45

 
 エースはサッチにお使いを頼まれ、ストライカーを走らせていた。
 1時間も走れば着くと言われたが、エースはマイペースな男なので真っ直ぐ島には向かわず、適当に船を走らせて"気晴らし"をしていた。
 島の海域気候下だし、突然海が荒れることもあるまいとたかを括っていたのだが。

「ん?」

 コツンと船底になにかがぶつかった。
 後方を見やれば、ぷかりと何かが波間に浮いている。気まぐれに旋回し拾い上げてみると、それはメッセージボトルだった。
 こういうモンは島の外の人間に届いてこそ真価のあるもの。あーあ、おれなんかに拾われてちゃ仕方ねェよなァ、と不憫に思いながらも暇なので船を止めてボトルから手紙を抜き取ろうとしていたところ。
 ストライカーの頭上に暗雲が立ち込め、たちまち酷い嵐になった。
 予想外の事態になんとか操舵を試みるもストライカーは敢えなく転覆。

 気がついた時には、エースは見知らぬ浜辺にストライカーとともに打ち上げられていた。





「こ、これは……」
「ナマエちゃん、と、とにかく作って! あ、はいはいいま行きます!」
「あっ、ヤスコさん!」

 デシャップ台に置き去られた一枚のオーダー表を見て、ナマエは途方に暮れた。が、とにかく気合を入れて調理を始めた。とんでもない量のオーダーだ。高校野球部の夏合宿だとか、そういう類の団体でもきたのかと思うほど。
 昼時を過ぎて客足もまばらになる頃、その珍客はナマエが短期バイトをしているレストランへ現れたのだった。

「ヤスコさん、とりあえずこれ! 残りもどんどん出してくね」
「ありがとう〜! これ、追加オーダー入ったから!」
「え!?」

 調理中の匂いに釣られてオーダーしてきたのだとか。食いしん坊と笑うには度が過ぎるけれど今は手を動かすしかない。この慌ただしさは4番隊のキッチンを思い出す。ナマエは汗を拭いながらほくそ笑んだ。
 ヤスコさんはナマエの母の友人であり、ここはむかし母が働いていたレストランである。つまり幼き日、ナマエが父の帰りを遊びながら待った思い出の店だ。
 幸いヤスコさんもナマエのことを覚えており、こうして縁あって今に至る。海が見える場所で働きたいというナマエの希望で、こうして短期バイトをさせてもらっているのだ。
 季節は夏、海開きでこれから忙しくなるという時期だった。

 さらに何品かを作り終えてデシャップ台へ並べたとき、突然ホールから皿が激しくぶつかる音とともに、ヤスコさんの短い悲鳴が上がった。
 何事かと様子を見に厨房から出てきたナマエに、同じく彼女に助けを求めにきて鉢合わせしたヤスコさんがしどろもどろに話す。

「きゅ、急にお客さん倒れちゃって」
「倒れたって……」
「わ、分からないけど食べ始めたら突然……」

 なにか悪い物でも入ってたかと不安と動揺に身体を縮み上がらせながらも駆けつける。
 そして、件の客の姿を見て——……
 彼女は喉の奥で「ぁ、」と息を呑んだ。心臓が駆け上がるように鼓動する。

 一人の男が顔面から皿に突っ伏していた。
 つばの広いオレンジ色の帽子がうなじの方にズレていて、重たい飾り紐が微かに揺れている。

 その見覚えのある光景に視線は釘付けになったまま、震える指先でなんとか近くにあった清潔な布巾を手に取った。
 見紛うものか。いつも夢見た黒髪だ。
 鼻の奥がツンとする。吐く息が細く震える。瞬きすら惜しく、眉根を寄せてその全てに目を凝らした。

「ナマエちゃん……?」
「ヤスコさん、大丈夫、このひと……寝てるだけだから」

 シャツを羽織っていて人目には隠れていたが、近寄れば懐かしいジョリーロジャーがシャツ越しにその背に透けて見えた。
 嗚呼と思った。
 懐かしさと興奮で首元にジンと鳥肌が立つのを感じ、胸が苦しいほどに締め付けられる。

