14
サンジは朝からずっとドキドキしていた。
朝食から船番メンバーの昼食の支度までを終え、いよいよ出かける準備をしているところだ。
出かける。どこへ? デートへである。誰と?
ナマエと!!
おれのスーツ、ナマエが見繕ってくれるって。そんなのナマエが「いいんじゃない?」って言ってくれたやつに即決でいい。それでじゅうぶん嬉しいし、おれが時間を割きたいのはココじゃない。
スーツを選んだあとは、とにかくステキな場所へ連れて行く。あいつが喜びそうなものをたくさん見に行って、しゃべって笑って、なんかその、いい雰囲気になれたら最高!!
男部屋の鏡の前でシャツの襟やネクタイの形をしつこく整え、髪にも櫛を通していたが、もうさすがにやることねェよ、となってサンジが部屋を出ようとしたその時。
「!」
男部屋の扉がノックされた。
男部屋をわざわざノック? 野郎にはそもそもそんな知能はないし、ナミさんなら声をかけながらノータイムで開けるはず。ロビンちゃんは男部屋は臭ェからまず来ないはず……。
と、驚いてちょっと固まってから、サンジはそろ…と扉を開けた。
そこにいたのはナマエだった。
消去法でなんとなく察しはついていたけど、いざ目の前に彼女が現れると、起き抜けに腹を刺されたようにドキッとした。
彼女はすでにめかし込んでいた。
深い青色のワンピースは彼女の肌をさらに白く見せている。ハイネックの胸元に散るビジューは華やか。幅広の黒ベルトはウエストをキュッと締め、緩く巻かれた髪は片側にまとめて流されていた。ほっそりとした首筋から上品な花の香がほのかに薫る。
瞼に乗ったグリッターがキラキラしていて、艶めく赤い唇はとびきり度数の高いブランデーに漬けたチェリーのよう。
ベルトのバックルと揃えてゴールドにした大ぶりなフープピアスが太陽の光を反射して一瞬だけ強く光った。
そんな女が扉の向こうにいて。「準備できた? 行くよ」とザックリとした口調で自分をさっさと部屋から連れ出すので。
「お、おお、……」
サンジはナマエにリードされるがまま。ドキドキしっぱなしで、間抜けな返事しかできないのだった。
港の硬い地面に降り立つと、彼女は7センチヒールの黒パンプスをコツコツ鳴らし、迷いもなく街へ歩いていく。歩くたびに不規則に生まれるピアスのまっすぐな輝きを真夜中の灯台のようにして、サンジは冷静じゃない心のまま、その凜とした背中にぽや…と黙ってついていく。
後れ毛がひと筋垂れるうなじがやけに色っぽい。サンジの目はそこに釘付けになって何度も生唾を嚥下した。
そうして頭の中を甘くて重たいモヤで満たしてゾンビのごとくフラフラ歩いて行った結果。
「…お、おお…、……??」
ようやく意識がハッキリしてきた彼は、改めて強くマバタキをした。
なぜだか彼は物凄く手触りの良いパリッとしたジャケットに袖を通していた。シャツも今朝着ていたものと違う。ネクタイはシンプルなブラックかと思ったが、光が当たった場所にはペイズリー柄の細やかな織り模様が浮かんでいた。
「……んぇ…?」
「お色味はこのようなものでいかがでしょう」
「いいですね。ほかに似たものはあります?」
「ええ、ただいま」
「ありがとうございます」
「……???…、」
声のする方を見れば、ナマエと身なりの整った品のいい男性が話している。男は執事のように織り目正しく、静々と彼女の要望を賜っていた。
サンジがいるフィッティングルームの正面、壁沿いに置かれた柔らかな白いソファに座ったナマエは、バックヤードに向かう男性——もといスタッフへ微笑んで、ルックブックに目を落としてページを手繰る。
そばに置かれた可動式のハンガーラックには試着を終えたジャケットやシャツたちと、これから試したいスーツやネクタイが数組掛かっている。
それらをひとしきり眺めたサンジは、今度はゆっくりとマバタキをし…「んー〜……?」と喉の奥で低く曖昧な声を出す。
結局、何ひとつ分からない。
今の今までポンコツを極め、両目を節穴にして一切の記憶が抜け落ちるほど木偶の坊になっていた彼に代わって説明すると、彼らはいま島一番の仕立て屋にいる。重厚な歴史と輝かしい実績があって、どれを手に取っても最高級が約束された超一流老舗店である。
来店してからすでに1時間が過ぎようとしている。つまり、サンジはボケ…ッと口を半開きにしてナマエばかりを見ていたのだ。
この超一流老舗店のクラシカルな風景にもしっくりと馴染む美しい女ばかりを。
依然としてピンときていない顔のサンジはジャケットの裾から見え隠れしていた値札に気づいて、ピラッと何気なく見た。その瞬間、「…ッ」と喉の奥で息を詰まらせる。
マルの数が、なんというか、まさしく“桁違い”だった。
「な、なあ……! ちょっ…ちょっと、こっち……!」
「? あ、なにか気に入ったやつあった?」
