08

 
 分析の努力虚しく、ナマエはピートとの調味料当てゲームで連敗していた。

「はい。どぉぞ」

 そう言って今日はアンコウ鍋が入ったスープジャーを渡され、ナマエはサニー号で唸っていた。悔しいの文字が黒い霧になって見えそうなほど、彼女は険しく懸命な顔でピートの料理に向き合っている。
 それを向かいの席でタバコの煙を真上に立ち上らせながらサンジは眺めていた。頬杖をつき、左の膝に引っ掛けた右足首から先をくらくら揺らし。

「……なな」
「ダメ」
「一口、スープだけ」
「ダメ!」
「ッカーー! 強情な!」
「もうっ、うっさい!!」
「ンハハ」

 と、今日も追い払われてカラカラと笑う。そして彼は再び彼女の鑑賞に戻る。

「……サンジは出かけたりしてないの? この3日、いつも船にいる気がするんだけど」
「ナマエが朝早くに出すぎなんだよ。おれだって島観光だとかナミさんたちのエスコートだとか、適当に満喫してるぜ」
「ふぅん……」

 ノートにペンを走らせるナマエの手が一瞬止まる。
 それは島観光という名のナンパ三昧じゃないのか。エスコートという名のデートじゃないのか。チクンと痛んだ胸に蓋をして、ナマエは再びペンを走らせた。彼女もまた、とやかく何かを言える立場にいないのは痛いほど分かっているので。

「マ、4時ごろには戻ってきてるよ。みんな夕飯には大体帰ってくるからメシの用意しとかねェと。腹空かせたどっかのバカに食糧庫を空にされちゃたまんねェからな」
「…………え、」

 こともなげにされたサンジの話に、ナマエは今度こそ手を止めた。そして、愕然とした表情で顔をあげ、サンジを見つめた。
 現在、時刻は夕方。そう、じきに島で遊んだルフィやチョッパーたちが腹を空かせて帰ってくる頃だ。今夜のメインの肉はタレに漬け込んでおりあとは焼くだけで、焼いている間の繋ぎにする副菜もすぐに出せるようにしている。
 この船の人々はてんでばらばらに行動するわりに、日が暮れて腹が空くとちゃんと帰ってくるのだ。小さい頃から帰る家があった者はその習慣で、なかった者は今はあるのが嬉しくて。仲間と落ち合って酒を飲んでくる夜もあるけど、寝床といえば大抵この船である。
 あかりの灯るサニー号に仲間たちがぞろぞろ帰ってくるまでのこの時間は、つまりサンジの空き時間であった。

「う。うそ……私上陸してから厨房の仕事なにもやってない」
「? いいだろ、別に。ほらお前、この通り忙しそうだし」
「い、いやいやいや。私、副料理長。この船のコック! 仕事!」
「なにを今さら……もう停泊3日目だぜ? 今日の準備も終わってる」
「夕飯の仕込みあるなら言ってよぉ……!」
「言うも何も……帰ってくる面子も時間も決まってるわけじゃねェし……」
「でもサンジは作ってた!」
「だァからそれはルフィに食糧庫漁られるよりはマシだからってだけで……」
「ッッ……!」
「料理バカっつーかなんつーか……よくわかんねェとこでキレるなァ……」

 ショックを受けるナマエをサンジは半ば感心しながら宥めた。
 初日、ナマエは自分で作ったパスタを食べるサンジを見て、「あ、長期停泊中はオフってわけね」と勝手に納得してしまったのだ。しかしあれは小腹が空いたサンジが夕飯前におやつ感覚で食べていただけである。でも、一食分にあたる料理を夕食前に軽く平らげられる食べ盛りの男の胃袋の感覚なぞ、ナマエは到底想像できなかった。なので、こうした勘違いが必然的に生まれたのだった。
 確かにあのあとルフィたちがドヤドヤと食堂に雪崩れ込むようにして帰ってきたが、研究中のハルカジキのソテーやサンジに作ってもらった料理を見るなり「くれ!」と騒ぎ出したので彼女は早々に女部屋に退散してしまった。彼が下準備を終わらせていた食材を手早く調理してディナーとして出してやっていたことなど知る由もない。彼女は部屋に下がったあとも没頭していたし、明日に備えて早めに就寝してしまった。
 2日目は初日の教訓を活かして早々に女部屋に引っ込んだ。3日目の今日は、市場で見つけた比較的馴染みの薄い調味料を吟味するためやや早めに帰ってきて、こうしてサンジと出くわした、というわけだ。

