03
バラティエを出てから、ずっとついてきているニュース・クーがいる。
他のカモメとお揃いの水兵帽と鞄を身につけているのを見る限り、世界中を飛び回って最新の情報を各地に届けることが彼の役目のはずだが、持っている新聞紙はいつも一紙のみ。つまりは、私の分だけなのである。そして、彼が求めるお代は新聞代のベリーだけでなく。
「はい、今日はみかんのショートブレッドだよ」
美味しい? と声をかければ、両翼をばさりと広げてグェッとあまり可愛いとは言えない鳴き声をあげた。ナミの畑から分けてもらったみかんだ、美味しいに決まってる。
餌付けした、ということになるのだろうか。
客船のコックとして働いていたイーストブルーの幼き日、配達にきたこの子に試作した料理をあげた。だって料理を見るなりいかにもお腹ぺこぺこなんです、という勢いで涎を垂らすものだから。カモメからあんな量の涎が出るなんて知らなかった。
その日からこのカモメはほぼ毎日私のもとに新聞を届けにくるようになったのだ。驚くことにどこの海域を航行しても、どの島に滞在していても、迷わず私のところへ配達にやってきてご飯をもらうまでは帰らない。配達数、すなわち売上は連日一紙のみという、不真面目極まりない勤務態度で上司に怒られないのだろか。
欄干の上に置かれた皿を幸せそうにつつくカモメを見ながらそんなことを度々思う。
「なあナマエ、明日のメニューのことなんだが――……ってなんだその不細工なカモメは」
「ギェッ」
「うわっなんだ痛っ、テメェ捌いて丸焼きにすんぞコラァ!!」
「ちょっと、私の友達食べないでよ」
「あァん!?」
確かに私から見ても愛嬌とは掛け離れた無愛想な目付きと雰囲気をもつカモメだけど、さすがにサンジの第一声の不細工には異議申し立てがあったようだ。
首根っこをつかまれたお返しとばかりに馴染みのカモメがサンジのこめかみをもうひとつつついた。食べないなら下げるよ、と皿に手を伸ばすとカモメはばさばさと翼を振るってサンジの手から慌てて逃げ帰ってくる。大きなため息と釈然としない眼差しをカモメに向けながら、サンジは乱れたネクタイをきゅっと正した。
「餌付けしたのかよ」
「やっぱりそう見える? イーストブルーからついてきてる子でさ、新聞もらってご飯分けてあげるのが日課、みたいな……あは」
「イーストブルーから? バラティエにきてたか? こんなカモメ」
「私がバラティエを出た後で仲良くなったんだよ。だから実質私の料理を一番長く食べてくれてると思う」
「…………へェ」
嘴についた食べかすを指の腹で払ってあげれば、こちらを撫でろとでも言いたげに首を傾けるカモメ。私としては、ご飯を分けることも苦ではないし、むしろ旅の友に近いものがあってこのカモメに愛着すらある。
「で、明日のメニューだっけ?」
「あァ、そうだそうだ。生け簀の貝がそろそろ良い頃だと思うから――……」
「私、パエリアがいいですね。ええ、シーフードパエリアが。ヨホホ」
「うお!?」
「ひゃっ!!」
私とサンジの間に滑り込むようににゅっと現れた影は、この船の音楽家兼剣士の骸骨だった。驚く我々をよそにブルックは、いやー可愛いカモメちゃんですねー、と陽気に笑っている。
「急に出てくんなよ、煙草の火でアフロ燃やすとこだったぞブルック」
「ヨホホ、すみません。あ、ナマエさん焦げてないか見てもらってもよろしいですか?」
「あぁ……大丈夫そうだよ」
「ついでにパンツも見せてもらっても」
「サンジ、ライター貸して」
「えっあっいや冗談ですよヨホホホ……」
「私も冗談ですよ? ふふふふふ」
「目笑ってねェよ」
私とブルックの茶番劇の間にカモメは綺麗にショートブレッドを完食し、満足げにひと鳴きした。
「よく懐いてますね」
「なかなか長い付き合いなもんで」
「サンジさんよりも?」
「んー、年数で言えばそうだね」
サンジとバラティエで過ごした期間が二年ほど、このカモメに出会った13歳から今に至るまでが六年ほど。思えばずいぶん長く一緒に旅をしているのだなあと感慨深い。
