50
「挨拶がしたい」
お米を頬袋いっぱいに詰めて咀嚼しながら朝食の席でエースがそう言った。
ナマエは味噌汁の椀から口を離し「……あいさつ」と繰り返した。その間にエースは米を嚥下。口の中を空にして「ん」と頷いて続ける。
「ナマエの親父とお袋と、あとばあちゃん」
「ああ、お墓参りってことね」
「おう。大事なひとり娘を連れていくんだ。ここを発つ前にちゃんと筋を通したい」
「お墓、ないのよ」
「あ?」
だし巻き卵を食べようと大きく口を開けた格好のまま止まって、エースは怪訝そうに上目遣いで眉根を寄せる。二度ぱちぱちと瞬いて、とりあえず宙ぶらりんのだし巻き卵を食べ。前傾していた体を正してちょっとムツカシイ顔でもぐもぐ考える。
最初は墓を建てない文化なのかと思ったけど、すんなりと話が伝わったのだからたぶん違う。じゃあ墓は作らなかった、または作れなかった。エースが知っているそういう例は戦禍の国だとか、罪人の最期だとか、不遇の死だとか……とにかく明るい内容ではない。
サボの墓はない。亡骸は引き上げることもできない暗くて冷たい水底にあると思われていたから。
なんで、と聞いてもいいのだろうか。と、エースは思案していた。
ナマエは味噌汁をふうふう冷まして一口。深刻な空気もなく続ける。
「お墓というか、墓標がないというか……挨拶しに行くなら行き先は海だよ」
「……海?」
「うん、海。カイソウって分かる? 海に葬るって書くの」
「海に流したり沈める、ってことか?」
「火葬した骨を砕いて海に散骨するんだよ。普通は火葬までで、砕かずにお墓を建てるんだけど」
「へー……」
エースの世界では土葬がメジャーだし、船上で死んだら疫病の発生を防ぐために水葬とする。火葬をする島もあったが、そう多くはなかった。
「じゃあ、ご飯食べ終わったら行く?」
「海にか」
「うん」
ナマエの父は「死んだら骨は海に撒いてくれ」と遺言を残していた。長期の航海に出る父は職業柄、海上での有事に備えて常に遺言書を用意していたのだ。海が大好きな人だったから遺言の内容はそう不思議なことではなかった。父のことが大好きだった母も冥土でも父の傍にいられるよう、二人は海に還っていった。ナマエは祖母と二人、船の上から見送った。
祖母は聡明で、どうしたって後に残される立場の幼い彼女に墓の管理などという大変な役目を残すことを良しとせず、祖母もまた海に還してほしいと遺言を残していた。
こじんまりとした葬式であった。少数の参列者とともに葬儀屋がチャーターした小型船から祖母を見送った。
「散骨したあとの真っ平な水平線を見て、ああ一人になっちゃったって思った」
ナマエが視界いっぱいに広がる青い海を前に途方に暮れたのは、エースと出会ったあの海が初めてではない。
「私が本当のひとりぼっちになったのは海の上だった。海には楽しい思い出がたくさんあるし、海自体も好きだけど、しばらくは近寄れなかったな」
年に一回のお墓参りのときしか来られなかった。ナマエは到着したいつもの海を前にしてそう言った。散骨した場所はここではないが。海は広いし繋がっているから、どこの海にお参りしてもよいのだと葬儀屋は言っていた。
彼女はやさしい思い出だけを潮騒の音に閉じ込めて逃げてきたけれど、あの日引き摺り出された。
大海の真ん中、潮騒の渦中、波を割って進む小型船。そこにいたこの男こそが、彼女を見つけて捕まえた。
そしてナマエはまた海を好きになった。胸を突くような寂しさにも怯まなくなった。
「エース」
ちっぽけなガラス片も波に揉まれればやがてシーグラスになる。
砂利にぶつかり石に角を取られ、傷つきながら長い時間をかけて、美しい宝石になるのだ。
「私を見つけてくれてありがとう」
画家なら絵を描いただろう。音楽家なら曲を、詩人なら詩を。
鱗のように朝の光を弾く水平線を背に、エースにそう微笑みかけた彼女は美しかった。
