49
車内は座席が空いていたが、エースはドア横の手すりにつかまって外の景色を眺めていた。扉のガラスには幾筋もの雨が流れている。
「スピードのわりに揺れねェもんだな」
「そう?」
「海列車はもっとガタガタしてた」
「えーと、蒸気船なんだっけ。そんなに揺れるの?」
「ああ、デュースなんか酔って吐いてたし」
えらい違いだわ、と吐息で笑う。軽く腕を組んだエースは左肩を扉に寄り掛けた。ガラスに頭を預け、再び外の景色を眺める。ガラスの外側についた水滴が光を含んで、そばかすが散る頬を仄明るく見せる。電車の振動に合わせて彼の前髪が揺れていた。
今日は朝から雨だった。
バイトはなく、この天気ではエースも走り込みに行けない。薄暗い早朝の光の中、やさしい雨の音を聞く。二人はお互いの足を意味もなく絡めたり惰眠を貪ったりと、いつもより怠惰にベッドの中で過ごした。
結局腹の虫に起こされてベッドを出る。二人分のホットコーヒー、焼きたてのトーストが何枚も乗った皿、それとママレードジャム。それらを床に直接置いて、ベランダの窓を開けて少し行儀の悪い朝食とする。
時折吹き込む雨につま先を少し濡らし、しとしと降り続ける雨の景色を、二人は肩を寄せてぼーっと眺めていた。
水を含んだ空気と雨の滴る音、窓から見える濡れた木々の織部の緑がいやに肌に馴染む。二人は会話もなくぽや…とした心地でいた。触れ合った肌は服越しにも暖かく、お互いがお互いの温度に微睡んでいた。
「散歩いく?」
「……ン、行く」
エースはゆるく目を閉じ、のし…とナマエに寄りかかり、体全部で返事をする。彼女は彼の重みを受けとめ、じゃれつくコタツの姿を脳裏に浮かべた。
電車で遠出をと話していたことを思い出し、切符を買って電車に乗り込んだのだ。
出掛けたものの特にプランはない。とりあえず大きな駅まで行ける切符を買い、その時きた適当な電車に乗った。
数駅を過ぎた頃。電車がスピードを緩め、もう間もなく次の駅に到着する旨の車内アナウンスが流れる。その時、窓の外を眺めていたエースが不意に「あ」と声を漏らした。遠景にある一箇所を追うように視線が動く。
「ナマエ、ここで降りてもいいか?」
「いいけど…大きい駅じゃないよ?」
「ちらっと鳥居が見えた」
「鳥居? 好きなの?」
「や、近くで見てみたいだけ」
というわけで、大きな駅の数駅手前、店もなさそうな小さな駅で降りる。エースは人気のない改札を抜けてぐっと伸びをすると、ふらりと…しかし迷わず進んでいった。
ボッと開いたビニール傘の下、緑雨の中。エースが手招きをする。
シンプルな人だ。
行きたい場所、見たいものに向かって歩いていく。益になるかとか道のりだとかその後の予定だとか、そういうものはほぼ度外視である。シンプルでいいと教えてくれたのは、この人だ。
こうして旅をしてきたんだろう。
こうして旅をしていくんだろう。
ナマエは自分の傘をポンと開き、エースの隣を歩いた。
車窓から見えたという鳥居を目指す。
エースは人気のない方、緑が滴る道を選んで歩いているように思われた。雨の往来はしっとりと静かである。雨粒が傘や木の葉を叩く音と靴音ばかりが聞こえる。
彼は見えた景色から当たりをつけてはいるが、道に迷うことは気にしていない様子。時間制限があるわけじゃなし。ナマエも気にせず散歩に耽った。
青葉の簾が涼やかな翡翠の小径を雨につま先を濡らして歩くこの時間がなにだか心地良かったから。
そうして会話もまばらにしばらく歩き。
「お、着いた」
エースは傘の端を持ち上げて、左手側を見上げてそう言った。
