13
サンジの奇病が完治したのが昨日。
レモンスカッシュとクロックムッシュを作りあったのが今朝。
そして、互いの胸の中を熱い春の嵐で吹き荒らしたのが、つい先ほどのこと。
食事は原則日に3度だが、麦わらの海賊船ではその3度ではとても足りない。必然的に顔を合わせる必要が出てくる二人であるが。
「メイン出すよー」
「おう、スープもいい頃だ。魚の方は?」
「あと19秒」
「ン。おいウソップ! 暇か? 暇だな? よしじゃあ皿出せ。グラスも!」
「えーっ! なんでおれ!?」
「目が合った!」
「カトラリーもお願いしまーす」
「…ッシ、うしろ。ポワレ通るぞオ」
「ソースそれね。仕上げに、」
「ブラックペッパーだな?」
「よろしく!」
「ウソップ皿アッ」
「まったく人使いが荒いぜ……」
「うふふ、大変ね。手伝うわ」
「ロビンちゅわん! 君はいいんだよ、そこで待っていておくれ。この通り、ウソップは働かないと死んでしまう病なんだから……」
「いやどの通りだよ。そんなこと一言も言った覚えねェけど!?」
両者プロなので、キッチンに私情は持ち込まない。
というか、この船のキッチンは戦場なので己の私情に構っている暇がないのである。
サンジとナマエは2時間前にはトキメキの真っ只中にいたのに、今は背中合わせで厨房を忙しなく動いていた。2つの頭と4本の腕をフル稼働させ、足りない部分はウソップをこき使い、しかし美女には食事を楽しみに待つようやさしく諫めている。
特にナマエはもともと厨房に立てばパチンと仕事のスイッチが入るタチだ。ちょっかいを出されればそりゃ乱れるが、基本的には自分をコントロールできる人間である。
一方サンジはたとえ全身ギプスの状態でも調理できるし、寝ながらでもいつもの料理が作れる。極度の鼻炎で味が一切分からなくなってもフルコースを用意できるので、たとえ意中の女性(ナマエ)に全神経・全意識を持っていかれて視線を釘付けにしていようと、何ら支障はない。
のだが、ナマエの真摯に作業に向き合う姿を尊重して、それらをすべて仕舞い込んでいる。
「な〜んか…つまんないわね……」
「ええ…ほんと……」
わずかに浮かせた尻をベンチ席に戻したロビンの二の腕にナミがぺとっとくっついてぼやく。視線の先はダイニングテーブルの向こう、のカウンター、の向こうのコックたちだ。
もしも、うっかり手が触れ合うなどというハプニングがあれば。たとえば、仮に、そんなことがあったとしたら。
ナマエは肩をすくめてビクッと赤くなって固まるし、そんな彼女にサンジは5秒ほどエッと目を丸くする。空気はガラリと変わって部屋は甘酸っぱさで満ち……。
となるのだが、マァ残念ながらそうはならない。
プロダンサーが即興でダンスを踊っても相手の足を踏むという凡ミスを犯さないように、お互いの動線とタイミングと次の作業を理解しあっているプロコック2名は狭いキッチン内で忙しなく動いているというのに袖を掠めることすらないからだ。
ボディタッチによるトキメキが起こる隙間が、ない。
身体的接近には上戸の調味料を取るだとか、シンクで湯を切るだとか、具材が熱いうちに素早くソースを絡めるだとか、そういった業務上の事由が必ずあり、業務上のことであればナマエの心は揺れない。ナマエの心が揺れない限り、サンジも揺れない。
二人そろって揺れないので、ナミとロビンにはコレがつまらなくて物足りないのだ。
二人が専らのナワバリとしているこのキッチンには、恋には不都合すぎるそのような鉄壁のカラクリが働いているのであった。
***
「あー、…ねえナミさん」
「んー? なぁにー」
「次の島まであとどれくらいかかるかな?」
「そうね…酷いストームで航路が大きく逸れない限りは、あと3日4日ってとこかしら」
「! わかった、ありがとう。……ちなみにそこは大きな町がありそうな島?」
「さあ。それは着いてからのお楽しみね」
「そっか」