しかしエースは感動を表す術を持たず、臓腑を熱くして固く結んだ唇でただただ見つめた。気を抜けば泣けてしまうほど、この上ない気持ちが胸に溢れかえる。
心臓の最奥から迫り上がるようなこの衝動をなんと呼べばいいのか。
「……エース?」
どんな言葉も安っぽくなってしまうだろう。この心を表す最適な言葉が見つからないが、突っ立ってばかりもいられない。
エースはナマエの手を取り、海に向かって歩き出す。エースのブーツに波の端がぶつかった。彼女は不思議に思いながらも彼に手を引かれ、一緒に足元に波を受ける。
ナマエの手を強く握ったまま、エースは海に向かって深々と頭を下げた。
「一生大切にします」
それが大事なひとり娘を連れていく男の言葉であった。
ナマエは腰を曲げたその背中を見、海に視線を戻し。彼の隣に並び、しずしずと頭を下げた。
海はやわらかなさざなみの音で応えた。
***
ヤスコさんは感動に眉をしならせ、口許を両手の指先で覆い、目をキラキラとさせた。
「じゃあ……二人で発つってことなのね……!?」
遠距離恋愛、夏の日の偶然の再会、互いの想いは色褪せぬまま若い二人は門出を迎えて広い世界へ飛び立つ——……マァなんともロマンチックな要素満載である。ヤスコさんが再びトキメキに襲われて女子高生の心を取り戻してしまうのも無理はない。
ナマエの両親と祖母への挨拶のあと、二人はその足でヤスコさんの店へ赴いて出国の日取りを報告しにいったのだ。
「なんだか急にバタバタと決まりまして……もとの予定通りに出発するつもりです」
「そう、そうなの……寂しくなるわね」
「あ、わ…泣かないでヤスコさん」
「ううん、いい旅になるように祈ってるわ」
「本当に世話になった。まだしばらくいるし、恩返しするぜ」
「頼もしいこと」
ヤスコさんは目尻からほろりと涙をこぼして優しく笑った。しんみりした空気が一瞬流れたが、ヤスコさんはパンと一度手を叩いて「そうだ」と活気ある声を出す。
「パーティしましょ。出発の前、定休日の前の日! お店閉めたら夕方からここ使って。ハジメくんとか、お友達呼んで。ね、いいでしょ、パーっと!」
「お、いいな。パーっとな!」
「いいんですか? 嬉しいです!」
「決まりね!」
かくして、さよならパーティが開かれることとなった。
ナマエが出国に向けた準備や手続きで方々へ出かける一方で、エースは相変わらずであった。相変わらずといっても通貨の扱いや店内のレイアウトにも慣れたから一人でおつかいもできるし、ブラジャーは型崩れを防ぐために洗濯ネットにいれた方がいいと学んで洗濯だってできるようになったし(ナマエが真っ赤になりながら教えてくれた)、皿洗いは背中にじゃれついてもらいたくて続けている。ナマエが忙しいときはエースが家事を適当にやっていた。
一緒に暮らすとは互いを助けて日々を回していくことだ。エースは幼少期からの集団生活でそれを叩き込まれている。
ワークアウトもそのままとして、散歩の時間は増えた。散歩というか、日本の景色や人、空気、温度。そうしたものを記憶するためになるべく時間を使っている。
エースは日本の景色や空気をたくさん覚えておきたかった。ナマエが二十年過ごした故郷をもっと知っておきたかった。
数週間じゃ全然足りないのは承知の上だけど、いつか彼女が望郷の念に駆られたり郷愁に浸る時、彼女と日本の話を少しでも多く話せるように。同じものを思い出せるように。
同じものを見て、知りたいのだ。
そうして練り歩いていれば、この短期間でできた友人らに会う機会も増える。
「えっ、あんちゃんこの町出てっちまうのかっ?」
「おう、世話ンなったな」
「いつ出るんだ」
「x日」
「もうすぐじゃねェか、もっと早く言えってんだ!」
「最近決まったんだから仕方ねェだろ。ほれ、コーゾーさんの番だぞ」
