11
「なぜ今日に限ってこんなに早起きなんだてめェは!!」
「いやー、腹減っちまってよー。目ェ覚めた」
「ギイイイ」
「いやサンジさんの分も作るって」
「ナマエちゃん……可憐なレディひとりにコイツの胃袋の相手をさせて、自分はただ座ってるだなんて……そりゃ男の恥だぜ!?」
「ひとりで相手できるって。私の紅茶飲みたくないの?」
「のみだい゛っ!!!!」
「吐血するくらいなら座ってなって」
「ああっどうか、どうかお願いだ……このクソゴムの食事が片付いたら、おれと一緒にお茶を飲んでほしい……」
「構わないけど……」
「なんでもいいからメシ作ってくれー」
「ったくうるせーんだよ! 厚切りベーコンエッグサンドでいいか!?」
翌朝、誓い通りブルックは起きてこなかったが、ルフィが起きてきた。豪快に腹を鳴らし、ダイニングテーブルに頬をつけて舌を垂らしている。腹ぺこに耐えかねてメシメシとしきりに鳴いている。
怒りながらもルフィ好みのオーダーを取り、袖のまくってサンジがキッチンへ入ってくる。しかしナマエのそばにくるなりシュンとした顔で「明日こそ、絶対……」とメソメソする。
彼のそんな姿は、なんだかちょっと、可愛らしかったりするのだ。
ブルーム病発症2日目。
サンジは相変わらずであった。相変わらずナミとロビンとナマエの“3人”にメロメロと鼻の下を伸ばしており、愛のバラードは鳴り止まず、ハートマークが船内のあちらこちらでばら撒かれている。
しかし今日の昼を過ぎれば、自然治癒までの3日間も折り返しである。シャボン玉が割れるようにある一点でたちどころに戻るのか、麻酔が切れるようにじわじわと戻るのかは定かではないにしろ、ナマエへのお姫様扱いも終わりの影が見えてきた。
この先、サンジがこうなるのは二度とないかもしれない。そう思えば惜しい気もするが……病気は病気だ、治るに越したことはない。このままではチョッパーも泣き続けてしまうし。
それに、彼に忘れられ続けるのはそれなりにさびしい。
数年のブランクこそあれど、二人の間には、二人が重ねてきた確かな思い出がある。
ナマエは昼食づくりを進めながら脳裏でそんなことをぼんやりと考える。
「……あ」
「ん?」
「それ、“意地でもオレガノ使わないレシピ”でしょ」
「えっ、なんで分かったんだ?」
「なんでって、そりゃまあ……同じ船のコックだし」
「あー……おれは前にも君の前でこれを作ったことがある、ってわけだ?」
「そうね」
「……これができた、いきさつも?」
「あはは、知ってるよ」
知っているもなにも、ナマエはすぐ隣で見ていた。「オレガノは品がねェ!」とゼフのレシピに何度も真っ向から噛みついて、オレガノ不使用のアレンジレシピを開発している彼の姿を、バラティエで。
肉魚の臭み消しや香り付けに優秀なオレガノだが、食材そのものの繊細な風味まで消してしまうからとサンジは昔からあまり好まない。チビナスの反骨精神は凄まじく、オレガノ派のゼフとはよく大喧嘩をしていた。
ふと隣で肉の下味をつけるサンジの手元を見て、ナマエはそんな懐かしい記憶を思い出したのだった。
「チョッパーからはおれの記憶がトんでるってのは聞いてるけど…こうも忘れちまってると、知らないうちに同じ話を繰り返してそうで悪いなァ……ナマエちゃんはおれのこと、どこまで知ってるんだ?」
「どこまでって言われると……知ってるような、知らないような……」
ナマエは首を傾げたのち、「あ。」とパッと顔を上げてサンジを振り返った。
「じゃあ改めて話してみてよ。サンジさんのこと」
「え?」
「気にするくらいなら、いっそはじめから話してみればいいでしょ。知ってる話をされても私は構わないし」
「え、ええー…?」
「むしろちょっと聞いてみたくなってきたなー」
「そ…そういうもんか……? うーん……あー……」
「うんうん」
「…………おれ、ガキの頃から料理が好きでさ」
ナマエに促され、サンジは少し気まずそうにはにかみながらも、ぽつぽつと口を開く。
「クソ下手だったし……周りにも、散々バカにされてたけど…、でもやめられなくて……昔働いてたそのレストランでクソしごかれてやっと上達した」
「たくさん頑張ったんだね」
「へへ、まあね…。おれがいたレストランは海上レストランなんだ。港から桟橋が伸びてるって意味じゃない、海のど真ん中に浮かぶ船型のレストランさ! 噂を聞きつけて島からわざわざご来店されるお客様も、海難事故の果てに運よく辿り着くお客様もいる。腹を空かせた皆々様を等しく迎えるのが、海上レストラン・バラティエだ」
「最高のレストランね」
「コックは全員海の一流料理人、腕利きの猛者だけ。もちろん、おれも含めてね。……こう聞くとえらく洗練された高級店に聞こえるかもしれないけど、実情はだいぶ違う。人間、生きてりゃ誰でも腹が空くもんだ。そこには善人も悪人もねェ」
