12

 
 ブルーム病が完治した日のディナータイムでのこと。
 なぜ、サンジに取材にいったはずのチョッパーが調理用のたこ糸でぐるぐる巻きにされてリフトで運ばれてきたのか。彼はサンジのどのような逆鱗に触れてしまったのか。



「エストラスフラワーを見つけたのは何時ごろ? 花粉を吸引したのは何秒くらいか覚えてるか?」
「えー……朝食の片付けを終わらせて船を出たから……10時過ぎ? くらいか? 花粉は、うーん、こう…花に顔を近づけてひと呼吸分ってもんだな」
「その時、ナミやロビンのことを考えてたか?」
「おうとも! レディたちに花をプレゼントしようと思ってたからな! まさかそんな危ない代物だとは知らなかったけどよ」
「ふむふむ。じゃあ安静時より3倍は呼吸が荒かったと見ていいな」

 キッチンのカウンター席に座ったチョッパーは熱心にペンを走らせた。
 彼の聞き取りは非常に事務的だった。論文を執筆するために罹患時の状況を丁寧にまとめあげているので、サンジの個人的な感情や葛藤にはほぼ触れることなく進んでいた。
 よってサンジも無駄に羞恥心を掻き立てられることもなく、比較的素直に状況を話せた。
 チョッパーは記録用のメモ紙から顔をほとんど上げず、サンジが多少言いづらそうに言葉を詰まらせる時も彼の顔は見ていなかった。それがサンジには大いに助かった。
 夕飯を作りながらであったことも大きい。慣れ親しんだ作業は彼の心をリラックスさせてくれた。相槌を入れてもらいながらの言語化はサンジ自身の内省にも役立った。
 他人に話すというのはなかなかにセラピー効果があり、一人ではこんがらがって堂々巡りに入ってしまう思考も、スムーズに整理されていったのである。

「フム」
「お。これで終わりか?」

 ひと通り聞き終え、チョッパーはようやくメモ紙から顔をあげた。視線は紙に落とされたままだが、顔があがったのでサンジはすかさず茹でたてのプリプリの小エビをフォークで刺してチョッパーの口元に持っていく。チョッパーはほぼ条件反射で口を開け、プリプリの小エビをモキュモキュ食べた。つまみ食い用に取り分けた小皿を片手に、同じフォークでサンジも小エビをひとつ食べる。
 サンジは並行して何品も料理を作っていたが、ほんの少し隙間時間ができたところだった。よって、小休憩を兼ねてチョッパーとつまみ食いタイムに入った。このまま放っておいたら、バーから抜けてきたチョッパーは中途半端に夕飯を食いはぐれてしまうだろうから。

「サンジ、もう少し踏み込んだこと聞いてもいいか?」
「へいどうぞ、ドクター」
「んぐ、…もぐ、記憶のこと、なんだけど」
「記憶」
「もぐもぐ、そう」

 口が開いたそばからサンジが小エビを食わせてくるので、チョッパーは真剣な顔つきで蹄をかざして8口目の小エビを断った。8口目の小エビはそのままサンジの口に入る。
 チョッパーはもごもごと小エビを片頬に寄せて喋った。

「ここまでの話を、ごくん、聞くところによると、サンジは記憶の中のナマエのことは覚えてたんだよな」
「ああ、バラティエの時のか? マァ……言われてみりゃあそうだな。わりとしっかり…覚えてたぜ」

 バラティエの時の話——サンジは昼間にナマエにした話を思い返して、微妙な羞恥心に苛まれた。話してる相手が同じ厨房出身であることをスコンと忘れ、あの時は要らないことまでベラベラ喋っちまった、とタバコの煙を吐く仕草とともに僅かに目を逸らす。
 サンジは“バラティエ時代のナマエのこと”は確かに覚えていた。朧げだと感じた箇所はない。当時の楽しい思い出やくだらない喧嘩の理由、彼女の旅立ちの言葉、彼の胸に残された強烈な寂寥感。そうして記憶を揺り起こしてまろびでたサンジの気持ちは本物だった。
 もう一度出会えたら。奇跡が起きたなら。おれは。
 サンジは思わずキュ…と目を閉じて、気持ちを呑み込むように大きく肺に煙を入れる。
 サンジの返答を聞いたチョッパーは「そこが不思議なんだよなァ!」と短い腕で頭をかいて唸った。