サンジは「うーん…」と頭を掻きながら悩む仕草をして、食糧庫へ消えた。
ダイニングテーブルで新聞を読んでいたナミはその背中を視線だけで見送り。やれやれと息をついて、すっかり読む気の失せてしまった新聞を畳んでテーブルにポイと放った。
会話と彼の行動だけを見れば、食糧の在庫管理にまつわる事務的な確認であるが、彼の全身から出ていた「ドキドキ…!」という大袈裟なオノマトペがそうでないことを物語っていた。
事実、サンジは食糧庫の扉の向こうで、深く項垂れてしゃがみこんでいた。うなじの辺りを手のひらで覆って寝違えたみたいに苦い顔をしている。
もちろん食糧管理に問題はない。野菜もフルーツもまだ十分にあるし、昨日バケモノ級の魚を仕留めたばかりだ。生簀にストックもある。干し肉の塊だってちゃんとルフィから守り抜いている。
では、サンジが悩んでいる理由が何かと言えば。
『次の島についたら陸でデートしようねーっ♡』
『次の島に着く頃には治ってるよ』
『治ってもしようねーっ♡』
『うーん……』
そういう会話を、ナマエとした。
だからサンジは次の島で彼女をデートに誘う。いつもの買出しなんかじゃない、ちゃんとした男女のデートにだ。
これは決定事項であり、確定項目である。
奇病の完治からすでに数日が経ち、サンジは日に数度の調理のたびにド素面なナマエと作業をともにしている。完治直後に一度だけ、とんでもない春の予感が吹き荒れた時間があったが、それ以降はパッタリだ。
パッタリと、元通り。元の通り、ただの幼馴染兼同僚の空気になってしまった。
このまま無益に日々を過ごせば、あの奇病によるキテレツな急接近は過去の笑い話でいよいよ完結してしまう。
サンジはこの好機を日頃の不甲斐ないアプローチのせいですでに台無しにしかかっているのである。ここで手をこまねいてトドメを刺すわけにはいかない。
今こそ奮い立てサンジ! 散々反省しただろう! ここで立ち上がらねば漢じゃない!!
だから、誘う。
良い誘い文句は、あいにくいまだ浮かんでいないが。
「…………ッスーーー…」
サンジは肋骨を二、三本折った時のように細い呼吸をする。
あと3日4日のうちに、誘い文句を考えなくては。ショッピング? カフェ巡り? ピクニック? 単なる散歩? なんだっていい、どこだっていい。デートと名付けて差し支えのない時間をナマエと過ごすのだ。
「えー、サンジと?」と笑われたら「そう。おれと。」って目を見て言うんだ。言ってやるさ。食い下がるとも。
臆病風に蹴っ飛ばされて、おれはここまで来ちまった。
「ぅおっ」
「きゃっ。ごめんっ。な、なに? こんなとこに座り込んで何してんのサンジ……」
「ナマエ…な…、なんでもない……休憩……」
「……? あっちで休みな……?」
「ん……」
サンジはナマエが開けた扉がぶつかってジンジン痛む腰をさすって立ち上がる。そして、彼女が指差すダイニングテーブルへよろよろと素直に歩いて行った。
ほんとに誘えんの? これ……。と一抹の不安を抱えて。
あら戻ってきたわ、という顔でコーヒーを啜るナミのすぐ隣。とりあえず村ひとつない無人島だったときに備えて、サンジはこれからピクニック用のバスケットに何を詰め込もうか策を練るのであった。
***
結論から言うと、次に辿り着いた島は大当たりだった。
小綺麗な街並みで、オシャレなブティックもカフェも、島の特産品を使ったグルメストリートもある。デートスポットにうってつけな夜景が映えるロマンティックな観光名所だって。
文明度でいえばウォーターセブンあたり。
これは大勝利である。いくらでもデートに誘える理由がある。見に行こうと手を引ける催しが山のようにあり、勝ち筋が何パターンも見える。
しかも、話によればログは2日とちょっと。実にいい塩梅だ。買出しを兼ねて街を下見して、翌日デートに誘い、そして出航。……運命の女神のウィンクを後頭部に感じる。間違いない、勝利の女神がおれの背中を押してくれている!
