09

 
 
「ああっ! なんって美しいんだ! 君はもしや地上に舞い降りた天使かい? 羽を忘れてきてしまうなんて、慌てん坊なんだね……♡」
「チョ……ッ、チョッパーーーーッッッ!!!」

 ナマエは医療室の扉を破壊せん勢いで開き、この船の名医を呼びつけた。
 チョッパーは目玉と舌を飛び出させ、絹を裂くような悲鳴とともに薬研ごと薬を床にぶち撒ける。

「なっ、なんだよっ! びびびびっくりするじゃねェかっ!」
「サンジが病気!!」
「いつものことだろ!?」
「そうだけどそうじゃないの!!」
「ちょっとなんの騒ぎ!?」
「はっ!? なんて麗しい…この船には女神が二人もいたのか!?」
「どうしたの? なにかあったかしら」
「……!! なんということだ、大天使様まで……! まさかここは禁断の楽園……!?」
「ほらいつも通りじゃねェか!」
「違うんだってば!!」
「こんなに美しいレディたちに“3人”もお会いできるなんて……不肖サンジ、永遠(とわ)に愛のしもべとなってどこまでもついて行きまアす! 大好きでエす!!」
「ほら!!」
「えへへ、“3人”のミューズたち、美味しい紅茶を用意するから待っててね♡結婚してください♡」

 全身からハートを撒き散らしながらティータイムセットを準備し始めるサンジを指差して、ナマエは必死に「ね!? ねっ!?」とナミとロビンにも同意を求めた。

「サンジは、私に、こんなこと、絶ッ対、言わない!」

 一節ずつ区切って明瞭に発音して悲しくならないのだろうか。しかしナマエはこの状況の異常性を伝えることに必死すぎてそこを顧みる余裕もない。

 これは、とある春島での停泊中に起きた珍事である。


***


 サンジの異常を検知したチョッパーは、ただちに全船員に対し船内待機を発令した。病状から原因には心当たりがあった。彼は調査のために単身で陸へ降り立ち任務を遂行して速やかに帰還、ナミに指示を出して船の停泊場所を変更させた。
 この船の最年少ながら、そのきびきびとした立ち振る舞いは立派で信頼に足るもので、まだ事の全容を知らぬクルーたちも彼の言葉には無条件に従った。

 完璧な初動対応を終えたチョッパーはみなを食堂に集めた。
 そこで彼がサンジに下した診断は“ブルーム病”であった。

「ブルーム病は、エストラスフラワーっていう花の花粉で引き起こされる神経毒症状だ。花粉を吸い込むと、ドーパミンが過剰放出されて、えーとものすごく簡単に言うととんでもなく恋に落ちやすくなるんだ」
「いつもと同じじゃねェか」
「オスなら目に写るメス全部に、メスならオス全部にって感じだな。本来は群生地帯を通りがかった動物が罹るようなもんなんだけど……サンジはどうしたのかな、朝飯の時は普通だったのに……綺麗な花だから香りを嗅ぐために顔を近づけちまったのかな……」
「お前、どうせアレだろ? 島を散策してー、花畑見つけてー、『レディたちにプレゼントしよーっ♡』みたいな。目に浮かぶぜ」
「これに罹ると見境なく求愛し始めるから、群れで暮らしていることが多い動物の世界では大変なんだ! たとえば群れのリーダーの番にしつこく求愛しちゃったら、罹患したオスは群れから迫害されちまう。サンジは人間だし……周りが症状を理解して対応してやればそこまで問題ないだろうけど……」
「見境なく……それこそいつものアホコックと何が違ェんだ」

 ルフィ・ウソップ・ゾロはドミノのように順々に首を傾げ、この男の一体何がどう悪化しているのかまったく理解できずにいた。東の海からずっと旅路を共にしている3人には本当に違いが分からなかったのだ。サンジは初めて会った時からずっとこんなんだから。
 懇切丁寧に説明しているのに一向に理解してもらえないDr.チョッパーは「えっと、えっと」ともっと分かりやすい言葉を探して短い腕をパタパタさせて細かい汗を飛ばす。

「ず、ずっとサカってるってことだ!」
「スーパー平常運転じゃねェか」
「ギャハギャハ」
「ゲラゲラ」
「ヨホホホホホ」
「うぅ……!」
「はいはい大丈夫よチョッパー、状況は分かったから安心なさい」
「ナ、ナミィ〜……」
「かわいそうに、一生懸命説明しているのにね。あなたたち、人として恥ずかしいわ」
「ロビン〜……っ」