「く……出てくってならおれに勝ってからにしな。おら、これでどうだ」
「……あいにくその心配はなさそうだな。王手だ」
「アッ!?」
パチッ! と小気味いい駒の音が盤面に鳴る。エースはカラカラ笑って胡座を崩して縁側に脚を下ろした。そして「勝ち逃げさせてもらうぜ」と汗をかいた麦茶のグラスを一気に煽る。
「そうだ、出発する前日に宴会やるんだ。コーゾーさんも来ればいい」
「宴会? どこで?」
「海岸沿いにあるレストラン分かるか? xxxって名前の……」
「おお、あそこか」
「夕方からやるってからさ。宴会なんて賑やかに越したこたァねェし、ツネオさんとかミヨさんとかも誘ってよォ……マ、会えたら自分で伝えるわ」
将棋仲間のコーゾーさんは太筆のように白くて立派な眉をぐーっと寄せて悔しそうな、寂しそうな顔でエースの横顔をムスと黙って見つめるが……やはり最後は力が抜けて笑ってしまった。
彼は風が吹けば身軽に旅立ってしまう男なのだなとしみじみ思うのだ。
海賊なら多くを語らずひっそりと出ていくのが定石だが、今のエースはただのハタチの人懐っこい男の子である。この短期間でエースには友達がたくさんできた。怖がられる理由も避けられる理由も人目を忍ぶ理由もないからだ。町で出会った人と楽しく話せばすぐに仲良くなって友達になれた。
ほかの将棋仲間のおじいちゃん。河川敷での水切り勝負で大盛り上がりした少年たち。買い物袋を運んであげた妊婦の奥さん。ハジメさんの店で働く受付君。道に迷った時に助けてくれた交番勤務のお巡りさん。たばこ屋のアクの強い皺くちゃの婆ちゃん。ヤスコさんの店の常連のオッサン。…
そこには性別も年齢も立場も肩書もない。
エースには関係ないし、興味もなかった。
義理堅いエースはそうした“友達”らに会うたび礼を言い、別れの挨拶をし、賑やかに越したことはないと本気で思っているのでみなを宴会に誘った。
その結果。
「エース! 餞別の酒だ!」
「おう! おれのとっておきだ、一緒に一杯やろうや」
「兄ちゃん、遠くに行っても元気でやれよ!」
「次会うときはぜってー負けねーから!!」
「これみんなの小遣い集めて買った! 大事にしろよな!」
「わ、やだ、こんなにいたの? 足りないかな…まあいいよね、エース君これあげる。美味しいからみんなで食べてね、元気でね」
「…グス、短い間でしたけど、海行ったり飲み会したり喋ってもらったり…すげー楽しかったです……エース君めちゃくちゃ優しかったし……おれもいつか背中にスミ入れるんで、や本気で……ズ、……っ、なに笑ってんスかおれマジですからね!?」
「ンハハ、泣くのはえーよナガターお前ほんとエース好きなー」
「店長うるせえ!」
「あ、エース君? 悪い、おれこれから交番の夜勤だから…これ宴会の足しにして、うん、ビール。もう勘で道選ぶのやめなよね、また迷子になるから。あはは、じゃあ達者で!」
「ふん、大したもんはじゃないけど餞に持っていきな。どこぞで野垂れ死ぬんじゃないよ小僧」
「えっ、この店こんなに混んだことないぞ? ヤスコさーん! エース君、絶対食い足りないって、デリバリー頼もう! なにがいい? ピザ? いいよ、奢る奢る!」
ささやかなさよならパーティは見事に大宴会に化けた。
日が暮れると、酒だのオードブルだのプレゼントだのを持ったエースの“友達”がひっきりなしにやって来て、ヤスコさんの店はたちまち人で溢れたのだ。エースは両手を広げ、その一人一人を旧友と言わんばかりの親しみで以てピカピカの笑顔で歓迎した。
普通、誘ったってこんなに集まらない。都合がつかないこともあるだろうし、いくら親しくなったとはいえわざわざ送別会に出向くまでかと言えば微妙なラインである。
しかし集まった。
エースとの別れを惜しみ、彼に最後一目会おうとこれだけの人が来た。各々に時間を作り、餞別の品と言葉を携え、彼の行く先が幸多からんことを願っている。