デートにお誂え向きな島への到着にサンジはポケットに突っ込んだ左手をグッと握って内心誰よりもはしゃいでいた。表面上はタバコをぷかっと吹かし、「へえ、結構でけェ島だなァ」とクールなものだけど。
前回は上陸に制限を掛けられていた他のクルーたちもようやく陸で羽が伸ばせると嬉々として早々に船番を決め、各々に陸へ散っていく。
「よし、先に買出しを終わらせるとすっか」
サンジは甲板にいるナマエを振り返り、そう切り出した。
いつもの買出しとデートを混同されちゃ困るので、買出しはさっさと済ませるとあらかじめ決めていた。
サンジにとっては買出しだってナマエとの大切で特別な時間だが、今回は“デート”であることが重要なのだ。これは決して逃してはならぬものだった。
「おれは在庫の最終確認してくる。お前は?」
「え、もちろん行くよ」
「違う、着替えるかって話」
「! う、うん。ちょっと待ってて」
「へい、ごゆっくり」
ナマエはキュッと肩を上げて、ソワソワと小走りで女部屋へ向かった。
その背中を左の前髪の隙間から盗み見て、ホッとする。買出しの時限定のおめかしは継続らしい。良かった、本当に…。
「は? なんでサンジと出かけるってだけでわざわざ着替えるの?」とか。
「あー、んー、もう別にいいかな。このままで。相手サンジだし」とか。
実現しなかった恐ろしいバッドルートを無限に想像してサンジは物凄く嫌そうな顔をした。
「ク、クソ……」
まずい、臆病風が吹いてきやがった。いつもそうだ。一番嫌な結末ばかりが鮮明に頭の中を駆けめぐる。
サンジはムム…と口元を歪めて携帯灰皿にタバコをすり潰す。気を取り直して食糧庫へ歩き出した。
二人は買出しに出た。
市場は賑やかで並ぶ品々も目に新しい。いつものごとく、作りたいレシピややってみたい調理方法を思いつくままに話し、サンジが背負う買出し用のリュックを重たくしていく。
ナマエは船上生活では見ない柔らかなシルエットの格好をしていて、サンジにはこれも嬉しいことのひとつだった。まだ見ぬ食材はないかと目をきらめかせる彼女の横顔を見るだけで、サンジの胸はグッと熱くなる。
互いの夢を打ち明け、切磋琢磨して育った幼少期。
同い年の彼女が自分と同じように大きな夢を持ち、それを叶えられると疑わない姿は、ゼフへの償いと後悔を重く抱えて生きるサンジには勇気づけられるものだった。
野望を諦めることを選んだサンジだったが、彼女と過ごす時間だけはオールブルーの夢を追いかけ続けられた。
結局バラティエを出る勇気は出なかったし、再び堂々と夢を掲げる気にもならなかったけれど。でも、彼にはこの時間がかけがえのないものだった。頑丈な錠をかけて仕舞い込んだ夢のカケラを取り出して、大事に撫でて情熱の温度を確かめる時間が。
たったそれだけのことに思えるだろうが、贖罪の責で自分を押し潰していたサンジはこれにものすごく救われた。
世界中の食材を調理するという彼女の夢だって絵空事のような規模の話なのに、叶うと信じて疑わないその横顔のきらめきに当てられて、彼も胸を希望で満たすことができた。「おれだって」と上擦った声で張り合えば、彼女は当たり前のように「そうこなくちゃ」と笑ってくれた。
サンジの夢も叶うと信じて疑わないでいてくれた。
だから、この横顔は特別だ。
ナマエはサンジにとって特別な女の子なのだ。
その心の一番近くに自分を置いて欲しいと願っている。
全てを許したいし、許してほしい。
百億歩譲ってそれが叶わないとしても、彼女だけはとにかく幸せでいてほしいと星に願うほど強く思うのだ。
「あ、ロビン」
「ッロビンちゅわーん!!」
「あら二人とも。お揃いで」