緩やかな石段の先に石造りの鳥居が立っている。しめ縄が巻かれ、鳥居の上部中央には草書体の神額が掲げられている。階段の脇には左右対称に灯籠が並ぶ。雨に濡れて鳥居も石段とその色を濃くしていた。
石段を登り、鳥居の前で立ち止まる。
「……少ないな。鳥居ってもっとズラズラ立ってるもんかと……」
「そういうのもあるけど……大体こんな感じよ」
「おれが鬼ヶ島で見たやつは上に龍の像が乗ってたぜ」
「りゅ、龍? 鬼ヶ島?」
「龍はぶっ壊しちまったけど」
「壊……な。なんて罰当たりな……神社は神様のおうちのようなものよ」
「神様ァ? ハッ、あんな野郎がカミサマかよ。やっぱりあれはぶっ壊して正解だったな」
エースは赤いツノを生やした大“男”の笑顔を瞼の裏に浮かべて静かに笑った。
腰に手を添えて鳥居をしげしげ見上げる。
「マしかし、ここのカミサマに恨みはねェ。神なんか特に信じちゃいないが……郷に入っては郷に従えって言うしな。なんか作法とかあるか?」
「あー、ええと、鳥居をくぐる前に一礼して……参道の真ん中は歩いちゃだめ、神様の通り道だから。端を歩いてね。それから、あそこ、手水舎でまずは手を洗います」
「チョーズヤ……? わかった」
小さな神社ではあったが、雨の空気も相まって木造の拝殿は荘厳な雰囲気であった。
水盤の水は清く、竹筒から絶えず注がれる水でその表面はゆらゆらと柔らかく歪んでいる。
傘を閉じ、エースはナマエのやり方を真似ながら手と口を清めた。
「参拝してく?」
「サンパイ?」
「神様にお祈りすること」
「あいにく神には祈らねェ主義だ」
「エースらしいね」
「ナマエはサンパイすんのか?」
「ご挨拶くらい」
「……挨拶ならしとくか」
あそこだよ、と示された先を見て、エースは傘もささずに手水舎から拝殿へ小走りで向かう。もともと海賊には傘をさす習慣はない。こうしてふとした時に体に染みついた癖が出る。
きれいに忘れ去られた彼の傘を持ってナマエも拝殿へ向かった。賽銭箱や本坪鈴を物珍しそうに眺めるエースに今度は二礼二拍手一礼の拝礼作法を教える。
「お賽銭しよっか。……あ、ちょうど五円玉ある。はい」
「これっぽちでいいのか?」
「五円玉はご縁がありますようにってことで縁起がいいんだよ」
「ハ、ダジャレか。景気がいいんだか悪いんだか」
「お賽銭は気持ちだからいいの」
エースはナマエが選んでくれたなるべく綺麗な五円玉を受け取る。
馴染みのない文化だ。ワノクニにもあったのかもしれないが、それには触れぬまま出航してしまった。イゾウはこういうのも知ってんのかな、と頭の隅で思う。
「ナマエんとこのカミサマはなにかと作法がややこしいんだな。さぞ願いを叶えてくれると見える」
「んー、お願い事してもいいんだけど、どちらかというと日々見守ってくれることへ感謝したり……自分の決意表明をして心を新たにするんだよ」
「決意表明?」
「自分はこんな風になってみせるから見守っててください、って感じ」
「ほお」
それは悪くない。
エースは正面の拝殿を見上げ、決意表明…と口の中で呟く。
「最初に簡単に名乗って、日頃のお礼と決意表明、ね」
「ん」
ナマエが賽銭箱に五円玉を放る。エースもそれに倣う。
ナマエが鈴緒を指差すので、エースはガランガランと鈴を鳴らす。
ナマエが二礼、エースも一瞬遅れて二礼。二拍手は同じタイミングで。
手を合わせたまま目を伏せて拝む彼女の横顔を見て、エースは鼻からゆっくり息を吸って拝殿に向き合う。
「——おれは白ひげ海賊団2番隊隊長、ポートガス・D・エース。日頃の礼っつってもおれはここに来て日も浅いからな……まあ、船もおれも無事に浜へ流れ着かせてくれてありがとう」