 わざとではないにしろ、自分だけ仕事をすっぽかしていたようできまりが悪い。サボりやがって! と一言責めてくれた方がいっそ気楽なのに、サンジはそれもしない。彼女の熱意に感心して、「うーん、どうしたらコイツ黙るんだろう…」とほんの少し困っているだけだ。

「あ。じゃあ、明日こそその勝負に勝ってこいよ。そんで、お魚さんセットだか何だかをゲットして、振る舞ってくれ」
「うーん……そこに話が戻るか……」
「明日の魚は?」
「フユカレイ……」
「お。カレイ。いいねェ」
「はぁーーー……わかった、頑張る……うううダメだ、これも違う! 明日もう一度片っ端からマーケットをめぐるしかないか……」

 ナマエは両腕をぐーっと前に突っ張って、ずっと丸めていた背中を伸ばした。首を回してため息をひとつこぼす。
 バラティエでもサニー号でも肩を並べる彼女がここまで苦労するとは。サンジはコックとしての好奇心をさすがに抑えきれなかった。

「なあ、明日はおれも行きたい。その店」
「えー…」
「ソテーにアクアパッツァに鍋。もう3品もお預けくらってんだぜ? さすがに気になる」
「うーん……」
「勝負の邪魔はしない、おれはただ食うだけ。いいだろ?」
「……分かった。明日は2食分作ってもらえないか、朝一番でお願いしてみるよ」
「やりィ」

 サンジは語尾に音符を滲ませて、にっと歯を見せて笑った。
 一人の男としては言えない台詞も、コックとしてならこうも簡単に言える。残念ながら当の本人は話題の店に気を取られていて、上手くデートに誘えた自覚もないようだが。

「じゃあ…ここに15時だよ」

 リュックの外ポケットを漁ってピートからもらった地図をサンジに差し出す。ナマエはもう店の場所を覚えているので不要だ。彼は15時ね、と繰り返して紙を受け取った。

 とまぁ、そんな約束をサンジにしたので。

「え?」
「急なお願いで申し訳ないんですけど……今日はその同僚も食べにきたいって……」
「へえ……ナマエちゃん、お友達に宣伝してくれたんだ?」
「してません」
「あはは。いいよ、今日は2人分用意しておく」
「! ありがとうございます」
「ナマエちゃん、今日は当てられそう?」
「ええ、絶対に!」
「うん、またあとでね」

 開店準備をしていたピートを捕まえ、ナマエは無事に約束を取り付けた。
 彼女はピートと別れると慌ただしく島のマーケットへ向かった。
 ピートが地産地消と言うからには、やはりここで仕入れたものに限られるはず。大方見て回ったと思うけれど、穴場のような店でもあるのかしら。ナマエは頭の中でぶつぶつ悩みながら、とりあえず端からもう一度見ていくことにした。夢の成就にかける彼女の熱力はアッパレなものであった。

「……あっ…!?」

 そして見つけた。まさしく穴場のような店を。
 そして。

「おお〜……大正解」

 最終日にして、ついに彼女はピートのゲームに勝った。
 ピートは口を丸く開け、ぱちぱちと拍手を送った。見事すべての調味料、ついでに香草とスパイスまでも言い当ててみせたナマエに心底驚いたし、感服したからだ。
 カウンター席、ナマエの隣で同じフユカレイのムニエルを食べたサンジは、へぇー…とこちらも感心した様子で彼女の凛々しい横顔を見ていた。
 しかし、その横顔の凛々しさには怒りが混じっていた。

「さすがだね。すごいや」
「……あの露店のおばあちゃん、店で出してるものは、おばあちゃんちの畑でしか育ててない実を使って手作りしてるらしいじゃないですか」
「なかなか良い味出してるだろ? おれのお気に入り」
「お店は週に一度しかあの市場に出さないそうです」
「ご老体だからねえ」
「その週一の日が今日! この3日間、当てられなくて当然ですよね!」
「おれもナマエちゃんがハルカジキを持って帰ったあとに気づいたんだ! ほんとうっかりしてた、いやーごめんね」
「じゃあナツマダイ以降は分かった上でってこと!?」

 ナマエはガタッと立ち上がってピートを責めた。もとからの身長差のせいで彼女は見上げる格好でカウンターの内側にいる彼を睨む。
 ピートは彼女の威勢に一歩退き、「あはは…うん」と白状した。アッサリと認めたピートに呆れて脱力したナマエは再び丸椅子にすとんと腰を下ろす。両の拳は悔しさでカウンターの上できつく握られたままだが。