 男の肩にそっと触れる。
 指先にじんわりと熱が伝わる。
 心に火が灯るような優しい温度に、いよいよ涙が込み上げた。


「エース、起きて」


 声をかけて、肩をやさしく揺する。
 すると勢いよく頭が持ち上がり、黒髪の隙間から寝ぼけ眼が覗いた。ワリ、寝ちまった……と特に悪びれていない声音がゆっくりとナマエを見上げた。
 その男の鼻の頭には照り焼きのタレがついていて、頬には青ネギがくっついていた。彼女を視界に捉え……眠たげな眼がハッ…と見開かれた。
 ナマエも彼の顔を正面から捉えて、ほろりと一条の涙が流れた。

「ナマエ……?」
「エース、」
「……っ」

 エースは椅子を蹴倒して立ち上がり、ナマエの片手を思わずつかむ。驚きに瞳を揺らし、状況は掴めないがとにかく大事なものを二度と逃さぬように身体が先行して動いた結果だ。
 エースが立ち上がったせいでナマエは彼をぐっと見上げる格好になったが。

「ッナマエ、わっ、なにす……!?」

 彼女は怯まずエースの料理まみれの顔を布巾で拭った。
 そして、くしゃくしゃと一通り拭き終わったあと。

「……っ!!」

 思う存分、その胸に飛び込むのだった。
 力いっぱいに抱きしめ、これまで一人で流してきた涙全部を彼に預ける。ずっと恋焦がれた体温が、すべてこの身体に染み込んでほしいと願った。
 エースもそれに応える。細い肩をぎゅっと引き寄せ、包むように後頭部に手を回す。肩口に額を押し付けて、喉が不自然に震えるのをグッと堪えた。男は泣くもんじゃないと思っていたから。しかし涙腺は言うことを聞かず、ならばせめて悟られないように努めた。
 彼女は首筋が熱涙で濡れても何も言わなかった。


「あいたかった」


 二人がこぼした言葉はそればかりである。それ以上の言葉もない。万感の想いが詰まった一言であった。
 やがて、どちらともなく身体を離し、慈しむような温かな眼差しで改めてお互いを見詰めた。


 ナマエはエースを見て「変わらないな」と思った。
 エースはナマエを見て「ずいぶん変わったな」と思った。


 ヤスコさんは興奮した様子で、口許を両手で覆ってキラキラと二人を見つめていた。「えっ、えっ」と小さな声をあげてひとりドキドキしている。そりゃ目の前でドラマチックな再会シーンを繰り広げられたのだ。齢がいくつであれ、乙女心もくすぐられるというもの。

「ね、ね、ナマエちゃん……まさかこの人が……」
「え……?」
「あの、ゆってたじゃない、遠距離恋愛の彼がいるって……!」
「あ」

 ホラホラ! と手首を上下にぱたぱたとさせてヤスコさんはナマエをつついた。
 なぜなら「いい人いないの?」の類の質問にナマエは「遠距離恋愛の彼がいる」と言い続けてきたのだ。再会できる確証はなかったが彼より素敵な人などいなかったし、そもそも他に彼氏を作る気もなかった。
 エースはそのやり取りだけで話を掴み、気合で涙と鼻水を急いで引っ込め、「こりゃ申し遅れました」と帽子を外して胸に当てた。ヤスコさんに向き直り、きちんと片腕両足を揃えて深々とお辞儀をした。

「おれの名前はポートガス・D・エース。お察しの通り、こいつの男です。以後お見知り置きを」

 人懐っこい笑みを最後に浮かべれば、ヤスコさんはズキュンと陥落した。娘のように可愛がっている女の子のカレシがこんなに素敵な好青年だったとは。テンションが一気に女子高生になってしまったのだ。
 だからなんとか二人の仲を取り持ちたいと思い。