これがポートガス・D・エースという男なのだ。
最初は呆気に取られていたナマエとヤスコさんも顔を見合わせて吹き出した。そういう人だったわねと。面白いほどにすんなり腑に落ちるものだから。
この宴会はナマエのためのものでもあったが、これだけ楽しい空気なら彼女ももうなんだっていい。あまりの楽しさと賑やかさに途中から宴の名目を忘れてしまうことなど、あの船では定番だったことを彼女は覚えている。
「ナマエ!」
その渦中の、まさにまん真ん中にいる男、エースが宴会の賑わいに呑まれないよく通る声でナマエを呼ぶ。店のカウンターで、追加で唐揚げの大皿でも作ろうかとヤスコさんと談笑していた彼女は声の主へパッと顔を向ける。彼は輪から抜けてこちらへやってきたところだった。
「エース。なにもう、こんなに人呼ぶなんて聞いてない」
「いやー誘ってみるもんだな。ずいぶん賑やかになった」
「私の知らない人ばかりよ」
「じゃあ今日知り合えばいい!」
「うっ!?」
エースはナマエの首に腕を引っ掛けてぐっと引き寄せる。絞まっちゃいないが、立てこもり犯が人質のこめかみにピストルを突きつける時のようなこの体勢は苦しい。引きずられるようによろめき、右の肩から鎖骨をまるっと包むように左肩に回された太い腕を薄ペラな両手でタップする。背中を彼の胸板にくっつけて「なにすんの」と小規模に暴れて抗議する。
エースの突然の無茶振りとじゃれつき方に気を取られてナマエはすぐには気づかなかったが、主役の男が抜け出た先で急にくっついた美女は何者だと宴の参加者の視線は彼女に集まっていた。
エースはみなが彼女の存在に気づいて「なになに?」という顔をしているのを一通り見てから。
「みんな紹介する、この子はナマエ! おれはこの子と街を出る」
「……えっ、あ! え、エース…!?」
「だからこれはナマエの門出でもあるってわけだ。……でも、もとから流れ者のおれと、ここが故郷のナマエとじゃあその重みは全然違ェ。今夜はナマエが忘れられねェくらい楽しい夜にしてェんだ。みんな、よろしく頼むよ」
な! と最後ににっかり笑う。顔が見えずとも、いま彼がどんなに優しい表情をしているか、ナマエには分かった。
静まり返った店内で最初に声を上げたのはコーゾーさんだ。
「お前なあ、そういうのは最初に言え! おい乾杯しなおすぞ!!」
「そうだそうだ!」
「あはは! だな! 仕切り直そう!」
店内がエースへの文句とナマエへの朗らかな歓迎の空気で華やいだ。
「はは、泣くな泣くな」
「うん……」
「たくさん笑えよ、おれはナマエの笑った顔が一番好きなんだ」
彼はナマエのつむじにキスをしてやりながら染み込むほど温かい声で言う。ヤスコさんにグラスを渡された彼女は、両手でグラスを包むように持ち、詰まる言葉の代わりにたくさん頷いてこぼれかけた涙を堪える。
腕が解かれても、ナマエはくっつくほどエースのそばに居た。
「えー、それでは皆さんグラスの準備はいいっすかアッ?」
ハジメさんがグラスを高く掲げて音頭をとった。掲げられた人数分のグラスを見て、準備できたよ、とハジメさんは二人に視線を送る。
エースもナマエに視線を送る。
「頼むぜ」
「うん」
きっと素敵な夜になる。
忘れられない夜になる。
掲げたグラスの中、アルコールの気泡がキラキラと輝いている。
ナマエは「乾杯!」と元気よく叫んだ。
***
23時を過ぎても店に残っているのはハジメさんら陽キャたちと体力と時間のある常連のおっさんらなど、比較的若い面々だけであった。
エースはカウンター席のテーブルを背もたれにし、グラスを悠々と傾けていた。その視線の先には、店の中央あたりの席でキャッキャと楽しそうに歓談するナマエの姿が。知らない人ばかり……とぼやいていたが、結局彼女はするりとその輪の中に溶け込んでいた。