サンジは条件反射で両手を大きく振って3センチ縦に跳ねた。タバコの煙が自動的にハート型になる。これはキッチンタイマーが時間になったらチン! と鳴るのと同じくらい仕方ないことなので、今さらナマエも気に留めない。
市場を少し離れた通りの角から、躍り出るように現れたロビンは、二人を見てニコと微笑んだ。
優雅に微笑んでいるが、珍しく走っている。
「? ロビンちゃん、どうし」
「ごめんなさいね。ちょっと柄の悪い人たちに追われてて」
「えっ?」
「ほら。たくさんいるの。うふふ、困るわね」
「え、え! うわ本当にたくさん居る!!」
本当にたくさんの賞金稼ぎたちが通りの角からワッと現れた。全員血眼になっていて、すでに武器を構えている。
「危ないからあっち行きましょ」
「なっ…なんだありゃ……!」
「ろ、ロビ、」
「はやく」
二人の前まで駆けてきたロビンは、それぞれの手を片方ずつ取って脇道へ誘導する。
面食らいながらもサンジは片腕に抱えていた紙袋を迷いなく放り出し、両手を空けた。そして素早くナマエを横抱きで持ち上げて、ロビンに続いて駆け出す。
購入した食糧の入った紙袋は、中身がぶち撒けられる寸前でロビンが地面から生やした手に掬われた。ロビンとサンジの後を追いかけて数多の腕がバケツリレーのように荷物を運びながら生えては散ってを繰り返す。
「こりゃ一体どういうことだ、ロビンちゃん!?」
「この島、賞金稼ぎが多いみたい」
「多いったって……一度にこの数か!?」
「私でひと山当てたいみたいね。不景気なのかしら」
「チッ、のんびりと観光中のレディを狙うたァ、許せねェ野郎どもだぜ……!」
二人はある程度追っ手から距離を稼いだところで物陰に隠れた。サンジは腕の中でビタッと固まってしまっていたナマエを地面に下ろしてやり、背負っていた買出し用リュックも下ろす。
「アイツらはおれが引き受ける! ロビンちゃんとナマエは先にサニー号に戻っててくれ。ロビンちゃん、重たくて申し訳ないんだが、できればこのリュックも船まで運んでもらえるか?」
「ええ、大丈夫よ。私、力持ちなの」
「ありがとう、助かる! ナマエのこともよろしく頼む」
「任せて」
「ナマエ」
「っ、ひゃい……」
「コケんなよ」
子供に言い聞かせるように指を一本立ててサンジは言い置き、賞金稼ぎの一団の迎撃へ向かった。彼が曲がっていった角の先から「てめェら全員肉団子にしてやる」という剣呑な声が聞こえる。
「ナマエ、歩ける?」
「ぁ、だい、大丈夫、歩ける」
「驚かせてごめんなさい。30分くらいジョギングしたら片付けようと思ってたのだけれど」
「あ…っ、もしかしてあれをエクササイズのくくりにしてる……?」
「軽い有酸素運動は効果的なのよ」
「……? か、…?? あ…、すごい……少しも理解できない……」
「ふふふ」
ロビンは地面に生やす腕を増やして追加されたリュックも悠々と運ぶ。
ナマエは彼女の後ろを大人しくついていきながらも、もと来た道をチラチラと振り返る。サンジ一人で大丈夫かしら、と当たり前の心配をしているのだ。
マァ、その心配は無用である。
30分も経てば賞金稼ぎの男たちの屍で山が出来上がる。サンジはそのてっぺんにて、生成した肉団子どもに騎士道を熱く厳しく説いていた。
「てめェら! 賞金稼ぎである以前にお前らは“男”だろう!! そして、賞金首である前に彼女は“女”だ!!!」
「「「うう……っ!」」」
「女ひとりを追いかけ回した挙句、野郎がよってたかって暴力振るおうだなんて……」
「「「そっ、それは……」」」
「てめェら揃いも揃って恥ずかしくねぇのか!!!??? ア゛ァン!!?」
「「「うう゛ーーッッッ!!!!」」」
「男の強さってのはてめェの大事なもんを守るためにあるんだろうが!! 決して女を甚振るためのもんじゃねェ!!!!」