「とりあえず二人ともこの料理食べてて! 厨房は私がはいるから、ナマエちゃん、今日はもう上がりでいいわよ!」
「え! でも、」
「遠距離で久しぶり会えたんなら積もる話もあるでしょ!? いいからもうホラ早く座んなさい!」
「う……」

 と、世話を焼いて、宣言通り厨房へ引っ込んでいった。
 エースはそんじゃあと笑ってカウンター席から二人掛けのテーブル席に皿を移動させた。
 話したいことは山ほどある。噛み締めたい感動も喜びも。だからヤスコさんの勧めに甘えて席についた。

「今度は寝ないでね」
「うめーんだもん」
「……」

 さらりと答えて早速食事を再開するエースにナマエは「……ふーん」と口を尖らせてわざと表情を乏しくした。テレテレとテーブルの隅を見てから「それね、」と口を開く。

「私が作った」
「……!」
「ふふ、美味しい? 気絶しちゃうくらい?」
「んぐっ、……あァ、うめェよ!」
「えへへ」

 そっかぁ、と丸い声でナマエはニコニコし、その顔を見てエースは堪らなくキュンとした。
 だって彼もずっと彼女に焦がれていた。

 一人のベッドは寒くて眠る気になれなかった。部下たちの雑魚寝部屋に押しかけ、甲板で飲み明かし…そんなことばっかりをしていた。そのくせ一人で彼女を思い出したい夜は、モビーの頭で大の字で寝転がって星を眺めた。
 昼間、ストライカーで走っていたのは、彼女がまた空から降ってきたらいいなと思ったから。…あるわけないのに。我ながら馬鹿だと思っても、やめられなかった。
 口には出さなかったが、やはりどうしようもなく会いたかったのだ。
 このご機嫌な顔を、手を伸ばせば触れられる距離で見たかった。それが叶ったいま、エースは心の芯がとろけるほど幸せだった。
 しかも…なんだか。

「ちょっと見ない間にすげェ綺麗になったな」

 エースはそう思ったのでそのまま言った。
 サラダに乗ったローストビーフを刺そうとしたフォークを止めて、反対の手で頬杖をつき、やさしい夢を見るような柔らかい声で。
 ナマエはその言葉にキョトンとしてから、「えっと、」と赤らめた頬に手を当ててもじもじ目を逸らした。それにまたひとつ「カワイイなコイツ」と思う。

「よ、4年も経ったら、そりゃちょっとくらい変わるよ……」
「……よねん? なんの話だ」
「? 久しぶり…って話……」
「2ヶ月だろ?」
「2ヶ月?」
「ナマエが消えてから2ヶ月か…多く見積もったって2ヶ月半ってとこだ」
「よ、4年、4年だよ、私もう二十歳だもん」
「え?」
「え?」

 沈黙の中、顔を見合わせる。

「4、年……」
「いや…2ヶ月だ……」

 時間の流れに食い違いがある。
 しかしナマエには覚えがあった。彼女が戻ってきたときも船の上では数ヶ月経っていたはずなのに、こちらに戻ってきたらほんの数分の出来事であった。
 それを思い出し、ナマエはなんとか説明する。エースは訝しげにそれを聞きながらも最終的には「不思議島……ってことか……」と自己流の解釈で納得した。
 向かいに座る、大人びた彼女を上から下まで今一度眺め、エースはフムと息をつく。