「いいから……! ちょっと来い……!!」
「はいはい」
ナマエはソファから立ち上がり、一応ハンガーラックを押してのんびりとサンジのそばへ来る。大理石の床にはディープレッドのカーペットが敷かれているので、彼女の靴音は響かない。
「何がどうしてこんなとこに……!?」
「はい? スーツ選びに来たんでしょうが」
「だとしても! こんな見るからに高級な店……ウウウ、な、情けねェ話だが、おれァここまでの持ち合わせはねェぞ……!?」
「だから先に換金してきたんじゃないのよ」
「は? かん…カンキン?」
「……? まあ…とにかく平気だから。サンジはそこで背筋伸ばして立っててくれたらいいよ」
「よ、良くねェ、お前これ、」
「こっちとこっち、どっちが好み?」
「え、ぁ、……こっ、ち……?」
「うん、わかった。センス良いね」
「何点かお持ちいたしました。ネクタイと靴も、よろしければ合わせてみてください」
「わ、素敵。ありがとうございます」
「裏地はこのようになっておりまして……」
ナマエは戻ってきたスタッフと再びニコニコと話し始め、豆機関銃を顔面に食らった鳩ヅラで固まるサンジの体へジャケットを当てがってスーツ選びを続行する。
サンジが先ほどチラ見した金額を脳裏で反芻して青緑の汗をかいてる間にも、「着替えてみて」と次のスーツを渡し、フィッティングルームのカーテンをシャッと閉めてしまう。カーテンの向こうでは、断続的な会話が聞こえる。
「…………」
彼も服に無頓着なわけではないから、これらが半端な品々ではないことは何となく分かる。紳士なら一度は憧れるランクのものだということくらいは……。
しかし、それだけだ。よく分からんが物凄く良いもの、ということだけ。バッチリ値札を見てしまった上、その値段に納得がいくだけの質の良さも中途半端に分かってしまうがゆえ、サンジは下手に動けない。
これって。おれなんかが着て…というか、触ってもいい代物なのか? ナマエはこんな上等なスーツをおれに見繕おうとしているのか? うわ待てよく見たらこのロゴ、ドローワイズじゃねェか! ハイブランド中のハイブランド、おれでも知ってる!
じゃあこれは総額いくらになるんだ……? この店を出る時に、一体どれほどの金が出ていく……?
値段をいちいち気にするなんて、みみっちくて男らしくないとは思うが、あまりにも巨大な金が動きそうな予感に、サンジの目はぐるぐるになる。
つーかこれ。一体、“何着目”?
「着れたー?」
「ッ、ま、まだ。あと少し」
「はーい」
しかし、カーテンの外から促され。
サンジは崖っぷちで背中を押されたようにギクッとしながらも、ええいままよと着ていたジャケットを脱ぐ。
店のスタッフが出してきたのだ。19年しか生きていない若造のおれが着たって怒られやしないはず。そう一生懸命自分に言い訳をして彼は着替え始める。
そして、チャックをあげたり、ボタンを留めたり、袖を通したりしていくうちに「おおお…」と純粋な興奮にじわじわ襲われた。
良いスーツって、マジだな……と、サンジはその素晴らしい着心地にただひたすらに感動した。ついつい姿見の前で体の向きを変えて、いろんな角度から自分のスーツ姿を眺める。
試着だろうが何だろうが、こんなの着れただけで儲けもんだ、と思う。
「サンジ?」
「っ、おう」
再度カーテンの外から声をかけられ、サンジは我に返った。慌てて指で軽く払って前髪を整えてから、おそるおそるカーテンを開ける。
スーツに着られてるみたいだと笑われないだろうか。
一瞬目を泳がせ、サンジは「……着た」と一言、ナマエを見やる。
スタッフとルックブックを覗き込んで話していたナマエは、彼の姿を見るなり。
「わ、かっこいい」
と、顔を綻ばせてトトト…と小走りでそばにやってくる。
先ほどスタッフが合わせて持ってきてくれた革靴を履くよう促し、履いてフィッティングルームから出れば、スーツ姿のサンジをあちこちから眺めて「それも似合うね」「シルエットがきれいで素敵」とニコニコ喜んだ。
ナマエはサンジの方を向いたまま数歩下がって全身を見る。ラックに掛かったジャケットのハンガーを手にして彼のシルエットに重ね、楽しげな、それでいて真剣な顔をする。
そしてスタッフへ何やら声をかけると、スタッフもそれに呼応し、サンジを置いてけぼりにしてガチモードの談義が再開される。
サンジはまるっと記憶を失っていたので知らないが、このように彼はずっと着せ替え人形になっていた。
かっこいい。似合う。きれいで素敵——彼女が躊躇いなくくれたこの言葉は、サンジを再び木偶の坊にした。服が上等なおかげだとしても、それでも。頭蓋骨を開いて脳みそに甘ったるい果実酒を直接注がれた気分だ。温めて煮詰めれば度数を増して、ベタついて焦げついて離れない。
その香りだけで酔っ払える!