「「「はいーーーッッッ」」」
肉団子たちは物理的にボコボコにされて弱りきった精神にこのサンジオリジナルブレンドの騎士道(女尊男卑)を延々刷り込まれた結果、見事に懐柔(洗脳)されてしまった。よって己の不甲斐なさ、情けなさ、みっともなさにみなオイオイ泣いているのであった。
「ふん! ご立派な講釈だけど、アタシたちには通じないよ!」
「そうよそうよ! 賞金稼ぎは賞金首を討ち取ってなんぼなんだから!!」
当然、女の賞金稼ぎにはこの騎士道は響かず。むしろ、こんな海賊一人に言い負かされるなんてそれこそ情けない、と野次が飛ぶ始末である。「で、でもよォ…」とすっかり湿気った声がサンジの尻の下からメソメソ聞こえる。
「……ああ。君たちにも誇りや美学、信念があるのはよく分かるよ、勇ましきレディたち」
そう言ってサンジはおもむろに立ち上がる。山のてっぺんにスッと伸びたシルエットは、下から見上げればいやに脚が長く、真っ黒な避雷針のように見えた。
賞金稼ぎの女たちは少し狼狽え、気丈に睨みつけつつも思わず半歩下がる。
「おれは君たちの意志を尊重するぜ……。さあ!! おれと世界の果てまで存分に追いかけっこしようね〜〜〜ん!!」
「「「ひいいいい」」」
途端、全身がメロッと蕩け、目はピンク色のぷっくりハートになる。鼻の下を3メートルに伸ばして漢山(おとこやま)をひと足に飛び降りてきたサンジに、女賞金稼ぎたちは心からの悲鳴を上げて散って行った。
本気を出せば追いつけたけど、サンジは「ありゃりゃ…」と足を止める。ツンと唇を尖らせて、ポケットに両手を突っ込んで足元の小石を蹴っ飛ばした。
一人ぼっちになっちまった、とちょっと寂しく思う。彼にとって男は人間にカウントされず、おかげで背後にある漢山はオブジェと同義であった。
ナマエたちが無事に帰れたかも気になるし、仕方ねェ、船に戻るか……。サンジは頭をぽりぽり掻いて船へ向かった。
「あっ、」
ナマエは小さく声をあげて、欄干にもたれていた体を伸ばした。港に姿を現したサンジのため、縄梯子を下ろしてやろうと動き出す。彼は何やらわたわたと動く彼女の影を地上から見つけて、ああちゃんと帰り着いたのだなと思った。
ナマエが縄梯子を抱えて船縁に戻ってくるのと、サンジがヒョイと船に自力に上がってくるのはほぼ同時だった。
「おかえり、け、」
「怪我は?」
「、してない、ロビンも無事……」
「そうか、よかった」
サンジはホッと肩の力を抜いて笑った。
安否確認の先を越された彼女だが、気を取り直してサンジに怪我の有無を尋ねると、彼は右手を胸に当てて左手を横に軽く開いた。そして片足を引いて膝を曲げ、わずかに体を屈める。格好つけたお辞儀のあと、顔を上げたサンジは「クソ余裕」といつものチンピラっぽい言い方で笑った。
そして、自分を見上げるナマエのポカンとした顔を見て。
「ハ、心配したかよ。おれが負けるとでも? あんな腰抜けどもに!」
と、もっとチンピラっぽく軽快に笑い飛ばした。彼女といるとどうしてもバラティエのテンションに戻ってしまうのだ。
いつもの調子にナマエも安堵してようやく表情を緩める。
サンジは彼女が縄梯子を腕に抱えていたので、なんで持ってるのかよく分からないけどなんか重そうだな、と思ってそれを引き取った。縄梯子の塊を小脇に抱え、ついでに食材の安否も尋ねる。聞けば食材は倉庫や生簀に収納済み。特に問題はないようだ。
ナマエは雑談の気分で、それにしても、と続けた。
「こんなに賞金稼ぎがいる島だったなんてねー…早いうちに買出し終わらせられて良かった。出航まではもう船で大人しくしてようかなあ」
「はァッ!?」
優れた危機管理能力を搭載した完全自立型乙女がここにきてサンジの邪魔をする。
出航まで船で大人しくしてる?