「じゃあ海賊もご来店?」
「そう! でも、食わせるさ。腹が減ってうちへたどり着いたってなら、誰でもな。それがオーナーの信念だ」
「なら用心棒でも雇わないとさすがに危ないんじゃない?」
「心配御無用。バラティエのコックたちはそこらの海賊より腕が立つ」
「ずいぶん物騒だね」
「おかげさまで、おれもこの船がよく似合ってるだろ」
「アハ、たしかに!」
オレガノが揺り起こした古巣の記憶だ。
聞き飽きたという顔をされてないかなとナマエの顔色を密かにうかがいつつも、それでも嬉しそうについつい話してしまうのは、やはりサンジがあの場所を愛しているからだ。
ナマエは彼が少しでも話しやすいように相槌を打ちながら、彼の話を聞いた。
サンジがフライパンをコンロにかける。五徳の下で炎がチチチッと丸く走る。
「ナマエちゃん。ゴリラとワニとサイとカバとクマとイノシシとトラとハゲワシとサメが入った1つの檻を思い浮かべてみて。全員気性が荒くて協調性のカケラもないアニマルたちだ……あ、ダイオウイカと巨大カマキリも追加で。…………どう? 想像できた?」
「? う、うん……」
「よし、それがバラティエの厨房だよ。完璧に再現されてる」
「っ、あははは!」
「一緒に働いてたやつらはどいつもこいつもムカつく野郎だ! どうしようもねェチンピラ崩ればっかりで、言葉遣いもツラも凶悪。ついでにレディの扱いもなってない。厨房には常に怒鳴り声が響いてて、誰かに頼み事をするときは相手の胸ぐらを掴むのがマナーだった」
「ふ、ふふ、言いすぎ……」
「だが、どうしてかそこで出来上がる飯は美味いんだ。嘘みたいだけどどの皿にも真心がこもってて……本当に美味いんだよ、アイツらの料理。すげーよなァ……」
「……それ、みんなにちゃんと言ってあげたことある?」
「あのアニマルたちが人間の言葉を覚えたら言うつもりだよ」
サンジはオリーブオイルを熱したフライパンにニンニクのスライスを入れ、キュートに肩をすくめてみせた。
サンジは面と向かって彼らを褒めてやったことは一度もないらしい。しかし素直に褒められないのは、パティやカルネたちも同じだ。気性が荒くてチンピラ崩れで、意地っ張りで素直じゃない。サンジもまたそんな荒くれコックの一人なのだ。
バラティエにいる男たちの本心は、サンジの船出という一大イベントでようやく見られる稀代の品なのである。
「そんな奴らをまとめあげてるオーナーは当然さらにおっかない。このオーナーがこれまたムカつくジジィでさ! 頑固だし口うるせーし、いつも腹の立つことばっかり言いやがる! いつまで経ってもこのおれを半人前扱いだ」
ナマエは「お、」と思った。
気心知れた仲間についての紹介がアレなら、オーナーにはどんな捻くれた愛情表現が飛び出すやら、と彼女は内心ワクワクしながら耳を傾ける。
「だけど、おれはあのひとに全てを教わった」
続いた声は、ナマエの想像を裏切って温かくて穏やかだった。
「オーナーゼフの料理は最高だ。あの味はなににも負けやしねェ。でも、オーナーに教わったのは素晴らしいレシピの数々や調理のコツだけじゃない。料理人としての信念や誇り、一人の人間として生き方、全部、全部なんだ」
ナマエは思わず手を止めて、サンジを見やった。
彼がいま、どんな顔をしているのか、無性に見たくなったのだ。
「おれはあのひとを、世界一だと思うぜ」
その瞳にはやさしい熱がこもっていて、口元は緩く弧を描いていた。
「ふふ、オーナーのこと大好きなんだ」
「だっ…、ん、まあ……嫌いじゃねえ、恩もあるし……尊敬はしてる、感謝も、してる」
「素直じゃないねえ」
「あんまりからかわないでくれよ、ナマエちゃん」
「ごめんごめん」
かつてのチビナスはとにかく生意気で、素直に気持ちを言えるような少年ではなかった。子ども扱いを嫌い、とにかくゼフに一人前と認められたくて毎日必死な子どもだった。——……それがナマエの知るサンジ少年だ。
サンジがゼフに対して並々ならぬ巨大な感情があることは彼女も肌で感じ取っていた。どんなにひどい喧嘩を繰り返して悪態をつこうが、サンジは決してバラティエを離れようとはしないのだ。彼があの店を離れない理由を、バラティエ誕生の前日譚をナマエは知らないけれど、それを暴こうと思ったことは一度もない。
ナマエの記憶には、サンジの怒った顔以上に、ゼフに珍しく褒められたときやゼフの新作料理を試食したときの嬉しそうな顔が深く残っている。目は口ほどにものを語っていて、結局のところサンジはオーナーが大好きなんだろうなとナマエは理解していた。それだけ分かっていれば十分である。