そんな具合でサンジはドキドキと黙り込んで、指示されるがまま上等なスーツを試着し、感想や好みを聞かれれば素直に答え、褒められれば華奢に目を逸らして礼を言った。
最終的に、ナマエは2着にまで絞り込んだ。
ひとつは、ワインレッドの2ボタンのスーツ。黒いシャツに白いネクタイ。
もうひとつは、ブラックのダブルスーツ。パキッとしたコバルトブルーのシャツにネクタイは黒で重ねる。
前者を試し終え、次に後者の一式を着たサンジは「クソ一流だな……」とフィッティングルームの中で、やはりスーツの出来栄えに惚れ惚れした。
体に吸い付くような着心地。それでいてこの動きやすさ。調理中はもちろん、180度の開脚がしょっちゅうの戦闘時でさえ、なんの支障もないだろう。
こういうのって丁寧に手入れをすれば何年でも着られるもんなのかな……。これまで様々な事由によってありえないスピードでスーツをダメにしてきたサンジはそんなことを思いつつ、カーテンを開ける。
「わ……!」
ナマエはひときわ目を輝かせてサンジに駆け寄り、忖度のない褒め言葉を次々とかける。
彼はまた耳の後ろあたりをじわーっと熱くした。
なんとなくワインレッドのスーツより反応がいい気がする。ナマエはこっちが好みなんだろうか。……
またしてもドキドキと言葉少なになりながら、サンジは目の前でキャッキャとはしゃぐナマエを見つめていた。
「よくお似合いです」
スタッフは言った。
サンジ、ではなくその背後にある大きな全身鏡へ目を向けて言った。二人はその視線を追って振り返る。
鏡には当然ながらサンジとナマエの姿が並んでいた。サンジはわずかに目を大きくする。
それはまるで揃いで作られたティーセットのようだった。
ダブルスーツとネクタイとベルトとパンプスの黒。ワイシャツとワンピースのブルー。ボタンとバックルとフープピアスと、サンジの髪のゴールド。
クラシカルなテイストと統一感のある色味によって、鏡の中に並んだ二人は見事に調和している。
ペアで並んでいることがごく自然で、そのようにデザインされたドールみたいだった。
「——……これがいい」
サンジは鏡に目を向けたまま、ほとんど反射的な、無意識的な声でそう言い、「これにする」と言った。
この言葉でスーツ選びは決着した。
己の失言にサンジはハッとしたが、時すでに遅く。彼が値札を盗み見る隙もなく、あれよあれよという間に会計に進んでしまう。
「あっ、そ。その、」
「丈のお直しは必要なさそうですね。ただいまお包みします」
「これって船に届けられますか? このあとも予定があるから荷物になるのはやだなって……」
「かしこまりました。船はどちらの港でしょう」
「なあナマエ、待てって、」
「西の港です。獅子の船首の船で……見たら分かるかと。船番がいますので預けていただけますか?」
「お選びいただいたものをこのまま着て行くこともできますよ。ご来店の際にお召しになっていたものを船へ届けましょうか」
「ナマエ、」
「あ、それがいい。そうしてくださいます?」
「はい。ではそのように」
「〜〜っ……」
結局、制止の声は届かず、無情にもレジスターはチャチーンと高らかに音を立てる。
サンジは眉間をギュッとつまむように押さえて項垂れた。でも、口元は素直で、唇を噛んでも誤魔化しきれないほど緩んでいる。
夢見るほど素晴らしいスーツが手に入って、それはナマエが手放しに褒めてくれたもので、しかもこれを着て並ぶと今日の彼女と対のようなお揃いになる。その上、このあとのデートに着て行くことができて、そうすることを彼女も望んでいる様子。……
嬉しくないわけない。喜ばない要素がどこにあろうか。にやけるほど胸がドキドキしている!