「勝ちようのない勝負を持ち掛けて……!」
「言っただろ? この店閑古鳥なんだ。だから、ナマエちゃんに1日でも長く構ってほしくて……怒らないで、会いたかったんだもの」
「く……」
「ね、ナマエちゃんうちで働かない? だめ?」

 腰を曲げてカウンターに肘をつき、ピートはナマエの顔を覗き込むようにして言った。「叱らないで、お願い……」とご主人の機嫌を伺う健気な飼い犬のように首を傾げて、彼女の拳を自分の両手でふわっと包む。
 すぐ隣にサンジという初対面の男がいると言うのに。
 ピートの手にすっかり覆われた彼女の手、前屈みになったせいで思いの外近づいてる二人の鼻先、威嚇と嘆願で意味合いは違うがガッチリ絡み合った視線……サンジはそれらに慌ただしく視線を動かし、オイオイオイオイふざけんな!! と顔を引き攣らせる。しれっと引き抜きまでしやがって!
 マ、ナマエはいまこの瞬間も魚にしか興味がないので差し障りはないのだが、ロマンスさえ感じるこの強烈な絵面をSクラス席で見せられたサンジにとってはそういう問題ではない。

「……魚、譲ってくださいね」
「うん。ゲームすごく楽しかった!」

 ピートは笑顔でパッと手を解き、ロマンスのいち風景はあっけなく終了する。彼が厨房へナマエを案内する。サンジはいつまた妙なロマンス劇場が始まるのではと気が気でなく、勝手についていった。
 業務用冷凍庫のお魚さんパックを見せてやると彼女はコロッと機嫌を直してはしゃいだ。

「何尾でもどぉぞ」
「なっ、何尾でも……!?」
「好きな数だけって言っただろ?」
「何尾でも……」

 欲を言えば全部ほしいのだろう。もとよりすべて競り落とす気でいたのだ。しかし店を構える人間からすべてもらうのは気が引けているらしく、ナマエは良心の呵責で二の足を踏んでいた。
 彼女のそんな心中を察し。

「ナマエ、全部もらっちまえ」
「えっ…でも……」

 サンジはそう唆して、悪役を買った。
 えっ、と声を上げたのはナマエだけじゃなかった。「きみが言う?」という顔で斜め後ろを振り返ったピートの肩をすかさず抱いて、サンジは前を向いたままそっと耳打ちした。

「あいつ、絶対一人で当てるんだーってそりゃもう一生懸命だったぜー……。純朴なレディを4日間も弄んだんだ。これくらい安いもんだろ?」
「う゛……」
「いいよな?」

 疑問文とともに答えを促すように肩をポンポン叩くのは、バラティエ仕込みのチンピラ流説得術だ。コツは、口調は努めて穏やかなものにすること、だが肩はガッチリ抱くこと。あえて目を合わせない方が効果的。

「い、いいよ〜……」
「だとよ!」
「〜! ありがとうございます!」

 ナマエはキャッと喜んで、お魚さんパックにキラキラとした目を向けた。サンジも拘束を解いて「まいど」と笑う。

「では、ありがたーく頂戴します」

 ナマエは魚を詰め込んだ保冷リュックを胸の前で大事に抱え、店先で改めて深々と頭を下げた。彼女が顔を上げるとほぼ同時に、ピートは一歩歩み寄ってナマエのリュックの肩紐の端をキュッと握った。

「ナマエちゃん、明日はもう、ここには来ない?」
「はい?」
「明日からまた暇ンなっちまう」
「え、」
「本音を言えばさ、当てられなくてここに残ればいいと思ったよ。次の競りでハルカジキやナツマダイがまた出るまで、ナマエちゃんがおれの店にいてくれたらって」
「ピートさん……」

 叶わない願いと知りながらそれでも思わず…と、ピートはいじらしく目を伏せながらぽつぽつと話した。
 先ほどのロマンス劇場といい、ちょっと考えれば口説かれていると分かるソレだった。
 マしかし、この女はこの時もちょっとも考えなかった。むしろ、まるで天啓でも受けたかのような顔で、黒ベタの背景に細い稲妻をほとばしらせて「ピン!」とオノマトペを出して全く別の方向に閃いていた。

