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「さ、どうぞ。どこからでも叩いて」
どのくらい時が過ぎたのだろうか。やにわに、付喪神の放っていた威圧感が霧散した。彼は愛想良く顔を綻ばせ、くいっと尻をこちらへ向ける。お芝居で場面転換が成されたような変わり様だ。
シリアスからコメディへの遷移に金縛りが解け、我に返る。
「──や、だからしないって」
先程の言動への疑問が燻ってはいるが、とにかく、ケツは叩いてなるものか。
「なぜだい!?」
間髪入れずに詰め寄られ、素早く二、三歩バックする。今度はばっちり後ろに下がれた。よし、いい感じの間合いが取れたぞ。
「ほら、ほら!」
突き出された尻に苛立ちが募る。びっくりしたり怖くなったり気を張ったりで、ストレスが溜まっていたこともあるのだろう。腹が立つというか不愉快というか、ガラッと豹変したあの態度も不気味であり、今はただ、この刀剣男士から離れたい。
「遠慮しないで!」
諦める気のなさそうな神様。なぜこうも聞き分けが悪いのか。あーもう、断固とした姿勢でいこう。いい加減、このやり取りにもうんざりしてきた。花の水遣りの続きがあるし、昼ご飯も作らなきゃいけない。審神者の仕事はしてないけどね、私も暇じゃないんだよ。
「遠慮してない」
少し語勢を強め、はっきりと異議を唱える。さ、決着をつけようではないか。
「あのねえ、何がどうなって叩かせたいのか知んないけど、何回言われても叩かないからね私は。他の人に──お仲間さんに頼みなよ」
きっぱりすっぱりノーを宣告すれば、正面の付喪神はさっと顔色を変えた。彼の口元にこびりついていた妖しい笑みが消える。
「そっちにいっぱい居るでしょ、神様。お願いしたら誰かはやってくれるんじゃない? 私なんかに言うより絶対いいよ。仲良しさんの方が気兼ねなく叩いてくれると思うし」
引き下がる気も妥協する気もない。食い下がってきた眼鏡の神様へ畳み掛けると、彼は眉根に薄い皺を作り、叱られた子犬みたいにしゅんとした。
「でも、ぼくは」
愁いを帯びた瞳。強腰な私へ尚も縋ろうとする刀剣男士へ、何度か首を横に振ってみせる。ダメ押しに「私はしない」と申し渡せば、彼は「どうして」と力なく項垂れた。こやつ、まだ諦めきれないのか。だが、勢いを削ぐことはできているので、強硬姿勢を崩さずいけばなんとかなりそうだ。最初っから強気の構えで断っておけば良かったのかもしれない。
まごついている神様がどう出てくるか。話を切り上げるタイミングはいつか。
相対する付喪神の出方を窺い、別れの機を狙いだしたところで、縁側の方から誰かがやって来た。今日の見張り役のうちの一振り、派手な衣装の大きな神様だ。
あの刀剣男士、大柄にしろ遠目だと女の人にしか見えないよねえ。女物の和服が似合う似合う。
「こら、亀甲。その辺にしときなよ」
私たちの近くで歩みを止めた女装の付喪神は、眼鏡の神様の肩を叩くように掴んだ。がっしりとした手は男のもので、いくら女の格好をしていても、やはり刀剣「男」士なんだなあ、と、ふとしみじみ感じ入る。
「ぼくはただ、ただ──」
さっぱりと窘められ、眼鏡の彼は暗澹と顔を顰めた。それはあまりにもくしゃくしゃで、苦しそうで──そのうち泣き出してしまうんじゃないかと思った。
「分かってる。でも、焦りは禁物だよ」
大きな刀を片手で抱いている神様は苦笑いをし、あやすように、諭すように背をさする。
「……そう、だね」
弱々しく頷いた彼は、痛ましげな双眸を切々と私に向けた。
「おしりぺんぺんはもういいよ。……また、会いに来てもいいかい?」
「えっ? ああ、うん、どうぞ」
問われて咄嗟に口走れば、眼鏡の付喪神はうら悲しい面持ちのまま儚く笑う。悲哀と喜びが入り交じったようなその表情の複雑さに、一抹の不安と微かな危うさを覚える。
何とも言えない空気の中、彼は女装の神様に連れられて御殿に戻っていった。不審者が去って万々歳のはずなのにもやもや感が残り、妙に胸が騒いだ。
アップダウンの激しい態度は何? あの付喪神が私に求めていたのは何?
『叩くなら、うんと大事にして欲しいな』
甘ったるい声が耳の奥に固着する。
彼のせがんだ尻叩きの根本には、もっと深い別のものがあるのかもしれない。例えば、そう、もしかして──。