なんで今日こんなにクソ良い日なんだろう! とサンジは目を伏せたまま脳幹が痺れるような幸福を噛み締める。
なんでってそりゃあ。昨日サンジが勇気を出してデートに誘ったからである。実直な一歩が実を結んだだけのことだ。
「熱心で素敵なお連れ様ですね」
会計処理を終えたスタッフは、サンジが着ているスーツやシャツのタグを外し、ネクタイやラペルを整えながら穏やかに言った。
ここまできてしまっては、サンジはまな板の上の鯉。大人しくされるがままになって「……はい」としみじみ返すのだった。
ようやく店を出ると、ナマエはサンジの一歩前に躍り出て、くるりと振り返った。
そして、「サンジ」と改まって彼の名を呼び、両腕を広げ。
「バラティエ副料理長、就任おめでとう!」
と、弾んだ声で祝った。
突然祝われたサンジは目をぱちくりさせて「へっ?」とマヌケな声を出す。
ナマエはそわそわと視線を斜め上にあげたり、広げた腕を鳩尾あたりにたたんで戻したり、キュッと手を握ったりしたあと、「えっと、」と口を開いた。
「こんなタイミングになっちゃったし、ものすごく今さらなんだけど……そこは大目に見てもらって……」
「へ、ぇ…あ。え!? こ。コレって、このスーツってそういうことなのか!?」
「うん…一応そのつもり……」
「……」
「えと、だからちょっと奮発しよっかなーって……」
「…………」
サンジはいま着ているスーツに目を落とし、黙ってしまった。
この様子にナマエは徐々に勢いをなくしていき、不安げに指をさすってサンジを上目遣いに見た。
嬉しそうに見えたけど、違ったかな。重かった? やりすぎたのかも……。彼女が唇を口内にしまって「ど、どうしよう…!」と焦り始めた時。
「あ……」
「?」
「ありがとう……クソ嬉しい……」
贈られたスーツの“本当の価値”を、ようやく理解したサンジは震える声で言った。
店での彼女の熱心な様子を思い返してまた胸が熱くなる。
握り拳を口元にあて、熱くなる頬を少しでも隠そうとしたがちっとも隠せなかった。隠す必要などないのだろうが、嬉しすぎて身の振り方が分からない。しかし胸から溢れる感激は伝わってほしくて「ほん、本当に、すげェうれしい」「ありがとう」と精いっぱい繰り返す。
「…………似合うか?」
「——うん。似合ってるよ」
ナマエはほろ、と笑った。
スーツなど着ていられないほど暑苦しい日でない限り、彼はいつもスーツか、それに準ずる格好をしている。
それはなぜかといえば、サンジにとってスーツは特別な服だからだ。
ある朝突然「着てこい」とゼフから放られた紙袋。質問も許されぬまま自室に追い返されて、袋から取り出して対面した新品の黒のダブルスーツ。
ついにウェイター格下げのいじめもここまで来たか! と反射的に反発し、こうなりゃ意地でも着こなしてやると袖を通せば、それは人より手足の長いサンジの体に不思議なほどぴたりと合った。
「サンジ、てめェは今日から副料理長だ。おれのレストランで半端な仕事しやがったらタダじゃおかねェぞ。手足引きちぎって魚の餌にしてやる」
スーツ姿で戻ってきたサンジへ、ゼフは少しも笑わずにそう言った。
鳥肌が立つほどの高揚感だ。忘れられるはずもない。
その時のサンジの表情を、ゼフだって一生忘れない。
“噂の名店、海上レストラン・バラティエ 若き副料理長就任”の見出しと、コックコートではなく黒いスーツに身を包んだサンジの姿。
ナマエがバラティエを離れてから数年ののち、彼女はニュース・クーでそれを見た。
彼は真っ白なトーションを右腕にかけ、長い脚をピタリと揃えて恭しくお辞儀をしていた。しかし、その口元にはバラティエのチンピラコックらしく煙の立ち昇るタバコが咥えられていたのが印象的だった。解像度の低い写真だったが、軽く下げられた頭の丸い形は昔のままである。
その記事は丁寧に切り抜かれ、ナマエが当時使っていた14冊目のレシピノートの最終ページに貼ってある。
サンジの夢はオールブルーだけれど、ゼフに認められることだって大きな目標であるはず。彼の黒いダブルスーツは、その目標に大きく近づいた証とすぐに分かった。
サンジがどんな気持ちでその服を着ているのかも。
だから。
この度スーツを買う機会を得たナマエは、サンジに一等素敵な品を贈りたいと思った。
なので。
ナマエは密かにストックしていた海王類のウロコや革、骨などをエコバッグに詰めるだけ詰め込んで真っ先に町で換金した。海王類を捌いたあとに残るそれらは一見ただの残骸のように見えるがその実、希少価値が高く、なかなかの高値がつくのである。
