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作務衣のポケットに携帯を入れ、自分を包む結界を少し強化し、外へ出た。気は乗らないし不安もあったが、大丈夫だと自分を奮い立たせる。ちょっとでもおかしな事が起きれば斉藤さんに連絡だ。二十四時間体制、頼りにしてますぞ。
小走りで池を回り込んだ私を待ち構えていたのは、首に赤いマフラー? を巻き、黒いコートに黒いブーツという装いの付喪神。彼は兎のような赤い目をしていて、一つに結った艶のある黒髪を肩から胸元へと垂らしていた。髪をまとめる白いリボンのような紐は、ちょうちょ結びになっている。
「ごめん、自分が呼ばれてるって思わなくって」
開口一番、謝ってみた。先程、この神様は何度もサインを送ってきていたのに、私はどえらくボケた態度をとってしまっている。おそらくイライラさせただろう。というか、させていた。眉間の皺を濃くさせるくらいには。
「いーよ、別に」
対応の遅れの謝罪に対し、軽い返事がかえってくる。決してにこやかではないが、怒っていないようで一安心。「気付くの遅い、来るのも遅い」となじられたらどうしようかと思った。
「うん、ごめんね。……それで、何? なんか用?」
申し訳なかったのでもう一度詫び、僅かに乱れた息を整える。そうして用件を訊ねれば、結界の向こうに居る付喪神は困ったように頭を掻いた。
「あー……」
上から下までじろじろと私を見て、「ううーん」と唸る赤目の神様。一人で何か考え込んでいるようだった。
彼に呼ばれて出てきたものの、ちっとも用事が告げらない。私を切ろうとか追い出そうだとか、そういった物々しいオーラはないので、大人しく待ってみる。裁縫に見切りをつけたぼっちの私には特にやることがなく、幸か不幸か時間はたくさんあった。
何を考えているのだろう。用件はなんだろう。何を言ってくるのだろう。
黒いコートの付喪神を凝視しつつ、「用事」の中身をあれこれ推測していると、彼は微かに息を吐く。薄い唇の左下には黒子が一つあって、肌が白いせいかその黒い点は目立っていた。
「ねえ、あんたと俺、どこかで会った事ある?」
黒子に目線を奪われていた私だったが、予想だにしなかったことを問われ面食らう。
どこかで会った? 私と、この付喪神が?
「え?」
そんなことを、まさか聞かれるとは思わなかった。
「ええー、うーん……ない、んじゃないかな? あ、でも、そっちが私の見張りをしてる時にお互い見たり見られたりはしてるんじゃ」
縁側の監視組の中に、彼らしき神様を何度か見たことがある気がする。あまり覚えていないけど。
「いや、最近じゃなくて、……文久とか慶応とか」
「へ?」
「江戸時代だよ、江戸時代」
「はあ!? 江戸お? えっないない! 私、生まれてないし」
江戸時代。突拍子のない発言に驚き、つい声を荒げてしまう。私は生粋の現代っ子だ。そんな昔に生を受けた覚えなどない。
「文久」や「慶応」とは元号なのだろうか。高校では日本史ではなく地理を選んでいたので、歴史はさっぱりである。さっきは突拍子のないことをと思ったけれど、この神様が刀として生きた年代が江戸時代だったのかなあと考えれば、あの発言にも納得がいく。
「それ。そのびっくりした顔。絶対どこかで見たことある。あーもう、ぜんっぜん思い出せなくて気持ち悪いんだよね」
赤目の刀剣男士は渋い表情で頬に手をやり、不可解そうに首を傾げた。私はそんな彼をしげしげと見つめ、脳内の引き出しをバタンバタンと開けていく。この神様と出会った記憶を探してみるけれど、この場所以外で会った記憶も、手入れ前に会った記憶も、やはりない。……忘れているだけなのかもしれないが。
「気のせいじゃない? 他人の空似かもよ」
「んー……」
納得いかない、といった様子で声ならぬ声をあげている付喪神。過去を細部まで思い出そうとしているのか、赤い目はひたすらに私へ向けられていた。果たして私のこの顔は、彼の記憶の中に眠っているのだろうか。
一分、二分……正確な時間は分からないが、この神様が呻き始めてそれなりに時が流れた。一応黙って待ってはいるも、神様たちとはできるだけ関わりたくないので、早く離れに帰りたい。しかし、相手の悩みが解決していないのに「あっ鯉の餌やり忘れてた! ごめん、また今度!」などと嘘を付いて去るのも気が引ける。
どうしたものか。
頭をひねっていると、ふとあるものが目に付いた。
赤目の刀剣男士が頬に当てている手の先の──形の良い爪。その表面は薄ピンクと鮮やかな赤でまだら模様になっていた。一瞬、血かと思い、怪我でもしているのか気になったが、よく見ればただのマニキュアのようでほっとする。
しかしまあ、なんでまたまだら模様なんだ。剥がれ落ちたか、落とし残しなのか……あ、あえてそういう塗り方にしているとか?