彼は「教わった」という言葉を使ったが、ゼフの指導はそんな丁寧なものではない。厨房に入れてやるから勝手に技を盗め、常に頭を使って貪欲に学びながら働け——……昔気質の不親切なやり方だ。
だからサンジはゼフによく似ている。サンジはゼフの背中を誰よりもずっと見てきた。料理の腕前や姿勢もこの通りよく似た。
素直じゃない性格も、口の悪さも足癖の悪さも、親子と間違うほどそっくりである。
そんなチビナスが、いまは心を平らにしてゼフへの大恩をありのままに口にしている。
サンジの横顔は、見惚れるほどに大人びていた。
ナマエはこれに胸をジンと熱くさせ、小さく唇を結んで静かにウンウン頷いた。サラダボウルに千切ったレタスやトマト、パプリカ、コーンなどを盛り付けながら、成長したなあと同い年のくせに親兄弟のように感慨にふける。
彼女はてっきりサンジのバラティエにまつわる話はこれで終わったものと思っていたが、サンジの話は「でさ、」と続いた。
「野郎ばっかりのレストランなんだが……数年だけ、女の子のコックがいたんだ」
「……」
「そいつは自分の夢を追いかけて、おれより先に船を降りちまった」
「……」
「『お前も必ず来い。この先の海で待ってる』、なんて言ってさ」
まさか自分の話が出てくるとは思っておらず……ナマエは驚きに脳を叩かれて相槌も打てずマバタキだけを繰り返す。
何年も前に言った言葉を覚えてるなんて。もしや記憶が戻ってるのでは、とナマエは胸の内側をドキドキさせた。
一体サンジはこれから何を語る気なのだろう。恐ろしいような楽しみなような、どっちつかずの気持ちでナマエは汗をかきつつ、調味料を混ぜ合わせてドレッシングをつくる。
「あいつはきっと今も世界中を旅してるに違いない。そう簡単に夢を諦めるようなタマじゃないからな。根性あるんだ、あいつ」
肉に添えるクレソンやレモンを用意するサンジの声色に笑みが混じった。
根性がある、はレディに使うにはいささか不似合いな褒め言葉だが、これがサンジが密かに自分へ下していた評価だというならナマエは思いの外嬉しかった。
ふーん…と唇を尖らせ、ナマエはコトコト弱火にかけていた大鍋をおたまで緩くかき混ぜてスープの具合をみる。
「会いてェな」
サンジはわずかに眉根に力を込めて、ぽつりと呟いた。
ニンニクが香り立つフライパンに肉が敷かれ、ジュワッと景気の良い音が爆ぜる。
「偉大なる航路に出て思い知ったけど、世界は本当に広いんだな。このクソ広い海で、もう一度あいつと出会えたとしたら、そりゃ奇跡だ」
「……もしも、奇跡が起こったら?」
「また一緒に料理を作りたい」
迷いのない声だった。
「ばかみたいに喧嘩したってかまわない。また二人でキッチンに並んで、ああでもないこうでもないってレシピを練って、料理をしたい。それだけでいい、それだけでも、いい」
それは明らかにほかの欲を孕んでいる口ぶりだった。
眼差しは切実で、はしたないほど熱い。
ブルーム病は、オスなら目に写るメスすべてにという勢いで強烈に恋をさせる病だ。では、果たしてこの病は記憶の中の女に対しても起こりうるものなのだろうか。
すぐ隣にいるナマエから注がれる視線にはまるで気づかず、フライパンの上で焼ける肉をぼうっと見つめる彼はいま、誰に恋をしている?
「……ねぇ」
「ん? なんだい、ナマエちゃん」
「……明後日、レモンスカッシュつくって」
「レモンスカッシュ? もちろんいいとも! 材料もあるし、いますぐでも作れるよ。ランチと一緒に出そうか?」
「ううん、明後日がいい」
「? うん、明後日だね。分かった、つくるよ」
サンジ、奇跡は起こったよ。
ナマエは明後日が待ち遠しかった。“サンジ”に会いたかった。
***
「次はやっちゃだめだよ……」
「学習したから次もやるよ。私はできない約束はしない」
「お願いだよナマエちゃん、おれの仕事を取らないで」
「先に取ったのはそっちでしょ。皿洗いはコックの仕事だよ」
「いいや。素敵なレディの可憐な手を守るのはおれの仕事だ」
「ち…違うと思います」
「違くない」
サンジはそっぽを向いてしまったナマエの可愛いつむじをじとーっと見下ろす。その下唇はツンと突き出している。彼は見事に拗ねていた。
昼食準備の折、サンジが腹ペコ怪獣ルフィのつまみ食い防衛戦に臨んでいる隙に、ナマエが出来る限りの洗い物や片付けをしたからだ。彼が「ア゛ッ!!」と巨大な声を上げた時にはすでに遅く、ナマエはしてやったりとツヤツヤ満足げにピースサインを出していた。
そのあとすぐにドヤドヤと残りのクルーもやってきて、雪崩れ込むように昼食がスタート。食べ終わった皿の片付けはサンジが死守し、ようやくひと段落したところである。クルーたちはもうダイニングには留まっておらず、部屋には二人きりだ。
