72
「こんちゃん、行く前に抱っこさせて」
切ない。ああ……切ない。
「ええ、もちろん」
毛でふさふさの両脇に手を差し込み、暖かな体を抱き上げる。何度もやってきたのに、こんなの日常茶飯事なのに、なんだか特別なことのように思えて、ついつい抱え込むように強く抱きしめてしまった。おそろいのシャンプーの香りと獣臭さが入り混じった匂いを胸いっぱいに吸い込む。
……ああ、切ない。
「……早く帰ってきてね」
今生の別れではないというのに、どうしようもなく胸が締め付けられた。やばい、感極まりそう。離れたくないよー。
「はい。……はい、必ずや定時で戻ります。可能ならば、それよりも早く」
頬と頬を擦り合わせ、もう一度ぎゅうと抱擁してから、こんのすけを地に放つ。軽くなった腕、徐々に消えるぬくもり、鼻先を掠める残り香──孤独感が胸を突き上げ、切なさが増した。
とてつもなく寂しい。大事な大事な可愛い相棒と、もう夜まで会えないのだ。
「やっぱり行かないで、側にいて」と、ドラマにありそうなセリフが頭に浮かんだ瞬間、音もなく白い光が現れる。山茶花の若木の隣に開いたのは、時空を越える摩訶不思議なゲート。
「では、行って参ります」
小さな狐は私へ深々とお辞儀をし、跳ねるように白光へ飛び込んだ。
「うん、うんっ……行ってらっしゃい。気をつけてね!」
早口になった別れの言葉は、あの子の耳に届いただろうか。瞬きする間にこんのすけも白い光も消え、あとには風に揺れる山茶花だけが残った。
……行っちゃった。行ってしまった。
言い表しようのない喪失感に包まれて、立ち尽くす。夜には会える、戻ってくると分かっていても、心にはぽっかりと穴が開いてしまった。
なんで頭と心って別々なんだろう。朝七時から夜の七時までって決まってるのに。一生会えないわけじゃないのに。……私の精神が未熟だからか。
さっきまでそこに居たはずの小さな狐が恋しくて、なかなか足が動かない。名残惜しくてたまらなかった。
どのくらいぼうっと突っ立っていたのだろう。ざり、ざり、という足音で我に返る。後ろを向けば、こちらに近付いてきている監視役の姿が視界に入った。いつまで経っても離れに戻らぬ私を追ってきたのだろう。
二人一組、三交代制の見張り。今日の日中の監視役は、品の良さそうな子と、逞しい槍の神様だった。どちらも怖い顔はしていない。小さな狐が居なくなったからといって、すぐさま襲ってくる様子はなさそうだ。
刀剣男士が来たからには、長居無用。離れに帰って少し休んで、畑仕事の準備をしよう。
心に隙間風を吹かせたまま我が家に戻ろうとしたその時、槍の付喪神が口を開いた。赤と黄の混ざったような丹色の瞳はキリッとしていて、雄々しい体躯によく似合う。頬骨の縁に沿うもみあげも男らしい。ただ、服装がちょっと……下半身は袴を穿いてるからいいとして、上半身は寒そうだった。
「こんのすけは……行ったのか」
管狐が私の側に居ないことを見留め、出発を察したのだろう。彼らはこんのすけの日帰り出張についてご存知のはずだ。昨夜、あの子自らが伝えに行ったのだから。
「うん、行っちゃった」
言いながら、我が家へ戻らんと歩を進める。ここで立ち話をする気はなかった。二人組はじっとこちらを見ていたけれど、私は視線を合わせない。
「……寂しいんですか?」
なのに、話しかけてくるんだもんねえ。しかも、ピンポイントで突いてくる。
付喪神らとすれ違う一歩手前で足を止め、「そうだね」と小さく頷けば、品の良さそうな子がきゅっと口を噤んだ。彼の肩を守る甲冑が、朝陽を受けて眩しく光る。三つ葉葵に似た金の装飾に、水戸黄門のご印籠を思い起こした。時代劇で何度も見たなあ。
「すっごく、寂しいよ」
白い光に包まれたこんのすけの後姿が、影送りのように瞼の裏に焼きついている。
「ここに居るときは何をするにもずっと一緒だったから……急に離れるとなるとねえ」
永遠の別れでもないのにこんなに寂しがるなんて、馬鹿みたい。自ずと溢れたのは苦笑いだった。
朝七時から夜七時、たったの十二時間ではないか。だのに、親に置いて行かれた子供さながら心細くなるとか、ほんと、馬鹿みたい。
心の奥で無意味な自嘲を繰り広げ、再び離れに向かって歩き出す。神様たちは何も言ってこない。肌に当たる朝の空気が冷たかった。
「あのっ!」
何歩か進んだところで後方から聞こえた声は、品の良さそうな子のものだ。こうも大きく呼び止められれば、振り向かないわけにはいかない。
また、足が止まる。じりりと踏み締めた地べたには、朝露に濡れた草があった。葉に降りるそれは、もうじき霜に変わるだろう。冬はそこまで来ているのだ。
ゆっくり体を反転させると、見張り役の刀剣男士が二人、同じ場所に立っている。白い服に柄付きのタイツという王子様のような服装の神様は、胸の前で拳を作っていた。淡く柔らかい色彩の髪と瞳は、珊瑚を水で溶かしたような色をしている。
「あなたにとって、『こんのすけ』はどんな存在なんでしょう?」
そんざい。
これまた漠然としたことを。
しばし「うーん」と悩んだが、明確な答えは出ない。一言では収まりきらないし、そもそもぴったり当てはまる言葉がないのだ。
「どうなんだろう。家族っていうか、友達っていうか……はっきりコレっていうのはないけど、でも、ただの補佐役じゃないよ。仕事だけの関係じゃなくて、んー……」
心の中にはたくさんの単語が流れているのに、小さな狐への想いが溢れているっていうのに、やっぱりしっくりくるものはなかった。
「まあ、とにかく。あの子がいたからここまでやってこれたし、今もすごく助けられてる。こんのすけは私にとって、無くてはならない大切な狐だよ」
曖昧な返事だなあ、と自分でも思う。けど、これが精一杯。
「……そうですか」
気品を纏う付喪神の顔から強張りが消え、ふんわりとした微笑みが生まれる。その面持ちに人当たりの良さを感じたのも束の間、彼はみるみるうちに表情を曇らせていった。まるで花が萎れるように。
「それは、とても──良いことですね」
浮かない面で口角を上げられても、弱々しくて笑顔には見えなかった。
「ありがと」
ひとまずお礼を言ってみるも、あちらさんの反応はなく。静かな朝の庭には、雀の鳴き声しか聞こえなくなった。
訪れた沈黙をそのままに、彼らの次の言葉を待つ。しかし、どちらも口を開こうとしない。いい加減寒いし、話がないのなら離れに戻ってもいいだろうか。
「どうかしたの?」と優しく尋ねる選択肢も浮かんだが、それは一瞬でなくなった。あの付喪神の態度に引っかかりを感じはしても、切り込みたいと思うほどの興味はない。会話が長引くのも面倒だ。
「……じゃあね」
短い挨拶をして回れ右をする。
神様って、何を考えているのか分からない。まあでも、それは向こうも同じなんだろうなあ。
そんな事を考えている間に、あちらとこちらの境界線を越える。今度は誰の呼び声もなく、口を開いているのは空を飛び回る雀だけだった。