「ブルーム病は恋人でも伴侶でも、異性であればその記憶は曖昧になるはずなんだ。ニンゲンは違うのかな? その記憶がどれくらい古いものかが影響する?」
「ええ……知らねェよ、そんなの……」
「サンジにとってナマエは特別か?」
「とっ……、」
「特別なメスだから覚えてたのか? だとしたら、その特別はどういう意味での特別だ?」
「あ、ぅ。ま、待てよチョッパー、」

 直球すぎる問いかけにサンジはギョッと動揺し、慌ててチョッパーの思考にストップをかけようとした。
 しかしチョッパーは止まらない。
 機関車のように轟音を立てて彼の脳を駆け回っている知的好奇心と探究心は、そう簡単には止まらないのだ。

「あっ! もしかしてサンジはナマエのこと、“男”だと認識してるのか!? 普段からサンジはナマエにだけはデロデロにならないもんな!」
「はあっ!?」
「ナマエの見た目は確かに女だから、それに引っ張られて症状は出た。でも、サンジの中でナマエのカテゴリーが昔から“男”だったとしたら……うん、思い出の中のナマエには記憶の不明瞭化が起きなかった理由はこれかも! それなら今回の症例も辻褄が、」
「おいおい待て待て待て!!」
「わっ」
「おれがアイツを昔から男だと思ってるだと!? バカ言うな!!」

 サンジはチョッパーの頭を帽子ごとガッと強く掴んで、強制的にこちらを向かせた。
 キョトン! としたチョッパーに対し、サンジは必死の形相だった。
 よりによって、“好いた女を女として見ていないのではないか”と言われたのだ。しかもそれを医学的に証明されそうになっている。そんな仮説を立てられるなんて、たまったもんじゃない!!
 サンジの抗議も当たり前である。

「違うのか……? じゃあ女だとは思ってるけど、本能に刷り込まれるほどの性的対象外……?」
「せぇっ……!? お、お前なあ! 思考が変な方向に飛んでいっちまってるぜ、落ち着けよ! 大体、そのブルーム病ってのになったおれは、ナマエに対しても症状が出たんだろ!? じゃあ、本能に刷り込まれるほどのせっ……た、対象外ってのは成り立たない話だろうが!」
「あ…そうだよな……じゃあなんでナマエのことは覚えてたんだ?」
「っ、ッ知るか! 個人差くらいあんだろ!!」
「いでェ!!」

 サンジはチョッパーの青っ鼻をフォークで刺し、悲鳴をあげて大きく開かれた口に残りの小エビを流し込んで強制的に黙らせた。
 彼にとって、ナマエに関する個人的感情はかなりセンシティブなテーマだ。そこをこれ以上、ずけずけと掘り返されるのは耐え難かった。
 逆鱗というか、サンジの心理的防衛本能が過剰に働いた結果。

「取材はここまでだ、ドクター」
「ヒィッ」

 サンジの手には調理用のたこ糸があった。チョッパーが口いっぱいの小エビを必死に咀嚼・嚥下しているわずかな時間だった。
 チョッパーを見下ろすサンジの顔は逆光で真っ黒だった。両手に紐の端を持ってグッ、グッと強度を確かめるように左右に引いている。

「ここで聞いたことは口外無用だ。医者として守秘義務は厳守してくれるよな?」
「〜……っ!!」
「うん、良い子で助かるぜ」

 涙でしとどに顔中を濡らしたチョッパーがガクガク頷けばサンジはにっこり笑って、彼をたこ紐で手際良く縛り上げてリフトに放り込んだのだった。

「…………」

 再び一人になったキッチンで、サンジは深く深くため息をついた。
 チョッパーのおかげで罹患中の己の行動の振り返りはかなり良くできた。しかし。最後の最後、チョッパーのおかげでナマエに対する気持ちの整理はまたとっ散らかってしまった。