ナマエは2日ぶりにサンジを出し抜けたのでちょっと得意げだったが、このように甘い言葉と態度をストレートにぶつけられれば、どうしても頬をほんのりと染めて目を逸らしてしまう。
「調理の間は立ちっぱなしだしね。片付けまでしてると脚も疲れるだろ?」
「それくらい平気だよ……」
「その御御足(おみあし)に触れても? マッサージしてやりてェ。君の疲れを癒したいんだ。どうかこの哀れな愛の道化師に崇高な役目を与えておくれマイプリンセス……」
「まっ、間に合ってます!!」
髪を掬ってチュッ! とやられ、ナマエは慌てて間合いを取って体の正面をサンジに向けた。背後を取られてはいけない! と彼女は乙女の心を真っ赤にし、グーにした両手を胸の前で揃えてドキドキと警戒態勢をとる。
物理的にあからさまな距離を取られたサンジは、ちょっと寂しく思いながらも、分かりやすく照れる彼女をシンプルに可愛いなと思う。
人馴れしていないウサギみたい。こぶし大の小柄でチャーミングな心臓を一生懸命高鳴らせて緊張している。
「ああ、島で一番景色のいい場所にナマエちゃんをエスコートして、ピクニックができたら最高なのに! せめて花でも摘んでプレゼントしたいところだけど、あいにく下船はチョッパーにクソ怒られるしな」
「ふね…絶対降りたらダメだからね……」
「降りないよ。ナマエちゃんのそばにいる」
「ぅ、…い、いいから、そうゆうの……!」
「じゃあどうゆうのならいい? ナマエちゃんはどうゆうのが、いい?」
「くっ……!」
「かわいい君のためなら何だってしてあげたい。蓬莱の玉の枝、火鼠の衣、燕の産んだ子安貝……なにだって捧げてみせるよ」
「かん、勘弁して……」
「おれは料理しか取り柄がない男だけど、天女様のように麗しく清廉な貴女に似合いたいんだ」
「お願い黙って…………」
「…………びっくりするほど可愛いな、君……」
髪へのキスで調子を崩された彼女はもうダメだった。相次ぐ激甘語録の数々に成す術なく惨敗。ナマエは両手で顔を覆って首まで薔薇色にし、食堂の壁沿いに置かれたベンチシートにへろへろのたのた逃げる。まるで手負いの子鹿である。
サンジは感動を含んだキラキラした面持ちで口許を軽くおさえ、彼女の後ろをのんびり着いていく。口の中で「かわいー……」と吐息の音で繰り返しながら。
ナマエがよろよろ着席すれば、その左隣にサンジは拳ひとつ分のところに腰を下ろす。長い脚を組んで、ナマエ側の片腕を背もたれの上に回して、顔を覗き込むように少し体を傾けた。
いわゆるホストがやるような座り方だ。つまりワンモーションで抱きしめられるほどの距離感である。
「ナマエちゃん」
「ひ、ひとりにしてください……」
「ナマエちゃん」
「時間をください……」
「クスクス。かわいい」
「〜〜っ……」
もはやポーカーフェイスなど形なしだ。頭のてっぺんからつま先まで真っ赤なことなどとうにサンジにバレている。ゆだった脳みそは降伏の白旗をずっと振っていて、少しも顔を上げられない。両手で熱い頬を包み、ふうふう息をするだけで精いっぱいだ。
サンジは背もたれに回した手でサラサラと彼女の髪を撫でて、この世で一番幸せな男の顔をしていた。
丸2日言われ続けて分かったことだが、恐ろしいことにサンジの激賛はリップサービスではないのだ。
「炎は熱い」「砂糖は甘い」「空は青い」と同じレベルで「君は可愛い」と言っている。素敵なものを見て素敵と言っているだけ。天使みたいと思ったからそう伝えている。平伏したくなる美しさだったのでそのように讃えている。
他人には大袈裟すぎる表現も、サンジにとってはすべて真実なのである。
「ど…どこから出てくるのよ、その言葉のレパートリーは……」
「胸の内から……自然に……? 思いの…ままに……?」
「聞いた私がバカだった……」
そんなことを真面目に言うな! とナマエはギュッと目と唇を閉じ、ピャッと顔を背けた。
サンジは自嘲ぎみに曖昧に笑って「……でもさ、」と口を開く。
「どんな言葉もナマエちゃんに言おうと思うと薄っぺらく感じる」
「……」
「素敵もかわいいもキレイも麗しいも、確かに心からそう思ってるのに……口に出すと途端にチープでつまらないものに思えて、なにを言ったらいいか分からなくなるんだ。自分の発する褒め言葉が、全部空回ってる気がする」
「……」
「だけど腹に留めてはおけなくて、結局こうして必死に伝えてる」
困ったようにほんの少ししょぼくれた声音だった。ナマエはおそるおそるサンジの顔を見る。
視線を向ければ当然目が合った。彼はずっとナマエを見つめているのだ。
目が合うと、サンジは特有の眉を下げ、肩をすくめて口角を一瞬だけ上げた。