 えぐえぐと鼻を垂らすチョッパーの頭を、彼の肩あたりから花咲いたロビンの手がやさしく撫でた。
 チョッパーは医者だし動物だし、なにより群れから迫害される恐ろしさを身をもって知っている。だから、ブルーム病に罹ったサンジに人一倍気を揉んでいるのだ。
 そして気を揉んでいる人間はもう一人いる。

「……はい、質問」
「ヒグ、あい、ナマエ……」
「そのブルーム病っていうのは、記憶を失うようなものなの? ……初めて会った相手のような反応をされた気がするんだけど……」
「そういえばそうね」
「おれ、こんなに綺麗なレディたちには初めて出会ったよ♡」
「少し黙ってて」
「はいロビンちゃん♡」

 サンジはダイニングテーブルに3人並んで着席した女たちに体ごと向けており、彼女たちの横顔を蕩けたまなじりでニコニコメロメロ見つめている。いつもなら確実に大喧嘩に発展する発言の数々を華麗にスルーし、ひたすら嬉しそうである。いつもより度を越している。確かにこれは病的である。
 反対側の肩から生えたロビンの手に鼻をかんでもらい、チョッパーは「ぎおぐ…、」と懸命に涙を拭って医者として説明義務を果たそうとしている。ズビビと強く鼻をすすって、なんとか持ち直す。

「記憶が曖昧になってる、っていう方が正しい。一時的なものだから完全に忘れ去ってるわけじゃないよ。それも性対象のメスに対してだけだと思うし……なあサンジ、こいつ誰だか分かるか?」
「ルフィ。うちのバカキャップで食糧庫荒らし。次はねェからなてめェ覚えてろ」
「こっちは?」
「フランキー。凄腕の船大工でこのサニーも造ってくれた。でも貴重な食糧でもあるコーラを使って乳首光らすのはどうかと思うぜ」
「あいつは?」
「ノーコメント。早めに刻んで海に還したい」
「こいつ今すぐ叩っ斬ろう」
「仕事を増やさないでくれゾロ……じゃあ、おれは?」
「チョッパー。我が船の名医でマスコットで非常食! いやまったくありがてェ」
「おれは非常食じゃねェっつってんだろ!」
「それから狙撃手と音楽家。どっちも黒もじゃのアーティストだな。今度きのこのレモンバターソテーを山盛り作ってやるからお前ら絶対食えよ」
「ゲェッきのこ!」
「ヒィッレモン!」

 長鼻とアフロは、苦手な食べ物での宣戦布告に抱き合って怯えた。男衆に対する記憶はこの通り普通なようである。終始天に向かって真っ直ぐ突き立てられた中指を見る限り、脚と口が出ていないだけで怒ってはいるらしい。
 派手な喧嘩を始めなかったのは、初対面(違う)のレディを怖がらせないための彼なりの配慮であった。

「これはひとに感染したり命に関わる病気ではない、と思っていていいのかしら」
「うん、大丈夫だよロビン」
「治療法は? 治るのよね?」
「っ、もちろん治るよ! ただこれといった薬はなくて……3日もすれば自然治癒する……今日が発症0日目だから、4日後って言ったらわかりやすいかな……」
「そ。ならいいわ」

 ナミは安堵のため息をつき、「じゃあ改めて自己紹介でもしときましょうか」と前向きに事を進める。

「私はナミ。この船の航海士よ。お金とみかんが好き。サンジ君のことを異性として好きになることは生涯ありません」
「う゛ッ……!! よ、よろじぐね、ナミざん゛……」
「私はニコ・ロビン、考古学者よ。世界の謎を解くのが夢なの。まったくタイプではないから、あなたと恋仲になることは決してないわ」
「ぐはッ……!! す…素敵な夢だね、よろじぐロビンぢゃん゛……」

 美女二人に立て続けに言葉のナイフで腹をひと突き、大胆に袈裟斬りにされる。それでもなお、口の端から血を垂らしてニゴ…ッ! と微笑み返してみせた彼はアッパレであった。お見事、病的である。サンジは虫の息となった。
 ちょうどよく食堂が静かになったので、チョッパーはみなに滞在中の諸注意をよくよく話して聞かせた。

