雪解け - なんとはなしに

95


 内なる自分の激しいツッコミの後、完成したパズルのピースがバラバラと落ちるように、私の思考回路は崩壊した。ひどく面食らったせいで、頭の中は文字通り「真っ白け」。
 尻を叩く? 誰が、誰の。……私が? こいつの尻を?
 何をどうしろと言われたのか一瞬分からなくなるが、数秒もすればショートしていた脳が再起動する。皺の少ないポンコツ脳みそも、まだまだ捨てたもんじゃない。
「たっ……」
 叩きなよ、ぼくの尻を。
 ものすごいインパクトのある台詞だ。何かの広告に採用されてもいいくらいに強烈。何のって、ほら、卑猥なお店とか、鞭とかハリセンの。
「た──」
 衝撃が強すぎたせいか、喉がつかえて喋れない。情けない我が口唇は、無意味な音を漏らしながらパクパクと開閉している。
 尻を見せつけられて、尻の優劣を問われ、尻を叩けと言われ。
 素っ頓狂な挨拶の返事をもらってからというもの、努めて大人の対応をしていた私であるが、そろそろ地が出てしまいそうだ。……いや、気を鎮めろ。ここまで頑張れたのなら、もっと持ち堪えられるだろう? なんとか耐えろ。耐えてみせろ。
「叩かない、かな?」
 やっと声帯がまともに震える。しかし、声は途中で途切れてしまった。自制心をフルで働かせてみても、動揺は隠し切れなかったらしい。
 本当は「叩かないし! あんた何言ってんのさっきから! わけわからん!」と、怒鳴りつけたい気分だった。
 だって考えてもみろ。顔見知り程度の相手に尻アピール、尻トーク、尻叩きリクエストをされ……ここが本丸ではなく私の時代、私の世界であれば、これは明らかに通報案件。迷いなく110番するか、近くの人に助けを求めるのが正しい対応なのではないだろうか。
「どうして!?」
 眼鏡の神様はさも驚いたと言わんばかりに刮目し、わなわなと取り乱す。あの、こっちが「どうして!?」なんですけど。えっ今の流れ「よし、叩くよ。はいお尻出してー」ってやる気見せるとこ? 違うよね?
 ていうか、こいつはどうして私にケツを叩けと言ってきたのだろうか。……もしや、そういう趣味のある女だと思われてんの? 喜んで他人の尻をぶつような? ……うわあ。
 や、まあ、私は小胆でもなけりゃおどおどする性格でもないし、どっちかというと勝ち気なタイプに入るんだろう。でも別にそんな、ドSの女王様気質というわけじゃ。
 ……ん? ま、まさか第三者の目から見たらそうなの? お尻を叩いて欲しくなるような、お尻を捧げたくなるようなオーラを出してるっていうの? 嘘だよね? 生まれてこの方、至ってノーマルな人種のつもりで生きてるんだけど私。
「えー? 叩く理由がないし、叩きたいとも思わないし……」
 なるべく穏やかな声遣いで返すと、彼はあからさまにむくれた。お堅い答えはどうも気に入らなかったらしい。への字に曲がった唇が、反論せんと開かれる。そうして、爆弾発言が投下された。
「でも君、こんのすけの尻は叩くそうじゃないか!」
「えっ」
 なんですと? どこでそんなガセネタを!
「ふふっ、ぼくは知ってるんだよ。こんのすけから聞いたんだ」
「ええっ!?」
 はあ? こんちゃんが?
「なんでこんちゃんが。ていうか、叩いてないし!」
 そんなことあるはずがないだろうと、少々むっとしてしまう。私があの子のお尻をひっぱたく? しない。しないね。何この神様、嘘ついてんの? ……けど、本当にこんのすけがこいつにそう言ったんだったら……うーん?
「いいや、君は叩いてる」
 うわっ、めちゃくちゃドヤ顔。その自信どうした。
 ドン! と効果音が付きそうな剣幕で断言され、僅かにたじろぐ私。眼鏡の刀剣男士は二の矢を継いだ。
「冗談を言い過ぎたら尻尾の付け根を叩かれるって言ってたよ!」
 自信満々に続けられた言葉に、ある記憶が蘇る。
 これまでの本丸生活のなかで、小さな狐は私の意に沿わない行動や、ワルいおふざけをちょこちょこしていた(本気で怒るようなもんじゃないけど)。そういった時、お仕置き代わりでお尻をとんとんしたり、軽ーくペンッとしたりはあったけど、あったけど……それのことか!?
 いやでも、苦痛を与えるほどビジバシ叩いてるわけじゃない。力加減はしてるし、こんのすけも痛がってないし。もしかしてこの付喪神、勘違いしてる? ひょっとして御殿ではこんのすけ虐待説が流れてたり!? 勘弁してそれはデマや。満身のケツ叩きとお尻ポンポンを混同されてはたまらん!
「えっ、叩くっていうかふわっとポンポンするくらいだよ。おしりぺんぺーん、みたいな」
 甚だ不名誉な誤認を消すべく、全力で否定する。さすれば、彼は。

前へ  次へ

130