参っちゃうよね、と少しおどけた表情がそう語る。
思わず手を伸ばしてやりたくなるようなキュンとくる哀れさがあって、両頬をぴたりと包んでいたナマエの指先が緩む。
「おれ、君に“好き”っていうときはとびきり緊張するよ」
「え、」
「怖い、とすら思う」
「そ…う、なの?」
「うん。たとえば、ほら」
サンジは組んでいた脚を解いて、背もたれに回した腕も引っ込める。そうして今一度、ナマエへ向き直り、彼女の頬を覆っていた左手をやさしく取って二人の間の座面に伏せるように置いた。その上からサンジの大きな手をやさしく重ねる。
重なった手に拘束力はない。押さえつけているわけでもない。彼の手のぬくもりと厚みが分かる程度に触れている。
ナマエは突然のことに、重なった二人の手を息を詰めてただただ見つめた。
「な、なに、手、……」
「……今だって、この手を振り払われたらどうしようって本当は胃が痛い」
「え、えと、」
「でも触れていたい」
「ぅ、」
被さっていただけの手が、今度こそキュ…と握られる。
振り払えるくらい弱々しい力だ。だからこそ、振り払わないでほしいという本心が見える。できるけどやらないで、と怯えながら期待している。そんな彼の胸の内側が分かる。
ナマエは体中がひとつの心臓になったようだった。足の裏に汗をかいて、つま先が靴の中で丸くなる。彼女は手に落としていた視線をおそるおそる上げる。
当然、目が合う。
サンジはずっと、ナマエを見つめているからだ。
「チョッパーはこれを病気のせいだって言うけど——……おれはそうは思わない」
熱っぽい声で囁く。
サンジの顔が近づく。前髪の隙間から左の黒い瞳が見えた。金のまつ毛がやけに鮮明に脳裏に焼きついて——……。
「サンジ!! ブルーム病の治療法がようやく分かったぞオ!!!」
医療室の扉が勢いよく開いた。
チョッパーは感極まって潤んだ声を上げ、桃色の花弁が降り注ぐ甘いロマンスの最中にいた二人に向かって一途に駆け寄る。サンジの脚にボフ! と半ば体当たりする勢いでくっついて、ほぼ垂直の角度で顔をパッ! と上げる。
「除細動と同じさ! 一度大きなショックを与えればいいんだよ!!」
どんぐり眼を輝かせ、キラキラハフハフ研究結果を伝える。喜びと興奮を隠すことなく無邪気にはしゃぐ名医を、サンジはまん丸の目で見下ろし……思いきり蹴り飛ばした。
かわいそうに、咄嗟のガードポイントで毛玉になったチョッパーは壁にぶつかってポヨンポヨン跳ね返りながら「なんで!? なんで!?」と困惑していた。
サンジは地獄を這いずる毒蛇のようにドス黒い声で「今夜はたぬき汁だ」としか言わなかった。
ものすごく良いところで邪魔が入るのは、ラブコメのお決まりなのである。
さて。
「大きなショックってのは、具体的にはどうすんだ? ぶん殴りゃいいのか?」
「違う、フればいいんだ!」
「アゥ! コイツの今の生きがいは料理と恋愛だけじゃねェのか? その半分が潰れるとなったら、いよいよショック死しそうだぜ」
「うん、それでいいんだ!」
「ヨ、ヨホ……血も涙もないですねえ……」
「患者に必要なのは治療であって同情じゃないからな!」
「さすがね、ドクター」
「褒められたって嬉しくねーぞ!」
ブルーム病を治すには、フればよいらしい。
発症0日目と同じようにクルーが集められた食堂にて、チョッパーはエヘエヘ誇らしげに胸を張った。ロビンの花の手が彼を撫でる。
サンジはいまなおドス黒いアザのような眼差しでチョッパーを睨んでいた。あまりに危険なのでチョッパーとは一番離れた場所に着席させられている。ナマエはナミとロビンの間に避難しており、かいた汗を補うようにグラスの水をちびちび飲んでいた。
「なに? フればいいの? 悪いけどアンタ全然私のタイプじゃないわサンジ君!」
「まったく脈なしよ。大人しく諦めてくれるかしら」
「ヴゥッッ!!」
「あっ、ナミとロビンはいいんだ! 自己紹介のときにもうフってるから!」
「そう? でも効いてるわよ?」
「それは不必要にサンジの心を傷つけただけだ」
「あらあら」
サンジは横っ面を引っ叩かれたようにガッと勢いよく顔を逸らしてダメージをくらっている。それでもなお「その冷たさも雪の妖精のようで魅力的だ……」とサムズアップ。この男、女に平伏することに関しては筋金入りである。
「ドクターはどうやってこの治療法を発見したのかしら?」
「! 良い質問だよロビン!」
チョッパーは短くてかわゆい耳をピョコンと立てて意気揚々と解説を始めた。ロビンは保育士さんのようにやさしい目でラブリーなもこもこをうっとり見つめて話の続きを待つ。要は分かりやすくチョッパーにお立ち台を作ってあげて贔屓しているのだ。ロビンはチョッパーがお気に入りなので。