「まァ……確かにさすがにたった2ヶ月でこうはならねェか」
「……目つきがなんかやだな」
「や。お構いなく」

 というのも。
 成長期の身体に不思議の国の食べ物を入れたせいなのか、ナマエは美しく成長していた。そんじょそこらの男なら、まさか放ってはおけないような……エースの言葉を借りるなら"出るとこが出た"というやつだ。すらりと伸びた四肢に皮下脂肪は少なく、きゅっと引き締まったウエストには指を滑らせてみたくなる見事な曲線がある。肉欲的な部分を引いたって、彼女の美貌は本物だった。
 しかも多感な時期に間近で見続けた美人が四皇の船に乗るあのナースたちだ。武装のような美、男に媚びるために引かれた紅などなく、突き放すような冷たさを備えた艶やかさ——勝ち気で華やかな女豹たちである。こんな強烈な美女と生活をともにし、少なからず教えを説かれたとあれば、美の価値観も多少なり日本離れする。圧巻の美をお手本とした彼女も並みではなくなる。
 つまりナマエはとんでもなく綺麗になっていたのだ。
 エースもまたとんでもない美女らとひとつ船の上で生活をする男の一人だったおかげで、多少の耐性があったが。それでもぽや…と気持ちが覚束なくなるような魔性を彼女に感じていた。

「エース、シャツのボタン留めてね」
「おう」
「日本じゃちょっと目立つからね、腰のナイフと首飾りと…えと、ログポースも鞄に入れておこうね」
「おう」
「帽子は、まあ…海だし、いいか」
「おう」
「大丈夫? 聞いてる?」
「おう」

 見惚れてあんまり聞いていなかったが、大人しくナマエの指示に従って身なりを変える。結局シャツは腹あたりのボタンをふたつしか留めなかった。

「アッ」
「え?」
「ピアス、耳の、それ」

 エースは自分の耳とナマエの耳を交互に指差して興奮した様子で言った。すぐに合点がいったナマエは、髪を耳に掛け直し、シンプルな赤い一粒ピアスが見えるように顔の角度を変えてみせる。

「似合う?」
「おれの見立て通りだな!」
「ふふ、やっと着けられるようになったんだよ」
「もう痛くないのか?」
「うん」

 ちっともね。耳たぶにそっと触れるエースの指先に彼女はそう微笑んだ。
 好いた女が自分の贈り物を身につけてくれているという事実に、エースは言いようのない感動を覚えた。胸がいっぱいになる。しかし気の利いた言葉が浮かばず、愛おしげに見つめるばかりだ。
 言葉などなくとも事足りるほどの眼差しだった。

「えと、それで、ここへはどうやってきたの?」

 この熱視線にさすがに照れたナマエは本題という声色で肩を寄せて尋ねた。ナマエはエース以外のみんなに会えることも期待していた。海を見る限りモビーディック号の影はない。気になることはたくさんあった。
 この問いに対しエースは。

「え? あァ、遭難した」

 と、伸ばした手を引っ込めて笑顔のままあっけらかんと答えた。
 ぱちくりと言葉を失くすナマエを放って彼はローストビーフをもぐもぐ食べながら事の顛末を語る。

「——そんで浜辺で目覚めて……とにかく腹が減ったんで、ちょうど見つけたこのレストランに来たわけだ」
「し、死にかけてるじゃん……」
「いやー危ういところだった。なんだったんだろうな、あの嵐は」
「呑気に食べてる場合じゃないよ!」
「こうして会えたんだからいいじゃねェか」
「う…うん……それはまぁ……あ、ストライカーは?」
「幸い壊れた場所はなかった。いまはあそこの端に移動させてる」

 あそこ、とフォークで指された先は岩陰だった。その端というのでかなりの死角にはなっている。

「問題はこっちだ」
「?」

 エースがポケットから取り出したものをゴロンとテーブルに広げた。
 ぐるりと渦をまく貝殻と小さな紙片が一枚。

「これは……」
「子電伝虫とオヤジのビブルカード……見ての通り、使いもんにならねェ」
「えっ」
「帰りの航路が分からなくなっちまって参ってるところだ」
「ログ…、ログポースは?」
「指針はフラフラでどこも指さねェ」