付き合いは長くてもドライなこの子は、食べ終わるとさっさと帰ってしまう。それを思い出して出発前の毛繕いをしているカモメにそっと声をかけた。
「明後日来たら美味しいパエリアが食べられるよ」
「グェッ?」
「あの金髪のコックの料理。特にシーフードは格別」
楽しみにしてて。ぱちんとウインクを添えると、カモメはあからさまに目を輝かせてサンジを見た。さっきまで小競り合いをしていた相手だというのに、本当に胃袋に忠実で可愛らしいことだ。
「聞こえてんぞ、ナマエ」
「ご馳走してあげてよ〜」
「おれは構わねェが、お前がルフィからパエリア守りきれよな」
「えー無理だ、ブルック手伝って」
「ヨホホホ、自信ございません!」
「パンツ見せるから」
「粉骨砕身で守り抜いてみせます!! ガイコツだけに!! ヨホホホ!!!!」
あっさり手のひらを返したこの方も大概欲に忠実だ。
カタカタと楽しげに骨を揺らして笑うブルックの向こうでサンジは呆れ顔でお前なァ……と呟いている。
「じゃあまた明後日ね」
「グェッ!」
大きく羽ばたいてサニー号の手摺から飛び立ったカモメの後ろ姿はあっという間に小さくなった。
「あ、というか明日のメニューはパエリアに決まりでいいんですか?」
「あァ、クルーからのリクエストってんなら話は早ェ。ご希望通り、シーフードパエリアを食わせてやるよ」
「ヨホホホ! いやぁサンジさんとナマエさんのパエリア、楽しみにしてますね」
ルンルンと鼻唄混じりに去っていくブルックの背中を見送りながらパエリアの具材はなにがいいかなと考えていると、横からおい、とサンジの低い声が飛んできた。
パエリアのリクエストを快諾した朗らかなコックの笑顔はどこへやら、振り向いた先には僅かに眉根を寄せたへの字口の呆れ顔があった。
「いい歳した女がパンツ見せるとか言うんじゃねェよ」
欄干に寄りかかったサンジがふぅーーと盛大に煙を吐いた。空中に広がった煙はすぐに溶けて消える。
わー、女、女だって。サンジが。私のことを指して。一応女には分類してくれてるんだ。扱いはどうあれ、生物学上は、くらいな認識だとしても。
こんな一単語で浮かれそうになる哀れな自分を抑えて私も口を開く。
「だって私一人でルフィから食べ物を守るなんて無理だし」
「言っとくがブルックだって明後日にはあんな約束忘れてっからな」
「えっ、うそぉ」
「メシを目の前にした無作法はルフィと同レベルだろうが」
「あー……そうだった……」
ディナーディナーとご機嫌でナイフとフォークをガチャガチャかち合わせる二人に見覚えがある。リクエストのパエリアが出てきたら尚のこと、ブルックはご機嫌になるだろう。
「鍵付き冷蔵庫貸してよサンジ〜……」
「ったく、しゃーねェな」
「ありがとう!」
「……じゃあ、ショートブレッド」
「ん?」
「おれにも食わせろ」
空になった皿を顎でしゃくって、サンジは腕を組んで偉そうに言った。それが報酬だ、と。
「おれはお前のショートブレッド、食ったことねェからな」
私はぽかんとしてしまった。
そんなことでいいのか。
「まだ余ってんだろ?」
「あ、うん……ダイニングキッチンにまだ……」
「は!?」
サンジがぎょっとこちらを見るので思わず後ずさる。
「えっ、なに?」
「置きっぱなしか!?」
ナミとロビンに読書のお供に渡して、余りは調理台の上に置いてきた。それがなんだというのか。
そうだけど、と返した私の言葉を聞くなりサンジはクソー!! と叫びながら駆け出した。何事か分からぬまま私も慌てて走り出す。
「いいか!! この船では作った料理を放置すんのはご法度だ覚えとけ!!」
「なんで!!」
「クソでけェネズミがいるからだよ!!!」
「お、ふぁんじ! ほれうへーぞ!!」
「アーーーほれ見たことか!!! クソッ!! 案の定全部食いやがったなクソゴム!!」
口いっぱいにショートブレッドを詰め込んだルフィが上機嫌におはあいー! と空の皿を掲げる。サンジは彼に打撃が効かないと分かっていながらも蹴らずにはいられないらしい。膨れたルフィのお腹がぼよんぼよんと弾む。