静かな声で語り始めたエースにナマエは少し驚いたが、まあいいかとそのまま耳を傾ける。
彼はなにを祈るのだろう。
「おれは決して人生にくいは残さない。おれはまた、あの海へ帰る」
シンプルで力強いその言葉を噛み締め、ナマエは「やっぱりエースだなぁ」と微笑む。
「それと。おれは一生、この子と居るよ」
するりと続けられた言葉に、ナマエは思わず目を開けた。心は驚きに満ち、ゆっくりとエースを見上げる。
彼の熱量のある眼差しは、真っ直ぐ前を向いていた。
「い。いっしょう……」
「一生だ」
「いっしょう……」
「男に二言はねェ」
エースは前を向いたまま、言い切った。
木製の格子戸で覆われた拝殿の中は暗く、人の気配はもちろんないが、彼の口ぶりは本当に神様に語りかけているように真摯だ。
ナマエはその言葉を受け…鼻の奥がツンとした。目の端が滲む。じんわりと頬が染まる。
もじもじと俯いて熱い頬をそのままに、感動に胸を詰まらせている。
エースが一礼し、ナマエも慌ててぺこりと頭を下げると、彼はようやく彼女に体ごと向き直った。
唇を真一文字にし、眉間にはちょっと皺を寄せている。なかなかに真剣な顔で、まだ油断をしていない顔だ。ナマエはすでに胸を熱くし、感激の涙すら浮かべているが、エースにとってはまだ話は終わっていないらしい。
むんずと彼女の手を取る。今のはあくまで神様とやらへのサンパイで、己の背筋を正すための決意表明だから、エースは今度こそ“彼女に”伝える。
「ナマエ、おれと来てくれ」
真剣な熱い瞳が彼女を射抜く。
「確かにここは居心地がいいよ。風呂ン中みてェにあったかくて……気が抜ける。でも、やっぱりここはおれの居場所じゃねェ」
「てめェの心に嘘はつけない。あの海には家族がいて、ついていくと決めた背中があって、兄弟に誓った夢がある。……だから、ここには居着けねェ」
「方法はまだ分からねェが、絶対に帰る。そのときは、ナマエにも来てほしい」
「それはお前がこの世界にあるもん、全部置いていくってことだ。おれがこっちを選ばねェから、ナマエにこっちを捨てさせる……そういうことだ」
「無理言ってんのは分かってるけど……おれはもうナマエと離れたくない」
エースは時折苦しそうに言葉を詰まらせながらも、芯の通った声でそう話した。ナマエは真剣な瞳を見つめ返し、ジッと耳を傾けていた。
エース、これにたどり着くまで随分と迷った。
思考が同じ場所をぐるぐると回り、ええい進めと号令をかけた矢先にいやでもと二の足を踏む。だけどやっぱりと躊躇った足を前に出し、数歩進んで来た道を戻りたくなる。そんな具合であった。
大抵の物事をスパンと決める彼には珍しいことだったが、それもそのはず。これはエースにとっての初恋だ。初恋の子をなんとか手中に納めんと勇んだり怯えたり息巻いたり萎んだり、彼の心はそこらの男同様、大忙しである。
彼女の幸せが何なのかを一生懸命に考え、あれこれ悩んでやるのがいつの世も恋人の甲斐性なのだ。
たどり着いた先、結局、エースの魂の形は海賊であった。
海賊という生き物は、欲しいものには容赦がない。
欲しいものには強欲に手を伸ばす。なにひとつ諦めず、結果がどうであれまずは欲張ってみればよろしい。
エースは唯一諦めていた“愛しいひとに愛されること”だって、諦めずに済んだ。ナマエはエースの腕の内側に居てくれて、エースがナマエを選んだように、ナマエもエースを選んでくれた。
夢見ることさえ躊躇っていた世界は上辺だけの甘美な妄想などではない。