 ほら、と鞄にしまったログポースを出して揺らすと針は傾きに任せてゆらゆらと揺れた。貝殻をつついたり穴を覗いたりしても、電伝虫は顔を出さず沈黙している。ビブルカードは言わずもがな、微動だにしない。
 絶句するナマエに「焦っても仕方ねェよ」とエースは存外落ち着いていて、今度はロコモコ丼を手前に引き寄せて食べ始める。
 窮地は窮地だが、今すぐ死ぬような状況じゃない。命さえあればどうにでもなると思っているのだ。それくらいの肝っ玉がなければ、カナヅチの身でありながら小船一艘で大海原には繰り出すことなどできまい。
 その後、ヤスコさんが残りの料理を運んできて、エースが黙々と食べ進める傍ら、ナマエは口元に手を当ててじっと考え込んでいた。時折スマホを取り出してなにやら操作する。エースはなにか考えてんなァ……と横目で見ていたが、とりあえず空腹を満たすことに専念した。
 再び彼女が口を開いたのは、エースがすっかり食べ終えた頃である。エースの顔をス…と真剣な顔つきで見つめ、背筋を伸ばして向き直る。
 そして。

「よし、帰り道が見つかるまで、今度は私がエースの世話をする」
「ん?」
「まかせてね」

 そう頼もしく宣言した。

 異世界にきて途方に暮れていたナマエにエースは手を差し伸べてくれた。
 今度は彼女が彼を助ける番なのだ。


***


 約束通りそのまま仕事を上がらせてもらったナマエは、荷物を片手に店の前でエースと落ち合った。

「お待たせ。ストライカーってどこ?」
「ストライカーなら向こうだぞ」
「じゃあまず船を動かそう。下手に置いといて放置船で通報されると困る」
「通報? 海軍がいんのか?」
「いないよ」
「? いねェのか?」
「うん、いない。警察はいる」
「?? そうか」

 きょとんとするエースをよそにナマエはテキパキと動いた。
 聞く限り、こちらへやってきたタイミングはなかなか突拍子もない。ということは帰るタイミングも突拍子もないかもしれないということだ。どれくらい長い間、ストライカーを隠すことになるか分からない。あの船はエースが家族の元に帰るための大切なものだ。安全な置き場所を確保しなければならない——……彼女はストライカーへ向かいながらエースにそう説明した。

「隠すって、アテがあるのか?」
「木を隠すなら森だよ。向こう側に知り合いの貸しボート屋さんがあってね、そこに話をつけておいた。しばらく置いててもいいってさ」
「へえ……そりゃありがてェ」
「うん、すごく良い人なの、あとでよくお礼を言わなきゃ」

 そう微笑む彼女の横顔を眺め、サクサクと砂浜を歩きながらエースは「4年」と考えた。

 エースにとって17歳から20歳までの人生は激動だった。
 3年間で色々なことがあった。世界を知り、驕りと挫折を知り、仁義と尊敬、愛情を知った。その中には彼女との出会いももちろん含まれている。3年だって何もかもを変えるのには十分すぎる時間だ。ましてやさらに1年長い、4年間。
 4年という月日の中で、彼女の気持ちはどうなったのだろうか。穏やかな陸での暮らし、新しく築いた人間関係や生活もあるのだろう。
 もしこの年月の間に志す道や大切にしたいものができていたとしたら……また自分とともに海に出る道を、無法者たちとの船旅を選んでくれるだろうか。

 ナマエにまた会えて嬉しかった。
 息災な姿を見られて心から安堵した。
 では、それからは?
 この先は?…

 ナマエが出したどんな答えにも、おれは頷いてやれるんだろうか。

「あ、見えた!」

 ナマエがタタッと駆け出した。
 海岸の端、海遊エリアからずいぶん外れた人の寄りつかない岩場である。特別な用事がない限り足を踏み入れようとも思わない岩陰の向こうに、黒い帆が畳まれた帆桁は見え隠れしていた。