「……ピートさん。お店、閑古鳥って言ってましたもんね……サンジが来たいって言い出したと話した時も、宣伝してくれたの? って嬉しそうでしたし……」
「ん?」
「わかりました。魚のお礼と言ってはなんですが、明日はほかの仲間を連れて食べに来ます!」
「えっと?」
「明日だけでもきっといい稼ぎになりますよ! 期待しててください!」
「おお?」
「夕飯の仕込みもありますので、今日のところは一旦帰ります! ではまた明日!」
「ナマエちゃんっ?」

 爽やかに・快活に手を振って、ナマエは踵を返した。最後のセリフからにじみ出ているように、彼女はお魚さんパックを調理したくてうずうずしているのである。今日こそサニー号のコックとして活躍しなければという意気込みもある。なので一度もピートを振り返ることなく、港へシャキシャキ歩き出している。
 そして置いてけぼりを喰らった男二人は。

「ええっ!? あれわざと!?」
「ヒーーーッ! うひゃひゃひゃひゃ」

 ピートは思わずサンジを振り返り、サンジはゲラゲラと腹を抱えた。サンジは背中を丸めて目じりに涙をため、「ナマエが料理バカでよかった〜!」と心の底から思う。撃沈したピートを笑ったというより、斜め上に突き抜けていった彼女が相当トリッキーで面白かったのである。

「んじゃまた明日! いい食いっぷりの奴がいるから、楽しみにしてな!」

 と、サンジも景気よくピートと別れ、小走りでナマエの背中を追いかけた。


***


 さて翌日。
 ナマエとサンジは約束通り仲間を連れてピートの店を訪れた。

「ここか! サンジとナマエのおすすめの店ってのは!」
「おう。おれの奢りだ。たんと食え」
「ウヒョー!!」

 早速、厨房の真ん前、カウンター席にルフィは元気いっぱいに着席した。
 ピートは「ひとり?」とキョトンと瞬いた。若い男の子がたった一人。育ち盛りで腹ペコであることは一目で分かるけれど……どんな巨漢が、はたまた大所帯がくるかと珍しく前夜から仕込みをして待ち構えていたピートは肩透かしをくらった気分だった。
 あとから来るの? と聞こうとしたピートの鼻先をビヨンと勢いよく伸びた腕が掠めていった。その手は離れた場所にあったメニューをつかんで、再びビヨンとルフィの目の前に戻る。マイペースにメニューを広げてニコニコしている彼を見て、ピートは言葉を失っていた。

「ゴム製」

 ルフィの隣の席に腰掛けたサンジは、ルフィの頬を常人ならありえない長さまでミヨンと簡単に伸ばしてそう一言。手を離せばパチンと良い音を立ててルフィの頬肉は元通りの場所に収まる。

「よォ〜く伸びるぜ。胃袋も」
「は……?」
「んー! 絵がないからよく分かんねーけど、とりあえずここからここまで!」
「と、とりあえずってきみ……」

 “ここから”でメニューの1品目を指し、“ここまで”で最終ページの1番端を指したルフィに、ピートはポカンと口を開けた。
 すると「さ、オーダーも入ったし…」とサンジが立ち上がる。ジャケットを空いた椅子の背もたれに掛けてカウンター横から厨房へ回った。

「さすがに申し訳ねェから手伝う。邪魔するぜ」
「私もお邪魔しますねー……間違いなくいい稼ぎにはなるとは思うけど…うん、ね、一人で回すのはね、うん、さすがに…ちょっと」
「……アッ、すごく嫌な予感がする。すごく嫌な予感がする!」
「ピートさん、お店のレシピ、どこかに書きまとめたものとかあります?」
「そ、そっちの棚の上に……」
「どれどれ……」
「アほんとに嫌だ! 大変なことになる気がするんだけど!!」

 その悪い予感は正しかった。
 ルフィは全メニューを一巡、肉類の大皿メニューを各種30皿、スープ類を飲み物代わりに各種20杯ずつ、そのほか目についた料理を適当に最低10皿ずつ……というデタラメなオーダーでピートを泣かせた。店の食糧庫がかつてないスピードで空になっていく様を見て彼の脳裏には「イナゴ」という単語が浮かんでいた。脳みそは勝手にルフィを自然災害に分類したらしい。
 ピート一人であれば、厨房はとっ散らかってパンクしていただろう。しかし、サンジとナマエという一流料理人かつルフィの胃袋のつくりを理解した人間が入ったことで、戦場であることには変わりないものの現場はなんとか回っていた。
 そうして格闘すること約2時間。

