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チュンチュンという雀の囀り、障子を透かす陽の光、キンと冷たい朝の空気。五感への穏やかな刺激は心地よく、意識が浮上するなり、私は布団から身を起こした。非常に良い目覚めである。
「んーっ」
背筋と両手を一緒に伸ばす。やけに体が軽かった。頭もすごくスッキリしていて、昨日のドロドロ状態が嘘のよう。ふむ、消費した力は無事に回復したようだ。
「おはようございます、主様」
聞き慣れた声に横を向けば、小さな狐が布団の側でお座りをしていた。
「ん、こんちゃんおはよ」
「お体の具合は如何ですか?」
「めっちゃ調子良いよー! 元気元気」
寝起きにもかかわらず、腕を使ってマッスルポーズを一つとってみせる。半分ウケ狙いだったのに、こんのすけは笑ってはくれなかった。す、スベった。朝一で。
「ようございました」
笑いを取れなかった芸人の気持ちでいる私をよそに、小さな狐は安堵したかのようにホッと息を吐いて言葉を続ける。
「昨夜は朦朧とされていましたので……」
「あー、そっか。眠いしだるいしでフラッフラだったもんね。ごめん、また心配かけた」
赤い模様のある額をさすってやれば、黒いどんぐり眼がすっと細くなった。
「もう大丈夫だからね」
耳の付け根、瞼、頬、鼻筋──顔中を順に撫でる。気持ち良さげに体を預けてくれるこの子が、たまらなく愛おしい。
こんのすけをひとしきり可愛がり、「そろそろ着替えようかなー」なんて思った私にぴしゃーん、と雷が落ちる。
「あっ、銀行印!」
そう、忘れちゃいけない。私には見つけなければならぬ物があったのだ。
*
着替えてすぐに離れの中を探し、見つからないのでもやもやしたまま朝ご飯を作り、もう一度バッグを漁り、朝食を食べ──そうこうしているうちに、こんのすけの出発時間になってしまった。今日の朝は忙しない。
「では、行って参ります主様。お力になれず申し訳ありません。帰着の暁には、直ちに捜索へ加わります故」
「うん、ありがとう……」
失くし物を気にしたこんのすけは、今日の日帰り出張を取り止められないか政府に確認してくれたみたい。でも、だめだったようだ。人手が減って少々残念ではあれど、私のためにお勤めを休ませたくなかったのでそれでいい。
焦りと寂しさとに包まれたまま、白い光に飛び込む小さな狐を見送る。やにわに心細くなり、肺が空っぽになるくらいの溜息を出してしまった。
こんのすけの日帰り出張はこれで三度目になるが、まだ慣れない。あの子が行ってしまう瞬間が一番嫌いだ。寂しくて、不安で、つまんなくて──この本丸に一人、取り残されたような気分になる。
肩を落として佇むことしばらく、やっとこさ孤独感から抜け出せた。ここでずーっとしょんぼりしてたってこんのすけは帰って来ないし、どうせ七時には会えるのだ。塞ぎ込むだけ損損。
それに私には凹んでいる暇なんてないじゃないか。とっととアレを探し出さないと。
ふん、と深呼吸して心機一転。消えた銀行印の探索を開始すべく、ゲートの出現位置に屈み込む。
昨日、ダンシングフラワーを探し当てた拍子にここでバッグをぶちまけた。失くしたとすると、その時しか思い当たる節はない。だって、家を出て政府の車に乗り込む時にはちゃーんとあったのだ。……だけど、本丸内で見つからなかったら? うわあ、考えたくない。
あー、こっちになかったら向こうも探さないとだよねえ。斉藤さんに連絡をとって、オフィスや車の中を探してもらえるよう頼まなければ。あっ、念のためお母さんにもメールしとこう。「そっちに私の銀行印ないー?」って。
今後の段取りを立てつつ、うっすら光る草地に目を凝らす。早天に昇る太陽を反射させた朝露が、静かにきらりと輝いていた。探し物さえなけりゃーそれはそれは爽やかな朝になったのに。
ない、ない、ない……。
あっちをがさがさ、こっちをがさがさ、時々立ち上がって広範囲を見渡し、またしゃがむ。そういった動作を繰り返していると、どこからか規則正しい足音が聞こえてきた。むむ、近付いてきておる。後ろ左斜め四十五度、付喪神の気配を察知!
ピシッと身が引き締まり、振り返らずに緊急脳内会議を設ければ、あちらこちらから意見が飛び交った。
どうする? 気付かないフリ? 相手が話しかけてくるまで待つ? や、そもそもあの神様が私の所まで来るって決まったわけじゃないもんね。ただの散歩かもよ? ほら、ここって御殿の玄関に近いし。もー私ってば自意識過剰──。
「おーい、どうした?」
ひえっ!