強面の老若男女1600人が集う船にある日突然放り込まれてもやっていけるのだから、当然といえば当然の絵面だった。
「っあ゛ーーキッツ……ヤスコさんお水くださ〜い……エース〜? なに飲んでんの? ウーロン茶?」
「バーボン」
「意味わかんねーっ」
つい先ほどエースはハジメさんの友達数人をテキーラ勝負で屍にしたばかりだった。彼に言わせれば、ハイペースでテキーラを入れたからこそ、いまはウィスキーをロックでのんびり飲んでいるらしいのだが。めちゃくちゃなアルコール耐性である。
エースの次にテキーラ勝負のターゲットにされていたハジメさんは、なんとかこの静かなカウンター席まで逃げ延びてきたのだった。どさっと腰を下ろし、テーブルの天板に頬をつけて「ちべたくてきもち〜……」と茹だった脳みそを冷やす。
「ナマエのやつ大丈夫か? ずいぶんご機嫌だがあれはできあがってんのか?」
「んにゃ〜? 全然よ、ケロッとしてる。いま飲んでんのウーロン茶だと思うし」
「ならよかった」
「ナマエちゃんしっかり者だから明日早いのにバカなペースで飲まんでしょ。ばーかばーか」
「おれ、酒はけっこー強い方だからご心配なく」
「ザルかよ!」
「あは」
ハジメさんはヤスコさんが持ってきてくれたお冷を飲みながらエースの二の腕にゴン! と拳で小突いた。エースの言う“けっこー強い”の程度は酒樽をいくつも開けられるということだが……マァ当然伝わっていない。まさか酒量の単位が樽だなんて一般現代人は普通思わない。
エースとナマエは夜明けとともに旅立つ。
夏の日の出は大体5時の少し前。薄明の海に、まっさらな朝日に向けていよいよ二人は繰り出すのだ。
家族のもとへ帰るために。冒険の続きをするために。
だから店のバックヤードにはすでに二人の荷物が置いてあった。日付が変わる頃にはお開きにして店で仮眠を取って旅立つ算段である。
ハジメさんは突っ伏した体勢のままのろのろとズボンのポケットを漁ってタバコの箱を取り出した。ぱくっと一本くわえたところでヤスコさんに「これっ」と怒られる。
「店内禁煙よ」
「え〜、今日くらい良いと思いまーす……」
「タバコの臭いって結構残るんだから。表で吸ってちょうだい」
「へーい……」
ハジメさんはエースの唇に新しく取り出したタバコを一本突っ込んで、これまたのろのろと席を立つ。一本あげるから付き合ってという意味である。エースはこれを正しく理解し、グラスに残っていた酒を一息に飲み干してからハジメさんの後をついていく。近くのテーブルにあった飲みかけのワインボトルをくすね、カラカラと笑って「仕方ねェ、この店のクイーンはヤスコさんだ」と肩を叩いて店を出た。
店を出てすぐ。
「おわっ」
「あ」
そしていつものくせでメラメラの実の能力でタバコに火をつけてやってしまい、しまった、と思った。
「えっ、なに今の」
「えーと手品」
「手品っ? え、すげ。マジ?」
「マジマジ」
「すげー、どうやったん? どういう仕組み?」
「はは、見破ってみろよ」
酔っ払いで良かった、と思いながらエースは自分のタバコに能力で火をつける。ハジメさんはオマケでもう一度やってみせてくれたものだと思って、「はあ!? マジでわかんねェ!」と大はしゃぎである。
エースは砂浜へ向かってぷらぷらと歩き、ハジメさんも生ぬるい夜風にあたりながら特になにも考えずダラダラと喋りながらその隣を歩く。
気分が乗ったエースが口ずさむ。海を超えて酒を届けに行く歌。楽しげなメロディラインでヨホホホと。
「エース、その歌なに?」
「船乗りのうた。海賊なら誰でも知ってる」
「カイゾク?」
「海賊」
「へえ、海賊……」
「おれはカタギじゃねェって前に言ったろ」
「エースが海賊……そっか、まぁ、よく似合うな」
似合う。そうか、似合うのか。
