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 米が炊ける匂いで目覚めた。
 エースは薄く目を開け、見覚えのない白い天井をぼんやりと眺めてふわふわ夢心地の中で好きなだけ微睡む。カーテンから透けた朝日が目にまばゆい。チチチ……と鳥のさえずりが聞こえる。ゆっくりと深く肺に空気を入れれば、花のようないい匂いもした。
 ゆるく瞬いて首を傾けると、細い背中が反対側を向いていた。髪がシーツに流れて白いうなじが見えている。エースはその背に身体を寄せ、髪の香りを吸い込んで目を閉じる。冷たい花の香りがした。

 穏やかな白い朝だった。



「いい? 前に言ったけど、こっちの世界には海賊はいないの。人前で言っちゃだめだからね」
「でもおれは海賊だぜ?」
「それでもです。海軍はいないけど警察がいます。どんな理由があっても基本的に相手をボコボコにした方が罰せられます。銃や刃物を持ってるだけでもアウトです」
「はあ……徹底的に無力な民間人のフリをしてりゃいいんだな?」
「そんなとこ」
「わァったよ」

 エースは大きく広げた片手でお椀のふちを上から覆うように掴んで味噌汁を啜った。よろしいと頷いて向かいに座るナマエも味噌汁に口をつける。みるみる減っていく彼のどんぶりの米を見て、昨日のうちに炊飯器のタイマーをセットしておいて正解だったなと思った。
 ナマエはバイトのシフトが入っているので今日はエースも一緒に出勤する。留守番はできる歳だろうが、異世界生活2日目で右も左もよく分かっていない彼を一人にするのは色々と気掛かりだからだ。

「ま、寄り道をせずに歩けばお店からここまで片道15分くらいだし……どうしても暇になったらウチ帰ってもいいから」
「ン」

 エースを連れて出勤した私を見てヤスコさんは「あら!」と嬉しそうな声をあげた。テーブルに逆さに乗せた椅子を降ろしながら、おはようエース君とニコニコしている。エースは彼女が降ろそうとしていた椅子を自然な流れで横取りし、目を細めて挨拶を返す。
 そのままほかのテーブルの椅子もさっさと降ろしてマガジンラックの隣の席を陣取った。そして勝手に雑誌を手繰り始め、ナマエと目が合えば一度肩をすくめてみせた。「ここで大人しくしてるよ」「だからいいだろ?」という仕草だ。
 ナマエはエプロンをつけて髪をひとつにくくり、ランチの仕込みに取り掛かった。

 ダークブラウンと白を基調としたログハウス風の店内はやや薄暗い分、窓から覗く海の青が一層映える。カウンターの中からテラス席へ目を向けると木枠に切り取られたそこが一枚の絵画のように美しい。ナマエはこれを気に入っている。
 店内にはFMラジオがかかっている。海が一望できるテラス席からは潮風が入り込み、ターコイズブルーの飾りがついたウィンドチャイムが時折透き通った青い音を立てる。
 潮騒。ラジオのパーソナリティの軽妙な声。包丁がまな板をコツコツ叩く音。ささやかな雑談の柔らかな響き。ページをめくる時の乾いた音。換気扇の振動音。…

 エースにとって静かに海のそばにいるのは久しいことだった。船の上では昼も夜も誰かしらが常に騒いでいるし、停泊中は彼も陸の酒場に出掛けてしまうことがほとんどだ。
 波の音を聞いた夜は、彼女と鯨の頭で星を見上げた時くらいだろうか。
 あのとき話してくれた店にまさか自分が来るとは思わなかった。雑誌に目を落としながらエースはそう思い、口の端が微かに上がった。
 彼女の思い出に触れられた気がして嬉しかったのだ。

 営業が始まり客が来ると、エースは気まぐれに店を手伝った。手が足りなさそうなら見よう見まねで料理を運び、皿を洗い、空いてる席へ客を案内した。一応店には接客のマニュアルがあったがエースは読む気もなければ、読んだところで守る気もない。敬語だって最低限しか使わない。それでも人に不快感を与えず、フランクで人懐っこい印象だけを残すのはエースの人柄の成せる技だった。
 客足が落ち着いてくればテラスの空席に座って、くあ…と大きなあくびをする。日本社会の一コマにいるエースは海賊船にいるときよりも自由奔放さが際立った。その悠然とした振る舞いは人に慣れた大きな虎のようである。