「キーになったのは“記憶”だ! いつものサンジがあまりにもブルーム病の症状と酷似していたから、気づくのが難しかったけど……ナミの休憩のタイミングも、ロビンのコーヒーのブレンドも罹患前の記憶のはずなのに、サンジはちゃんと覚えてただろ?」
「あー……言われてみればそうね。いつも通りの完璧なタイミングでスイーツが出てきたわ」
「違うブレンドが出されたってことは、そうね。気づかなかったわ」
「そう! サンジはロビンやナミに対しては罹患時特有の記憶の曖昧さが解消されてたんだ! そこでおれは、どこでこの差異が出たのかを探っていったわけさ……」
「惚れ惚れする慧眼ね、ドクター」
「別にこんなの当たり前だコノヤロー!」
ロビンは微笑んで拍手を送る。チョッパーは蹄で青い鼻をこすってもじもじくねくねと忙しない。「恋の病の治し方が失恋たァ、ずいぶん洒落が利いてらァ」とフランキーはゲラゲラ笑った。
賑やかな空気の中、つい先ほど桃源郷の甘い風にあてられたばかりのナマエは治療法が見つかったと聞いてもなんだか現実味がなく、他人事のようにボケ…とこれを聞いていた。
「へー、そうなんだー」と薄く口を開けて傍観していた、のだが。
「さあナマエ! 心置きなくサンジをフッてくれ!」
「え…、わ。わたし?」
「そうだ! この集団内にいるメスは3人だけ。ナマエがフればサンジの酩酊状態も終わりだ!」
「……私が、サンジを…………?」
「……おれが、ナマエちゃんに…………?」
フる。フラれる。
突如スポットライトを当てられた二人は、ダイニングテーブルを挟んでほぼ対角線の位置にいるお互いの顔をポカン…と見つめた。
寝耳に水、急転直下のコールドゲーム。
おれ今からフラれんの?
「いっ……嫌だ!!!!!」
心臓まで青くしたサンジは爆音で叫び、椅子を蹴飛ばして後ずさる。
「ナマエちゃんにフラれるなんて悪夢だ!! たとえ嘘でも絶対に嫌だ!! 勘弁してくれ!!」
「治療なんだよ、サンジ」
「おれは健康だ! ビョーキなんかじゃねェ!!」
「ブルーム病は立派な病だよ。早く治そうな」
「ッき、禁煙…ッ、禁煙するから……!!」
「うん、禁煙もしような」
壁に張り付くようにギリギリまで逃げたサンジはチョッパーに猛抗議。背に腹はかえられぬと禁煙まで持ち出すが当然聞き入れてもらえず。チョッパーは理性ある冷静で温かい医者の声で患者サンジを諭す。
サンジは本気で嫌なのだ。
大好きなひとに拒絶されること。それは、ハラワタを引き摺り出されるより苛烈な苦しみで、耐え難い悲しみで、心からおそろしいことなのだ。
「どーぉすんの?」
「え?」
にんまりと目を細めたナミが肘でナマエをつついた。
「ほっといたってあと1日で治るんでしょ? ここで温情の顔してフラずにおけば、もう1日、あのメロメロサンジ君と遊べるわよ」
ナマエの耳元でナミは悪魔の囁きをする。
彼女はその言葉を受けて、もう一度サンジを見た。彼は「おう、たった今おれの好物が変わったぜ。ジビエ、ジビエだ!! 特にトナカイのな!!!」とやけっぱちに叫んでいた。
体すべてを使って全力で抵抗しており、右脚は燃えかけている。焼けた鉄を目玉に押しつけられる直前の罪人のような必死さである。もはやゾロが腹筋と頬を攣るレベルで涙を浮かべて大笑いして咽せていようがサンジには関係ない。
もっと重篤なのだ。ナマエにフラれるというピンチは。
「……っ、ナマエちゃん……!!」
そんな大健闘の瞳と目が合う。
頬を上気させ、肩で息をして、汗すらかきながら、怯えている。潤んだ目は本物だ。やめてよう、助けてよう……と縋る眼差しは、乙女殺しのそれだった。
ナマエはしっかりとサンジを見つめ……。
「ちょっと違う、かな」
「ぐはァッ!!」
フった。
フった、というには控えめで曖昧な言葉だったが、これっぽちの拒絶でさえもサンジには脳天から骨を砕くようなショックだった。
サンジはゼロ距離で頸動脈に毒矢を吹き込まれたように派手に倒れた。左手で心臓のあたりを鷲掴み、泡を吹いて僅かに痙攣している。
明らかにブルーム病よりまずい状況に見えるが、Dr.チョッパーは青い鼻をツヤツヤさせて、これでひと安心! という顔で額の汗を爽やかに拭った。
ダイニングテーブルに座っていたナミたちも、彼の無事を確かめに席を立って近寄る。
「……ッは!!??」
「おっ。サンジのやつ、息吹き返したぞ」
「お、おれは一体……うっ、ひどい夢を見た気がする……お、おそろしい夢を……はぁ、はぁ……」
「サンジ、サンジ。口開けて、次はこのペンライトを目で追って、……うん、バイタルも問題なさそうだな。サンジ、こいつ分かるか?」
「……? う、ウソップ……」
「こっちは?」
「この世の宝はすべて貴女のものです、我らが麗しの海の女神、ナミさん……」