ぐぎぎ、と左後ろに首を捻ると、小走りで距離を詰めてきている刀剣男士のお姿が。
あーらら、これはこっちに来ますわ。朝っぱらから災難……じゃなくて! いかんいかん、苦手意識を振り払うのじゃ。斉藤さんに頑張ってみるって言ったのはどこのどいつだい? 私だよっ! よし、ここは一つ「おはよう」の挨拶でも。
「おっ。なーんだ、また落し物か?」
どわっ、挨拶する前に話しかけられちゃったよ。タイミング逃したなあ。
「そうだね。また落とし物だよ。困る困る」
結界の向こう側で私を見下ろしている彼の肩には、立派な長物が担がれている。この男は槍の付喪神か。ニヤニヤしながら「また落し物か?」って言ってくるってことは、何日か前の夜、手下げ提灯を落とした時に居た神様のうちの誰かかも。
「ほー、今度は何を落としたんだ」
「ん? うーん、すっごく大事な物……かな」
「大事な物」
「そう。銀行印」
「ぎんこういん……?」
「うんうん」
槍の刀剣男士は銀行印が何か分からないのか、小難しい顔になってあらぬ方向へ目線をやった。そっか、神様だもんな。銀行はおろか、お金の概念がないのかもしれない。じゃあ銀行印も知らないよね。
「まあ、大事な物なんだよ」
説明するのが面倒で、ざっくりと話を締める。とりあえず「大事な物」ということが伝わればいいのだ。
「ううーん……そうか」
未だ不可解そうにしている付喪神だったが、新たな問いを口にはしなかった。私は彼から目を逸らし、再び銀行印探しに戻る。早いとこ見つけて安心したい。
「あー、俺にはよく分かんねえけど、大事な物が失くなったんなら大変だよな」
「そうだねえ」
いなくなる気配のない槍の神様に短い返事をする。今は捜索に集中したいからそんなに構えないんですよ。塩対応になっちゃう前にあっちに帰ってくれないかなー。手伝ってくれるならまだしも……いや、それはそれで戸惑うというかなんというか。やっぱりいいわ。
……ない。ない、ない、こっちにもない。
目を皿のようにして辺りをぐるりと探し回るも、目当ての物は出てこない。焦りばかりが募ってゆき、苦い呻き声は増える一方。
「んんー」
落としたのならここしかないと思っていたが、どうもなさそうだ。では別の場所? 実はポーチの中にありましたなんて……いやポーチには通帳しかなかったしなー。でも、一応もう一回見てみようか。バッグもね。あとは、ゲートから離れまでの道に、土間、お風呂場、トイレ──私の行動範囲をくまなくあたらねば。で、午前中のうちに見つからなかったら斉藤さんに相談だ。
はあ。
嘆きの溜息をついてのろのろと立ち上がる。
「ないのか?」
結界を挟み、槍の刀剣男士が眉を八の字にして尋ねてきた。こやつ、去る姿勢を全く見せないだと? 私の銀行印探しを見守っているとでもいうのか?
「……ないねえ」
ゲートの近くには見当たらなかったし、神様の立ち会いがあると落ち着かないし──一旦離れに戻ろう。そう決めるなり、第二の足音が私の鼓膜を震わせた。
何気なくそちらを見やれば、深い紫の洋服を着た男がずんずんと、一直線に私の方へ歩いてきている。は、速い。なんなのあの速さ。競歩?
「おー、長谷部」
槍の付喪神の悩ましげな表情がパッと明るくなる。おそらく彼は、猛スピードでこっちにまっしぐらな刀剣男士に声をかけたのだろう。……だが、深紫の洋服の刀剣男士は槍の付喪神に一瞥もくれず、私に視線を固定したまま接近を続け、やがて結界の手前で止まった。な、なんだ、妙に熱気があるというか、意気込みがあるというか……尋常じゃないオーラを纏ってやがる。
「え、えっ。ど……どうも」
気圧された私はひとまず会釈し、目の前に現れた付喪神に目を這わせた。
煤色の短い髪に、キリッとした目元。わあ、なんだか怖そうな神様だな。な、何しに来たんだろ。ちょっと顰めっ面だけど……おこ? おこなの? えっ私やらかした?
険のある面をじっと眺める槍の刀剣男士、と私。緊張感がにじり寄るなか、煤色の髪の付喪神がぐっと唇を噛み締める。しかしそれは束の間のことで、彼は体の力を抜くように表情筋を緩め、眉間の皺を薄くした。
そうして、ぐーの形にされた手が徐に差し出される。
「お探しの物は、これじゃないですか」
握られていた拳がゆっくり開かれれば、そこには。
「っ、あー!」
衝動的に大声が出た。
白いの手袋のはめられた手の中に、なんと私の探し求めていたモノがあったのだ。