 そもそも上陸しないのが一番なのだが、どうしても上陸したければ、群生地に決して近づかないこと・マスクを着用すること・島のどこにいようと両鼻にギチギチに鼻栓を詰めること。これらが必須条件であった。
 ちなみに初動対応の仔細を話すと、チョッパーはマスク着用・両鼻にギチギチに鼻栓をした状態で島に降り、エストラスフラワーの群生地を突き止めてきた。そして、群生地から最も離れた場所にサニー号を移動させたのだった。

「鼻栓すりゃいいんだな? よしウソップお前もしろ!! さっきでけェカブトムシがいたんだ! 虫採りいくぞ!!」
「なにい!? それは本当か!? どっちかデカいの捕まえられるか、フガフガッ、勝負だ!!」
「フガッ、フゴッ、準備できたか!? いくぞー!」
「二人ともマスクもつけろって言っただろ!!」
「忘れてた」
「スワンスワン」
「ギャハハボンちゃんだ!! 元気にしてるかな〜!」
「あもう、うるさい、ほんっとうるさいこのバカたち」

 ルフィとウソップは早速両鼻を鼻栓でギチギチにしている。この通り、船に置いておいても暇と元気を持て余してうるさいだけなので、止めないのが吉である。
 ゾロもマスク・鼻栓姿を厭わず「おれも散歩に」と口を開いたが、言い終わるより早く「誰がお前を回収するんだ」と人型チョッパーに大激怒された。
 ナミもまた海図を描くための測量に出たい気持ちはあったが、ブルーム病の男女が揃った空間の始末の負えなさは明白だし、マスクをするとはいえ鼻栓姿も乙女のプライドが許さず断念。
 そうして自ずと各々の方針が決まりだしたのを見計らって、「おっ。終わったな? よしサンジもこの通り元気なようだし、おめェら解散だ!」とフランキーがパンパンと手を打つ。彼は兵器開発や船の修繕、乳首のLED化などで忙しい身なのである。
 世界のアニキから解散の号令がかかれば、男たちは首輪を外された野犬のように振り返ることなく散っていった。

 男がいなくなった途端、サンジは「あ、空気が澄んでいくのが分かる…ドグサレ野郎どもめ…」と胸に手を当てて深呼吸。流れるような罵倒はやはり普通にキレている証である。
 乙女たちのヘアミストや香水の香りで内側から浄化されたサンジは、さて。最後の一人、君は……とナマエへ向き直った。

 ……ナマエとて先ほどから横顔に注がれる眼差しは感じていた。恋に落ちた瞳の、ゆだるほど熱い視線を。ずっと合わせることができずにいたソレに、ついにぶつかってしまう。
 サンジに真正面からジッと見つめられ……。

「わ…私は、ナマエ……この船の副料理長、です。……ランチの仕込み入りまーす」

 当然耐えきれず、業務連絡のそっけない口調でそそくさと席を立った。ナマエにはたとえ嘘でも美女二人のようにサンジをフることはできなかったのだ。
 副料理長と聞いてサンジはワ! と顔を輝かせて喜んだ。ナマエちゃんナマエちゃん、と尻尾を振って彼女の背中を無邪気に追う。

「そうか、ナマエちゃんもコックなんだね」
「はーい……」
「君のような美しいレディと毎日一緒にキッチンに立てるなんて、おれは幸せ者だな♡」
「あははははは……」

 心から嬉しい! という顔でニコッと笑いかけられ、ナマエは固まってしまった。

「よ…よろしくね、サンジ……“さん”……」
「ああ、こちらこそ!」
「……」

 呼び名の違和感にも気づかず、サンジ“さん”は「なにを作ろうか」とこれから初めてのデートをするみたいにニコニコと幸せに満ちて袖をまくった。
 それを見て、チョッパーは両前脚をテーブルに勢いよくついて「お、おれっ、」と椅子に立ち上がった。

「一日でも早く治るように薬とか治療法とか調べてみる! 新薬を開発するし、論文とか書くよ…! おれが…お゛れが万能薬に゛なる゛んだ、なんでも治ぜる医者になる゛んだ……!」

 今にも溢れそうな涙をグッと呑み込んで、頼もしく果敢に決意する。ブルーム病の典型的な症状を目の当たりにして己のトラウマにガリガリと爪を立てられながらも、Dr.チョッパーは大事な仲間を救うべく自分の医療室に引っ込んだ。
 また一人、食堂から姿を消す。ナミとロビンも用事は済んだわねと立ち上がるのを見て。