「船回してくる。ここで待ってろ」

 エースは足場の悪い道をすいすいと進んでいってストライカーへ到着。繋いでいたロープを片付けて、船を動かそうとしたのだが。

「……?」
「どうしたの?」
「……、あれ、…」
「エース?」
「…………」

 エースは静かにストライカーの上でちゃぷちゃぷと波に揺られていた。
 首を傾げながら手を握ったり開いたりして…また首を傾げて眉間に皺を寄せる。その不可思議な様子にナマエも首を傾げるばかりだ。
 エースは一度マストを見上げ、意味もなく水平線に目を向けたりしてから、ゆっくり振り返った。

「……炎が出ねェ」
「……え?」
「どうやっても能力が使えねェ。おっかしいな…飯食う前は確かに炎になれたのに……これじゃあ船を動かせん」

 いや参った、と後頭部をぽりぽりと掻くのだった。一拍遅れ、ナマエも事の重大さに打ち震える。

「ほ、炎になれないの? ほんと?」
「うん、サッパリだ」
「そ…それは…………困ったね……」
「困ったなァ……」

 帰り道も帰る手段も座礁してしまった。いよいよ芳しくない状況だ。
 何度も試してみるが炎は出ず。エースはうーー……んと唸ったあと「マ、出ないもんは出ないんだ。じたばたしても仕方ねェ」と切り替えた。当の本人がこの様子だから自分ばかりが気を揉んでも仕方ないかとナマエも気持ちを持ち直す。

「うーん、じゃあハジメさんにこっちまで船を引きに来てもらうしかないな……」
「ハジメ?」
「貸しボート屋さんの人」
「おお」

 いつの間にか船が流されてしまっていたという体にし、ナマエはスマホでハジメさんに連絡を取った。幸いすぐに来てもらえることになった。
 「その板なんなんだ?」とスマホについて尋ねてきたエースにナマエは隣に腰をおろしてこれはね、と説明してやる。ハジメさんがくるまでの時間潰しであったが、彼はすぐに現れた。一艘のモーターボートが飛沫をあげながらこちらに来るのが見え、操縦席から身を乗り出して「ナマエちゃーーん」とニコニコ力いっぱい腕をブンブン振っているのがその男だ。
 ボートは減速し、ナマエとエースのいる岩場へ停泊した。

「ナマエちゃん! お待たせ!! ……? その人だれ?」
「ハジメさん、わざわざありがとうございます。えと、この人が船の持ち主で……」
「こりゃどうも、突然世話かけてすまねェ。おれはエース、よろしくな」
「あ、ドモ、ハジメっていいます。よろしく」

 二人は握手を交わし、早速ストライカーを牽引していくこととなった。
 船の保管料を払うと申し出たが、ハジメさんは「ナマエちゃんからのお願いだから」「おれが好きでやってるだけだから」と鼻の下を人差し指で擦るばかりで頑として首を縦には振らなかった。
 モーターボートで向かった先でナマエちゃんと肩を寄せてスマホを見ていたこの男が何者かはよく知らないが……彼女の知り合いなら悪い人ではなかろう。現に何かにつけて礼儀正しく頭を下げてくれるエースには好感が持てた。助かるよと笑うエースは飾り気がなく気さくで、整った顔立ちをしていた。惚れ惚れする体格の良さは綿のシャツ越しでも分かる。男から見てもかっこいい男である。だからハジメさんは、単純にエースとも仲良くなりたいなと思っていた。
 
 ハジメさんは、貸しボート兼マリンレジャーグッズのレンタル屋を取り仕切っているお兄さんである。浜辺によく似合う褐色の若者で、平たく言えば絵に描いたような陽キャ。美人に弱いのは古今東西の理なのでナマエにもなにかと甘い。遠距離恋愛の彼氏の存在はかねがね聞いているが、ひと夏の恋も大歓迎な血気盛んな夏男だ。
 エースの登場によりその可能性が完全になくなったことを彼はまだ知らない。