「こっちは?」
「フランキー……」
「こっち」
「ルフィ……」
「こっち」
「清涼なる知識の泉、千里を渡る花の女王、ロビンちゃん……」
「こっち」
「ナマエ……」
「こっち」
「ブルック……」
「おれは?」
「チョッパー……」
「こっち」
「チッ、まだ生きてやがったか……」
「こいつ今すぐ叩っ斬ろう」
「頼むから仕事を増やさないでくれゾロ」
髪を乱したサンジは「な、なに……?」と自身を取り囲む仲間たちを荒い息遣いのまま見上げる。
チョッパーはサンジのクルー全員への認識が正しく元通りになっていることを確認し、ぐー……っと俯いて数秒黙り込む。
そして、勢いよく顔を上げ。
「がん゛ぢ……ッ!!(完治)」
と、だばっと涙と鼻水をこぼして堂々宣言した。
無慈悲にサンジを追い詰めていたように見えて、やはり最も真摯に彼の病気に向き合い続けていたのはチョッパーだ。サンジの病が治って嬉しくて仕方がないし、心から安堵して彼の涙腺はズタズタだ。
食堂に拍手が巻き起こる。フランキーの両肩が開いてクラッカーが鳴る。
紙テープと紙吹雪を体に引っ掛けたサンジは、「……???」とただひたすらに目を瞬かせていた。
「……あ、」
「ん?」
「レモンスカッシュ……」
「え?」
「作るって、約束……」
サンジはナマエを見つけてぼんやりと言った。
いま思い出したことを何も考えずそのまま口に出しました、という無防備な声であった。
途端、無表情で呆けていたサンジの顔がボボボ! と赤くなっていく。バシッと口許が覆われ、目がまんまるになっていく。髪がブワッと逆立ち、肩が上がる。
「えっ…!? あ、おっ…、おれ、おまえに、っ、……!!??」
この瞬間、レモンスカッシュの約束をきっかけに、サンジはこの数日間を思い出した。
自分がどれほどナマエにメロメロと纏わりついていたか。彼女に投げかけた砂糖漬けの言葉の数々。素っ気なくあしらうナマエの横顔。呆れたようにふいと顔をそらされたあとの丸い後頭部。赤い頬と、いじらしい照れ姿。重ねた手の熱。吐息さえも奪えるほどの距離で見つめた瞳。そのときの緊張、高揚感、痛いくらいの胸の高鳴り。……
すべてをくっきりと思い出した。
カヒュッ、と空気を吸い込み、しばし沈黙。
やがて、サンジは油切れのブリキのようなぎこちなさでなんとか立ち上がる。震える手でタバコを取り出し、火をつける。よろよろとキッチンへ向かい……調理台に両手をついて深く項垂れた。くわえたタバコから一筋の煙が静かに立ち昇る。
「お……おれはこれから、食糧庫のりんごがなくなるまで、ジャムを作り続ける…………」
「……はい?」
「おれがいいと言うまで、誰もキッチンに入ってくるな………………」
サンジは顔を真っ黒にして、ただならぬ気迫と低い声でそう宣言した。即座にルフィが「えーーーっ!!」と声を上げる。
「メシはどうすんだよサンジ!?」
「悪いが今日は上のバーで食ってくれ……食事はすべてリフトで運ぶ…………食い終わった皿はリフトに突っ込んでもいいし……そのままにしておいてくれてもいい……おれが翌日片付ける………………」
「サンジ! おれ、今回の話がいろいろ聞きたいんだ! 論文書くから取材させてほしい!!」
「チョッパー、おれはジビエが好物だ」
「こ…好物が変わったままだ……! でもおれ負けねェ!!」
「お前に合うワインを選んでる余裕はねェんだよ……」
「負けねェ!!」
「オイオイその辺にしとけチョッパー。男にはいろいろあンのヨ。プライドっつーか、恥っつーか……とりあえず今は放っといてやんな」
「うう……! でもフランキー……!」
世界のアニキがサンジの心を汲んで、キッチンからの人払いの役を買って出てやる。みなはそれに従って、ぞろぞろと部屋を出た。その間もサンジは1ミリも姿勢を変えず俯いていた。
ナマエも彼のことは気掛かりだったが、単純作業を何時間でもぶっ通しでやりたくなる時のコックの気持ちなら何となくわかった。
精神統一というか……とにかく頭を空っぽにしたいのだろう。
病魔におかされて、普段は決して取らない行動を私にしてしまった……そしてそれを一度に思い出したとなれば、なるほど、サンジの心中は察するに余りある。彼には時間が必要だ。
フランキーの言う通り、男にはいろいろあるらしいし……。
と、ナマエは素直に理解を示し、今夜の夕飯作りはサンジに一任することにした。
サンジの言いつけ通り、キッチンは封鎖された。夕食の品々はリフトでアクアリウムバーへ届けられ、ルフィたちのおかわりのタイミングまでも計算し尽くしてリフトはフル稼働していた。