 誰にも捕まえられない、東から吹いて北に抜ける海風みたいに彼はそこにいた。



「エースってなんかスポーツやってた?」

 午後1時前、ハジメさんはエビドリアを食べながら少し離れた席にいたエースに突然声をかけた。

「あー。えーと。特には……でも運動神経には自信あるぞ」
「やっぱ? スゲェ筋肉してるし……なあ、このあと暇なら泳がん?」
「…海?」
「そそ、うちの店、マリンレジャー系のレンタルやってんだけど、サーフボードとかあるし。なんか遊ぼうよ。あ、水着ないよな、全然貸すぜ」

 どお? とハジメさんは高めのテンションで誘った。

 遅めの昼食を食べにきたハジメさんは、看板猫みたいに店に馴染んでるエースを見つけて密かにソワソワしていたのだ。
 雑誌を視線を落とす綺麗な横顔を見て、かっこいいなぁと。歳もそんなに離れてなさそうだなぁと。いい奴っぽいし、仲良くなりたいなぁと。
 だから声を掛けた。陽キャは仲良くなりたいと思ったら断られる不安など微塵も抱かずに真っ直ぐ声を掛けるのだ。別に断られたらそれだけのこと。気まずいとかは考えない。

 そんなハジメさんの誘いにエースはぱちくりと瞬いた。カウンターの中で食器を拭きあげているナマエを見やって「え?」という顔をしている。いいの? と。
 彼女もまた手を止めて、いいの? と間抜けな顔で瞬いていた。
 エースは「ちょ、タンマ」と言って席を立った。ナマエに近づいて声を潜める。"無力な民間人"としてなんと言って切り抜けるべきか分からなかったのだ。

「海……入って平気なの?」
「わっかんねェ……能力がないなら溺れもしない可能性もあるけど…こればっかりは試してみねェとなんとも……」
「……」
「……」
「……じゃあ…今夜試す?」
「は?」
「ハジメさんごめん、それ明日にしてもらってもいい?」
「おん? いいよー」

 ハジメさんは深く考えずに了承した。結果、ナマエにニコッと笑ってもらえたので「わ! 可愛い!」で頭の中をご機嫌一色にしてエビドリアの続きを食べる。今日は何か用事があるんだろう。明日、明日か。楽しみだな。と早速お天気アプリで明日の天気を調べている。
 ルンルンとスマホを操作するハジメさんのつむじを見て、エースは再びナマエに向き直って声を潜めた。

「試すってなんだよ」
「エースを水に浸けてみればいいんでしょ?」
「お、おう……?」
「まあ任せて」


***


 すげー市場だ……。
 今日は帰りにスーパーに寄って行くと宣言され、言われるがままついてきたが……エースはカートを押すナマエの後ろをポケットに両手を突っ込みながらプラプラ歩いてそう思った。
 昨日、服を買いに来た店ではあるが衣料品と食糧品は売り場のフロアが違った。
 新たに踏み入った食料品売り場は、どこを見ても新鮮な食材がきちんと整頓されて並んでいて、エースにとって圧巻だった。調味料や洗剤なども多種多様。昼のように明るい店内で物流の凄まじさを感じつつ、「サッチが喜びそう」と呆けて口を半開きにしていた。
 買い物して帰るってことは今日は家で食うのかな。なに作るんだろう。エースはソワソワわくわくしながらナマエの頭越しにそっとカートの中身を覗き込んだ。
 そこに入った食材を見て、ピンときた顔をする。

「ニクジャガっ?」
「へ?」
「ニクジャガだろ、今晩のメシ!」

 ナマエはきょとん…としている。
 だってカレーのつもりだったからである。
 今晩は大鍋で一度に大量に作れるカレーにしようと思っていた。惣菜の大判のヒレカツでも添えようかと。だからにんじん玉ねぎじゃがいもをカートに入れていたのだが、エースはそれを見てずっとお預けをくらっていた肉じゃがと早合点したらしい。
 なんとも可愛らしいことだ。そうなんだろ、合ってるだろ、と曇りのないキラキラした瞳がその微笑ましさを助長する。