このようにして潤沢な軍資金を確保したことをナマエは説明してやった。「えっ…と、その、金って……」と気まずそうに心配するサンジへ、カフェでランチを食べながら。
「申し訳ないけど、これはナミには内緒にしてね。私も個人的な食材を仕入れたりする都合で、お小遣いとは別口で安定した資金源がほしいから」
「カンキンってそういうことか……え、つか…え? エコバッグ……? そんなもん持ってたか……?」
持っていた。持っていたがサンジはピヨピヨだったので一切気づかなかった。品物を売っ払ったあとは小さく畳んでハンドバッグに仕舞えるのでエコバッグは便利なのだ。
ナマエは表通りの換金所を2軒ほどハシゴしていた。換金所の窓口で紳士服のおすすめの店はないかと尋ねれば、スーツを選ぶなら間違いなくここだと“ドローワイズ”を勧められた。
ナマエもドローワイズと聞いて納得した。なんだ、この島にはドローワイズの店舗があるのか。ならばそこで間違いない。
ドローワイズは、貿易で財を成した実業家たちへ服を仕立てたことが始まりのスーツメイドメーカーである。
貿易とはつまり、実業家本人たちが自らの足で海を渡って方々へ商談へおもむき、交易ルートを切り拓いたということ。
長い海上生活で潮風にあたっても傷まない丈夫な生地、限られた服の中で繰り返し着ても型崩れしない伸縮性、どんな商談の場でも恥じぬ洗練されたデザインセンス——ドローワイズのスーツとは、それらが約束されているということだ。
店へ真っ直ぐ向かったナマエはサンジを店内の入り口あたりに待たせ、スタッフに声をかけた。
あそこに立っている彼に似合う最高のスーツを贈りたいこと。
それは副料理長になった彼への祝いの品であること。
船舶料理人でほとんどを海の上で過ごす彼には、丈夫で動きやすいものを贈りたい。本当はオーダーメイドがいいけれど、明日には島を発たねばならないからレディメイドから選ぶことになるが……どうかスーツ選びを手伝ってはくれまいか、と。
スタッフは彼女の真剣な言葉と眼差しを受け、店内に立つサンジの姿を見て。
「喜んで。今日がお二人にとって素敵な日になりますように」
そう微笑んだ。
予算はこれくらい、と出された金は、ドローワイズで一番良いスーツを買うにも十分な額だった。スタッフはサンジの体をテキパキと採寸し、スーツのイメージを聞き、それでしたら……と予算に見合うラインナップから早速品を出してくれた。
たとえ彼女が告げた予算が到底スーツに届かないものだったとしても、ハンカチ一枚しか買えぬ程度だったとしても、彼は同じ言葉を返し、同じ対応をした。予算がいくらであろうと、この店を選んで足を運んでくれたのならば、その中で最高の品を選ぶ努力を怠らない。ゲストを選ばず、常にベストな品を提案する。
それが一流であり、老舗が老舗と呼ばれる所以であり、ハイブランドとして世界で長年愛される理由である。
……マァ。あれこれダラダラと話すのは不粋なので、ナマエは金の出所だけを簡単に話して目の前のガレットの味に集中した。
サンジはエスプレッソのカップに口をつけたまま必死に記憶を辿ったが、思い出せるのは彼女のきらめくうなじばかり。しかしそんなことを言えるはずもなく、サンジは「ふ、ふーん……?」とそれらしく濁してまた黙る。
「まあ。そういうことです。プレゼントなんだからあんまりお金関係のこと聞くの良くないよ」
「う……あ゛ー……。…、そうだな……んじゃ、ありがたく頂戴いたします」
「ふふ、そうして」
ナマエは嬉しそうに笑って、ナイフで切り分けたガレットを口へ運んだ。
おれにプレゼント寄越して、なんでお前がそんなに嬉しそうなんだ。サンジはナマエを見つめたまま、胸をじん…と熱くする。
彼女のことが好きだな、と改めて思う。
「……なあナマエ」
「ん?」
「メシ食ってるとこに話すのもなんだけどよ……」
「なに?」
「せっかく今日はお互いそれっぽい格好してるだろ? どうせなら、……ドレスコードのあるレストランのディナーに行かないか?」
「…! それいいね、行きたい! 行こ!」
「! おう!」
サンジは目を輝かせ、テーブルの下でガッツポーズをした。
やはりこの島には勝利の女神がいるらしい。
「あっ…じゃあ船の奴らの夕飯の準備、どうすっかな……」
「今日は夕飯の準備いらないってナミが言ってたよ」
「えっ? ナミさんが? なんで?」