「──それ」
ポンとわいた疑問のせいで、ぽろりと声が出てしまう。余計な話題は振るべきでないのに。
「や、あ、なんでもない」
しまった。すぐに取り消すも、結界の向こうの付喪神は「何?」と食いついてきて。
「何か思い出した?」
「ううん、違う。なんでもないから」
「いいから言ってよ。気になるじゃん」
彼がむっと眉を顰め、唇を尖らせるもんだから、誤魔化すに誤魔化せない。
「あー……あのね、爪……」
「爪?」
言って、赤目の神様は頬に当てていた手を離し、まだら模様の指先をしげしげと眺めだす。
「うん。爪。なんでまだら模様なのかなーって。落とし残し?」
彼の顔がカッと赤くなるのと、彼が反対の手で爪を隠したのは同時だった。
あの爪を見られたくなかったのだろうか。私の指摘がまずかったのか。どちらにせよ、やらかした感がある。やっぱりでしゃばりはするもんじゃない。失敗した。
「いや、ごめん、気にしなくていいよ。なんとなく目がいっちゃっただけで──」
謝ったのち、すぐさま「それより」と口早に続ける。まずい話題はさっと流すのが一番だ。
「そっちは何か思い出せた?」
「……思い出せない」
ぼそっと答えたきり黙り込んでしまった彼は、頬を朱に染め自身の爪をじっと注視している。時々ちらりと気まずげな視線が飛んできた。怒っている、というよりは、なんだか恥ずかしそうだ。隠して恥じらうということは、好きでまだら模様にしているというわけではないのだろう。あちゃー、気にしてることを突っついちゃったのかも。
本来の色が点々と残る、形の良い爪。もともとは真っ赤に塗りつぶされていたのかな。
「あんまり見ないでくれる?」
「ご、ごめん。見ない」
咎められて、慌てて謝る。彼はまた己の爪に視線を落とし、苦々しい面持ちでその表面をそっと撫でた。ぎくしゃくとした沈黙が私と彼の間におちる。
どうしよう、何か話題を──。
「えーっと、それ、剥がれちゃったの? 塗り直したりは……」
居づらさを振り払うように話しかけ、ハッとする。塗り直そうにも肝心のマニキュアがないのかもしれない。塗料を落とす除光液やコットンも。だって、本丸御殿には家具や小物が何一つないから。
むむ。もしやこの付喪神、まだら模様をなんとかしたいのに道具がなくて、困っているのではなかろうか。
……それならば。
「あっ、新しいのいる? そっちには何にもないもんね?」
干渉しない、関わらない、と決め込もうとしているくせに、困っているのでは、と思うとどうもお節介を焼きたくなる。だめだなあ、首尾一貫がまるでできていない。ブレブレだ。
「えっ」
閃くままに尋ねれば、兎のように赤い眼が大きく見開かれる。
「いらない? 爪、綺麗にしないの? せっかく形が良いのに」
問うと、彼は伏し目がちに爪をいじりだした。思ったよりもいい反応ではなく、これはいらないと言われるかもなあと悔やんでいたが、そうはならなくて。
「……いる。ちょうだい」
ぶっきらぼうな物言い、紅潮したままの頬──赤目の神様は、羞恥をこらえているように見えた。うーん、人間に頼るのは嫌だよねえ。恥を忍んで、ってやつ?