「ふふ、正解。今夜は肉じゃがと焼き鮭だよ」
「やった!」

 そう言って彼女は絹さやとこんにゃくをカートに追加してやるのだった。
 明日はきんぴらでも作ってあげようかなとも思って。明日以降の献立も考えながら買い物を続けた。



 帰宅して一番にナマエは湯船に栓をしてお湯はりボタンを押した。
 ナマエはキッチンまで買い物袋を運んでくれたエースにお礼を言い、そのまま背を押してローテーブルの前に座らせ、「まあ寛いでて」と暇つぶしにテレビを点けてやる。こちらの情勢や文化を知れて丁度いいだろうとチャンネルはニュース番組に合わせる。
 エースはパッと映像が映ったテレビを見て、おもむろに振り返り何かを探すように首を伸ばし。もう一度テレビの方を向いて「……?」と目をぱちくりさせた。どうやら映像電伝虫を探していたらしい。その背中に「科学だよ」と声をかけてナマエは夕飯の調理に取り掛かった。
 買ってきたものをしまったり鍋を出したり野菜を切ったり。ナマエがぱたぱたと動いていると、早々にテレビに飽きたエースがのっそりとやってきた。

「10分も経ってないんですけど?」
「なんか手伝うか?」
「じゃあ冷蔵庫から麦茶出して」
「ん」

 ナマエは2つのグラスに麦茶を注ぎ、片方をエースに渡した。カチンとグラスを合わせる。彼女は冷たい麦茶を一口飲んで「暑かったね」と笑った。
 手伝おうと思ったのに、乾杯をされちゃあ飲むしかない。エースはやられたと思い、「そうだな」と素直に返事をしてグラスに口をつけた。
 麦茶のグラスに誤魔化されて仕方なく話し相手をしばらく務めていると、電子音のメロディのあと、機械的な音声が流れた。

「あ、お風呂沸いた。エース入ってみて」
「風呂?」
「うん。昨日入ったから分かるだろうけど、うち湯船も狭いからさ、さすがに溺れないでしょ。試してみて」
「なるほどな」

 善は急げと風呂場で意気揚々と服を脱いだエースも湯船を前にやや緊張する。
 掛け湯をしてからそろりと湯に足を入れた。まずは両足で立ってみる。膝下ほどの水位だが体感に変化はない。念のため湯船のふちをしっかり掴んで、慎重にゆっくりと腰を下ろす。エースの身体が湯に沈むのと比例して水位が上がる。膝を折り曲げ、尻が底についたのを感じて湯船に背を預ける。水面は胸の真ん中あたり。
 湯に身体が収まれば、浴室は一気に静かになった。

「……どう?」

 浴室の扉の向こうからナマエが声をかけた。

「……いい湯だ」

 エースは天井を見上げ、ため息のようにこぼれた締まりのない吐息とともに答えた。
 何もかもを無力化されるような、水に拒絶されるあの感覚はない。熱い湯は骨に染み入るようで、ただただ気持ちよかった。
 驚いた。こんな風に湯につかれるなんて、3年ぶりである。

「こりゃあ力が抜けるな……」
「えっ」
「あ…いや、違う……そういうんじゃなくて…あー……やべ、すげえ気持ちいい……」

 溺れないと悟ったエースは湯船にひっかけていた腕も湯の中にしまい、ずりずりと身体をずらして顎下まで湯に沈めた。ちゃぷんと音が立つ。その音すらも心地よくて彼は全身を包む水の感触に目を閉じた。
 とろっとした眠気が身体の中に流し込まれていくようだ。身体の端っこからふやけていく感じで、難しいことがちっとも考えられなくなる。

「身体全部、湯船に入ってる?」
「んー……」
「開けてもいい?」
「んー……」

 こうなっては何を話しかけても間延びした生返事しか返ってこない。特に緊急性のなさそうなとろけた声に大丈夫と踏んで、ナマエは少しだけ扉を開けてエースの様子を伺う。見下ろして湯船の中をうっかり見てしまったら困るからちゃんとしゃがんだ状態で。
 エースは気持ちよさそうに目を閉じたまま、濡れた手で撫でつけるように前髪を後ろへ流した。筋肉質の腕の先からつるりと湯が落ちる。