「サ。サンドウィッチにしよう。サンジ、さん、は食べ応えある肉系をお願い。私はええと、フルーツサンドを作ろうかな、ウン。じゃあ、ナミの畑からみかんもらってこないとね、ウン、いってくるね、ウン」
「ナマエちゃん?」

 ナマエは何もないところを見ながら一息に喋った。そして、ナミとロビンの腕を捕まえて食堂の外へ。
 ぱたん…と閉じた扉の向こうで、……ナマエは腰が抜けたようにしんなりとしゃがみ込んだ。ナミの手にかろうじて指を引っ掛けたまま、ジ…と俯いて黙っている。

「なーによ、アンタあれ嫌なの? 確かに少し鬱陶しい時もあるけど、好きに喋らせておけばいいだけよ」
「特殊な状況とはいえ、サンジったらナマエにメロメロね」
「……」

 少しくらいあの鼻の下、伸ばしてみたい——……確かにナマエはそう思って薔薇になろうと励んできた。ストレッチや筋トレのシェイプアップを続けているし、美容にも気を遣ってる。買出しの日だけはオシャレをして、彼の隣を歩けている。サンジも放って置けないような女になればきっと、と。
 でもサンジの態度はちっとも変わらなかった。悲しいまでにこれまで通り。幼馴染兼同僚の域を越えない。料理人としてのリスペクトはあれど、相変わらず扱いは男寄りで、ほろりと溢れるハートマークのひとつもない。どれだけ頑張ったところでやはり私ではダメなのかしらと一人ため息をつく夜だってあった。

 しかし、いま。
 サンジ“さん”はナマエに甘くてくすぐったい言葉を惜しみなく掛けている。それはおよそ彼女が求めていた女の子扱いである。
 まさかこんなに破壊力のあるものだと思わなかった。違和感を感じながらも、まともに食らえば太刀打ちできないほどのトキメキが彼女の背骨を毎秒撫でていた。
 病によるものと分かっていても、3日間限定の紛い物と知っていても。好いた男にカワイイ・きれい・素敵と褒め尽くされれば嬉しくならないわけがない。
 端的に言って、ナマエは素で照れていた。


 あんな言葉、病気による錯乱だ。病気になったから初めて言ってもらえた。それでも嬉しい。彼の口から出る言葉は煌びやかである。だけどどんな女の子にも言う言葉。だから真に受けてはいけない。でも。言われてみたかったものだ。されてみたかった扱いだ。しかしあれは一時のまやかし。3日経てば影形もない。な、ならば3日の間くらい……そう思うのは浅ましい? 幻影にすがるようで惨めだろうか……病が治ったあと、サンジに知られてしまったらどうする? 笑われる? 軽蔑される? 一生ネタにされるかも……ああ、でも、もう知ってしまった。好きなひとが王子様になってくれる夢。あ。だめだって。こんなの、麻薬みたいで、いけない。……

 このようにたくさんのでも・だってを無限に繰り返し。

「ど、どうしたらいいのよう……」

 ナマエは真っ赤になった頬を抑えて、困り果てた声を出した。


 一方。キッチンに一人残されたサンジは、ナマエの言いつけを守ってパンに挟む肉を焼いていた。鼻歌交じりでレタスやキュウリも準備している。
 ナマエは返事もろくにせず、視線も合わせず、ナンパに絡まれて困る乙女のように素っ気なかったが、サンジはまったく気にしていなかった。
 彼は強烈な恋の中にいるのだ。振り向いてくれないことは敗北条件にはならず、むしろどうしたら振り向いてくれるか一生懸命悩むことが楽しみである。
 そばに居られるだけで嬉しい。言葉を交わせたらもっと嬉しい。もしも笑いかけてくれたなら、手を繋げたら、キスを許してくれたなら……それはどんなに幸福なことだろうか。
 加点方式の恋は一切の陰りを見せず、サンジの脳みそに常にハート柄の淡い靄をかけていた。


 なるほど、“ブルーム病”。
 花盛り・百花繚乱・咲き乱れ……煌びやかな春の景色になぞらえたこれは、“頭の中お花畑”を皮肉ったドクターズブラックジョークが利いた病名であった。