***


「筋肉が一番のファッションって本当なんだね……」
「なんだそりゃ」

 食糧品のほか、日用品や衣料品の取り扱いもある大型スーパーにて、ナマエはエースに服をあてがっては慄いていた。
 なんの変哲もないシンプルなTシャツもエースが着るとなにだか格好がつく。どれもこれもノーブランドなのに。ここは世のお父さん世代が着るような服が並ぶ一角だというのに。

「やばい、なんか色々着せたくなる……あ、これ、これどう」
「寝る時の着替えだけでいいんだろ? 堅苦しくねェならなんでもいい」
「ちょっとエースまっすぐ立ってて」
「買い物ン時のクロエみたいだぞ」
「うそ……これもかっこよくなるの……? 単なるグレーのスウェットだよ……?」
「だめだ、聞いちゃいねェ」

 放っておいたらいつまでも着せ替え人形にさせられそうだったので、エースは適当なTシャツとズボンを数着ずつ買い物かごに放り込んだ。ついでに替えのパンツも。寝る時の着替えだけを、という話だったがこれで当分の着替えはなんとかなるはずだ。服の買い物はここで終わらせようと決めて、そのように動いた。
 一応値札を見て値が張らないものを選んだ。昼間のレストランのメニューを見てあれっと思ったが、通貨がまるで違うことにはエースも薄々気づいていた。しかし、レートは大体同じなようだから高い安いの感覚は分かる。ベリー紙幣は持っているがここでは無一文と同義なのである。いつまでの滞在になるか分からない以上、金の負担はかけたくない。申し訳ないし、奢られすぎはカッコ悪いから。

「別のところに買い物行こうね」
「いやいい、何着もあったら荷物になるしよ」
「そういわず試着だけでも」
「マジでクロエそっくり」
「ううう」

 だんだん楽しくなってきていたナマエは口惜しそうにエースのうなじをちろちろ見て今日のところは諦めた。

「歯ブラシのほかになにか買っておきたいものある?」
「あー……髭剃り?」
「あ…そ、そっか。えと、こっちの方かな」
「おう」

 売り場に案内し、腰を屈めて商品を選ぶエースの背中を盗み見て、どきまぎしながら視線を斜め上に逸らす。
 髭剃り、そうか、必要だよね。男子特有の必需品の名が出て少しドキッとした。女のナマエにとっては盲点だったから尚更。髭、生えるか、そうか。と。何度も無意味に繰り返してドキドキした。男性を家に招こうとしていることを今さら自覚したのだ。
 モビーディック号でも同じ部屋で寝泊まりしたけど、風呂やトイレはまったく別だった。食堂は広かったし、壁一枚を隔てて知っている人がたくさんいる共同生活の中での一場面であった。……今度は?
 二人で暮らすには少し手狭なワンルームの自宅を思い浮かべ……。

「どうした?」

 I字カミソリとシェービングクリームをかごに入れたエースがナマエの顔を覗き込んだ。
 ナマエはキュッと口を結んで、たいへんなことになったかも! と思うのだった。


 会計を終え、店を出て再び帰路につく。
 コンクリート造りの街並み、電飾や電光看板がひしめくビルや店、往来する自動車、上空に巡らされた電線……あちこち物珍しげに見ながら「なんだありゃ」「変なのがある」「不思議メカだ」とエースはナマエの気も知らず、呑気で賑やかである。よそ見をしつつナマエの後ろをちよちよ無防備についてくるその姿はまるで雛鳥のようでかわゆく、ナマエは面倒がらずひとつひとつに丁寧に答えてやった。
 おかげで家に着く頃にはだいぶ緊張も解けた。エースは本当に困っているんだし、こんなヨコシマな気持ちでいてはエースに悪いと、日本人特有の生真面目さを取り戻したのだった。

「まずはお風呂入ってね」

 ナマエは自宅につくなり、綺麗なバスタオルとタグを切った着替えをエースに差し出して彼を風呂場へ押し込んだ。ボディソープやシャンプーのボトル、シャワーの使い方などの説明を一通りおこない、しっかり洗うのよと扉を閉める。
 あまりの手際のよさに「一緒に入ろうぜ」とからかう隙もない。エースはモビーや島の宿屋にあるそれとは広さも設備も清潔感も違う風呂場を見回し「はぇ……」と気の抜けた声をひとつ出したきりだった。