せっかく賞金稼ぎ(男)は全員すり潰して肉団子にしてきたのに?
そんなの困る。
明日はデートに誘いたいんだ!
「え、なに……」
「な…、そん…そんなの別に心配するこたァねェだろ、もう」
「いや普通に危ないでしょ」
「あ、危ねェっつーなら、その、おれついてくし。」
い、言えた!!
心臓は飛び出そうなくらい鳴っていて、頭皮の汗腺がブワッと開いたのも自覚できるほどだけど、なんとか言えた。
大進歩である。口実を探して物悲しいため息をついていた頃とは違う。今のサンジは臆病風に吹かれて二の足を踏んでる場合ではないのだ。
「えー、でも…サンジも賞金首だし。手配書とか出回ってるでしょ?」
「……? 手配書……?」
「……ちょっとなによ、急にポカンとしないでよ……あるよね、手配書。サンジのも」
「……、…? ねェ…けど……?」
「ええ…?」
サンジは曇りなき眼でポカン…と首をゆっくりとかしげた。
サンジは“アレ”を自分の生まれて初めて世界デビューを飾った手配書と認めていない。あんなもの、彼にとっては侮辱でしかないので。
手配書の存在をなかったことにしてしらばっくれるサンジに、ナマエは困ったように眉根を寄せる。
だって彼女はサンジの手配書を知っている。あの死んだ目の似顔絵を。あの高熱の時に見る悪夢のようなタッチで描かれたアレを。確かに男部屋の壁には貼られていないが、ある時ウソップが隠し持っていた一枚を「とっておきだ」と言ってこっそり見せてくれた。
なので今さら隠蔽しようにも無理がある。
「嘘だよ、サンジの手配書もあるでしょ。私知ってるよ」
「ねェったらねェ!! あんなラクガキ、おれは許してねェからな!!」
「意外と特徴とらえてたじゃない」
「見…ッ、おま、見たのか!? アレを!?」
「えっ…と。まぁ、チラッと?」
「ナマエ! お前にゃおれがあんな不細工に見えてるとッ?」
「そ、そんなことないけど」
「だよなァ!? 良かった安心した。なあ思い出せよ、おれと島歩いてて海兵や賞金稼ぎに囲まれたことがあったか? ねェだろ? ねェよな? そオいうことなんだよ、あの手配書のデキってのは!!」
「う、うん」
「つまり。アレは手配書としてまったく機能しないほどの欠陥品だ。したがっておれはアレを、おれの手配書とは、断じて認めない」
「……」
「この点、深ァーくご理解いただきたい。……ってなに笑ってんだ」
「ふ、ふふ…う。うん、深ァーくご理解しました……あはは!」
あまりの熱弁にケラケラ笑うナマエを見下ろし、サンジはグ…と黙ってちょっと苦い顔でそっぽを向く。
彼女はそれを拗ねた顔だと思った。しかしこれは。
どうでもいいことで話が逸れてしまった。ここから何とかしてデートの約束に繋げねェと!