「……どォすんだよっ」

 サンジは真っ赤な顔で歯を食いしばり、肩を震わせて片手で顔をバシッと覆った。

 ブルーム病に罹って記憶が吹っ飛んだサンジは、ナマエを初対面状態の一人の女として口説いたとも。彼女がどんな人となりかを知らぬまま、外見だけに恋をして全力でメロついた。
 そして会話と時間を重ねるうちに、ナマエの料理への真摯さに胸を打たれた。腕もいいが、それだけじゃない。料理人が持つべき大切な心を持っている人だと思った。
 ひょんなことから、赤裸々な昔話までした。思慕を綻ばせて語って聞かせた女の子がすぐ隣にいる女であるとは結びつかず、ベラベラと。思い出せば心臓を掻きむしりたくなるほどのピュアな真心を吐露してしまった。

 だが、振り返ってみれば彼がナマエに向けたすべての気持ちに嘘はなかった。過剰に脚色された感情もない。
 サンジにとって、ナマエはまさしく可愛い女だ。手荒れの原因となるなら水仕事はすべて請け負いたいし、愛情たっぷりのいいコックだと思っていて、再び巡り会えたことを奇跡だと思っている。また一緒に料理ができる喜びを噛み締める毎日だ。
 彼女を彩る言葉はいつだってことごとく色褪せ、この世のすべてのレディを愛すると豪語しているくせにサンジはこの激情を伝える術をもたない。古くからの二人の関係を崩しかねない欲望を、彼はいつも必死に呑み込んでいる。

 サンジはナマエを愛している。
 笑ってしまうくらい純粋に、心から愛している。
 愛しているからこそ言えないことだらけだった。
 彼女に拒絶されたらと思うと、どうしても足が竦むのだ。

 サンジはいくら女にフラれようと堪えないけれど、ナマエだけは別だった。
 彼女には絶対に拒絶されたくない。されたくないから軽はずみな言動ができない。愛をぶつけたら、同じだけ見返りがほしい。一方的な愛の奉仕なんか、寂しくて悲しくてやりきれないのだ。抱きしめたら抱きしめ返してほしい。ずっと彼女を見ているから、彼女にもずっと自分を見ていてほしい。すべての要望に大きなイエスを返してほしい。……
 そういう幼稚な独占欲が長年トグロを巻いてサンジの腹に居座っている。存在感は猛烈で絶大だ。
 サンジはそれを理性で押し殺してナマエのそばにいた。のだが。

この度、全部、出てしまった。
必死に隠していたのに。
努力虚しく、白日に晒された。

おれのあの態度にナマエは呆れていた!
そっぽを向かれたこともあったし、ハイハイとあしらわれたりもした!
その度に実はチクチク傷ついていたけれど、甘露の恋慕のタガが外れたサンジの愛の言葉は止まらなかった。
振り向いて欲しくて懸命に彼女の袖をくいくい引いて甘えていたのだ。


みゃ……脈がねェ……ってのか……?
や、やめてくれ、そんなの受け入れたくない、うっ……!
じゃああの赤面のワンシーンは!? まさか本当に夢か!?
あか、あかく、なってたよな、あいつ……え、夢じゃない? キスできる流れだったよな……逃げなかったよな……ウホホイ……まじか……これは期待してもいいのか……? い、いや待て、あの時のおれは普段のおれとまったく違ったんだ、ナマエはナマエで誤作動を起こしていたのかもしれない。そもそも男にいきなり迫られたら普通こわいよな? そういう意味で動けなかったのかもしれない。早まるな、ここで本当にフラれたら一生ものの傷だ。なにより海の上というのは逃げ場がないのだ。あいつが、ナマエが困ってしまったらどうする。フッた男と毎日キッチンに立つなんて、あいつは間違いなく平気なふりをするだろうが苦行に違いない。そんな地獄を強いるわけにゃいかねェ! 曲がりなりにもおれはナマエには心から笑っていてほしいんだ!
はっ……明日、どんな顔して会えばいいんだ? いつまでもここに籠城できるわけじゃない。なんて声をかければいい。
…………ゆ。ゆっちまったんだ、好きだって。おれは……あいつに……
言っちまったんだーーーッッッあーーーーーッッッ(壁を蹴る)