「うん、わかった。何色にする?」
「え? あー……」
明後日の方向に目線を飛ばして悩み始めた彼をよそに、私は私で何色が合うか考えてみる。いや、つい、女の性というかなんというか、それなりのおしゃれ心がくすぐられたというか。
黒い髪、赤い目、黒いコート、赤いマフラー、黒いブーツ……。そんな格好をしているこの神様の爪を彩るに相応しいのは──。
「やっぱり、赤? 似合いそうだよね」
鮮やかな赤も良いし、アメリカンチェリーのような黒みのある赤も良い。
うんうん、と一人で満足していると、付喪神は赤い瞳を瞠目させ、間もなくぷいっとそっぽを向いた。
「なんなの、それ」
ぼやくように言われ、ひやりとする。赤は嫌だった? 「似合う」が嫌だった? 何にせよ、不興を買ってしまったか。もう黙ろう。私の一言は余分でしかない。
「ごめんごめん。ちょっとそう思っただけ」
もー、謝ってばっかりだ。気い遣うなあ。まあ、いらん口出しをした私が悪いんだけど。
喉の奥から出てこようとする溜息を抑え、努めて軽い調子で振る舞ってみせる。赤目の神様は静かに爪を見下ろし、徐に口を開いた。
「……赤でいーよ」
あれ、マジで?
「え?」
私が「赤」って言ったら不満そうだったのに。
「だーかーら、赤でいいって言ってんの」
「ええ? だってさっき」
「何度も言わせないでくれる?」
えーっなんでえ!?
「うっ、ごめ、わかった。赤ね、赤」
んもー、訳分かんない。
彼は狼狽える私を一瞥し、爪をいじりながら小さく首を縦に振った。返事代わりなのだろう。
「じゃあ、夕方には……や、夜には持って行くね」
おっと、危ない危ない。夕方はいかん。その時間帯、私はまだ一人ぼっちだ。こんのすけについて来てもらえる夜にしておかねば。
「……うん」
幼子のようにコクリと頷いた彼は、もう眉根を寄せていない。頬にはほんのりと赤みが残っていたけれど、怒りを宿しているような雰囲気はなかった。
「えーっと、他に話はない?」
「……ない」
「会った、会ってないももう大丈夫?」
「……ん」
な、なんだなんだ。妙にしおらしくなっちゃって。
「ほんとに大丈夫?」
「……うん」
呟くような返事ばかりの彼は、どこかぼんやりとしている。何か考え事でもしているのかな。
「大丈夫ならいいんだけど……私、帰ってもいい?」
「ああ、うん」
爪から私へと移った視線は、虚ろだった。彼の中で何が起きているのかさっぱりだが、このまま置いて帰って本当に大丈夫だろうか。少々心配だ。ひょっとして体調不良?
「君も早く帰りなよ。……ねえ、大丈夫?」
上の空な赤目の神様の顔の前で手をひらひらと振れば、肩がピクリと揺れた。活気のない瞳に眼光が戻る。よしよし、焦点はちゃんと合ってるね。
「大丈夫だって」
「ほんと? ぼーっとしてたから気分が悪いのかと思った」
「あー、そう。別に悪くないよ」
オッケー。物思いに耽ってただけか。心配して損した。
さ、話はもう終わったっぽいし、この神様も普通に戻ったし、帰ろう。
「よかった。じゃ、またねー」
去るタイミングを見い出した私は、バイバイもそこそこに身を翻す。待てともなんとも言われなかった。
振り返らずに離れに戻り、ほーっと大きく息を吐く。緊張した。こんのすけが居ない状況で付喪神とコンタクトをとるなんて、心臓に悪すぎだ。相手が一人で良かった。
固く閉じた木戸にもたれかかって、無事の帰還を一人で安堵する。なんだかんだ今夜御殿を訪問するハメになってしまったけれど、そっと行って、ぱっと帰ればいい、うむ。その時はこんのすけも一緒だしね。
さて、お届けするマニキュアはどうしよう。支給品扱いになるのかな? まあ、自費になるとしてもマニキュアくらいならなんとかなるだろう。あの神様には悪いが、自費購入になるのであれば高級品は提供できない。最悪百均だ。
「あっやばい」
ここで己の抜けに気付く。「夜」持って行くと言ったものの、時間を決めていないではないか。あたふたしていてそこまで気が回っていなかった。「夜」って、ざっくりし過ぎ。
あー、どうしよう。……ま、いっか。縁側に置いておくか、他の付喪神に託せばいいや。
冷たい戸に背を預けたまま、ずるずるとしゃがみ込む。肺が空っぽになるくらい息を吐き出すと、少し胸が軽くなった。