と、焦っている顔だった。
「買出しついでに見てたら、この島、いろいろと面白そうな場所もたくさんあるらしいんだ」
「へえ……サンジ行きたいの?」
「…、い。行きてェなー…って……」
“ナマエと”。
しかしこの一言が喉に引っかかって出ない。目だけがウロウロと動く。
サンジは腰に手を当てたり、重心を変えたり、斜め下を見たり遠くを見たりと落ち着かなかった。
あダメだ、喉がやたら渇いて仕方ない。シャツの下に汗をかいてる。肋骨の内側から叩かれているみたいに心臓がギシギシ軋む。うわ一旦ヤニ入れて良いかな、だめかな……。
「えっ」
耐えかねた彼がニコチンを求めて内ポケットをまさぐった時。
ナマエは突然声を上げて、慌ててサンジの背後に回った。
え、え。なに、とサンジは無防備に目を丸くして彼女を目で追う。彼女の視線の先を辿り、体をひねって自分のジャケットへ目をやり。
そこでようやく、自分のジャケットが背面から裾にかけてザックリと切り裂かれていることに気づいた。「うお、」と思わずマヌケな声がでる。
ナマエは咄嗟にジャケットに裂け目に手を伸ばし、ジャケットの下のシャツに、つまりサンジの体に傷がないことを確認して胸を撫で下ろした。
よくよく見れば、ジャケットだけでなく、スラックスにもあちこちに細かい傷がついて生地がだめになっていた。
「あーあ……こりゃあまた派手に斬られてら……。マァ仕方ねェや。海賊やってりゃそんなもんだろ」
「……」
「? あ、訂正だ。バラティエにいてもスーツは週一でズタボロだった」
「……買い行こ」
「え?」
「明日。買いに行こう」
「買い……んっ? え?」
「ジャケット。……というかスーツ。サンジの」
「お、おれのスーツ?」
「うん。ダメになっちゃったから」
「べ。別にこれ一張羅じゃねェよ、ほかに着るもんくらい持ってる」
「ごめん、今日はもう私が疲れちゃったから明日ね」
「聞け聞け聞け、違う、おれは明日は……!」
「明日なにか用事あるの?」
「……っ、よう、用事、…………ない」
「じゃあいいね。決まり」
「……、…はい……」
え? デート…決定した?
えっ、え、……え?
いや待ておれのスーツ!? 紳士服!? そんな店の情報仕入れてない!
てかなに、明日おれはナマエとおれのスーツを見に行くのか? おれの? おれのスーツ、ナマエが見繕ってくれるのか?
「ぁ、わ……ゆ、」
夢みてえ。
サンジはこの急展開に口元を覆い、静かに目を見開いて喜びに打ち震えた。頬が桜色になる。
「せっかくだし、スーツ買い終わったらついでに観光でもしてきたら?」
「っ、じゃあナマエ、付き合ってくれよ」
「え?」
「男一人で観光なんて、クソサブいだろ」
言えた!!!!
喜びでエンジンがかかった勢いのままにサンジはナマエを誘った。ごくりと喉を鳴らし、彼女を見つめて返事を待つ。
いいよって言え。仕方ないなあって笑ってくれ。お願いだ。
サンジのこの健気な熱視線を受けた彼女は。
「……仕方ないなあ。いいよ」
と、ふにっと笑った。
しかしすぐに照れてしまってもじもじと顔を逸らす。その仕草ひとつでサンジの胸は堪らなくキュンとした。
「んと、一応明日は何かあっても大丈夫なように動きやすい格好にするね」
「い、いい! 今日みたいな格好で……」
「でも万が一ってこともあるし、」
「いい、いいんだ、今日みたいな格好が、いい」
「……サンジ?」
「っ、」
ナマエがパチ…とサンジを見上げる。
サンジは自分の顔がガーッと熱くなっていくのが分かっていた。
自分のスーツを見繕ってくれると言ってもらえて、その後の予定にも色良い返事をもらえた。これに浮かれてはしゃいで、今日みたいなよそ行きの可愛い格好をしてきてほしいとつい強請ってしまった。
しまった。やりすぎた。
キモかったか?