 ずっとコレである。

 よって、サンジは一晩中呻き続けた。
 頭を掻きむしって新品のタバコを5箱あけ、ワインも一本半空けたし、ジャム瓶は使い果たした。動物園のクマのように室内をうろうろと常に歩き回り、時折しゃがみ込んだり壁を蹴ったりしながら、汗をビッチョリかいた。
 むしろ一晩で済んだことが奇跡だ。
 そんなサンジも、目を覚ましたナマエがキッチンにやってくるであろう時間には、ようやく腹をくくった。リクエストされたレモンスカッシュを準備し、余った時間で坐禅を組んでなんとか根性で平静を取り戻し、彼女を迎えたわけである。
 本当に苦心した。
 でも、ナマエは笑ってくれた。これまでのように会話をしてくれて、バクバクの心臓でけしかけた朝食のリクエストにも快く応えてくれた。
 サンジがこれに、どれだけ安堵したことか。


***


「カモメちゃん、今日はラスクだよー」
「グェッ!」

 朝食後、ランチまでの隙間時間。右舷側の欄干にて、ナマエは馴染みのカモメにご飯をあげていた。欄干に肘をついて、りんごジャムを添えたラスクをつつくアーチ型の首を指の背で撫でる。カモメはすでに餌に夢中で撫でられていることには無関心だ。
 彼女は潮風に揉まれる髪を背中側に払い、体を反転させて欄干に寄りかけてカモメから受け取った新聞をパサッと開いて読み始める。

「……」

 サンジはその様子を物陰からそろりと盗み見ていた。
 手にはソルトポップコーン。見つかったときの言い訳だ。おれもカモメに餌やりにきたんだと、誤魔化すための。

「グェッ……」
「ん−、ほっといてあげな。なんか、色々あるらしいから。男心って……」

 ナマエは新聞に視線を落としたまま、訝しげに物陰のサンジへ視線をチラチラ寄越すカモメをそっと諫める。カモメはすぐにサンジへの興味を失って大人しくラスクに戻った。
 サンジは顔を引っ込めて壁に背をつけてずりずりとその場に座り込んだ。膝を立てた長い脚の間にソルトポップコーンが入った深皿を置き、カチンとタバコに火をつける。深く吸って吐き出した煙はほとんど溜息と同義だ。煙草を指に挟んだ手の小指でこめかみ辺りをカリカリと掻く。
 この通り、彼女はいつもと同じ様子だ。むしろすっきりと落ち着いてさえいる。
 しかし、サンジの心はといえば、切なく痛むばかりだった。

 そりゃあ、彼女とギクシャクしたり、これまで通り話せないのは嫌だ。変わらない彼女の態度には安堵はした。
 でも。だけど。
 病の上と言えど、サンジは告白まがいのことを散々した身である。
 あの愛の言葉たちは、彼女にちっとも響いていないのだろうか。彼女の日常をほんの少しでも変えるほどのパワーはなかったのだろうか。
 そう思うと胸がキュウと絞られるように物悲しいのだ。
 ……だけれど。

「どー…ォ考えてもおれが悪ィ……」

 手のひらの付け根に額をぐー…と押し付けてほとんど呻くような低くかすれた声でつぶやく。
 普段からレディに愛を振り撒くくせに、ナマエにはそういったものを伝えていないおれが悪い。己の臆病風と制御困難な独占欲を言い訳にしてきた自分が。
 ならば、どんなに真摯に愛を囁こうが、病による一過性の妄言と捉えられても仕方あるまい。
 身から出た錆、か……。と、サンジは内省して人知れずガックリと肩を落とした。

