雪解け - なんとはなしに

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 昼ご飯を作っている最中、ますます暗くなってきたな、と思っていれば、食事を食べ終える頃には小雨が降り始めていた。
 戸口から顔を出して見上げた空は真っ黒というわけではなく、雨天にしては比較的雲が薄い。そう長く続く雨ではなさそうだ。こんな予測が立てられるのも、小さな狐の薀蓄つき天気予報のおかげである。あの子のレクチャーで雲の種類を何個か覚えたぞ。鰯雲、朧雲、羊雲──あとは何があったっけ。
 食器を水に浸け、耳を澄ます。さあさあという音が微かに聞こえた。お勝手の格子窓からは雨の匂いがゆるやかに流れ込んできており、頬や首筋に触れる空気はひんやりと冷たい。
 ああ、雨だなあ。
 一人、そぼ降る雨の気配を味わう。
 密やかな雨音をバックミュージックに皿洗いを済ませ、外を窺うべく木戸を開けた。視野いっぱいに広がるのは灰色の景色。そこに付喪神の姿は一つもなかった。
 いつもそう。雨が降ると、庭から刀剣男士が居なくなる。あちらには傘がないので、濡れないよう屋内に待機するしかないのだろう。
 雨戸で閉ざされた長い長い縁側。唯一、見張り役が鎮座している箇所だけがぽっかりと空いている。そこだけ雨戸を立てていないらしい。監視のためか。
 ……よおやるなあ。どうせにわか雨なのに、雨戸なんか閉めちゃって。この程度ならうちはやらんぞ。めんどくさい。
 御殿と我が家、私と神様の違いを比べ、湿気た酸素をすーっと吸い込む。左から右へ目線を緩徐に動かし、雨の庭をざっくりと眺めた。
 ピシリと並ぶ戸板。誰も居ない外。雨粒に打たれて跳ねる葉。池の水面にできた波紋。薄暗い空。
 建物と自然のみの静かな世界は久しぶりで、新鮮だった。そして懐かしくもあった。昔は──私がここに来た時は、毎日こんな感じだったのだ。
 動けていたのはあの三人だけで、御殿も庭も常に森閑としていて。音といえば風や鳥、私とこんのすけの声くらい。
 のどかで寂れた、緑豊かな地。美しい私の職場。
 ──神様の手入れをするまでは、よく散歩をしてたよねえ。こんのすけと二人、ガランとした敷地内をぶらぶら歩いて、太鼓橋を渡って、畑をずーっと進んで御殿の裏側まで行って、大きく一回りしてゲート側から戻ってきて──後ろからは見張り役の子がついて来てた。あの子たち、私が止まると棒立ちになって、私が歩くと動き出して……一定の距離を保とうとしてたんだろうけど、「だるまさんがころんだ」みたいで可笑しかったなー。
 夏の暑い日には途中の木陰で休憩したり、そのまま長い時間話し込んじゃったり、山に探検に行こうとしてこんのすけに止められたり……ああ、ひっくり返ったカタツムリを紫陽花の葉に帰したこともあった。懐かしい。
 本当に懐かしい。
 あの散歩、好きだったな。気が紛れたし、楽しかった。
 過ぎし日の思い出にぼんやり耽っていると、みるみる足がそわつきだす。唐突にも散歩をしたいと思った。要は気が向いたのだ。
 馴染みの散歩コースを歩き、風情ある野景を見れば、心の奥に渦巻く靄も晴れるかもしれない。
 雨の庭を鑑賞しながら思い出の道を歩く。気分転換には最適ではなかろうか。刀剣男士も御殿に引っ込んでいることだ、さすがに外で鉢合わせることはないだろう。

 *

 鈍色の空へ向かって番傘を開き、誰も居ない庭へ繰り出す。雨粒を弾く作業用の長靴はなんだか野暮ったくて、もっとかわいい物があればな、と少しだけ思った。ただ、オシャレな長靴があってもここでは宝の持ち腐れになりそうなので、やっぱりなくてもいいかもしれない。かわいい長靴、畑仕事に使うにはもったいないではないか。見せるような相手もいないし。こんのすけは別だけど。
 バシャッ。
 水紋の揺れる池で鯉が跳ねた。雨に喜んでいるのか、私が餌をくれに来たと勘違いしたのか。「何にもないよ。散歩中ー」なんて、友達に話しかける調子で言ってみる。もちろん返事はないのだが、乱れた水面の下を泳ぐ彼らに癒やされた。
 ぱらつく雨が池を打つ様を見ながら太鼓橋を渡る。すっかり湿った畑の土は色を濃くしていて、側を通ると泥臭さが鼻についた。
 春に備え、冬は土作りをしよう。春から秋まで使いっぱなしの畑を休ませてあげなければ。堆肥の鋤き込みはした方がいいかな?
 農業に関する本で読んだ知識を呼び起こしつつ、畑を過ぎて御殿の裏手へと回る。途中、本日昼間の見張り当番が縁側から手を振ってきたので、お辞儀を返しておいた。女装の彼の隣には宮司さんみたいな出で立ちの刀剣男士が居り、その神様にも会釈をされた。
 監視で誰か付いてくるかな、と何度か振り返ってみるも、追跡者は現れない。どうやらお一人散歩は許されるらしい。まあ、小雨とはいえ傘なしで外に出たりはしないか。奴らの服は総じて高価そうだし、お手入れも難しそうだもん。濡れたら大変だ。和服やら防具やらの管理はどうしてるんだろ。
 うーん。何にせよ、見張りなしで単独行動ができるのは嬉し──……あ、ひょっとして。
 雨がああだこうだじゃなく、私、そこまで警戒されなくなってるのか。べったりマークしなくてもいいような。ちょっと前までは、ゲートに行くにも庭の奥に行くにも、見張りがくっついてギラギラ目を光らせてたのに。
 ここの所そうでもないよね。花の世話で庭をうろうろしてても監視は付いて来てなかった。あんまり縁側を離れなくなったというか、私が敷地の端に行っても遠巻きに見てるというか。いつからだこれ?
 包丁を手入れした後からのような、こんのすけの出張が始まってからのような──。しばし記憶を遡るが、不鮮明で分からずじまい。そう昔ではないことだけは確かである。
 ま、見張りがガチガチじゃなくなるのは喜んでいい事だ。気が楽。自由。
 今しがた気づいた小さな変化に敵意の和らぎを感じた。こんな風にちょっとずつ、ちょっとずつ色んなものが変わっていけばいい。性急ではなく穏やかに。緩やかに。

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