「平気そう?」
「気持ちいい」
「よかった」
「最高」
「そっか」
「寝ちまいそうだ」
「ふふ」

 湯船のふちにこてんと頭を預けたエースが「ひひ」と笑い返した。
 彼には珍しく、子供っぽい笑い方だった。

「なあ、今すぐ海行かねェ?」
「誰が肉じゃが作るの」
「あー……そりゃあ……困るな……」
「のぼせないようにね」
「おう」

 この調子だとしばらく出てこないだろう。ナマエはそっとキッチンに戻った。

 数十分後、ぽかぽかになって出てきたエースは相変わらずノーブランドの服さえも着こなしていた。オーバーサイズの白Tと黒のハーフパンツがなぜこうもかっこよくなるのか。理由なぞ惚れた欲目の一言に尽きるのだが、ナマエにはさっぱり分からず本当に不思議そうな顔をしていた。
 エースはテーブルに並べられた料理を見て嬉しくなり、手伝えることをなんとか探す。結局また麦茶とグラスを持たされたので大人しく運んで中身を注ぎ、にこにこしながら食事の席についた。両手を合わせて親指と人差し指の間にお箸を挟んでいただきますをする。
 そして念願叶った"ニクジャガ"を大きな口で食べ、咀嚼。

「……んまい!」

 と、パッと目を大きくして親指をグッと立てる。ナマエははにかんでピースで応えた。
 エースは茶碗を左手に常に持ち、気持ちの良い食べっぷりでどんどん皿を空にしていく。しかし、目を閉じてぐーっと眉間に皺を寄せてピタリと動きを止めることが何度かあった。何事か聞けば、意識が飛びそうになるのを根性で堪えているのだとか。せっかく一緒にいるのだからと。
 その表情や動きには見覚えがあった。2番隊が不寝番だったあの夜、そういえば繋いだ電伝虫が似たようなことをしていたような……。

「ね、不寝番の日、あったでしょ。私が夜食つくったあの」
「ああ、あの日な」
「食べてる途中、寝るの我慢してた?」
「? おう」
「そ、そうだったのね。私てっきり……」

 自分の料理の腕が未熟だったから……と思っていたが、なんてことはない。あれは彼の懸命な努力だったらしい。
 まさか4年越しに一人相撲が判明するとは思わず、ナマエは「……いっぱい食べてね。まだお鍋に残ってるから」と熱くなった頬に手の甲をあてて誤魔化した。

 鍋の分まで綺麗に食べ終えると、エースはさっと立ち上がってテキパキと片付けを始めた。休んでていいよの声を華麗に無視して、食器やグラス、鍋をシンクへ運ぶ。
 これ以上、麦茶を渡されて手伝いを躱されるのが嫌だったのだ。ナマエにはすでに十分すぎるほど世話になっているし、金がないなら働いて恩を返すしかあるまい。あれこれ尽くしてくれる彼女の気持ちは嬉しいが、それに胡座をかいていられるほどエースは図々しくはない。
 雑用ならモビーに乗ったばかりの頃に散々やらされた。彼女の様子も見ていたのでどこに何を置けばいいかなどもなんとなく分かる。だから勝手にやっちまえというわけだ。ちまこい手で服を引っ張られても別に支障のひとつにもならないし。というわけで、エースは泡立てたスポンジで黙々と、丁寧に食器を洗っていく。
 その固い意思にナマエは観念して、方向性を180度転換。エースの背中にくっついてじゃれた。背中にぴたりと頬をくっつけて、腰に腕を回して「全然聞いてくんない」とぼやく遊びをする。
 エースは背後に感じる柔らかで温かな肉の感触に全意識を持っていかれながらも、じっと耐えて泡だらけの手を動かした。ずいぶん険しい顔をして歯を食いしばる。衝動的に動いてしまわぬよう、青筋を立てて身体中を制御する。
 頭の中で「覚えてろ!!」と大音量で叫びながら、「泡つくから離れとけって」となるべく落ち着いた声音で以て、子犬のように無邪気な彼女をあしらった。

 エースはなんとか皿洗いを完遂し、台拭きでローテーブルを拭き、それをキッチンのシンクのふちにぽと……と置き。
 ずっと腰にくっついて邪魔していた彼女の身体を引っ剥がして、正面から覆い被さるように抱き締め返してやった。

「きゃっ」

 185cmの体躯に抱き締められればなす術もない。押されるがまま、背骨がしなって上手く立てない。がっちり回された腕のお陰で転ばないまでもバランスが取れず、苦しい体勢になる。
 さ、鯖折りだ! と彼女は身の危険を感じつつ、ワアワア言いながらエースの身体に必死に縋り付いた。

「ったく、散々邪魔してくれやがってよォ」
「あっ、あっ」
「良くねェことだと思うぜ? マジメにやってる人間に対してさ」
「あ! や、あ、あははは、待っ……!」
「ほんと信じらんねェ」
「く、くすぐらな……んん、あは、っ、」
「おれは恩返しがしてェだけだったのに」
「ご、ごめんなさ、エースあ、もう……!」