「グェッ!」
「ぅおっ、」

 落ち込んだサンジの視界にカモメの白い翼が翻る。サンジは反射的に顔をあげて目を丸くした。
 カモメは、サンジに興味はないけどソルトポップコーンには興味があったらしい。
 カモメが行ってしまったので、これ以上の気づかぬふりもできないなとナマエも新聞を畳んで「お、いいもの持ってるじゃーん」と彼のもとへ行く。

「……あ。甘いもんばっかじゃ飽きると思ってな。しょっぱいの……」

 サンジは用意していたハリボテの文句をなんとか言って、タバコの煙をもう一口吹かした。視線は斜め上だとか、床だとかに向いていて明らかに不自然だった。
 さっそく深皿に頭を突っ込んで食べようとするカモメの鞄を引っ掴み、「ずるい、一人で食べないで」とナマエはカモメを叱った。ラスクが乗っていた皿にポップコーンを取り分け、彼女はサンジの隣に腰をおろす。そして、深皿に手を伸ばしてポップコーンをパリポリ食べ始める。

「……! この塩、すごい美味しい……え、秘蔵? なに? 今までコレ使ってたっけ?」
「お…気づいたか。そいつはウォーターセブンで手に入れた特別な塩なんだ。使い果たすのが惜しくてな、最近はしまいこんでたんだ」
「ウォーターセブンにこんな良い塩あるんだ!」
「おう! なんでもアクアラグナっつー高潮が運んでくる海水で……」

 純粋に感想を口にしたナマエであったが、途端に純粋に目を輝かせてお気に入りの塩について語り始めるサンジの様子を見てホッとする。
 彼女も彼とギクシャクするのは嫌だ。自分に少しの気まずさも感じないで欲しいと思う。
 サンジからの歯の浮くセリフは確かに嬉しかった。そこに嘘偽りの類がヒトカケラもないことは素晴らしく、乙女心を散々くすぐられたし、パステルカラーの甘い花物語だった。目を閉じて思い出せば背骨をくすぐられた心地になるほど。
 マ、しかし。夢は夢である。病魔におかされない限り見られなかった夢だ。
 本当に、幸せな夢だった。……

 サンジの予想通り、ナマエはアレを病による一過性の妄言と捉えていた。
 サンジから浴びせられた全面的好意の中で、異性としての好意は病によるものと割り切ってしまい、同業者としての好意だけを真摯に受信してしまったのだ。
 彼は彼なりに自分を大事に思ってくれていた。再び巡り会えたら奇跡だと、奇跡が叶った暁にはただ料理を共に作りたいと、そう望んでくれた。それにどれだけ胸を突かれたことだろう。料理は彼女が人生を賭して進んでいる道だから、料理人として腕を認めるサンジのあの言葉は大層な意味を持つのである。光栄なことだと素直に思った。
 これが知れただけでも儲けである。あれほどの甘い蜜の香りのする蜃気楼の幸いはもう来ないだろうけど、マァいい。仕方あるまい。また元の片想いに戻るとしよう。……
 と、スッキリと諦めに近い切り替えができた。
 もとより、彼女が惚れ込んだのは、自分に甘い言葉を囁いてくれる彼ではないのだから。多くを望んではバチがあたる。

「サーーーーンジーーーーイ!!」
「うおぁっ!? ンのやろッ…!」
「……っ!!」

 ルフィがパチンコのごとくメインマストの上部から飛んできた。
 サンジは咄嗟に体を翻してナマエを覆うように壁に手をつき、強烈な後ろ蹴りをノーモーションで繰り出して激突を回避する。吸い差しのタバコが甲板に落ちた。蹴られたルフィはバイン! と一度上空へ弾んでから、近くの手すりを掴んでゴムの弾力で戻ってくる。