その言葉にエースは少しだけ笑って、ワインボトルに口をつけてあおった。瓶の中で赤ワインがひっくり返ってジャボッと音を立てる。
「あ、そうだ。ずっと聞きたかったんだけどさあ、ナマエちゃんのあのピアスってエースがあげた?」
「おう、プレゼントした」
「あ〜ね。なるほどね」
「? なんだよ」
ハジメさんはウンウン頷き、携帯灰皿に短くなった吸い殻を押し付けて2本目のタバコをくわえた。今度は自分のライターで火をつける。風除けにかざした手の内側がライターの火で一瞬明るくなり、タバコの先端だけが赤く燃え残る。
ハジメさんが一口目をふかすのをエースは貰いタバコをのんびり吸いながら待つ。酒もタバコも女遊びもお盛んな海賊稼業、喫煙者特有の間には慣れていた。
「いやおれね、前にナマエちゃんに誕プレなにがいい? って聞いたのよ、アクセサリーとか? ピアスとかは? って。したら、ピアスはこれしかつけないって断られてさ。すげーお気に入りなんだなー、ふーんって思ってそん時は流したけど……お前ね、お前がくれたやつだからなのね」
ンハハ納得、とハジメさんは笑い、エースと反対側に顔を向けてふーっと煙を吐く。
「んじゃきっと、ナマエちゃんはエースんことも手離さないな」
当たり前の決まり事のように簡単に言われ……同業者じゃなくてカタギの人間で、しかも同年代の友達なんて居た試しがないエースは、ハジメさんの無害で平凡な祝福の言葉に思わずちょっと黙り込む。
強烈な照れ臭さにスカしたリアクションを返そうとしたが…やめる。それは逆にダサい気がしたし何より純粋に嬉しさが勝って、結局いつもの笑顔をにかっと浮かべた。
「そうだと嬉しいな! おれもナマエのことは手離す気ねェし」
「……は? なに?」
「…え、え?」
「なに、まさかおれいまノロケ聞かされてる? 誰が惚気て良いっつったよ、テメーッ!!」
「おーーなんだよ、嘘だろ。ハジメ、キレてる?」
「彼女持ちがよォ!! 女紹介しろッ」
「あはは。やなこった」
ハジメさんに胸ぐらを掴まれガタガタ揺らされる。エースは揺らされるがままアハアハ笑って、火傷しないようにタバコの火だけは遠ざけてやった。
ばかみたいに平和な喧嘩だ。人も死ななきゃ、血さえ流れない。カノジョがいるだけの幸福を妬まれて睨まれている。5分後には忘れてしまうような、どこにでもある“友達”との下らない軋轢である。
これも全部覚えていたいなと、エースは思った。
***
「船、預かっててくれてありがとう、ハジメ」
「いいよ、別に。置いてただけだし」
浜辺はまだ薄暗かった。
ヤスコさんとハジメさんは目をしぱしぱさせ、シャッキリ目を覚ましているのはしっかり仮眠を取ったナマエと宴と旅に慣れ尽くした体力おばけのエースだけだった。
エースはストライカーに乗り込み、慣れた手つきで荷物を船体にロープで固定していく。波の音で満ちた静かな時間だった。時折鼻をすする音がする。水平線に差し迫った朝日が闇を削って雲を薄紫に染めていた。
準備が整うと、エースは岸へ戻ってきて見届け人の二人に向かってナマエとともに今一度頭を下げる。
「お世話になりました!」
「最後まで見送りありがとうな」
「いいのよ、本当に、二人とも元気でね」
「ん、気ィ付けて。よい旅を」
餞の言葉を受け取り、二人はストライカーに乗り込む。
エースは炎の大きさを調整し、最小限の炎を低く燃やしてストライカーをゆるく動かした。
ストライカーは後ろから見ると、3つのタービンが巨大で操縦席はよく見えない。だからエンジン稼働の船しか知らないヤスコさんとハジメさんからすれば、それは普通の船に見えたことだろう。よく分からないが、エースが操作していることだけは分かるという塩梅。
海外に行くなら手段は飛行機である。この小型船はきっと海上輸送、だからまずはコンテナに積み込むべくしかるべき場所に船を預けに行くのだ。日本の一般市民たる二人は常識的にそう思っていた。