「なんだっけな、ゾロが奢ってくれるんだとか。ゾロへの貸付金の利子がだいぶ溜まったから今夜はそれで飲むーとか言ってたよ」
「あのバカマリモはまたナミさんに借金してんのか……」
「お酒とオードブルをサニーに持ち込んでみんなで宴会だってさ」
「アハハ! もちろんルフィもいるんだろ? あの胃袋の相手すりゃあ、一晩でマリモのやつ素寒貧だぜ!」
サンジはひとしきり笑ったあと、「んじゃあ、今夜はマリモ君に任せるとしようかね」と肩の力を抜いた。
ナマエはその様子を見てひそかに胸を撫で下ろす。
「アンタ、今度こそサンジ君とディナーしてきなさいよ。絶対。絶対だからね。もし明るい時間に帰ってきたら、難癖つけてお金取るわよ。貸してもいない金、利子つけて返済させるから。いいわね?」
と、昨夜ナミに釘を刺されていたから。
うまくディナーに誘えるかなとドキドキしていたが、予想外にサンジから提案してくれた。今夜の夕飯の支度もゾロの犠牲のおかげで諦めてくれた。
今度ゾロに酒の肴セットでも作ってあげようと思う。
「食い終わったら、腹ごなしに少し歩くか」
「うん。ついでに良さげなお店探そう」
「グランメゾンなら南側の通りか。当日で空いてるか分かんねェけど」
「そこは運でしょ」
「だな」
心配御無用。なぜなら、この島には勝利の女神がいて、今日はサンジに微笑んでいるから。
レセプションは予約台帳にサンジの名を書き付け、それではお席をご用意してお待ちしておりますと二人を見送った。
日はまだ高い。まだこれからどこへだって行ける。ディナーを予約をしているのだし、これから大失態でも犯して見捨てられない限り、サンジはナマエと行動をともにできるのだ。
今日は買出しという事務的な理由以外で一緒にいられる。
本当は理由がなくても一緒にいたいけれど、それはいつか叶えばいいなと思う。
馬鹿みたいにドキドキする。
「どこ行く?」
そう問いかける彼女の声に、どうしようもなく心が浮き立つ。まるでプレゼントを開ける前の気分だ。
サンジは胸いっぱいに空気を吸い込んで、「じゃあ、」と彼女のために考えたデートコースを提案するのだった。
***
ナマエは珍しく鼻歌を歌っていた。
手に持ったハンドバッグをぷらぷら揺らし、足元へ視線を落としてゆったりと歩いている。
少しばかり酔っているのだ。サンジと二人でワインボトルを2本も空けたから。あのあと二人は街を散策し、日が暮れれば予約した店でコースディナーに舌鼓を打ち、楽しい酒を飲んだ。
そして今はサニー号への帰り道だ。海沿いの遊歩道。等間隔に並んだ街灯が石畳を照らしている。もうしばらく歩けば港に停泊するサニー号が見えてくることだろう。
サンジはナマエの後ろを歩いていた。
彼女の髪が風に吹かれて揺れるのを眺めていた。
「ディナー、美味しかったね」
「ああ」
「あの牛フィレのソテー、また食べたいなあ」
「おれが作ってやるよ」
「そう? じゃあ作って」
「食材があればな」
「ふふ、海に牛いないじゃん」
「牛肉っぽい味の海王類ってのはいねェもんかね」
「あー、だったらオススメはー……」
ナマエは自前の食材の知識でもってスラスラと海王類の名前や調理方法をサンジに解説した。ほろ酔い状態でも削がれぬ正確さと知識量である。世界中の食材を調理するという彼女の夢は伊達ではない。
中にはサンジが知っている知識もあったが、彼はナマエの話を遮ることなく好きに喋らせた。
不意に、強く風が吹いた。
ナマエは首をすくめて凌ぎ、風が落ち着くと自分の体を抱くようにして二の腕をさする。
「悪い、気づかなかった」
「え? わっ、……」
「ほら」
「な。なに……?」
「ン」
サンジは小走りでナマエに追いつき、脱いだジャケットを広げて彼女へ差し出した。
広げられたそれを見て、ナマエはキョトン…とサンジを見上げる。
ジャケットを貸してくれるのかしら……とも思ったが、彼はジャケットを広げて持ったまま、一向に彼女の肩に掛けようとしない。だからナマエはサンジの意図がよく分からなくて、「……??」とおずおず振り返って彼と向かい合う格好になってしまう。
サンジはサンジで、正対するナマエに「あ?」と怪訝そうな顔で首を傾げる。
「いや。袖通せって」
そう言って、サンジは体を横にずらし、ナマエの背中側に広げたジャケットの裏地を晒して彼女が袖を通すのをジッと待っている。
ナマエはジャケットを見て、サンジを見て。ちょっと思うところがあった。
女性の肩にそっとジャケットをかけてやるのはまさしく優男の仕草だが、袖を通して着せてやるのは、なんというか……世話焼き、のようだ。
