ても泣くし、夕焼けの強いオレンジを見てまた泣く生活が続くのも事実。ちょっとのことで恋しさが込み上げて涙腺がどうしようもなくなってしまうのだ。
 異世界へ繋がった階段には何度も通ったし、駄目もとでメッセージボトルだって流してみた。文明の利器を駆使して調べ物も嫌というほどした。
 それほどまでにあの船での生活は、私の心を溶かしていた。

「エース、……」

 ふとした時に口を衝くその名前は、いつでも私の脳をカッと熱くした。

 あの大きな手が恋しい。頬に散ったそばかすを日がな一日撫でていたい。優しい黒目を覗き込みたくて、二人で並んで足を伸ばして眠りたい。
 エースの隣ならどこにだって歩いていきたいと、歩いていけるとそう思うのに。
 瞼の裏に彼が居た。現実と見紛うくらい緻密に思い描ける彼は泡沫より儚く、その輪郭は脆い。目を開ければひとりぽっちである。
 どんなに心を強く持とうとも、これだけは敵わなかった。


 毎日毎日、喉が渇くほど恋しかった。


***


 その頃、エースもまた水平線を見つめていた。
 モビーディックの船縁に両腕を重ね、その上に顎を置いている。風に乱された前髪がエースの目に掛かるが彼はそれを除けることもなく、静かに海を見詰めるばかりだった。背中のドクロもまた沈黙していた。
 ナマエが忽然と姿を消してからしばらく経った頃である。


 彼女が消えてからは壮絶であった。
 消失を目の当たりにしたほぼ全員が能力者による敵襲の可能性を瞬時に考え、戦闘態勢に入ったのだ。
 元来、島駐屯地の海軍ごときが四皇白ひげの捕縛・討伐を本気で考えているわけはない。本気であれば軍艦五十隻と大将レベルを集めてくるのが道理だから。
 海軍は一刻も早く彼らを島から追い出し、市民の安全を守ることを第一としている。白ひげ一味もそれを理解しているため、海軍に見つかり次第、速やかに島を離脱して戦闘の意思がないことを示すのだ。海軍は島および島海域から大人しく出ていけばそれ以上の深追いはしない。
 これは双方、暗黙の了解である。
 しかし、仲間に、しかも非戦闘員に、それも女に危害を加えられたとなれば話が変わってくる。白ひげを怒らせると鬼より怖い、小さな子供だって知っていることだ。

 一味総出で島の海軍を潰し、見聞色で島中を探ってなおナマエの気配はなかった。
 逃走を図っていた四皇が突然これだけ暴れれば、海軍が応援を呼ぶのも当然である。そして、これ以上の戦闘が何を意味するか分からないほど馬鹿ではない。白ひげは苦渋の決断で出航の号令を出した。


「船を戻せ!!」

 喉から血が出るほど叫んだ。マルコはエースの髪を掴んで甲板に強く押し付け、鳥の鉤爪で胴体をガッチリとつかんで体重をかけて潰す。どういう腹で船を出すのかちったァ考えろと叫ぶ彼の声もまた悲痛だった。離れゆく島陰を睨み、エースはいつまでも彼女の名前を呼び続けた。

 少し離れたところでは同じようにサッチも暴れていた。「アイツはうちの隊員だぞ!?」と髪を振り乱した彼をジョズは鳩尾を殴って黙らせる。サッチは「チクジョォ……」と項垂れて押さえつけるジョズのダイヤモンドの身体を拳から血が出るまで殴っていた。涙でぐしゃぐしゃの声だった。

「おいエース」
「ッ、オヤジ!!」
「いい加減にしやがれ!」
「ッガ……!」

 オヤジの強烈な拳骨にさすがのエースも気を失い……再び目覚めた時には島陰すら見えなかった。
 真っ平らな水平線にエースはざっと顔を青くし、ストライカーがある格納庫に走り出したところをまたオヤジ直々にぶん殴られた。
 「死にてェのか」と叱られ、「あの島にナマエはいなかった」と現実を突きつけられる。返す言葉は見つからないがそれを諦める道理にもできず、エースは往生際悪く抗った。
 そして何度でも殴られた。
 そんな日々が続いた。

 ある時、エースが目覚めたのは夜中だった。ずいぶん伸びていたらしく、すっかり陽は落ちて甲板は真っ暗だった。痛む身体を起こして唇を噛む。そんな月明かりの下、オヤジの背中を見つけた。