エースだってそれに手を伸ばして、声を上げて欲張っていい——そう思わせてくれたのは、他でもない彼女だ。
ゆえにエースは今、彼女にこうして本望を吐露した。愛しいひとに「おれに人生を預けてくれ」と真正面から一世一代のわがままを言っている。
マァしかし。散々迷った過程に表れているように「断られるかも」という一抹の不安はあるし、豪胆な大海賊の彼にも臆病風は吹くもので。
握る手にキュ、と痛くない程度だが力がこもる。真一文字に結んでいた唇は、少しずつへの字の形に変わる。エースの男らしく熱い口上にひたすら心臓をドキドキさせていたナマエも微妙に変わった空気を感じ取って「……?」と上目遣いに瞬く。
「大事なもんはもう手離さないって決めてんだ」
「エ、」
「断ったって無駄だぞ」
「エース、」
「ウンっていうまでおれァ動かねェ」
「ちょっと待って」
「本気でごねるからな」
「聞きなさいったら」
「覚悟しやがれ」
「コラ」
断られたくなくて必死だった。
安っぽい脅しでも何でもいいからナマエに「ウン」と言ってもらいたい。かっこ悪くたっていい、たった一度、頷いてもらえるなら。
もし本気で断られたらエースは頭を下げて頼み込んででも連れ帰るつもりだった。それほどまでにエースにとって彼女を失うのは一大事なのだ。今後の色々に関わってくる。彼の明日を曇らせるのも輝かせるのも彼女次第なのである。
ナマエはエースが愛おしかった。恥も外聞も捨てて、すでに懐ききった自分をなんとか口説こうと奮闘しているこの男が。
ナマエは堪らずエースの胸にひしと体を寄せた。目を閉じて彼の胸の中、涙ぐんだ緋色のちいちゃな声で「うれしい」とお返事をする。
「私、エースと一緒にどこまでも行きたい。お願い、またあの青い海に連れ出して。——……ウンって言うまで、私、離れないから」
雨の降る小さな神社、神の御前で二人が贈り合った言葉は半ばプロポーズのような言葉だった。
***
“言霊”という言葉がある。
言葉に宿るといわれる不思議な力。口に出したことが本当になるという古来から信じられてきた神秘的な力。
誓いを立てるだとか信念を掲げるだとか、エースをはじめとする海賊、もとい夢追い人にも馴染みがある考え方である。航海の日々でも戦いの中でも、恃める相手が己しかいない場面に立たされる機会がいくらでもある彼らにとって、何があっても揺るがぬ一本の魂を持つことは重要なのだ。
自分の口に出してその言葉を己のものとする。己のものとしたそれが自身の背骨になる。道しるべになる。灯台になる。
つまり、「彼女と一緒にあの海に帰る」と声に出して宣言したことで、エースは俄然力がみなぎっていた。
ナマエが生まれ育ったこの世界も好きだったが、彼の心にはいま力強い追い風が吹いている。冷たい白い波飛沫が激を飛ばす。日に灼けた帆が巨大な風を受けてピンと張り詰める。突き飛ばされるように足が前に進む。
じっとしていられない青い衝動に口角が上がった。
目を大きく開いて、とにかく前を向いてなにひとつ取りこぼしたくない。
冒険の前日のように、腹の奥底から真っ赤な炎が湧き立つのだ。
現実問題、帰る方法は分からないが手当たり次第に考えてみようという意見で決着し、二人は一本の傘に収まって帰路についた。未来は不確かだが、互いの手を取りあえば不思議とどうにかなる気がするのだ。
帰宅後、ナマエは床に落ちていたそれに気づいた。壁際にあったそれを見て、風で飛んだのかしら、と思ったが……。
「……っあ……、」
棚に置いたそばから一人でにジリジリ動くのを見て息を呑む。見間違いではないか。いや…いや、確かに動いている!