マァもちろん違う。二人は“この船で”旅立つのだ。
非常にゆったりとした速度で二人を乗せた船が岸から離れていく。
数十メートルほど離れた地点でストライカーはさらに減速。
なんだろう、どうしたのかしら、と岸辺の二人が思った瞬間、ストライカーの足元から炎が噴き出す。真っ直ぐに立っていたマストは海面45度に傾き、船は炎の勢いに呼応するように激しい水飛沫をあげて見事な大旋回をしてみせた。
舳先が岸を向く。旅立つ二人は朝日を背負って大きく手を振る。
「じゃあなー!!」
エースの声が鐘の音のように響いた。
船は再び大きな半円の軌道を描いて水平線へ向かう。ゴォッと火力を上げ、ストライカーは本来の速さと身軽さで海を走り出した。
朝日がきらめく。
きっと陸の二人は言葉をなくして驚いている。
だがもう振り返らない。小舟は波を砕いて前へ進む。
「火傷してねェか」
「してないよ」
「後ろンとこ立ってろ。落ちんなよ」
「落っことさないでね」
「もちろん」
島影からだいぶ遠ざかり、エースはようやくナマエを腕から降ろしてやった。大火炎から守るには熱源たるエースに身を寄せるのが一番なのである。繊細なコントロールのおかげで彼女には煤ひとつない。
ストライカーのマスト前に立ったナマエはエースの両肩に手を置いて真正面から風を受ける。エースはオヤジのビブルカードとログポースを頼りに航路をとる。
ふと落とした視線の先にナマエは小さなボトルを見つけた。船の床、端に転がったそれを指して「あれなに?」とエースに尋ねる。
「ああ、そういやここ来る前に海で拾ったんだ。すっかり読みそびれてたな。……よっ。ナマエ、これ開けられるか?」
「うん……」
なんとなく見覚えがある気がする。ナマエはエースが拾い上げたボトルを受け取り、細長く丸められた紙を取り出した。その内容に目を通して思わず笑う。
「? なんだよ。面白いことでも書いてあんのか?」
「これ、エースが拾ったの?」
「ん…? ああ、たまたまな」
「ちゃんと届くもんだなあ」
「あ?」
それはいつだかナマエが駄目もとで流したメッセージボトルだった。紙には一言、あいたい、と。
神様というのはたまに粋なことをする。
ナマエはなんだか気恥ずかしくなり、再びボトルに紙を入れて海に放った。
「あ! なんだよ、おれまだ読んでねェ!」
「いいんだよ、もう」
「なにが書いてあったんだ?」
「もう伝えたー」
「は? どういうことだ?」
「ナイショ」
「はあ?」
「前見て運転して」
「なんなんだ、まったく……」
釈然としない様子だが、エースは大人しく船の運転に戻った。
「そうだ、電伝虫で連絡入れないの?」
「んー、忘れてたな……マァいいんじゃねェか? みんな好きだろ、サプライズ」
エースはいたずらっぽくニッと笑ってナマエにテンガロンハットを被せた。やり返すようにナマエはエースの首に抱きつく。
一点物のピアスがナマエの耳できらりと光る。
この世にふたつとない二人は、もう離れることはない。
「海の向こうには何があるのかな」
「何があってほしい?」
「……家族」
「じゃあそこが目的地だ。見つかるまで行こう」
ストライカーはさらに加速し、水平線の彼方を目指す。
***
最初に気付いたのはオヤジだった。
彼は甲板の席で肘掛けに頬杖をついて、さも眠っているかのように目を閉じて点滴の処置を受けていたのだが。ぱちりと目を開くや否や立ち上がり、ナースたちの静止も聞かずに船縁へ真っ直ぐ向かう。
そこで釣りをしていたクルーは、ぬっと現れたオヤジに一瞬肩をすくめて「どうしたんです、オヤジ」とたどたどしく尋ねたが返答はない。真っ平な水平線をじっと真剣に見つめるオヤジに倣って、クルーは首を突き出して目を凝らした。