「エース、付き合え」

 彼はもうひとつの盃に酒をダバダバ注いだ。
 エースは徐にその盃の前に、オヤジの隣に座る。

「オメェ、ちっとも懲りねェな」
「もう止めてくれるなよ、オヤジ」
「船突っ走らせてどこ行く気だアホンダラ。……あいつはもともと異世界の女だ」
「だからなんだよ」
「おれたちが探して見つかんねェってこたァ……そういうことだろうよ」

 エースとて頭では分かっていた。
 急に現れた女が、急に消える意味を。この船の覇気使いが総出で探して見つからない意味を。

「……おれだってな、場所さえ分かりゃ迎えに行くさ。あいつはおれの娘だぜ」
「っ、じゃあ……」
「でもなエース、お前だっておれの息子だ。あんな騒ぎを起こした後に、当てのない旅路に放り出せるわけねェだろ」

 そう呟いて静かに酒を傾けるオヤジの横顔を見て。エースは喉が引き締まって、ついになにも言えなくなってしまった。
 エースの身体は傷だらけだった。
 オヤジの拳も傷だらけだった。

「……」

 何も言わず。言えず。
 エースはオヤジの隣で同じ海を見た。



 その夜を境にエースは大人しくなった。
 船を飛び出そうとすることはなくなり、船縁でじっと海を眺めたり、気晴らしにストライカーでモビーと併走したりするくらいで、隊の仕事も身の回りのことも元通り……とまではいかないが、まあそれなりにこなすようになった。
 クルーたちはその姿を悲しく思い、胸を痛めてそっと見守っていた。ついに心が折れてしまった、あいつにとって最愛の子だったのだ、無理もない、と。
 こんな生業の船旅をしていれば出会いと別れなど星の数ほどある。すべてに心を痛めてはいられないが、必ずしもすべてを綺麗に受け入れられるとは限らないと彼らは知っている。下手な慰めは毒にしかならず、時間が解決するしかない、そんな苦い酒もよく知っている。
 傍目にはそう映っていた。

 しかし、エースは諦めて傷心に浸っているのではなく、ずっと考えているのだ。
 どうすれば彼女とまた会えるのかを。
 あまり物を考えるのは得意ではない上、するりと消えた異世界の女を追う手立てなど見当もつかず途方に暮れていたが。
 それでもずっと考えていた。心の火種は消えていない。

「エース、暇ァ? りんご買ってきて」
「……どんくらい?」
「え……、あー、3個」
「……」
「なに、文句あんの? おれは新鮮なリンゴジュースが飲みてェんだよ。はよいけホラ」

 市場のひとつもある有人島の沖にモビーが差し掛かった折、サッチはそんな注文をしてシッシッと手を払うように振った。気分転換でもしてこいという意味だ。この船にはきっと思い出がありすぎるから。
 分かりやすく気を遣われている。隠す気もあまりないよう。分かりやすい気遣いは、早く元気出せというストレートなメッセージであった。
 サッチだって散々泣いて酒に溺れたくせに。エースよりも幾分大人だったため、悲しみのいなし方とその経験に長けているだけだ。そして弟分を労る優しさと懐があるばかり。
 エースはその気遣いを素直に受け取って、りんご3個分のおつかいの準備をする。ストライカーを海上に降ろし、船縁から飛びうつれば水面は大きくうねった。モビーに繋いでいたロープを解き、船縁で見下ろすサッチに緩く手を振りかえして船を出した。

 エースはストライカーを走らせながら、島陰もまだ見えない群青ばかりの海を見つめていた。砕けた波が前方から飛んでくるが彼に届く前に蒸発して消えてゆく。

「どこに居んだよ」

 呟いた声は誰に届くでもない。

「……帰っちまったのか?」

 あの子は帰らないと決めたと、確かにそう言っていた。意外と強情なところがある彼女の言うことだから、エースも安心してコロリと不安を手放したのだ。
 だからこそ、ナマエの意志じゃないと確信していた。
 それならこれはどうにもできない運命だとでも言うのか。冗談じゃない。エースは神など信じていない。いたとして、中指を立てて舌を出すだけである。
 海賊王の息子に生まれても、自分の命が母の命と引き換えにしていても、山賊に預けられてもゴミ山を漁って暮らしても相棒のような兄弟を薄汚れた権力に殺されても。エースは屈しなかった。
 運命なんていつでも不条理だったが、決して屈せずここまできた。
 この先だって折れやしない。

 それになにより。
 あの子と出会えた青い海が目の前にある限り、どうしても無理だとは思えないのだ。


「おれは諦めねェぞ」


 不屈の炎は燃え上がり、ストライカーは加速した。