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「おし、ぺんぺ……──っ!」
ゆでダコみたいに真っ赤になって蹲ってしまった。そして、四つん這いのまま「くっ……!」だの、「──っ」だの、声にならない声をあげ、ぷるぷる身悶えていたかと思うと地べたにガンガン拳を打ち付け始める。
常軌を逸した振る舞いを目の当たりにし、呆気にとられた私の焦りはしゅんしゅん萎んだ。萎むというかドン引きというか、唖然というか、もう、本当にこの神様の先が読めない。何がどうなってそうなるの?
「あー……えー? だ、大丈夫?」
困惑しつつもひとまず大丈夫か聞いてみる。意味不明なリアクションでも、ほら、病気の発作とかだといけないし。
……うーん、「神様」が病気、ねえ。あり得るの? そういうイメージないんだけどな。やっぱり病気は違うんじゃ? さっきの出来事を回想したら、この付喪神「おしりぺんぺん」に反応してるっぽいもん。……おしりぺんぺんでこれ? 赤面して倒れ込んで地面に連続パンチ? だめだ一つも分かんない。
おしりぺんぺんは彼の過去のトラウマを思い出させるようなものだったとか? 私はNGワードの地雷を踏んだ? いやいや、だって、「おしりぺんぺん」が禁句なら「叩きなよ、ぼくの尻を」ってお願いしてこないでしょうよ。「尻叩き」とかもってのほか。
──はっ。まさかとは思うが、「おしりぺんぺん」はこの神様の変なスイッチを入れてしまう魔法の言葉だったりしないよな? 奴は尻を叩けと乞うてくるくらいの不審者だ。その可能性も有りそうで怖い。
「おーい、大丈夫?」
眼鏡の彼は未だに土を殴っていて、警戒レベルを引き上げながらも、私はもう一度声をかけた。放ったらかしてさよならバイバイでも良かったが、この状態で置き去りというのもなあ。向こうの見張り役はこっち見てるみたいだし、刀剣男士の中で根も葉もない噂が立ったら嫌だよね。
「だ、大丈夫。大丈夫だよ!」
ズザザッ! と、一気に立ち上がった眼鏡の神様に若干ビクッとしてしまう。お、おう、元気そうで何よりです。……何よりなんだけど。
「はあ、はあ……っ」
その息の荒さと紅潮しっぱなしの顔はどうした。なんでそんなにはあはあしてるの? 目はきらきらうるうる輝いてるし……興奮? 体調不良? どっち。
「……ほんとに大丈夫?」
「大丈夫!」
ずいっと一歩前に出てきた付喪神、反射的に一歩後ずさってしまった私。
「な、なら良かったんだけど。えーと、でも、息しんどそうだし、具合悪いなら家に帰って休みなよ?」
遠回しに御殿へ戻れと勧めてみる。しかし、彼は「ぼくはすごく元気さ!」と声を弾ませ、とびっきりの笑顔を見せてくれた。ちっ、帰らないのか。ハウス失敗。
「いいね、おしりぺんぺん。素敵な響きだ。つい高まってしまったよ」
「え?」
おしりぺんぺん。素敵な響き。高まる。
……ド変態やないか! や、うん、いかん。気にしたら負け。そう、気にしたら負け、負け……!
「ふふ。さあ、ぼくのお尻もぺんぺんして」
だーかーら、叩かないっつーの!
抗言を飲み込み、思わずぐっと手を握り締めてしまった私へ、眼鏡の刀剣男士がまた一歩近付いてくる。彼はゆるりと背を屈め、首を伸ばし、いやに端正な顔を私の斜め上まで持ってきた。
結界すれすれなその距離、約三十センチ。ああ、近い。
「たくさん、たくさん叩いていいよ」
──近い。けれど、後退できなかった。自分のパーソナルスペースを守りたかったのに、できなかった。
この神様の纏う凄味のあるオーラのせいで足が竦んでいる。並々ならぬ様相は私を気圧し、動く余地を与えない。こんなことなら結界の範囲を広げておけばよかった。それこそ、半径一メートルくらいに。
始終緩んでいた彼の表情がにわかに締まる。
「その代わり」
すぐ傍で、唇の形が変わった。赤い舌の覗くそこから出てきた声の、なんと冷たく静かなことか。明るさと熱にまみれていた音ではなく、戒めるような、追い迫るような──。
「……叩くなら、うんと大事にして欲しいな」
朱の引いた肌は蝋のごとく白い。眼鏡の奥の眼光が重々しさを孕んでおり、息が詰まりそうになる。ねっとりと鼓膜に絡みつくのは、鼻にかかった甘え声。
「愛の無い痛みに、価値はないからね」
言って、眼前の神はうっそりと笑った。色のない頬が再び紅に染まってゆく。彼は瞬きもせず私に視線を浴びせていて、それから逃れたいのに、目を逸らすことができない。
頭の中で誰かが「危ない」と喚いていた。得体の知れない緊迫感を本能が察知している。驚きと恐ろしさとで身を固くした私は、何の返事もせず彼を見上げるばかりだった。