「エ、エース! 来て! こっち来て早く!」
「ん? え? なに、なんだよ」
「こ。これ、見て」
「……うお!?」
オヤジのビブルカードが棚からひらりと落ちる。そしてまた少しずつ動く。
ナマエはエースの腕にひっついて「ね? ねっ!?」と興奮気味にそれを指差した。エースは驚きのあまり少しずつ床を這っていくビブルカードを見つめたが、ハッと我に返って同じ棚に置いていたログポースをひったくるように掴む。
ドーム状のガラスに顔を近づけ、指針の揺れを確認する。
しばし待つと、針はひとつの方向でぴたりと止まった。
「……指した」
エースの顔にじわじわと笑顔が広がる。
これで帰り道がわかる。二人が目指すべき方角が定まった。電伝虫は顔こそ出していなかったが、貝殻の口に耳を当てれば寝息のような息遣いが聞こえた。これまではまったくの無音だったというのに。
「あとはコイツだ」
エースは右手に視線を移し……ぐっと握りこんだ。
炎が燃え上がる。
「……ナマエ!」
「エース!」
エースは炎を収め、二人は思わず抱き合った。それはロマンチックな抱擁ではなく、決勝試合の優勝ゴールを決めたあと互いを称える選手たちのように暑苦しくて勢いばかりの興奮のハグだった。キャアキャア言いながら飛び跳ね、お互いの背中をばしばし叩く。
「こうとなったら話は早ェ! いつ出る!? もう発つか!?」
エースはナマエの両肩を横から掴むように捕まえて、高揚できらきらした顔で船出の日取りを決めにかかる。
「えっ、えっとねそうね、色々準備する」
「? おう!」
はたと正気に戻ったナマエは、興奮で震える指先で薔薇色の両頬をもちっと挟んで、視線を右下に流して様々な段取りを一生懸命考え始める。スマホを取り出して、ローテーブルに向かう。こてこて調べ物をし、各所に問い合わせをし、ちまちまメモを取ってテキパキとこなしていく。
手持ち無沙汰になったエースはそれでもニコニコと興奮冷めやらず・機嫌良くそわそわしていた。ナマエの向かいに胡座で座り、ゆらゆらと膝を上下させて彼女の仕草ひとつひとつを眺める。が、それも飽きてごろんと後ろに寝転がった。天井に突き上げた拳の先を自在に炎に変えるが「火災報知器が鳴っちゃうからだめよ」と怒られ、素直に腕を下す。
なおもエースの機嫌は傾かず、浮かれた脳みそで船出に必要なものをピックアップする。食糧と水を準備しなければ。すぐにモビーに帰りつけるとは限らない。自分の荷物はもとよりリュックひとつだが、ナマエの荷物はいかほどか。土産のひとつも持って帰ろうか。
エースは脳裏に波の感触を思い浮かべ……「あ゛っ!?」と叫んで腹筋の力だけでガバッと起き上がる。
「っ、なに!?」
「もうおれ、また風呂も海も入れねェってことか!?」
「………そう、かもね?」
「〜ッ、マジか!」
これはさすがに惜しかった。
膝に肘をついて目元を片手で覆って項垂れる。「海……風呂……」と肩を落として未練がましく唸る姿をナマエは上目遣いでチロ…と一瞬見やり。
「……海は難しいけど、お風呂ならまた私と一緒に入ればいいでしょ」
と、メモ紙に視線を落としてペンを走らせる。
エースはおもむろに顔を上げ、のそのそとローテーブルに近づいて、角を挟んでナマエの隣に腰を落ち着ける。そして、テーブルに置いたスマホやメモ紙に視線を落としている彼女の横顔を、重ねた腕に顎を乗せてじっと見つめるのだ。
口元は緩く弧を描いている。にやにやしている、ともいう。
浮かれているからずっと真面目ではいられないのだ。
「……なに」
「照れてんの?」
「照っ…、……れるよ、まだ……」
「素っ裸を見合った仲だろ」
「半裸がデフォの人と一緒にしないでくださるっ? お、女の子は服一枚脱ぐだけでも大変なことなんだから」
「おおそうなのか、こりゃ失敬。勉強不足だった、面目ない面目ない。そんじゃあ、もっと熱心に学ぶから是非とも教えてくれよ」
「ひゃっ! も、もう、いま調べ物してるの分かってるでしょ!? 邪魔しないでよ!」
「ワハハ」
