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一時間が過ぎ、二時間が過ぎ……刻一刻と午後七時が近付いてくる。こんのすけが政府の中枢機関から戻ってくる時間だ。
掃除は済ませたし、晩御飯もバッチリ。今夜の献立はほうれん草のシチューにした。トースターがないのでパンを竈の火で直に炙ってみたのだけれど……どうだろう。外はカリカリになっていても、中まで熱が通っていないかもしれない。あー、トースターかオーブン欲しいなあ。せめて電子レンジ。
皿の上のきつね色したパンを眺め回す私だったが、壁掛け時計の「カチ、カチ」という無機質な音に気を引かれ、にらめっこを止める。レトロな秒針は規則的に時を刻んでいて、七時まであと十五分となっていた。
そろそろゲートの近くで待機しておこうか。帰ってきたあの子を力いっぱい抱き締めたい。「おかえり」ってすぐに言いたい。
逸る気持ち、込み上げる喜びに震える胸──気付けば体が動いていた。
だらしなく脱ぎ散らかしていた半纏をさっと着て、駆け下りるように土間へ行く。手提げ提灯の用意は面倒だが、こんのすけを思えばなんのその。手早く組み立て火を灯し、足をもつれさせながら靴を履いた。こんのすけが居たら「危ない」って注意されただろうなあ。
勢い良く戸を開け夜の庭に飛び出せば、肌寒さにゾクリと首が竦まる。とうに太陽は地平線の下。気温のぐっと下がった空気は冷たく、鼻の奥がキンとした。
寒さに顔を顰めながら夜の闇に目を凝らし、あちら側をざっと偵察してみるも、暗くて何も分からない。御殿の立派なシルエットが不鮮明に見えるだけだった。……そこに刀剣男士は居るのだろうか。手提げ提灯を持ち上げても、照らせるのはせいぜい数メートル先まで。神様がどこに居るのか、居ないのかなんて、判別できるわけがない。ただ、監視役として誰か二人は必ず縁側に居るはずだ。
今夜は曇り。分厚い雲に遮られた月や星の光は地上に届くことなく、辺りは真っ暗。闇に紛れて刀剣男士が妙な奇襲をかけてこないか警戒するも、まあ、結界を張った道を通れば安全だろうと思い直す。
そうさ、道さえ外れなければ大丈夫。さあ、行こう。行かないと!
とにかく小さな狐に会いたくて、高揚とした気分は収まらない。
こんのすけ、こんのすけ。やっと会える。帰ってくる。
淡いオレンジの明かりで前方を照らし、お目当ての場所へまっしぐら。暗い庭に浮かぶ光源は、私の持つ提灯だけだった。
池を回り込み、御殿の角を曲がり──結界に守られた道を進めば、目印の山茶花が見えてくる。九月に植えたそれはすくすくと成長しており、このままいけば月末には蕾をつけてくれることだろう。開花が楽しみだ。
「はー、まだかな」
ポケットから携帯を取り出して時間を見ると、六時五十二分の表示。あと八分、あと八分か……。
もうちょっとかな、もうちょっとかな、と、落ち着かなくて何回も携帯の出し入れをしてしまう。そうやっても時が早く過ぎるわけでもないのに、どうしてもそわそわしてしまって。
うーっ、あと五分!
白い息を吐きながら山茶花の周りをぐるぐる回っていると、遠くから複数の足音が聞こえてきた。誰も見ていないのをいいことに、思わず「げっ」と心底嫌そうな声を出してしまう。いかん、顔も歪んだ。
離れを出た時は話し声も足音もしてなかったのに、なんで──なんであいつらがこっちに……いや、早とちりはだめ。もしかすると夜の散歩をしているだけかもしれない。そうそう、きっとそう。私の方に来てるんじゃなくて、秋の夜長に森閑とした庭を楽しんでいるんだ、うん。
音がする方向に背を向け、「私はいませんよー」「ここには誰もいませんよー」と、息を殺して気配を潜める。側には静かに佇む山茶花が……ハッ、これだ。
三株並んで植えられてある山茶花の若木。その後ろにさっと、体を隠すようにしゃがみ込む。見つかりたくない一心で蝋燭の火も一吹きで消した。明かりがなくとも、帰りは夜目の利くこんのすけが誘導してくれるだろう。
こっちに来ませんように。気付かれませんように。放っといてもらえますように。
心の中で切なる祈りを念仏のように繰り返す。されど、無情にも足音はどんどん大きくなってきた。「こっちに来たと思うが」「どこ行った?」なんて、そんな声も聞こえてきて。
あれっなんか人探し中? うわーこれって私? 私だったりする?
胸の鼓動がバクバクする。緊張で体が強張り、嫌な汗がじわりと手のひらに滲む。
どうして私の捜索を? あっまあそうだよね。あっちから提灯の明かりは見えていただろうから(というか夜に明かりは目立つもんね)、私の外出を怪しんで見張り役の神様が追いかけてきたのかも。それはあり得る。ああ、でも、なまじ隠れちゃったせいですごく緊迫感が……っ。悪い事なんかしてないのに、逃げる泥棒みたいな心境なんだけど。
「……いない?」
「うーん、別の場所に行ったのか?」
「いや、こんのすけを出迎えるんならこの辺にいるはずだろ」
「それもそうか」
声の数は三つ。徐々に縮まる音との距離。恐怖のかくれんぼは、あっさりと終わりを告げた。
「おっ、いたいた」
ぎゃああああ見つかったああああ!
視界の左端に靴らしき物の輪郭が朧げに見え、それをすーっと上に辿る。靴の主たるその影は、結界の手前すれすれで腰を屈め、こちらを覗き込んでいて。顔から血の気が引くのが自分でも分かった。
腹の底から「んぎゃあああああ」と叫んでやりたい。「もー、いいからあっち行ってよー!」とすげなく追い返してやりたい。「うっさい! あんたらに見つからないように隠れてたんだっつーの! 見つかっちゃったけどな!」と、負け犬の遠吠えを残して逃げ去りたい。
でも、どれもしない。この中に絶対正解はないから。逆に間違いっていうか三つとも大ハズレだよね。自分でババ引いてどうすんの。自滅はよろしくない。
自制心を働かせ、観念して立ち上がる。そろりと体の向きを変えて目視したのは、三つの人影。声の数と同じでほんのちょっと安心した。もっといっぱい居たらどうしようかと。
大人数じゃないにしろ、三対一か……嫌だなあ。
不本意な接触が煩わしくて、どうしてもどんよりしてしまう。こんのすけの帰還を待ち望むウキウキ感はどこへやら。
不幸の塊みたいなどでかい溜息を我慢する代わりに、夜の冷気を小さく吸い込んだ。よく冷えたその空気は、奇しくも私のくじけた心に気合を入れるのであった。