一度だけチョッパーが調理用のたこ糸でぐるぐる巻きにされてリフトで運ばれてきた。熱心に取材を申し込むチョッパーに対して、サンジは一度だけ固く閉ざしたキッチンの扉を開けてやったのだが、なにか逆鱗に触れたらしく、この有様になった。
キッチンからは一晩中、呻き声や意味不明な甲高いカ行の音、壁に頭を打ちつける音などが響いた。悪魔祓いが行われているとしか思えない音がすることもあった。ほとんどエクソシストである。
そうして、一夜が明けた。
早朝5時すぎ。ナマエはいつもの時間に少しドキドキしながらキッチンの扉をノックした。中からガタッと物音がした。サンジは起きているらしい。しかし返事はない。
開けてもいいのかしら、とナマエはドアノブに手をかけたまま迷っていると、内側から扉が開けられた。
開けたのはもちろんサンジ本人だ。いつも通りタバコをふかしており、昨日と同じシャツとスラックス姿である。ジャケットとネクタイは椅子の背に無造作に引っ掛けられていた。
瞼が目の半分を覆っており、不機嫌にも、ただの寝不足にも……気の抜けた、リラックスした顔にも見える。とりあえず、にこやかな王子様スマイルではない。
「……おはようさん」
「お、おはよう……」
招き入れるように扉は大きく開かれ、ナマエはなんだかホッとする。サンジは踵を返してカツコツ歩いていくので彼女もその背中を追って中に入る。
キッチンの中はりんごの甘い香りで満ちていた。本当に一晩中ジャムを作っていたのか……と感心したが調理台にふと目をやると、赤々としたりんごが丸のまま数個置かれていた。
「あれ……りんごは全部ジャムにしたんじゃなかったの?」
「ジャム飽きた。今日のおやつにアップルパイ作る。アミアミの、でけーやつ」
アミアミの。ナマエはクスッと笑って「いいね」と返す。
どう接したら良いものかと彼女も彼女なりに案じていたが、思っていたよりもいつもの様子である。肩の力がフッと抜けた。ナマエは習慣化した動線で朝の飲み物を淹れようとキッチンの内側に踏み込んで、ふと気づく。
「……シンク、ピカピカだ」
「う…うるせえ」
「わ、コンロも。すごーい」
「うるせー!」
「あらやだ換気扇まで……」
「ジロジロ見んな! ほっとけ!!」
収納棚に仕舞われているのでまだバレていないが、実は大鍋の類まで磨き上げられている。ジャム作りだけでは頭は空っぽにならなかったらしい。昨晩はかなりの苦悩だったようである。
懸命に装っていた平静を見事に崩され、「ギイイイ」と耳を赤くして唸るサンジの背中にナマエは「お掃除助かります。ホホホ」と涼しく笑った。
気を取り直して自分のマグカップを取るためにナマエが戸棚に手をかけると、それはサンジに止められた。ちょっと待ってろ、と説明もなしに彼はなにやらカチャカチャと作業を始める。
あらかじめある程度の準備をしていたようで、出来上がりはすぐだった。
「おらよ」
コリングラスに収まった鮮やかなイエローのグラデーション。細かな気泡が沈められた果肉の隙間を窮屈そうにのぼっていく。
調理台の上を滑らせるようにして差し出されたそれは、ナマエがリクエストしたレモンスカッシュだった。
サンジは乱されたペースを取り戻そうとするように、新しいタバコに火をつけて深く煙を吸い込んだ。調理台にもたれ、少し上を向いて煙を吐く横顔はサマになっていて、やけにハンサムだった。
「……サンジ、」
「厳密には1日早ェが、問題ねェよな」
「え?」
「お前が明後日にこだわったのは、“コレ”が飲みたかったからだろ」
サンジはくい、と顎でグラスを指す。
そう、おそらく“コレ”はサンジ“さん”には作れない。どんなレシピ本にも載っていない、彼女の好みをバラティエの狭いバックヤードで長年観察してきた男にしか作れない代物だ。
ナマエはグラスに口をつけ、待ち侘びたレモンスカッシュを一口味わう。
「……うん、“コレ”が飲みたかった」
「クソうめーだろ」
ナマエが素直に笑えば、サンジもようやく笑った。ニヒルで負けず嫌いな、昔ながらのチビナスの笑い方で。
サンジは反動をつけて寄りかかっていた調理台から細い腰を浮かし、「さあ!」とナマエの方へパッと向き直る。
ゾロやフランキーに比べたら薄い作りに見える彼の体も、正面から対峙すれば立派な男の体だ。立ちはだかられると、少し圧があってドキッとする。
ナマエは胸の前でグラスを両手で包むように持って、ジリと半歩下がった。
「おれは約束を守ったぞ。ナマエ、次はお前の番だ」
「はい…? なによ」
「紅茶とクロックムッシュがいい」
「……あ」
「腹減った」
忘れたとは言わせねェぞ、とでも言うように、サンジはナマエに向かって堂々とリクエストを言った。
「ふふ……はいはい、喜んで」
ナマエは笑顔でグラスを一旦置き、“サンジ”に朝食を作ってやるべく、袖をまくって冷蔵庫へ向かった。