 エースは抱き締めた体勢のままズンズン前進するので、ナマエは半ば引きずられるようによたよたと後ろ向きに歩く羽目になる。わきわきと動く彼の指先にくすぐられ続けすっかり涙目だが、眉を下げて大きく口を開けてアハアハ笑うその顔は楽しそうである。
 トン、とベッドのへりに膝の裏が当たると、彼女は呆気なくベッドに転がった。絹のような髪がベッドの上に散らばる。手を離すかと思ったが意外にも彼女はしぶとくしがみついていた。なのでエースも押し潰さないように肘をついてベッドの上に乗り上がる。
 ナマエは目を閉じてエースにくっついたまま、笑い過ぎて乱れた息を少しずつ整えた。

「反省したかよ」
「した……」
「懲りずにやれよ」
「うん、する……」

 お互い楽しかったらしい。
 4年と2ヶ月。差はあれど、互いに焦がれた二人である。
 このくだらなさが一等身に染みて幸せだった。何の役にも立たない話を、夜通し肩を寄せてしていたい。楽しいだけの無益な時間の使い方が二人にとってはなによりの贅沢で、幸いなのだ。
 そうしてしばらくクスクス笑い合って。

「はー……エースだあ……」

 湯に浸かるような声で。

「4年…長かったから……声も顔もね、忘れてなくて、よかった……」

 と、彼女は右の目尻から涙がほろりと流した。それが頬を伝って耳のふちを濡らしていく。
 本当によかった。
 ほん…ほんとうに……。
 喋るたびに涙もほろほろ溢れた。初めは笑った顔で口調ものんびりした感じだったが、話しているうちにじわじわと感情が込み上げてゆく。
 そして、彼女は言葉を詰まらせ…くしゃっと顔を歪ませた。


「さみしかった…………」


 消え入りそうな切実な呟きを皮切りに、次第に嗚咽を堪えられなくなる。背中に回された細い腕に力がこもり、ぐー……とエースの肩口に額を押しつける。

 昨日今日と張り切って動き回っていた緊張がひと度緩めばこうもなる。恨み言のようにはしたくないが、この4年の寂しさは耐え難いものだったし、少しずつ記憶が薄れていくのは恐ろしかった。手元に残せたビブルカードとピアスだけが彼女の拠り所だった。
 誰にも言えず溜められてきたブルーがエースを目の前にしてようやく解放されたのだった。

 エースはその涙にギョッとして、彼女の身体を起こしてやる。
 顔を覗き込むように背を丸めて首を傾け、何度も名前を呼びながら濡れた頬を親指の付け根辺りで拭った。拭っても拭っても溢れてくるから、手のひらの乾いた場所を探して何度も拭った。結局手の甲まで使った。
 彼女はいま、感情が洪水のように渦巻いてうまく言葉が出ない。ナマエはエースの服の端をつかんで、えぐえぐぽろぽろとひたすら泣いた。鼻頭を赤くし時折「うーっ」と唸る。

「ナマエ」
「ご、ごめん、泣きやむ…から、待って……」
「いや、いい、いいからこっちこい」
「ぅ」

 エースは子供みたいに泣きじゃくる彼女の手を引き、なるべく優しく、でも強い力で抱き締める。
 頭の中にチカチカと火花が散るようだった。

 好いた女を泣かせるなんて不甲斐ないと思う。
 その反面、こうして惜しみなく泣いてくれることを、エースは喜んでいた。
 本当にどうしようもない男だと思う。自分の居ない4年間に傷ついてくれたことが嬉しいだなんて。心から労わり言葉を尽くして謝りこそすれ、嬉しいなどと。どう考えても歪んでる。自分はなんて性根の腐った男なのだろう。
 しかしやはりどうにも嬉しく思ってしまうのだ。だって、この世に自分に愛を貫いてくれる人間がいると、いま目の前の彼女が証明してくれた。
 それがどれだけエースの心を揺さぶるものか。

 オヤジに捧げた命と思った。
 だが、いま分かる。
 きっとおれはこいつにも全てを費やすのだろう。

「待たせてごめん」
「いいの……」
「待っててくれてありがとう」
「うん……」
「泣き止むまでそばにいる」
「ん……」
「泣き止んだあとも、そばにいる」
「必ずよ……」
「おう」

 抱きすくめて余りあるこの小さな身体に納まる命を、エースは心から愛しいと思った。