もっと言えば。
「……子供扱いしてる?」
「まさか」
じとっと睨むナマエにサンジは両肩をチョイと上げる。
「実はおれ、今日は“とあるお方”から素晴らしいスーツをプレゼントされてな。とにかく自慢したいんだ。着てみろよ」
彼はイタズラっぽく、しかし幸せそうにやわっこく目を細めた。彼もまた少し酔っているのだ。
ナマエはサンジのこの物言いに小さく吹き出し、「あら、そうなの?」と話に乗っかっておもむろに袖を通す。ジャケットには彼の体温が残っていた。
サンジのこれを“世話焼き”という評するのは正しい。サンジの愛の示し方は献身そのものだ。身を尽くして相手に捧げる。言葉も時間も手間も気遣いも。
気障ったらしく甘い仕草をするより、世話を焼く方がよっぽど相手に心を許している証で、相手の心にも踏み込んで構っている証なのである。
ほろ酔いのサンジは、彼女が自分のジャケットに袖を通す様子を眺め、ジャケットのサイズがまったく合っていないのを見てフ、と吐息だけで笑う。
肩はずり落ちてるし、手はすっかり隠れているし、裾はナマエの太ももの半ば辺りにきている。だけど彼女は腕を広げたり、ラペルを軽く引っ張ってみたりして嬉しそうだ。
上機嫌なまま、再び歩き出す。サンジも再びその後ろを歩き出す。
「うん、我ながら良いスーツを贈ったわ!」
「そうかい。そりゃ何よりだ」
「さすが老舗って感じだったね」
「どれも良いデザインだったよなァ」
「ね。たくさんあって目移りしちゃった……でもほら、サンジは脚がすらっと長いでしょ。髪も綺麗な金色だし。だから王道のクラシカルが似合うってずっと思ってたのよ。細身のシルエットを活かすとぐっと色気が出るからさあ。カラースーツも今回たくさん試してみたけど、シックな色がいいなって思ったよ。特にブラック。サンジの髪色が映えるし、体に吸い付くみたいに似合ってて……ほかと段違いでかっこよくて……、あっ。」
すらすらと語り出したナマエは、突然ハッと我に返って足を止め……おそるおそる振り返る。
サンジは目を丸くしていた。頬が赤いのは酒のせいだけではない。お前そこまで思ってたの? という無防備な照れ顔であった。
店でも褒め言葉は惜しまなかったけれど、あれは最高の一着を選ぶための検討と意見交換の一環という意識だった。
しかし、たった今のこれは——……酒で緩んだ気持ちからまろび出た丸裸の本音である。それはサンジにも理解できた。
ナマエはカッと恥ずかしくなってサンジより顔を赤くして、シャッとまた前を向いて俯いてしまう。が。
「……す。すごく、素敵よ」
なんとか声を絞り出して、この賞賛を伝え切った。
途中で黙ることもできたし、「……って、あの店員さんが言ってた」と他人の言葉にすり替えることもできた。
けれど、ナマエはそうはしなかった。
いま伝えた言葉を覆す気はない。今日思った気持ちをなかったことにする気もない。
だってサンジに褒められて、彼女は嬉しかった。それがたとえ病による奇行であろうと、まっすぐな言葉で、一粒の嘘も混ぜずに褒めてもらえて嬉しかったのだ。
単純な話である。されて嬉しかったことをしてみよう、というだけ。
不慣れながらもナマエもサンジのやり方を真似て、気持ちを伝えてみようと思ったのである。
だがしかし。このあと何を言ったらいいのか、どのように振舞ったらいいのかも分からないので、ナマエは痛いほどに鳴る胸をギュウと押さえ、ジッと立ち尽くしている。
サンジはそんな彼女の背中を見て。
照れてキュッと小さく縮こまってしまった不恰好なジャケットのシルエットを見て。
心から可愛らしいと思った。
「ナマエ」
サンジはカツカツと大股で歩いてナマエの横を過ぎ、彼女の目の前に立った。
俯いた彼女の視界に、サンジの黒い革靴のつま先が入り込む。
「おれは朝から物凄く大事なことを言い忘れていた」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……?」
何を言い忘れていたのか、一向に切り出してこないサンジにナマエはそろりと顔をあげた。
サンジは小難しい顔をしていた。ナマエと目が合うと、途端にマバタキが多くなって、目が泳ぐ。口がムム…とへの字になったり、何かを言いたげに薄く開いたりした。
「あー…、っと……」
「……??」
「そ。その……!」
今日の君は一段と綺麗だ。そう言いたいのに。
伝えたいことは、こんなに簡単なのに!