ナマエはやさしく引っ掻かれた耳たぶを庇うように手で押さえてエースを睨む。そんな赤い顔で睨まれたって怖くもない。エースはケラケラ笑ってそれを聞き流し、「まだあったよな?」とベッドサイドにある引き出しを開けて確認をする。何をしているか察したナマエはますます赤くなってその背中をぺしんと平手で叩くが、エースが彼女のヘナチョコビンタに動じるわけもなく、引き出しの中を見てヨシと頷いた。昨夜新しい箱を開けたばかりだから在庫は問題なし。
あとは彼女をどう口説いて“その気”にさせるかだけだ。
「ほんと、あと少しで終わるから……」
「女の準備ってのはなかなか終わらねェもんだろ。夜まで待てなんてナシだ、先に構え」
「なんて図々しい……!」
「仕方ねェだろ、すげー好きなんだから」
「く……」
「ずっとくっついてたっておれァいいんだぜ」
「少しだから待ってってば……」
「あと30分待って終わらなかったらかじる」
「どこを!」
「さあな」
そう言ってエースはふふんと笑い、チクタク時計の針が回るのを待つのだった。どこをかじってやろうかななんて考えながら。
しかし。
「ん、終わったあ」
「え」
20分後のことである。
ナマエは一度ぐっと伸びをして「オッケ」と短くサッパリと言ってローテーブルにペンをコロンと転がした。
ベッドの上でゴロゴロしていたエースはあれっ、と思う。いやに早いなと。これは帰らずの旅、故郷を離れる船出の算段だ。化粧や着替えの準備とはワケが違う、本当に時間が掛かると思っていたのに。絶対に勝てる賭けだと思っていたのに。
ナマエは立ち上がり、卓上カレンダーと赤ペンを手に戻ってくる。ぽかんとそれを目で追いつつ、ベッドの上に座り直したエースにナマエは「えーとね」とカレンダーを差し向けて報連相を始める。
「……というわけで、順調にいけばこの日に出発できます」
キュッと赤ペンで囲まれた日付はそう遠くない。
彼女につらつらと説明された手続きのほとんどがエースにはよく分からないものだったが、煩雑だということだけは分かった。これだけの手続きを踏むのだから何もかもをかなぐり捨てていくような夜逃げという感じでもない。
「ずいぶん準備がいいな…?」
「もともと準備はしてたからね。概ね当初の予定通りの出発になりそう」
「???」
「あー、ちょっと待っててね」
そう言って棚を漁り始めたナマエが引っ張り出してきたのは、深い赤の表紙の真新しい手帳である。
「見てこれ」
「……?」
「パスポート」
「……なんだそれ」
「旅券、国際的な身分証明書。つくったの。これがあると海を渡ってこの国を出られる」
「いちいちそんなもんがなきゃ自由に出航もできねェのか?」
「法治国家だもん。なにを言いたいかと言うと、私はもとからここを出る気だった。だから色々下調べとか準備はしてたってわけです」
「ここを出るって、なんでまた……」
「冒険がしたくて」
彼女はニッと笑った。潮の香りがする笑い方である。思わずエースが見惚れるような素敵な笑い方であった。
「凪の海をありがたく思うのは、陸で一生暮らしていくと決めたときだけみたい。私は…凪じゃない海に帆を張りたい。もう波の音を聞いても落ち着かないのよ。わくわくするようになっちゃった」
最後にえへへと笑う。
エースは終始ぽかん…と話を聞いていた。丸くした目をぱちぱち瞬いて、くしゃっと顔を顰めてようやく口を開く。
「……はなから出航は決まってたのか!?」
「うん」
「…………はあ……ンだよ、言うの結構緊張したのに……おれの取り越し苦労かよ……」
「ああして言ってくれて私は嬉しかったよ」
「……それならいーけど」
「正直惚れ直した」
「…………あそ」
エースはそっぽを向いて、前髪の生え際をポリポリ掻いた。
ナマエはそのかわゆい照れ隠しにクスクスと肩を揺らし、ベッドの上に広げていた卓上カレンダーと赤ペンをローテーブルへ片付ける。
「それでエースさん」
「なんだよ」
「どこかじるか決まった?」
そう言ってナマエはエースのすぐ隣に腰を下ろした。
エースはぱっと振り返り、右目の下に小さく皺を寄せて短く笑う。
「いい度胸じゃねェか」
ナマエの細っこい体をベッドに引き倒し、首筋に噛みつくようなキスをする。彼女は白い首を晒してケラケラと幸福が染み込んだ声で笑った。
彼女もまた浮かれているから、ずっと真面目ではいられないのだ。