なになに、と寄ってきた他のクルーも船縁に並び、しばしあって誰かが「あ」と声を上げる。米粒ほどの影だが何かが近づいていた。
エースが帰ってきたみたいだぞ。縄を下ろしてやれと。これらの声に甲板にいた他のクルーが反応し、自分の隊のトップの帰還だと特に2番隊の男らがやおら動き出す。
「サッチー! エース帰ってきたって」
「お? そうかそうか」
にわかに騒ぎ出した甲板の気配にサッチも剣の手入れの手を止めて立ち上がった。
一日と半分ほど。買い出しに行かせた島の位置とモビーの航行状況を考えれば少し掛かった方であるが、その分“気晴らし”ができたのだろうと思った。ストライカーで走るなり、飯をたらふく食うなり、酒を飲むなり、遊ぶなり。バカ真面目にりんご3個だけを買いに行ったわけでもあるまい。ちょっとでも元気出してりゃいいなァ、とサッチは船縁へ向かった。先にいたオヤジの姿に、やっぱりこの人もエースのこと気にかけてんだな、と思いながら……。
じぃと凝らした視線の先。
近づくにつれて影は鮮明になる。その影が小舟であることが分かり、船の上に人がいることが分かり、それが手を振っていることが分かり——その手は“二人分”であると分かる。
「……——え、」
サッチは見開いた目からほろりと涙をこぼした。
同じようなタイミングでほかのクルーも「あ、」だの「えっ、」だの驚きと喜びに声を詰まらせて互いの顔や水平線を何度も見やる。
「グラララ……宴だぜ、サッチ」
大きな掌でサッチの頭を撫ぜ、オヤジはリーゼントを台無しにして笑った。サッチは涙と鼻水で顔中をびしょ濡れにして呼吸をするのがやっとだった。
「ッ、あいつら帰ってきたア!」
「う゛んっ、う゛ん、まちがいない、ゲホ、ぅ」
「早く縄下ろせ!! 船っ、ストライカー!」
「よかった、おれ、ほ、ほんとにもう…ッズ…、あ、会えねェもんだと」
「泣く暇あるか!」
「ナマエ、ナマエ……あたし、うう、あたし……」
「よがっだあ゛あ!」
喜びと涙と膨れ上がった感動が甲板を埋め尽くす。
大盛り上がりの甲板にナマエとエースが降り立った。ワッと囲み、二人をまとめてぐちゃぐちゃに抱き締める。苦しいと笑い、良かったと泣く。ナマエも鼻の頭を赤くして心底幸せそうにひとつひとつに丁寧に応える。
「〜っ、エース!」
ナマエの帰還を喜ぶ輪に半ば押し出されるように抜け出たエースは、今度はサッチに捕まった。
おそらくこの後の宴で一番の功労者として酒を振る舞われるであろう弟分が人垣からまろび出てきたのを見て、サッチはようやく血潮のように沸く感動に体が動いた。本当なら一番に自分の部下であるナマエを抱きしめに行きたかったが、サッチはあまりの嬉しさと信じがたい僥倖に脳が揺れてしまい、涙ばかりを流してぼうっと立ち尽くしていたのだった。
「お前ってやつは……なんでおつかい行かせるといつも女を連れ帰ってくんだよお!!」
「別におれはそんなつもりは……あ、いや、今回はちゃんとおつかいは果たしたぜ」
「あ? マジでりんごも買ってきたのか?」
「あいつ、きっかりりんご3個分だ」
「っ、? わ、わげわがんねェ゛!!」
「ッアハハ!」
ハテナを浮かべるサッチを豪快に笑い飛ばし、エースはナマエに目を向ける。
大好きなひとが幸せそうに笑っている。
大好きなひとが自慢の家族に囲まれている。
ほろほろ涙を流して、この幸いの時間を喜んでいる。
それだけでこんなにも嬉しい。
エースは彼女に群がる人垣に再び割って入り、両手で腰を掴んでナマエを抱き上げた。驚いた顔に見下ろされる。朝露のような涙が光っていた。
エースはその顔に真っ直ぐ向き合う。
今度は怯えずに言える。
彼女の帰る場所がこの船なら、それを迎えるのは自分が好い。
この言葉は、エースが言ってやりたいのだ。
「おかえり」
この4文字に、花が綻ぶようにナマエは笑った。
「ただいま!」
青海にて
(君と生きていく)