「その、だな……」
「サン、」
「! ま、待て。待って、言う。言うから、その」
「……、」
サンジは困窮して背中をわずかに丸めつつ、「あー」とか「うぅ」とか歯切れ悪く唸りながらジリジリと俯いていき。苦し紛れなのか無意識なのか、ナマエの腕をよわよわと手繰り寄せ、両手でジャケットの袖の端を片方ずつもそもそ握る。
彼女の手は袖のもっと奥にあるので、サンジが握ったのは布地だけだ。しかし、そこを握られると、ナマエは両手を握られたも同然で簡単には逃げられなくなる。
何をそんなに言いづらそうにしているのか、ナマエは怪訝そうにサンジを顔をうかがう。ナマエはこれから彼に、5億ベリーの借金があるんだとか、女の皮を剥がして山に埋めるのが生き甲斐なんだとか、とんでもない暴露をされるのかしらと変な方向でドキドキし始めていた。
そのまま30秒経過。
ついにサンジはギュ…と一度強めに目を瞑ってから、短い深呼吸を一度して。
「……、き」
「?」
「今日のナマエは、一段と綺麗だ」
「……え、」
「髪も、メイクも、服も、アクセサリーも、ぜんぶ」
「……」
「…ぜんぶ、本当に……」
サンジはナマエの目を見つめて言った。
花にも宝石にも天使にもなぞらえられなかった言葉は、ただただシンプルで、そのぶんナマエの胸を強く撃ち抜いてみせた。深刻な暴露に備えてサンジの顔を心配そうにジッと見つめていたせいもあろう。見事に直撃である。
ナマエは手のひらで熱い頬のひとつも隠したいところだったが、袖口を掴まれているから顔を逸らしたり俯いたりするくらいしかできない。
「そ、そうかな……ありがとう……?」
「……おう」
「ぇっ、えとね…、このワンピース、お気に入りなんだ。深い青色がきれいで…黒のパンプスもクラシカルで可愛くて……」
「ベルトやピアスも?」
「う、うん。ゴールドが差し色で入ると華やかになるから……ちょっと格式のあるところに行く時用のお気に入りのコーデ、みたいな…感じ……」
「ふぅん」
ブルーのシャツ。黒のスーツ。ゴールドの髪。
——じゃあ、これを着ていたらおれもお前のお気に入りにしてもらえンの?
「(…いや、さすがにコレ言うのはハズいだろ……)」
サンジは脳裏に浮かんだ言葉を取り消し、フと視線を逸らして耳の淵をカリカリ掻いた。
片手が外れたので、ナマエはこれ幸いと「ほ、ほらもう帰ろ」とそそくさと向かい合わせの位置から逃れる。
が、袖の長さ以上に離れようとしてもナマエはそれ以上進めなかった。
サンジが片袖を握ったままだから。
袖を引かれる感覚に振り返れば。
「酔っ払いはすぐ転ぶ」
卸したてのスーツが汚れたら困る。と、サンジはやはり袖を離さなかった。
彼はジャケットの袖を握ったまま、もう一方の空いた手をポケットに突っ込んでサニー号へ歩き出す。ナマエは風に乱れる金色の髪をチラッと見上げ、胸をドキドキさせながらその隣を歩いた。
この“酔っ払い”がサンジとナマエのどちらを指しているのかは定かでないが、マァどちらも好きな人に嬉しいことを言われた者同士。気持ちも足元も浮ついているから、どちらでもいいし、どうでもいい話だ。
転倒防止の名のもと、二人はサニー号までの短い夜道をゆっくりと、ゆっくりと歩いて帰ったのだった。