「お。もう食材がねェや。ルフィ! 小遣いやっから表通りでおやつでも食ってこい」
「ウヒョー!! なんだ、今日は羽振がいいなサンジ!」
「なんか知らんがおれもブルックから小遣いもらったんだよ」
「へー。いやー食った! うまかった! ありがとなー!」
「あ、ありがとうございましたー……」

 サンジから投げられた金の入った小さな袋を受け取って、災害まがいの麦わら帽子はぷくぷくに膨れたゴム製の腹をさすってにこにこ去っていった。

「〜〜〜〜……」

 ドッ…と肩にのしかかった疲労感にピートは思わずひざを折った。
 店をつぶされるかと思った……。嵐を乗り切って安心したが、厨房はどれだけ荒れていることか。サーブに必死で後片付けに気を回している余裕などなかった。振り返るのが恐ろしい。

 ……どうして食材はすぐに使えたのだろう。仕込みはしていたが予想をはるかに上回る量だった。解凍が必要な食材もあったはず。なぜ限られた数しかないはずの食器は足りたのだろう。ほしいと思ったタイミングでほしいものが手元に現れたのは魔法だったのか。温かい料理は温かいまま、冷たい料理は冷たいまま、一番味が引き立つ最高の状態で麦わら帽子の青年の前に出せたのは奇跡的だった。なぜ? ……そういえば何をオーダーされたのか、書き留めていない。そんな暇はなかった。素晴らしい売り上げだということはわかるが、具体的な請求額はさっぱりだ。商売として完全に成り立たない。どうしよう。

 こうした疲労と混乱と一抹の絶望がピートの頭の中で銅鑼の音のようにぐわんぐわん何重にも響いていた。

「お疲れさまでしたー」

 キュッと蛇口が閉まる良い音が響いた。調理台にもたれかかって首を緩く回すサンジも「おつかれー」と適当な声を出す。それにつられてよろよろとピートが振り返る。

「あれ……」

 厨房は予想に反してきれいだった。
 ナマエは最後の大鍋を逆さにして洗いかごに伏せているところで、サンジは拭き終わった皿を戸棚に戻しているところだった。
 布巾で軽く手を拭いたナマエが調理台の端に置いていた紙切れを持ってやってくる。

「ピートさん、お勘定これで間違いないか確認をお願いします。漏れてるものありませんか?」
「……。漏れるも何も……なにをいくつオーダーされたか覚えてない……」
「忙しかったですもんね」
「……二人ともここで働いたことあったっけ?」
「? ないですよ」
「なんで今日初めて見たレシピを完全再現できるの?」
「レシピに書いてあったので……」
「なんで鍋とか調理器具の場所が分かるの?」
「最初にざーっと見たので……」
「なんで解凍時間を含めて食材管理ができるの?」
「レシピを見てたし食材の確認もしていたので……」
「いつのまにオーダーシート書いて片付けまでしてたの?」
「合間合間で……」
「???」
「?」

 身も心も消耗したピートは、飼い主に相対性理論を説かれた犬のようにゆっ…くりと首を傾げた。
 その間にサンジはカウンター席側に回り、椅子に引っ掛けたジャケットの内ポケットをあさってタバコに火をつける。そしてルフィが食い散らかした皿の片付けにはいる。

「ピート、お前が粉かけるついでに引き抜こうとしたヤツはそういう奴だぞ」
「え……」
「ナマエは13のときから世界中を回って武者修行まがいのことしてんだよ」
「武者修行だなんて……別にそういうんじゃないし。あちこちの厨房で働いてきたのは本当だけど……」
「似たようなもんだろ。んで、現場で使い物になるヤツってのは、単なる料理の腕だけじゃねェ。覚えの良さ、要領、雑用仕事含めた全部をこなせるオールマイティーさ、なによりもバケモノみてェな忙しさに一秒も怯まない肝っ玉だ」

 とんでもない量の皿を両手と頭の上に重ねて軽々持ち上げ、サンジはさも当然という顔で言った。
 一理ある。確かに一理あるのだが、これはサンジのバラティエでの経験則である。
 新人だろうと何だろうと、バラティエではこれらがひとつでも欠ければ容赦なく罵詈雑言と暴力を浴びせられるのだ。というか、たとえすべてを満たしていようと罵倒と暴力が飛んでくる。海の真ん中には労基が存在せず、あの船ではオーナーが絶対で、そのオーナーが罵倒と暴力の筆頭なのでどうしようもない。ウェイターどころか新人コックが居着かないのも納得で、バラティエには海の一流料理人しか働けないのではなく、バラティエでも生き残れるような輩が海の一流料理人になっていくのである。