いや、でも。えと。
「い…一緒にスーツ見に行くんだろ、ナマエだけカジュアルすぎちゃあ、その、店でクソ浮くかもしんねーし……」
自分で言っててさすがに居た堪れなくてサンジは斜め下にガッと顔を逸らす。
まさしく取ってつけたような下手くそな嘘だ。
ヤベェ、今のおれすげーかっこ悪い……。……むしろなんでこいつ笑わないんだろう……。
羞恥と情けなさに微弱に震えながらそんな疑問を抱くものの、それを確認する余力はもはや彼にはない。もう少しも顔の角度を変えられず、静かにこの空気に耐えるのみだ。
ナマエは黙ってしまったサンジを上目遣いに盗み見る。ス…と目を逸らして小さく深呼吸をし、そして、心臓をドクドク鳴らしながら口を開く。
「……何かあった時、またしてくれるなら……」
「へ…」
「ヒールがあると、そんなに早くは走れない」
「……っぉ、あ…! も。もちろん、ッうん、うん。そんくらい軽いもんだ!」
「そう…?」
「! おう、どうってことねェ。だっ、大丈夫。心配に勘定する必要ねェから、うん問題ない」
逃走時の“横抱き”をしてくれるか、という問いであると思い至り。今日、腕に抱えたナマエの体を思い出し。
サンジは彼女の目を見てガクガク頷き、全力で快諾した。
全然やる、一日中でも抱える。エスコートだってするし、そんなの、いくらでも。言葉にはできなかったけど、このような意気込みが込められた前のめりな快諾であった。
ナマエはこれにじわー…と頬を熱くする。
「わ、わかった。もしもの時はよろしく頼むね。じゃあ、明日……。…とりあえず着替えてきなよ」
「お、おう」
サンジはぎこちない動きでドタドタ男部屋へ向かった。
ナマエは彼の背中を見送り、踵を返して食堂へ歩き出す。熱い頬を手の甲で冷やしたり、パタパタと顔を扇いだりしながら。
「〜〜ッ!! 〜〜〜ッッ!!!」
ナミは大音量で漏れそうになる歓声を必死に唇を結ぶことで無理やり我慢し、その代わりに隣にいるロビンの腕にビタッ! とくっついてピョコピョコ跳ねていた。ロビンはニコニコと微笑んでいる。
ナミとロビンは、この引っ叩きたくなるほど焦ったい男女のやり取りをみかん畑のあるデッキから鑑賞していた。
ナミもまた賞金稼ぎの多さにうんざりして早々に引き上げてきており、ナマエとともに船に戻ってきたロビンと甲板で日向ぼっこをしていたのだった。明日はゾロでも用心棒に連れて行こうかしら、と唇を尖らせて愚痴っていたところに突然、ロビンの手で両頬を挟まれ向かされた先で、あのやり取りが始まった。
なんということだろう。
つまんないわね、とつい先日ロビンと話したばかりだったが。
少し見ない内にめちゃくちゃ面白いことになっているではないか。
距離のせいで会話はあまり聞こえなかったが、仕草や身振り手振りを見ているだけで十分だ。そこそこ完璧なアフレコができることだろう。実際、正解の3倍くらい甘々な台詞でアフレコをしてナミは遊んでいた。
「え〜…どうする? また綺麗にして送り出す? あとで話聞きたいし、メイクアップを手伝って恩を売るのも手だわ」
「そうね、迷うところだけれど……今回は観客に徹するのはどうかしら。私、ナマエがドレッサーの前で悩む姿も楽しみたいの」
「あ〜〜。人が悪いわね、アンタ!」
魔女二人は肩を寄せてクスクス笑い、明日が特別良い日になることを祈るのであった。