「全部食べちゃったの?みんなのおやつにと思って結構作ったはずなんだけど……」
「足りねェぞー」
文字通り、ぺろりだ。
たまたま見つけたのか、匂いにつられてきたのか。確かにこれじゃぁ粗熱を取るためだとしても、料理から目を離すのはあまりにもリスキーである。
ネズミ呼ばわりされるのも自業自得だけど一応この船のトップだからなあと思って、ルフィの頬っぺたを恨めしげにびよびよ引っ張るサンジにストップをかけた。
「材料使っていいならまた作るよ」
「ったりめーだ!」
「なんだ? サンジ、あの菓子食ってねェのか? すンげー美味かったぞ」
「誰のせいだよ、誰の、だァーれーーのーーー」
「す、すみましぇん……」
極限まで伸ばされた頬肉がべちんと痛々しい音を立てて元に戻る。
船長のベタ褒め以上に、こんなにもへそを曲げて食べ損ねたことを悔しがるサンジが新鮮で。
「いけない、お皿持ってくるの忘れてた」
私は口許の緩みを誤魔化すためにわざとらしく呟いて、ダイニングキッチンを出たのだった。
***
「さぁ、お味はいかが?」
「グェーッ!」
「……これ本当に喜んでるのか?」
「この食べっぷりがなによりも雄弁でしょ」
「グェッ!!」
そうかい、と煙草をくわえるサンジの目の前でパエリアはどんどんカモメの胃袋に消えていく。煙草を持つ手で隠れたサンジの口角が満足げに少しあがったのが見えた。
「アンチョビソースかける?」
「カモメにそんな塩っからいもんいいのかよ」
「今更な気もするなぁ……」
今まであげてきた料理を思い返して苦笑いが漏れる。
これ塩分どれくらいだろう…確かに人間の舌にもしっかりしょっぱいもんなぁ……。味を変えてみるのも面白いかと思って持ってきてみたんだけどあげない方がいいか。
先日作ったアンチョビソースが入った瓶を眺めて私はやや唸った。
「グェッ!」
「おれは健康診断で引っ掛かったことは一度だってねェんだぜ!! ……って言ってるぞ」
「うお!?」
「ひゃっ!!」
私とサンジの間の足元から聞こえた少し渋く芝居がかった声の主は、この船の優秀な船医だった。驚く我々をよそにチョッパーは、昨日のパエリアの残りか? とふんふん鼻を鳴らしている。
このカモメ、健康診断なんか受けてるのか。ずいぶんと福利厚生がしっかりした新聞会社だ。
「グェッ!」
「早くよこせ!! ってさ」
「え、あぁ、はい、あーん」
スプーンに乗せたパエリアにアンチョビソースをトッピングして差し出すとカモメはすぐさま食いついた。見た目通り口も悪ィんだなこいつ、というサンジの悪口も耳に届かぬほど、カモメはアンチョビソースのトッピングを気に入ったのかもう次の一口を催促している。
グェッグェッと鳴くカモメを見てチョッパーがそわそわと欄干に飛び乗った。
「そんなに美味いのか? おれも一口食いてェぞ!」
「食べる?」
カモメも食え食えと言うように景気よく鳴くので、ぱかりと開いたチョッパーの口にもあーん、とアンチョビソース乗せのパエリアを放り込んであげる。
目尻をふにゃんと蕩けさせ、蹄でほっぺたをもにもにさせながら「うンめー!!」と喜ぶチョッパーのなんと愛らしいことか。
「あ」
「ん?」
ぱかりと開いた口がこちらにも。
目線は私が持つスプーン。欄干に頬杖をついたサンジが親鳥の施しを待つ雛のようにその口を開けてじっと待っていた。
いやまあ確かにパエリアを掬える食具はこのスプーンだけで、それを持ってるのは私で。自分にも食わせろと私に口を開けるのは、道理に叶って、いる……のか?
固まる私にサンジが「あ!」ともう一度促す。私は冷静を装いつつ、サンジの要望に従って一口分のアンチョビソース乗せのパエリアをスプーンの上に用意する。
甲板に吹いた潮風が柔らかくサンジの前髪を揺らした。
「……いい歳した男があーんを要求するんじゃないよ」
少しの、緊張。
サンジの口許に運んだスプーンは微かに震えてしまったかもしれない。