「……っぶねェなこのタコ!!!! なにしやがんだてめェ!!」
「なんか美味いもん食ってるだろ!!」
「普通に来い!!」
「あっはっは。わりーわりー」

 カモメは何度かルフィにご飯を横取りされているので、急いで自分の取り分を平らげて「グェッ!」とひと鳴きして早々に飛び去る。
 サンジは壁に手をついた体勢のまま、「ったくよォ……」とルフィに向かって肩越しにぶちぶち文句を垂らし、大きなため息を最後に首を正面に戻した。
 そして気付く。
 自分の体で作られた四角い影の中で、立てた膝頭をキュ…と寄せて小さくなったナマエがジッと自分を見上げていたこと。目が合った途端に顔を逸らされたが……、その瞳はやけにツヤツヤとしていて、薄く開いた桜色の唇が無防備であったこと。太ももに押し付けるように置かれた細い手は拳の形をしており、わずかに力がこもっている。
 斜め下を向いた彼女の頬はほんのりと色づいて、その、まるで。
 緊張している、みたいに見えて。
 サンジは呼吸も忘れてその姿をただただ見ていた。背後ではルフィがうるさいはずのに、なにも耳に入らない。
 サンジがジッと動かないから、ナマエもジッと動かない。彼の体で作られた影のふちばかりを見つめて、慎重に呼吸だけを繰り返している。

「……、」

 サンジは壁についたままの手をズリ…とずらし、ゆっくりとその場に膝をつく。
 伸ばした腕の長さ分よりも近い距離。ナマエの体は広く開いたサンジの長い脚の間にあり、目の高さはほぼ同じになる。
 グッと近づいたタバコの香りにナマエはビクッと肩を震わせて、一瞬だけサンジを見て、自分の手を見て、視線を左右にうろうろとさせる。
 目も合わせられなくなってしまったナマエに対し、サンジはずっと彼女を見つめていた。仕草も表情も顔色も、なにひとつ見落とさず、見逃さず。かといって何かを考えられているわけでもない。
 ものすごく綺麗なものに出会ったとき、人は言葉も思考も失ってその光景に魅入るものだ。

「ち、近い……」

 震える唇で紡がれた声は、本当に可愛らしかった。
 サンジはそれにただただ感動し、何も言わない。少しも動かず、目の前で明らかに“照れている”彼女に心を奪われている。
 言ったのに、どうしてどいてくれないの。と、ナマエはつま先をキュッと丸めて、困り果てて、これ以上ないほど体を小さくしたが、サンジがなおも微動だにしないので。

「っ、」

 トン、と弱々しい力で彼の肩を押した。
 サンジはそれだけで呆気なく尻餅をついた。彼の手が壁から離れる。
 その隙にナマエは逃げ出した。サンジはその後ろ姿が女部屋の扉の向こうに消えるまでボケ…と見つめていた。

「ナマエのやつ、行っちまった」
「……」
「サンジ、これうめェな〜。おかわりあるか?」
「……」
「サンジ? おーい、サァーンジィーー」
「……」

 深皿を抱えてバリボリとポップコーンを頬張りながら声をかけるが、ルフィもまたサンジにガン無視されてしまった。
 船長は困った顔をして、深皿を傾けて残ったポップコーンをザラザラと口に全て流し込む。「ごちそーさまでした」とペコッと頭を下げて空っぽの深皿をサンジにお供えして去っていった。
 ウォーターセブンの貴重な天然塩をろくに味わわずに平らげられてしまったのに、サンジは尻餅をついた格好のまま、ずっとその場で呆けていた。

 昨晩、脈がないかもと絶望したばかりだったのに。
 一過性の妄言と切り捨てられたのだと思ったはずなのに。
 保身に走った己が悪いと自戒と反省をしばらく続けるつもりだったのに。
 あんなの、まるで。

 女部屋の扉の向こうで、ナマエも混乱していた。
 ものすごく分かりやすく動揺してしまった自分を恥じていたこともあるが、それにしたってサンジのあの反応は何だろう。

 多くは望まないと決めたばかりだったのに。
 料理人として彼と並べるだけで本望と思ったはずなのに。
 一時の幸せな夢だったと区切りをつけたつもりだったのに。
 あんなの、まるで。



 二人はお互いにお互いの胸をかき乱しあっていた。
 両片想いの二人は、今ようやく、スタートラインに立ったのである。