「ナマエは優秀なコックなんだ」

 厨房側へ戻ってきたサンジは「だから」と言葉を続けながらピートの横を通り過ぎて洗い場へ。

「あんなやっすい口説き文句でこいつを引き抜こうなんざ、うちのキャプテンが許さねェし、おれも許さねェよ」

 ガシャンと皿をまとめて置く。
 まったく、困ったもんだよ……という呆れを含んだ口調でタバコを吹かし、洗い桶に新しいぬるま湯を張った。
 ピートがポカンとこれを聞く横で、ナマエは「サ。サンジにコックとしてなんだか手放しで褒められている……!」とテレテレとオーダーシートの端をいじっている。腕を買ってくれていることは言葉の端々や態度から分かってはいるが、ここまでストレートに言われることは珍しいのだ。

「あ。ワリ、先に勘定するワ。さ〜て、おいくらだ〜…? おうおう、えっぐいな」
「あっ…わ、私、洗い物片付けてくる……」
「ん? ああ、頼んだ」

 くるりと舞い戻ってきたサンジに手元のシートを覗き込まれ、たいして近い距離でもなかったのにナマエは羞恥心に負けて入れ替わりで洗い場へ逃げていった。
 サンジは、ブルックからもらった謎の小遣いでルフィの食事の代金を支払った。
 その金は「若者のデートは何かと入用ですからね…」という老婆心でブルックがストリートパフォーマンスで小粋に稼いできたものであったが、サンジはそれを知らない。知らないので、二人の恋路にまったく関係のない金の使い方をした。

「あ、あ。やめてくれよ、これチップ入ってるだろ。あんなに助けられておきながらチップだなんて、」
「いいよ、迷惑料だ取っとけ。つーか本当にピートの料理は美味かったし」
「……」
「男の照れ顔なんて一文にもなんねェぞ」
「き、きみみたいなコックに言われたら仕方ないだろ……」
「そりゃどうも」

 結局ピートは折れて代金を受け取った。
 そうして支払いと片付けが終われば、二人仲良く並んで「ご馳走様でした」と頭を下げた。二人とも厨房で働きどおしだったのに……とピートは思ったが、実は厨房で散々つまみ食いをしていたのでご馳走様で相違ない。ちなみにこの分もきちんと勘定にも乗っかっている。

 そして、爽やかに・快活に手を振って、二人は踵を返した。
 その仕草が昨日のナマエと寸分の違いもないことにサンジは自覚がない。彼の頭の中は、今日見て作らせてもらったピートのレシピから得たアイデアでいっぱいだ。
 下処理にアレを仕込むとあのような風味が出るのか。この食材の組み合わせは面白い。船旅向きの保存食で再現するとしたら。純粋にもう一度同じものを作ってみたい。ああ試したいことが山ほどある! 忘れないうちにすべて案を書き留めたい! サニー号のキッチンが待ち遠しい!
 同じように踵を返して店を出たもう一人の頭の中も似たようなものだった。そのため。

「や…野菜、買い足してもいい……っ?」
「おれは魚……や! 肉もだ!」
「アクアパッツァのあれ!」
「試したい! 試したいよなッ!?」
「うん! え待って買出し、買出し明日でいいよね? 間に合うよね?」
「間に合うっつーか間に合わせるからいい、今日はもうそういう日じゃなくなったんだ、分かるよな?」
「分かる。じゃあ私、思いついたこと全部勝手に言うからサンジ覚えてて。万が一にも船に辿り着くまでに忘れたらいやなの」
「待ておれも浮かんでること片っ端から言う、ナマエもおれの代わりに覚えてくれ」
「任せなさい!」

 二人はのべつ幕なしに喋り続け、真っ直ぐ向かったマーケットで必要そうな食材をどんどん買い込んでいく。買出し用の荷車もリュックもないのに、楽しくて抑えがきかない。
 サンジは昨日、ナマエが料理バカで良かったと心の底から思ったけれど、彼もまた呆れ返るほどの料理バカなのだ。

 上陸直前まで憂いていたのが嘘のよう。
 結局サンジはナマエの虫除けにもなれたし、荷物持ちにもなれた。素直に「一緒にいきたい!」と言えたことで今日のこの時間に繋がった。

 出航後、サンジの話を聞いて項垂れたのは、頑張って稼いで貢いだ金が船長の食事代としてすべて消えていたことを知ったブルックだけだった。