 ナマエはエースが風呂に入っている間に洗濯機を回し、少し離れた場所にあるショッピングモールを検索して順路も確認。足りない物資はないか、しばらく暮らすとなると予算はいかほど、明日からの予定は。……
 やることはいっぱいある。4年以上一人で生きてきた彼女は二十歳にしてはしっかりしすぎているほどで、まして成人したいま、出来ない手続きの方が少ない。頭の中で算段をつけて、必要なあれこれを弾き出す。分からなければすぐに調べて頭を整頓する。悔しいほどに逞しく、デキる女なのである。
 なので、エースが風呂から上がってきた頃には今後にまつわる様々に見通しをつけ終え、今日の夕飯を思案していた。
 スマホをこてこていじって何がいいかしらと一生懸命唇を尖らせている。

「風呂上がった。ありがとう」
「んー……どーいたしま……え、わっ、キャーーーッ」
「なんだよ」
「服! 服着てよ!」
「着てるだろ」
「上も! 着替え渡したよね!?」
「あちーんだよ。つーか、別に騒ぐことないだろ」

 今さら、と鼻で笑った上裸のエースはタオルでがしがしと髪を拭きながらナマエの斜向かいにどっかりと座った。4年ぶりの、しかも湯上がりの上気した肌は目に毒だった。ベッドを背もたれにしたローテーブルの向こう、ナマエは立てた膝を限界まで胸に寄せてムム…と拳ひとつ分後ずさる。裸族め……とスマホを握りしめる指先はうっすら白い。
 広げたバスタオルを肩に掛けたエースが「すまほ? だっけか? それ」と指さす。なにやら調べ物ができる便利な道具、という認識は持っていたので彼女が何をしていたのか気になったのだ。
 ナマエはスマホの下の辺をテーブルにくっつけ、紋所のように画面をエースに向けた。

「焼肉」
「お」
「食べ放題」
「おお」
「で、検索すると」
「おおお……お?」
「……んとね、この赤いピンが刺さってるところがお店。写真見る?」
「うわ美味そ……すげーなこれ。どういう仕組みなんだ?」
「んふふ、さすがに私もわかんない」

 適当な店をタップして細い指でスクロール。エースは重ねた腕の上に顎を乗せてスマホの画面と顔の高さを同じにし、液晶画面に現れる焼けた肉の画像にほうと息をついた。
 この好反応を見て今日の夕飯は焼肉に決まり、結果、食べに行った店で出禁をくらった。当然というか想定通りというか、覚悟の上での来店だった。
 エースの食べっぷりはフードファイターさながらで、途中からギャラリーができていたくらいだ。引き攣った店長の顔が忘れられない。
 家に帰れば並んで歯磨きをした。ひとつのコップに色違いの歯ブラシを2本立てかける。ナマエが風呂からあがる頃には部屋はしんと静まり返っていた。応答のない部屋にナマエが洗面所から顔を出すと、エースはベッドで薄く口を開けて寝ていた。
 そういえばこの人、今日遭難してたんだっけ。一人で嵐と奮闘したのだから溜まった疲れもあろう。人は元来、腹の皮が突っ張ると瞼の皮がゆるむようにできているのだし。
 そっと近づいて寝顔をうかがい、その穏やかな寝姿に彼女はなんだかキュンとする。

「おやすみなさい」

 四肢を投げ出して安心して眠るその姿が愛しくてナマエは頬にキスを落とした。そしてベッドのすぐそばに座り込んで、頬に散るそばかすや伏せられた短い黒いまつ毛をジッと熱っぽく見つめるのだ。

 寝込みを襲ったと難癖をつけられてもいい。
 倍返しをされても構わないと、彼女は思っているから。